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第四章 明けぬ夜の寝物語
8
――ほんのしばらくの間、そのように過去を彷徨っていた。
重い瞼を開いた時、ナシェルは自己のからだに篭もる異常な強張りを感じた。
ぎりりと歯を噛み鳴らし、手をこぶしに握り締め、まるきり悪夢に魘される子供のように全身をぴんと硬直させて、寝台に仰臥していた。
息さえも止めていたのか、一瞬にして胸郭に驚くほどたくさんの呼気が吸い込まれていく。
とたん、悲鳴に近い喚き声が己の口をついて出た。
「ヴァニオン――ヴァニオン! 何処にいるんだ、私のそばを離れるなと云っているのに!」
「落ち着け大丈夫だ。俺ぁちゃんとここに居る」
寝台の傍らから手が伸びて、ナシェルの髪と頬に触れてくる。指は温かかった。
「ここに居る」
うるんでぼやけていた視界の隅に、乳兄弟の姿を見いだし、ナシェルは安堵する。
酔っぱらって勝手に意識を失っておいて、己はなんという身勝手さだ、と我ながら思う。けれどヴァニオンは片時も離れずに、眠りもせず傍らについてくれていたようだ。
悪夢に慄かされていたナシェルはそれをぬぐい去るために――、酔いを理由に、ヴァニオンをもう少し振り回そうと試みる。
「久しぶりにやるか」
「やるって何を。……俺とお前が?」
「他に誰がいる」
云いながらナシェルは己の浮薄さにほとほと嫌気が差してきた。ヴァニオンにはもう心に決めた相手がいるのだ。それを一瞬失念していたこともそうだし、乳兄弟を振り回したいがために、よく考えもせず本心でない提案をしていることも。
だが肌寂しいのは事実で、(それはここに来る前に父王に嗅がされた媚香のせいなのか、猥らな過去の夢を見たからなのかどうかは判らないが、)酔いも手伝って、体の中心がとにかく熱を発散させたくて疼いている感じがあった。
この渇望を(――性欲と、神司への欲望の両方を)満たしてくれるのは父王しかいないと分かっているのに、あえてヴァニオンを唆している自分。あれだけ手酷く釘をさされたこともあるのに、同じことを繰り返しても良いとさえ感じているのは完全に、父に対する目に見えぬ抵抗であった。
案の定、ヴァニオンは首を横に振る。
「お前、酔っぱらってんだろ……」
「そうだ。酔いの勢いというやつだ。お前も例の月神に冷たくされて鬱憤が溜まっているのだろう。私を代わりに抱くことで束の間でも渇えが満たされるなら――そうするがいい。何なら私が導いてやろうか?」
ヴァニオンの下半身へ伸ばしかけた手を、ぐいと掴まれた。
黒曜の瞳には哀しげな色が浮かんでいた。
「お前、自分が何云ってるか、分かってんのか」
「分かってるに決まってる」
「ナシェル、馬鹿な話はおしまいにしよう。このままここで眠っていけよ。俺がいると落ち着かないなら、俺は隣の空き部屋に移動するから」
もぎ離されかけた手に、ナシェルは追い縋る。
「ヴァニオン、嫌だ。独りにしないでくれ、今は」
「――分かったよ。ただ、一緒に寝るとかいうのは無しだ」
「うん。分かった。なぜだろう……ここまで逃げてきたのにまだ父上に見られているような気がする」
「落ち着け。誰も見てやしない。居るのは精霊たちだけだ」
ナシェルはカーテンレールの上に屯ろしていた精霊たちを散らした。主神に退去を命じられた精霊たちはカーテンを揺らし、飛び立ってゆく。室内には本当に二人しかいない。それを確認した。
そうすると脳裏の喧噪が少し遠のいて、心が落ち着いてきた感じがする。早駆けしていた脈も徐々におさまって来ていたが、それでも目に見えぬ不安感は完全に去ったわけではなかった。
ナシェルは震える喉に息を溜め、ずいぶん前から気になっていたことを問う。
「……今でも私を愛しているか?」
その問いに、乳兄弟はぐっと一瞬、言葉を詰まらせた。
「……愛してるよナシェル、今でも。これからもずっとな。俺がお前を愛してないなんて、そんなのありえないだろ。……ただ、もう今は、抱きたいとかいうのとは、別の感情だ」
「――うん、そうか。分かった」
ナシェルは息を吐ききり再び眼を閉じた。共寝しようと唆したのはこっちだというのに、きっぱりと「もう抱かない」と云われて安心している自分がいる。
ヴァニオンの答えを聞いて心が和らぎ、今度は少し、まともに眠れそうな気がしてきた。……お前は本当にいいやつだ、ヴァニオン。
「何がしたかったのだろう、私は。あれへの腹いせにお前の所へなど忍んできて……」
「知るかよ。俺が分かるのは、お前がどうしようもない馬鹿だってことだけだな。酒の呑み過ぎだぜ」
ヴァニオンはこぶしで軽くナシェルの額を小突き、前髪をぐしゃぐしゃと撫でる。
華奢な手を取って、珊瑚装飾のような、桜貝のようなナシェルの爪に唇を寄せ、温かい息を指先に吹きかけた。
「まったく馬鹿な奴だよ、お前は……」
触れ合うのはここまでだと感じていた。これが限界だ。
ナシェルが今度は悪夢のない穏やかな眠りに就いたのを確認し、ヴァニオンは彼の手を離した。
寝台の脇の椅子に腰を下ろしたまま、自分も卓に置かれた火酒の杯に、ようやく口をつける。
…それにしてもナシェルへのこの複雑な落ち着かぬ感情を、「愛している」などという一言だけで片づけてよいものだろうか?
王への怒りに似た嫉妬や、できることならばナシェルを真綿で包むようにして全ての痛みから遠ざけてやりたいという独占欲にも似た忠誠や、未だにどうにも隠し遂すことのできない未練や、彼を見下ろしているこうした瞬間に感ずる、一種の戦慄のような熱情など。
愛というのはこれらをすべてひっくるめた、非常にもやもやした想いの総称なのか?
だとしたら自分があのサリエルに対して抱いている想いは、まだ愛と呼ぶには脆弱すぎる。そして、かつて自分が少年だった頃、ナシェルに初めて恋をした頃に抱いていた感情などは、今のこの想いに比べたらあまりに薄っぺらなものに過ぎなかった。
ヴァニオンは火酒を続けて干したが、それでもナシェルとは対照的に眼が冴えてなかなか寝つけなかった。
ナシェルが感じると話していた冥王の視線を、ヴァニオンも実は心のどこかでは感じていた。
彼はナシェルの艶めく寝姿を掛布に包んで覆い隠した。まるで王から王子を守ろうとするかのように。そして握りしめた拳をもう片方の手で包み、顔を伏せてそれを額に当てた。
眠るナシェルの表情は譬えようもなく淫靡で美しかった。どうかこのまま、夢のない眠りが続いてくれれば良いがと、ヴァニオンは目を伏せ、彼のために祈った。
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