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第四章 明けぬ夜の寝物語
17
扉の取っ手に引っ付くように傾れ込んできたそれは、床に伏してしばらく動かなかった。
ナシェルは取っ手からゆっくりと手を離し、もう一度、注意深くそれを見下ろした。
――亡き母が肖像画から抜け出してきたわけではないことを、確認するために。
この冥界に、金色の髪をした女性は一人しか存在しない。
ナシェルは躊躇いののち、彼女に手を差し伸べた。いくらか義務的な調子で声をかける。
「……大丈夫ですか、王妃?」
王妃セファニアはナシェルの呼びかけにゆっくりと顔を上げた。
金の絹糸のような髪が乱れ、頬に張りついている。
視線が合うと彼女は羞恥からか頬を染め、その手を取っておずおずと立ち上がった。
手を取った瞬間、命の精らが金切り声を上げてナシェルを睨んだが、乙女らはすぐに静かになって、女神の背後に隠れた。死神の放つ神司におののいたのだろう。
セファニアは衣裳の埃を払い、いくらか気まずそうに、居ずまいを正した。
相対するナシェルは、彼女があまりにも亡母に似ていることを再認識する。
穴のあくようなナシェルの視線に慄いたのか、セファニアはわずかに身を固く竦めた。
薄く、華奢な肩だった。
からだつきもさることながら、その仕草や、表情のつぶさから、ナシェルは視線をはがすことができない。不躾なほど彼女を凝視してしまった。
(美しい女だ。魔族の女たちとはまるで次元が違う。
柔らかな物腰。たおやかで毅然とした眼差し。それに透き通る肌……。
そしてやはり似ている――亡き母に。否、似ているどころではない。
しかし、そもそも――なんでこの女はこんな所にいるのだろう? 私の後をのこのことつけてきて……、私の独り言も聞いていたのか――?)
彼女への興味とともに、一抹の不快感が湧き上がる。
……そう、彼女は憎むべき天上界からの来訪者なのだ。
天とは、父を追放した連中の巣窟である。
少なくともナシェルの認識としては、天上界は『敵』だ。
そこから嫁いできたのだから、セファニアに対し先入観がないはずがない。
それを云ったら自分の亡き母も同類なのだが、ティアーナには少なくとも冥王への無償の愛、命を賭した献身があった。
この女はさて、どうだろう? 父を―――愛しているというのか?
セファニアを無言のまま見つめながら、ナシェルはそれを急に問いただしてみたくなった。
『愛などあるはずがない、一方的に連れて来られた』のだと、彼女がもしもそう云うのなら―――ナシェルは彼女の境遇への同情より先に、怒りを覚えるに違いない。その感情を抑制できる自信もない。
やはりお前ら天上界の者どもは、父を化け物かなにかのように思っているのだろう、と。この女もしょせん、多様性を認めぬ狭量な神々どもの一員でしかないのだと、失望するしかないだろう。
冥界からつまみ出そうか? ――可能かどうか分からないが。
気分的には、そうしたくもなるだろう。
父を愛してもいない後妻などに、なぜこちらが敬意を払わねばならぬ。
……では逆に『冥王を心から愛している』と、彼女が云ったなら――?
そのときはどうするのだ。ナシェルは胸中で自問する。
……。
……いやはや、おめでたいことではないか! 冥王は少なくともセファニアを愛しているようだし、彼女も同様だというのなら、めでたしめでたしだ。
ナシェルは、おのれの表情がますます険を増してゆくのを自覚する。
……どちらに転がってもやはり「納得いかない」ことには変わりがない。
さんざん気にしないふりをしてきたが、やはりどうやらこの女と自分は、立場的に相容れぬらしい。
その原因が父王である、という現実も又、受け入れがたい惨事であった。
……否、ほとんど珍事か……。
ナシェルのしかめっ面と沈黙に堪え切れなくなったのか、セファニアが恐る恐る口を開いた。
これまでは挨拶ぐらいしかしたことがなく、まともにふたりきりで会話を交わすのは初めてだ。
「……どうしてこんなところにいるのかとは、訊かないの?」
「……どうしてこんなところにいるのですか、王妃」
意地の悪い鸚鵡返しに、セファニアは少し哀しげな顔をする。
「……あの、御免なさい。最初、貴方が回廊を歩いているのを見てお兄様かと思ったの」
「お兄様?」
「ああ、その……、貴方の、お父様かと」
ああそうかそういえば確かにこの女は冥王の妹神であるらしい。
冥王はこの女に可愛らしく『お兄様』などと呼ばれているのか。
ナシェルは知りたくもない父王夫妻の日常光景を想像するに至って、ますます憮然とした。
いちいち尖っても仕方がないのだが、何かこの女の純真清輝な善神オーラは自分を苛立たせる。
「途中で貴方だと気づいたのだけれど……、貴方はなにかぶつぶつ呟いたりして普通じゃない空気だったから、どこへ行くのか気になって……それで」
「私の後をつけてきたと?」
セファニアは気まずそうに視線を落とす。
「……ごめんなさい」
「盗み聞きもしたんですか。妃ともあろう方が」
「そんなつもりはなかったの、」
「一部始終立ち聞きしておいてよく云えますね」
ナシェルは両腕を組んだ。
申し訳なさそうにしているセファニアを見下ろしながら、しばらくこの女をからかって憂さを晴らすというのはどうだろう? などとよからぬことを考えていた。
「あの……なぜ、黙っていらっしゃるの?」
「秘密を知られてショックを受けているんですよ」
「誰にも云わないわ」
「何を?」
「ティアーナ姉様の肖像画に向かって、愚痴をこぼしていたこと……」
「セファニア。でも貴女には知られてしまった。あんな内容、誰にも知られたくなかったのに」
『王妃』ではなく『セファニア』と、名前を呼び捨てされた彼女はびくりと肩を竦ませた。
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