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第四章 明けぬ夜の寝物語
5
火酒を呷りつつ、王子は語った。
内容は確かに救いがたいものであった。
話によると、どうやらこのほど天上界より嫁いできた新しい王妃の存在が、冥王と彼との関係を拗らせているようなのだ。
いや……こじれているのはもうずいぶん昔からか。
ともかく、ここへ来てふたりの関係が新たな局面を迎えていることは確かであった。
セファニア妃神の登場により、昨今ナシェルは自分の役割がとうとう終焉を迎えたのだと感じるようになっていた。冥王の半身を演じるという役割が。
……かつて同族に見捨てられ唯一の冥界神としてこの地に堕ち、壮絶な孤独を味わった闇神の傍らに、血縁として片割れとして伴侶として存在することは、これまで謂わばナシェルにしかできぬ義務のようなものであった。
この冥界に神族は彼ら父子のみ。ましてや瓜二つの容姿を持ち、冥王の半身となるべく生まれ育てられた以上、彼はそれを、永久に解放されることのない宿命だと思っていたのだが。
ところが、ある時突如として新しい王妃を紹介されて、自分がその義務から突如解放された(?)のだと感じたとき……、ナシェルの心の裡に沸き上がってきたのは虚脱感と、今まで玩ばれたことに対する凄まじいまでの怒りであった。
玩ばれた、という表現には過分にナシェルの被害意識が加味されているのであって、王からしてみればナシェルをひたむきなほど懇ろに“寵愛していた”としか言い表せぬのだろう。
――しかし少なくとも幼少時より調教されてきて、立場上、父の凶状を受け入れざるを得ず、父の愛に応うるより他に『精神的にも肉体的にも楽になる』方法を見いだせずに生きてきたナシェルにとっては、すべてが終わったと感じた瞬間、それまでの行為全てを“玩ばれていた”と表現するより他になくなったのだ。
王子はふつふつと手に汗を握り、沈黙のうちに憤ることで、辛うじて自我の崩壊から己を守った。
父が自分以外に、新たな幸福の糧を見いだしてくれたこと。そして自分が父の狂愛から解放されたことは、喜んでしかるべきなのに、なぜこうまで深い喪失感に見舞われねばならぬ?
喪失感を覚えねばならぬほど、父に対する感情は良性のものであっただろうか?
否、違う。突然解き放たれて拍子抜けした想いを、喪失感と見誤っているだけだ。
とにかく、父神という絶大的な存在に追い詰められる生き方も、これで終わる――。
ナシェルはそう思うこととし、父と新しい母セファニアを(表面上は)祝福した。
すでに暗黒界を拝領しており、冥王宮には何かの式典の折でもなければ立ち寄らないで暮らしている。だから父王と継母が共にいる姿を見なくても済む。
王宮でせいぜい仲良くやっていれば良い、とナシェルは思った。
『父と継母』……、その詳細を考えるだに胸の奥がむかむかと途轍もなく熱くなっていたのだが、彼はその説明のつかぬ感情に名前を与えることを、あえて避けていた――。
◇◇◇
そんな精神状態にあったナシェルがこのほど暗黒界からこの都へ帰還したのは、黒翼騎士団の部隊分離に関わる式典行事のためであった。
護衛役を承ったヴァニオンは都まで同行してきたが、例の“縁談うんぬん”の件で公爵夫人に呼びつけられていたため城下の公爵邸に滞在せざるを得ず、ナシェルとは別行動をとっていた。
行事の前日に王宮入りしたナシェルは、父王に心の入らぬ久闊の挨拶をして、早々に自室に退散した。王妃に会う気はなかった。(この時点では未だナシェルは、セファニアに対して何の感情も抱いてはいない。)
…結論から云えば、ナシェルの考えは甚だ甘かったというほかない。
というのも王子はまさか王が、この期に及んでも常のごとく自分に夜伽を求めてくるとは思ってもいなかったのだ。
あのセダルが、後妻を娶ったからといってナシェルへの執着を止めるはずなどないのだが(というよりこの時点でのナシェルは後妻を娶った本当の事情も与り知らぬし)、この時代のナシェルは、後妻を迎えた父をまだ少しはまともだと見誤っていたのだ。
己を抱くために部屋に入ってきた冥王を見て彼は仰天した。
そして『貴方は正気か、何のために王妃を得たのだ』と父神を激しく罵った。
(事実として、冥王ほど永い間狂気に浸された神はおるまい。しかし同時に冥王ほど理性的で計算高い神もおらぬのだ。つまり王はほとんどの点においては正気であり、ある一部の点については狂気している、という云い方もできるし、正気と狂気の狭間を漂う神であるとも云えるのである。どちらにせよ彼の真意や計算づくについて王子がその全貌を知るのは、ずいぶんと後になってからのことだ。)
壁際の隅までナシェルを追い詰めた父は微笑し、案ずるな、そなたへの愛が失せたわけではない、などと何の解決にもならぬ文言で彼をますます混乱させ、逆上させた。
ならば愈々何のために天上界から後妻など連れてきたのだ、その行為で貴方は、私とあの奥方との、双方を愚弄しているに等しいではないか――
王子はありとあらゆる罵詈雑言を用いて王の不実(……誰に対しての不実だ?)を論い、渾身の力で以て王の横暴に抵抗せんとした。
王妃がいる以上、己が断じて王の伽の相手であり続けるわけにはゆかぬ、と。
解放されたと思うことにしていたのにこの状況は何だ、悲劇を通り越して滑稽話ではないか。
一方の冥王はといえばナシェルの抵抗も何のその、というよりむしろ半身の閃かす怒りを愉しんでいるようですらあった。
しかし王子の激憤が本心からのものであることを悟り、その抵抗が度を過ぎていると感ずるや、王は生理的欲求の段階を通り越して不興を露わにした。
気が殺がれた王はもはやその場でナシェルを組み伏せ凌辱するということはせず、代わりに王子の体を寝台の柱に縛り付け、全裸の体にありとあらゆる所有の証を施して立ち去ってしまった。
「翌朝にでも解いてやる、暫くそうして己の立場を顧みよ。冷静に立ち返り自覚が戻るのなら良し。戻らぬのであればより重い懲らしめを与えるだけのことだ。
むろん朝までに余に遵うと心構えがついたのならその限りではないゆえ遠慮なく呼ぶがよい。どんな側女を抱いておろうがそなたを優先してやる」
冥王は深紅の眼差しに憐憫と愛惜を込めてナシェルを瞥見し、衣を翻した。
「誰が、誰が呼ぶものか……!」
抵抗の甲斐なく絹帯で柱に括りつけられたナシェルの怒声は、王の背に虚しく撥ね返るばかりであった。
嗅がされた香に媚剤が含まれていたのか、冷えた手足とは裏腹に躯の芯だけはどうにも手酷い愛撫を求めて疼いており、吐き捨てた言葉とは真逆に今すぐ王を呼び止めてしまいそうだった。
王子は辛い姿勢のまま血の滲むほど唇を噛んで、ひたすら躯の帯びた熱がいずこかへ過ぎゆくのを待った。
――王は何と云ったか? どんな側女を抱いていようがそなたを優先してやるだと?
――この状況で更に王妃の所へも渡らず後宮で無聊を慰むつもりか。
やはり正気ではない……いやそれは今さらなことだ。
それよりもなぜ?
なぜ、これまでの関係を終わったことにしてくださらぬ?
王妃という存在を得た我々は、絡った絆から解放されようやく本物の父子に戻れるはずではなかったのか。
戒めの絹帯の深紅は、そのまま王子の心の傷の流す血と同色であった。
ナシェルはそうしてかなり長い時間寝台の柱に括りつけられていたが、渾身の力を込めて縄を自力で解き、擦り切れた手首をさすり、ありとあらゆる黄泉の魔物の言語を用いて父王を怒罵した。
腹いせにその辺を漂っていた闇の精霊を片っ端から掴んでは投げ、脱がされた服をかき集め身に纏って、しばし放心し、怒りと悲しみで魂がどうにかなりそうになりながら、なんとか気を鎮めてあの強権者から身を隠す場所は近場にないかと思案し、……乳兄弟の存在に思い至ってここへ避難してきた、というわけである。
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