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第四章 明けぬ夜の寝物語
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さて今一度、視線を大通りの方へ戻してみよう。
舞踏会帰りの公爵家の馬車が、コトコトと轍の音を立てながら坂道を上がってくる所である。
重厚な縁取り装飾に彩られた馬車の内側には、一組の男女の姿があった。
まだ充分美しくはあるが、もう“若い”とはいえない年代の貴婦人と、反対に若くて溌剌とした美丈夫の二人連れである。
貴婦人は不機嫌そうに扇でおのれを煽いでおり、若者から視線を逸らすように馬車窓から車外を眺めている。
若者のほうも同じく不機嫌そうに窓枠に肘を預けて顎をのせ、視線を貴婦人から逸らすように反対側の車外へと向けていた。
「…… 一体どういう積もりなのお前は? 伯爵家の娘さんのどこが気に入らなかったというの」
パシン!と音を立てて扇を閉ざした貴婦人が、息子である若者へ向けて突然声を張り上げた。
「――別に、あの嬢さんが気に入らなかったって訳じゃない、」
若者はぶっきらぼうに返す。
「じゃあ、なぜあの場であんなにはっきりお断りしてしまったのよ? 意に沿わない縁談だったとしても、初顔合わせの後しばらく間を置いてから、書状で丁重にお断りするのが礼儀、というか社会常識というものではなくて?
可哀想に、精一杯めかしこんで挨拶した早々、お前に『結婚する気はない』なんてばっさり断られて……あの娘さん、広間の隣の小部屋で泣いていたわよ。お父様の伯爵も面目を潰されて、しばらくああした夜会のたぐいには出て来られないでしょう……。
たとえ私が、彼女との顔合わせのためだけに、侯爵夫人に頼んで今日の夜会をお膳立てしてもらって、強引にお前を連れだしたのだとしても、お相手の娘さんにあんな風に恥をかかせる理由にはならないはずですよ。――って、ちゃんと聞いているの?」
母親の説教に、息子はうんざりした表情を見せる。魔族には珍しい黒茶の短髪で、前髪をやや長く伸ばしている。瞳は黒曜、切れ長の鋭い双眸で顔の彫は深い。
身の丈は六尺に届き、肩幅が広く、夜会用の服よりも軍装か鎧が似合いそうな立派な体格だ。
常には暗黒の空を黒天馬で飛翔している彼にとって、この都会用の馬車は少々窮屈であった。
貴族社会の慣例に反して、縁談を直接的に断ってしまった息子にも、言い分はある。
「その常識ってヤツがそもそも迂遠すぎんだよ。この先進展もしない縁談のために、お開きになるまでずうっとあの嬢さんのダンスの相手、なんてやってられるか。それって相手方の気持ちを弄んでることになるだろ?
愛想笑いでいい気分にさせて今後に望みを持たせたりするのは、逆に相手に失礼だし可哀想だ。その気がないなら正直にさっさと断ったほうが、向こうだってそのぶん早く新しい縁談相手を探せるんじゃねえの」
「だからといってあんなにきっぱり公衆の面前で断らなくてもいいじゃないの! と私は云っているんですよ!」
「あのやりとりが、他の列席者にも聞こえちまったのは悪かったと思ってるよ。だけど……」
「『だけど』もへちまもありませんよ! じゃあお前はいったいどんな女性だったらお気に召すっていうの? 見合いの話が来てもいつも見向きもしない、それどころか常識をわきまえずに相手の面目を潰すような断り方までして! 母親にここまで神経をすり減らさせるって、一体どういう了見なのか、私はそれを聞いているのよ」
息子は、至近距離からの喚き声に抗するため、耳たぶをつまんで耳穴のフタにした。
「俺は、女といちゃいちゃするより男友達とつるんでた方がまだ気が楽だしさ。まだ誰とも結婚する積もりがない。ただそれだけのことだよ」
「別に母さんは今すぐ結婚しなさいって云ってるわけじゃないのよ? いずれ来る日のために、早く良い相手を見つけて愛情を深めておくのがいいだろうと思って縁談を勧めているだけなのよ。それなのにお前はいつも、まともに相手を見もせずにさっさと断ってしまって! 旅に出たり殿下と遊びまわったり、まともに都にいる時の方が少ないっていうのに、こんなに縁談を断ってばかりでいると、そのうちに誰も紹介してもらえなくなりますよ!
……『男友達とつるんでいた方がいい』ですって? 王宮の女官には片っぱしから声を掛けて廻ってるって話じゃないの。言い訳にしてももう少しマシな事を云うのかと思っていたわ。
――それともヴァニオン。誰か他に、心に決めた人でも居るのじゃないでしょうね?」
「……」
「そういう相手が居るの? ……誰なの?」
母親である公爵夫人は、自分の放った発言が息子の胸をちくりと刺したことに気づき、声を低めた。
問われた息子のほうは相変わらず耳に蓋をして、窓枠に片側の肘を預け車外を眺めている。
心を捧げた相手は確かに存在する。しかしそれを母に打ち明けるわけにはいかなかった。
しばしの沈黙ののち、彼は意を決したように応じた。
「――いや。そんな相手は居ないよ。ただ単に俺はまだ独りでいたいんだ……」
「そうなの。……だけどお忙しいお父様から、この件に関しては私が首尾よく取り計らうようにと託されているのですからね。お父様のためにも、いずれはそういうことを真剣に考えてもらわなきゃいけないわ。殿下のお供であちこち飛び廻るのもいいけれど、それだけはわきまえておいてね」
「……へいへい」
息子の気のない返事に、再び何か諭そうと息を吸った公爵夫人だが、そのとき馬車が軋んだ音を立てて停止した。
馭者が馭者席から、「屋敷に到着いたしました」と告げてくる。
「ランディル、御苦労さま、」と馭者に声をかけて公爵夫人が振り向いた時にはもう、息子は馬車の扉を開けてさっさと地面に降り立っている。
「待ちなさい、ヴァニオ…」
母親は引き留めようと窓に体を寄せ、窓枠を掴んだ。
くるりと振り返った息子は、窓枠からはみ出た母親の手指を軽く握って口づけした。背丈が高いので難ない動作だ。
「おふくろ、おやすみ」
優しい声で囁き、洗練された仕草で御辞儀してみせると、息子は自分の部屋のある離れのほうへ悠々と歩き去ってゆく。
待ちなさいと再度声をかけたところで、もう聞く耳はもつまい。
「まったく……全然親の云う事を聞く気がないんだから……一体何を考えているのかしら?」
馭者に手伝わせて自分も馬車を降りながら公爵夫人は、『好青年だが放蕩者』と噂されている一人息子の背中を、溜息まじりに見送るしかなかった。
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