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転機
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え......
聞き覚えのある声に、薫子は思わず振り返った。
「先、生......」
それは、薫子が習っていた華道の師範、華岡 染子だった。いつものように髪をきっちりと結い、薄紫の着物に濃紫の羽織がしっくりと決まっていた。もう70近いはずだが背筋がしっかりと伸びており、顔も若々しく、少なくとも10歳は若く見えた。手には、桃の花、フリージア、スイトピーが包まれた花合羽を抱いていた。
振り向いた薫子も驚いていたが、声を掛けた染子もまた、驚いていた。
「薫子さん。どうしてこんなところに?」
染子が驚くのも無理はない。
彼女は、薫子が幼い頃から華道の指導をしてきた。薫子が深窓の令嬢であり、ひとりで出歩くことがないと知っている。ましてや、櫻井家の方からは薫子が香西コーポレーションの御曹司と婚約破棄し、傷心で部屋に引き籠っているからという理由でお稽古をキャンセルされていた。
そんな薫子がひとりで、櫻井の家から遠く離れた総合病院の特別病棟にいるなど、考えられないことだった。
薫子は、顔を青ざめたまま頭を下げた。
「先生......お願いします。どうか父には、ここで私と会ったことは言わないで下さい」
染子と一緒にいた病院関係者らしき男性が、彼女に軽く礼をした。
「では、私はこれで。どうか、ご考慮よろしくお願いします」
染子は少し困ったように笑みを見せながら、挨拶を返した。
「また後ほど......連絡させてもらいます」
男性は再び、扉の中へと入っていった。扉の閉まる音が聞こえなくなると、染子は薫子に顔を向けた。
「ここでは何だから、1階の喫茶室でお話ししましょう。少しお時間、よろしいかしら」
病院の喫茶室に着くと、染子は羽織をさらりと脱ぎ、ウェイトレスに預けた。
「薫子さんは?」
厚手のコートを着ていたお陰で、染子は薫子の妊娠に気が付いていない。
どうしよう。脱げない......
「私は......大丈夫、です。寒いので」
コーヒーを飲みながら、染子は小さく息を吐いた。
「華子さんの様子がおかしかったから、何かあったのでは......と心配していたんですよ」
染子は華子の師範でもあり、長年の付き合いだ。親子ほど歳は離れているが、ふたりはプライベートでも華道の展覧会に行ったり、芝居を観に行ったりもする、華子の数少ない友人のひとりでもある。
母のことを聞き、薫子の胸が締め付けられた。
「あの......母は最近、どんな感じでしたか」
その言葉から、薫子が華子と長い間会っておらず、連絡もとっていないのだろうと推察した染子は心配そうに彼女を見つめた。
「華子さん......以前からあまり外に出ない人だったけれど、最近は更に鬱ぎ込むようになってしまわれて。こういうことはあまり言わない方がいいのでしょうけど......櫻井さんとも、以前とは違うというか。ぎこちない感じで」
「そう、ですか」
私の家出をお母様が助けて下さったから、私はようやくお父様との縁を断ち切ることが出来たけれど......お母様はあの家に、お父様に......縛られたままなんだ。
そう思うと、薫子は罪悪感に苛まれた。
染子が躊躇いがちに、薫子に尋ねた。
「人のプライバシーに立ち入るべきではないと分かっていますが......薫子さん、あなた今どうしていらっしゃるの? 家には......いらっしゃらないわよね」
染子は常識をわきまえた女性であり、好奇心や野次馬根性から人のプライバシーを探ろうとするような人間ではないことは、薫子はよく分かっていた。自分や、母を心配しての発言なのだと。
それでも口籠る薫子に、染子が安心させるように眉を下げた。
「心配なさらないで。あなたのお父様には、決して話しませんから」
聞き覚えのある声に、薫子は思わず振り返った。
「先、生......」
それは、薫子が習っていた華道の師範、華岡 染子だった。いつものように髪をきっちりと結い、薄紫の着物に濃紫の羽織がしっくりと決まっていた。もう70近いはずだが背筋がしっかりと伸びており、顔も若々しく、少なくとも10歳は若く見えた。手には、桃の花、フリージア、スイトピーが包まれた花合羽を抱いていた。
振り向いた薫子も驚いていたが、声を掛けた染子もまた、驚いていた。
「薫子さん。どうしてこんなところに?」
染子が驚くのも無理はない。
彼女は、薫子が幼い頃から華道の指導をしてきた。薫子が深窓の令嬢であり、ひとりで出歩くことがないと知っている。ましてや、櫻井家の方からは薫子が香西コーポレーションの御曹司と婚約破棄し、傷心で部屋に引き籠っているからという理由でお稽古をキャンセルされていた。
そんな薫子がひとりで、櫻井の家から遠く離れた総合病院の特別病棟にいるなど、考えられないことだった。
薫子は、顔を青ざめたまま頭を下げた。
「先生......お願いします。どうか父には、ここで私と会ったことは言わないで下さい」
染子と一緒にいた病院関係者らしき男性が、彼女に軽く礼をした。
「では、私はこれで。どうか、ご考慮よろしくお願いします」
染子は少し困ったように笑みを見せながら、挨拶を返した。
「また後ほど......連絡させてもらいます」
男性は再び、扉の中へと入っていった。扉の閉まる音が聞こえなくなると、染子は薫子に顔を向けた。
「ここでは何だから、1階の喫茶室でお話ししましょう。少しお時間、よろしいかしら」
病院の喫茶室に着くと、染子は羽織をさらりと脱ぎ、ウェイトレスに預けた。
「薫子さんは?」
厚手のコートを着ていたお陰で、染子は薫子の妊娠に気が付いていない。
どうしよう。脱げない......
「私は......大丈夫、です。寒いので」
コーヒーを飲みながら、染子は小さく息を吐いた。
「華子さんの様子がおかしかったから、何かあったのでは......と心配していたんですよ」
染子は華子の師範でもあり、長年の付き合いだ。親子ほど歳は離れているが、ふたりはプライベートでも華道の展覧会に行ったり、芝居を観に行ったりもする、華子の数少ない友人のひとりでもある。
母のことを聞き、薫子の胸が締め付けられた。
「あの......母は最近、どんな感じでしたか」
その言葉から、薫子が華子と長い間会っておらず、連絡もとっていないのだろうと推察した染子は心配そうに彼女を見つめた。
「華子さん......以前からあまり外に出ない人だったけれど、最近は更に鬱ぎ込むようになってしまわれて。こういうことはあまり言わない方がいいのでしょうけど......櫻井さんとも、以前とは違うというか。ぎこちない感じで」
「そう、ですか」
私の家出をお母様が助けて下さったから、私はようやくお父様との縁を断ち切ることが出来たけれど......お母様はあの家に、お父様に......縛られたままなんだ。
そう思うと、薫子は罪悪感に苛まれた。
染子が躊躇いがちに、薫子に尋ねた。
「人のプライバシーに立ち入るべきではないと分かっていますが......薫子さん、あなた今どうしていらっしゃるの? 家には......いらっしゃらないわよね」
染子は常識をわきまえた女性であり、好奇心や野次馬根性から人のプライバシーを探ろうとするような人間ではないことは、薫子はよく分かっていた。自分や、母を心配しての発言なのだと。
それでも口籠る薫子に、染子が安心させるように眉を下げた。
「心配なさらないで。あなたのお父様には、決して話しませんから」
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