文字の大きさ
大
中
小
64 / 70
第四章 明けぬ夜の寝物語
15
…人目を避けるように歩くうち、滅多に立ち入ることのない区域まで来てしまった。
廊下の先には行き止まりの大きな部屋がある。
ぼんやりと考えごとをしながら部屋の前まで歩いてきたナシェルは、そこで初めて行き止まりの扉に気づき我に返った。
巨大な扉が一枚、幽遠に立ちはだかっている。
その扉の奥にあるものを、彼は知っていた。
生母の肖像画だ。
ナシェルを産んですぐに消滅した母。だからナシェルには、母の愛の記憶がない。
じつは遙か昔、父に連れられてこの部屋を訪れたことがあった。だから、そこが肖像画の部屋であると知っているのだ。
しかし当時のナシェルは、母の肖像画を見ても何の感傷も沸かなかった。
ただ、天上の女神であったという母の絵姿を見て、はじめて目にする金髪蒼眼を奇妙なものに感じただけだ。
母というにはあまりに若い―――そう、まるで生娘のような容貌をした母の画に、己に似た『冥土の神』の面影を見いだすことは、幼いナシェルにはできなかった。自分の群青色の瞳が母親譲りのものなのだと、父に説明されてもなお、画のなかで微笑む女神はどこまでも遠い存在のようだった。
最愛の妻ティアーナを懐かしむ冥王の傍らで、幼神ナシェルは、悼みも何も感じることができぬ自分が不甲斐なく、“母の消滅”ということがらを現実味のある出来事として捉えることがとうとう出来ぬままであった。
己と引きかえに死んだという母の肖像を見てさえ悲しみを覚えぬのは―――これは私が死を司る陰府の神であるからか?
それとも天上の神々に対して生まれながらに懐く、羨望にも似た卑屈な敵愾心ゆえなのか。
それとも……母の愛を知らずして育った者は皆こういう風に、どこか他人事のように、あっさりと母の肖像を眺めるものなのであろうか。
幼い頭で幾度も自問したが答えは出ぬままだった。
……そうした幼少時の葛藤ゆえに、できるだけ近づかないようにしていた部屋だ。
なぜ、ふらふらとこんな場所まで来てしまったのだろう。迷路のように広大なこの王宮だ。歩く場所なら、他にも沢山あるというのに。
しかしナシェルは意を決して扉に近づき、厚みのある華麗な扉を押し開けた。
この時、なぜ引き返さずに、肖像画の母に会おうと思ったのか、それは分からない。
後になって考えてみれば、冥界の双神と冥界の行末を識る、なにか大いなる意思に導かれたからなのだと、結論づけることもできるだろう。
とにかくナシェルは誘引されるように大きな扉を押し開け、後ろ手にそれを閉めて部屋に入った。
壁にかかる巨大な肖像画以外にはなにも調度品のない、だだ広い部屋だ。
ナシェルは薄闇の中に立ち、肖像画と相対した。
(ティアーナ、)
輝くような微笑をたたえた、金色の天の女神の画。このような暗い部屋には似つかわしくない。
彼女は柔らかそうな肢体を純白の薄着につつんで、ナシェルを優しい表情で見下ろしていた。
――狂った闇神の元に降臨し彼を救った、天上界の女神。
成長が止まる(成神する)のが早かった彼女は、若い女神というよりも思春期の少女ぐらいの顔立ちをしている。
天上の女神の“証”である金髪はゆるやかに肩の上に踊り、滝のように胸に流れ落ちて、そのまま座った膝の上にまで届いている。
その、地上の夜空のごとき群青色の瞳だけが、彼女がナシェルに残した唯一の遺伝的形質であった。
ナシェルは肖像画を見上げた。瞳の色を除いて、なにもかもが己と違いすぎていた。
やはり幼い頃と同様、母を喪ったことに対する悲しみは浮かんではこなかった。
ただ、母を喪った父王が、この場所で浮かべていたあのときの、憂いに満ちた表情が脳裏をよぎった。
ナシェルはしばしの沈黙ののち、呪詛するように低く、母の肖像画に向け問いを発した。
「…ティアーナ、なぜ私を産んだのです」
それは、父との関係の特異性に気がつきはじめてから、たびたび懐いてきた疑問だった。
ナシェルの呼びかけに対し、むろん肖像画は応えを返さぬ。ただ優しい眼差しを投げるのみだ。
「繁殖と生殖を司る女神だった貴女が、ご自分の命と引き換えてまでこの世に遺したかったものが、この私だというのですか? ……そんなことしないで貴女が父上と一緒にいて差し上げればよかったのに」
自嘲が漏れる。
「見て下さい。私はご覧のとおり大きくなりました。外見だけは貴女の愛した闇神に瓜二つ。
けれど外見に反して大した器になりきれたわけじゃない。一度でいいから父にこっぴどく復讐してみたくても、何をどうやったらいいのか分からない。結局ここで、もの云わぬ貴女を相手に管を巻くことぐらいしかできない能なしです」
ナシェルは腰に手を当て、皮肉を込めてティアーナを見上げる。
「貴女が私をポイとこの冥界に産み残していったおかげで、私はひとりで父の狂気に延々付き合わされる羽目になったのですよ。幼い頃から……、今だってそうだ。
貴女の代わりなのかどうか知らないが―――セファニアとかいう女神が新しく父上の所へ嫁いできましたが、それにしたって状況は変わらない。きっとあの女神が来るのが遅すぎたんですよ。もうすっかり父上は狂ってしまっているので、後妻がいてもあいかわらず私の所へ通ってくる始末。
もう、うんざりなんです。神司も義務も責任も権利も、何もかも捨ててどこかへ逃れてしまいたいと思うことがある。
けれど私はもう成神だからなのか、今や自分にとって冥界以上に居心地のよい場所はないということを知っているし、無駄な冒険は控えて父の作ったこの世界を離れない方がはるかに賢明だということも、承知しているんです。
拒絶も受容もできない、ただそうした打算に従って父のつくる轍を進む。私の尊厳や意思は端から考慮されていない。……こんな生き方しか永遠に許されず、この先もずっと父の愛に苦しめられるなら……この命、いっそ産んでくれないほうが良かったのかもしれません」
ナシェルは『詮無いことをしているな』と痛感しながら両腕を組んだ。
母の肖像画に向け、自分を産んだことへの恨みを吐露するほどに、己もいよいよ、追い詰められてきたということか。
廊下の先には行き止まりの大きな部屋がある。
ぼんやりと考えごとをしながら部屋の前まで歩いてきたナシェルは、そこで初めて行き止まりの扉に気づき我に返った。
巨大な扉が一枚、幽遠に立ちはだかっている。
その扉の奥にあるものを、彼は知っていた。
生母の肖像画だ。
ナシェルを産んですぐに消滅した母。だからナシェルには、母の愛の記憶がない。
じつは遙か昔、父に連れられてこの部屋を訪れたことがあった。だから、そこが肖像画の部屋であると知っているのだ。
しかし当時のナシェルは、母の肖像画を見ても何の感傷も沸かなかった。
ただ、天上の女神であったという母の絵姿を見て、はじめて目にする金髪蒼眼を奇妙なものに感じただけだ。
母というにはあまりに若い―――そう、まるで生娘のような容貌をした母の画に、己に似た『冥土の神』の面影を見いだすことは、幼いナシェルにはできなかった。自分の群青色の瞳が母親譲りのものなのだと、父に説明されてもなお、画のなかで微笑む女神はどこまでも遠い存在のようだった。
最愛の妻ティアーナを懐かしむ冥王の傍らで、幼神ナシェルは、悼みも何も感じることができぬ自分が不甲斐なく、“母の消滅”ということがらを現実味のある出来事として捉えることがとうとう出来ぬままであった。
己と引きかえに死んだという母の肖像を見てさえ悲しみを覚えぬのは―――これは私が死を司る陰府の神であるからか?
それとも天上の神々に対して生まれながらに懐く、羨望にも似た卑屈な敵愾心ゆえなのか。
それとも……母の愛を知らずして育った者は皆こういう風に、どこか他人事のように、あっさりと母の肖像を眺めるものなのであろうか。
幼い頭で幾度も自問したが答えは出ぬままだった。
……そうした幼少時の葛藤ゆえに、できるだけ近づかないようにしていた部屋だ。
なぜ、ふらふらとこんな場所まで来てしまったのだろう。迷路のように広大なこの王宮だ。歩く場所なら、他にも沢山あるというのに。
しかしナシェルは意を決して扉に近づき、厚みのある華麗な扉を押し開けた。
この時、なぜ引き返さずに、肖像画の母に会おうと思ったのか、それは分からない。
後になって考えてみれば、冥界の双神と冥界の行末を識る、なにか大いなる意思に導かれたからなのだと、結論づけることもできるだろう。
とにかくナシェルは誘引されるように大きな扉を押し開け、後ろ手にそれを閉めて部屋に入った。
壁にかかる巨大な肖像画以外にはなにも調度品のない、だだ広い部屋だ。
ナシェルは薄闇の中に立ち、肖像画と相対した。
(ティアーナ、)
輝くような微笑をたたえた、金色の天の女神の画。このような暗い部屋には似つかわしくない。
彼女は柔らかそうな肢体を純白の薄着につつんで、ナシェルを優しい表情で見下ろしていた。
――狂った闇神の元に降臨し彼を救った、天上界の女神。
成長が止まる(成神する)のが早かった彼女は、若い女神というよりも思春期の少女ぐらいの顔立ちをしている。
天上の女神の“証”である金髪はゆるやかに肩の上に踊り、滝のように胸に流れ落ちて、そのまま座った膝の上にまで届いている。
その、地上の夜空のごとき群青色の瞳だけが、彼女がナシェルに残した唯一の遺伝的形質であった。
ナシェルは肖像画を見上げた。瞳の色を除いて、なにもかもが己と違いすぎていた。
やはり幼い頃と同様、母を喪ったことに対する悲しみは浮かんではこなかった。
ただ、母を喪った父王が、この場所で浮かべていたあのときの、憂いに満ちた表情が脳裏をよぎった。
ナシェルはしばしの沈黙ののち、呪詛するように低く、母の肖像画に向け問いを発した。
「…ティアーナ、なぜ私を産んだのです」
それは、父との関係の特異性に気がつきはじめてから、たびたび懐いてきた疑問だった。
ナシェルの呼びかけに対し、むろん肖像画は応えを返さぬ。ただ優しい眼差しを投げるのみだ。
「繁殖と生殖を司る女神だった貴女が、ご自分の命と引き換えてまでこの世に遺したかったものが、この私だというのですか? ……そんなことしないで貴女が父上と一緒にいて差し上げればよかったのに」
自嘲が漏れる。
「見て下さい。私はご覧のとおり大きくなりました。外見だけは貴女の愛した闇神に瓜二つ。
けれど外見に反して大した器になりきれたわけじゃない。一度でいいから父にこっぴどく復讐してみたくても、何をどうやったらいいのか分からない。結局ここで、もの云わぬ貴女を相手に管を巻くことぐらいしかできない能なしです」
ナシェルは腰に手を当て、皮肉を込めてティアーナを見上げる。
「貴女が私をポイとこの冥界に産み残していったおかげで、私はひとりで父の狂気に延々付き合わされる羽目になったのですよ。幼い頃から……、今だってそうだ。
貴女の代わりなのかどうか知らないが―――セファニアとかいう女神が新しく父上の所へ嫁いできましたが、それにしたって状況は変わらない。きっとあの女神が来るのが遅すぎたんですよ。もうすっかり父上は狂ってしまっているので、後妻がいてもあいかわらず私の所へ通ってくる始末。
もう、うんざりなんです。神司も義務も責任も権利も、何もかも捨ててどこかへ逃れてしまいたいと思うことがある。
けれど私はもう成神だからなのか、今や自分にとって冥界以上に居心地のよい場所はないということを知っているし、無駄な冒険は控えて父の作ったこの世界を離れない方がはるかに賢明だということも、承知しているんです。
拒絶も受容もできない、ただそうした打算に従って父のつくる轍を進む。私の尊厳や意思は端から考慮されていない。……こんな生き方しか永遠に許されず、この先もずっと父の愛に苦しめられるなら……この命、いっそ産んでくれないほうが良かったのかもしれません」
ナシェルは『詮無いことをしているな』と痛感しながら両腕を組んだ。
母の肖像画に向け、自分を産んだことへの恨みを吐露するほどに、己もいよいよ、追い詰められてきたということか。
感想 1
あなたにおすすめの小説
【BL】惚れた男に嫌われたくなくて「男遊びならしてもいい」と言ったら、本当に男遊びを始められて絶望している侯爵令息の話
多額の借金で没落寸前の実家を救うため、結婚相手を探していた男爵令息のラキにカムグロス侯爵家から求婚状が届く。
お相手は同性のディートリヒで、初対面で歓迎されるどころか冷たく突き放されてしまう。
『必要最低限関わるな』
『愛人を作るな』
『男遊びならしてもいい』
ディートリヒから実家の借金を完済する条件を言われたラキは、学園で令息たちとの交流を満喫中。
褒め上手なラキの周りには可愛い令息が集まり、推し活状態に。
一方、ディートリヒだけが嫉妬で胃を痛める日々。
ラキへの恋心を隠し続けた不器用侯爵令息に、幸せな未来は訪れるのか?
.
邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ
世間に秘された名門男子校・平坂学園体育科
空手の名選手であった高尾雄一は、新任教師として赴任する
高潔な人格と鋼のように鍛えられた肉体
それは、学園にとって最高の生贄の候補に他ならなかった
至高の筋肉を持つ、精神を削られ意志をなくした青年を太古の神に捧げるため、“水”、“風”、“土”の信奉者達が暗躍する
意志をなくし筋肉の操り人形と化した“デク”
消える教師
山奥の男子校で繰り広げられるダークファンタジー
冤罪で堕とされた最強騎士、狂信的な男たちに包囲される
王国最強の聖騎士団長から一転、冤罪で生存率0%の懲罰部隊へと叩き落とされたレオン。
泥にまみれてもなお気高く、圧倒的な強さを振るう彼に、狂った執着を抱く男たちが集結する。
女の子として育てられた身代わりメイド、冷酷公爵に正体を暴かれ執着の檻に閉じ込められる 〜夜に咲く花〜
女の子として育てられたラナには、誰にも言えない秘密があった。
――僕は、男だ。
18歳の冬、没落した一族の罪を贖うため、冷酷な公爵・セヴェランにメイドとして捧げられた。
純白のフリルに身を包み、偽りの乙女を演じ続ける日々。
正体が露見すれば即処刑――薄氷の上を歩くような緊張が、常にラナを縛りつけていた。
しかし、ある穏やかな午後。
その均衡は、あまりにも呆気なく崩れ去る。
逃げ場を失った身体を捕らえられ、隠し続けてきた真実を見抜かれたとき、
氷のように冷え切っていた主従関係は、静かに形を変えた。
「お前は男ですらない。……ただの、私の所有物だ」
突きつけられたのは死ではなく、逃れられない執着。
行き場を失った孤独な存在を囲い込み、決して手放そうとしない絶対的な支配。
偽りの乙女としての時間は終わりを告げ、
ラナは一人の青年として、抗えないほど深く書き換えられていく。
それは救いか、それとも堕落か。
孤独を抱えた二人の魂は、背徳の熱の中で静かに絡み合っていく――。