32 / 43
第5話
師弟と日本ダービー ⑧
しおりを挟む
天道は、携帯端末の電源を切り、夜空で瞬く星を見上げた。
馬の寝藁の匂いが、ほのかにしていた。
関西で競走馬を飼育、調教する、御園トレーニングセンターにある、厩舎の前だった。
清潔は保たれており、糞尿の匂いはほとんど気にならない。
天道が調教助手として赴任した当時は、築年数五十年を超える古びた厩舎が建っていたが、三年前に建て直され、現代風の外観になった。
変わったのは見た目だけでなかった。
近年の猛暑で馬が体調を崩さないよう、屋根を二重構造にし、冷房が馬体に直接当たらない工夫がなされていた。
また、馬が寝返りを打つ際に、脚をひっかけて利用する壁の横木なども、形状にひと手間が加えられており、噛み癖のある馬のために材質は樫を選んであった。
他にも、随所に馬のことを考えた工夫が施された、築浅の厩舎を、改めて真正面に見つめた。
「ここが、俺の厩舎にね」
呟いていた。
「おい、あと一年は、ここは俺のもんだぜ」
振り向くと、薄手のジャンパーを羽織った調教師の遠野が歩いてきた。
「遠野さん、夜の見廻りですか。そういうの、俺らに任せてくれていいんですよ」
「今更言うな。俺の性分だ、知ってるだろう」
厩舎の前で、遠野と肩を並べた。
「電話してたのか?」
「ええ。弟子に、調教師になった報告をしようと。ま、言いそびれちゃいましたけど」
「例の子どもか。俺が散々調教師の認定試験を受けろと言っても、聞かなかったくせに。小娘に簡単にほだされやがって」
「そんなんじゃありませんがね。ただ実際、厩務実習で色々と仕込もうと思ったら、調教師になっておいた方が都合がよかったってのは、確かですね」
「実習は、二年の八月からだものな。確かに、その頃にはここは天道厩舎さ」
「感謝してますよ。すぐに厩舎の受け持ちが決まったの、遠野さんが俺を後任に推薦してくれたって聞きました」
「候補の中じゃ、お前が一番マシだったってだけさ」
「遠野さんの下で鍛えられましたから」
「ふん。精々、楽しみにしとくよ」
「遠野厩舎のやり方を、崩す気はありませんよ」
「そうじゃねえ。俺が言ったのは、お前の弟子とやらのことさ」
遠野は、そう言い残して、厩舎の中へと入っていった。十日前に心筋梗塞を起こし、今日の朝まで入院していたとは思わせない、矍鑠とした足取りだった。
ただ、本人にしかわからない衰えはあるのだろう。
数年前からなにかにつけ、天道に調教師になることを薦め、暗に自分の厩舎を継がせようとしていたのだ。
天道が、遠野の意を受け、調教師になる決心をつけたのは、あいと出会ったからだった。
騎手となったあいの隣で、レースに臨むには、調教助手のままでは役不足だった。
調教助手でも、競走馬の調教には携われるが、馬主の意向を受けとめ、騎手とも意見交換して調教の方針を決めるのは、調教師でなければできないことだ。
「にしても、まさか、凱旋門賞と言い出すとはね」
ついさっき聞かされたあいの宣言に、天道は苦笑いをこぼした。
聞いた瞬間、あいが、ロンシャン競馬場の芝を馬と駈ける様を、想像してしまった。コース沿いに建つ石造りの風車の前を、颯爽と駈け抜けていた。
「未練だな」
あいに、自分がかつて抱いていた夢を、背負わせるつもりはなかった。騎手である自分は、すでに死んだのだ。
それでも、生きている。その実感がある。
あいに生き返らされのだ、と天道は思った。
馬の寝藁の匂いが、ほのかにしていた。
関西で競走馬を飼育、調教する、御園トレーニングセンターにある、厩舎の前だった。
清潔は保たれており、糞尿の匂いはほとんど気にならない。
天道が調教助手として赴任した当時は、築年数五十年を超える古びた厩舎が建っていたが、三年前に建て直され、現代風の外観になった。
変わったのは見た目だけでなかった。
近年の猛暑で馬が体調を崩さないよう、屋根を二重構造にし、冷房が馬体に直接当たらない工夫がなされていた。
また、馬が寝返りを打つ際に、脚をひっかけて利用する壁の横木なども、形状にひと手間が加えられており、噛み癖のある馬のために材質は樫を選んであった。
他にも、随所に馬のことを考えた工夫が施された、築浅の厩舎を、改めて真正面に見つめた。
「ここが、俺の厩舎にね」
呟いていた。
「おい、あと一年は、ここは俺のもんだぜ」
振り向くと、薄手のジャンパーを羽織った調教師の遠野が歩いてきた。
「遠野さん、夜の見廻りですか。そういうの、俺らに任せてくれていいんですよ」
「今更言うな。俺の性分だ、知ってるだろう」
厩舎の前で、遠野と肩を並べた。
「電話してたのか?」
「ええ。弟子に、調教師になった報告をしようと。ま、言いそびれちゃいましたけど」
「例の子どもか。俺が散々調教師の認定試験を受けろと言っても、聞かなかったくせに。小娘に簡単にほだされやがって」
「そんなんじゃありませんがね。ただ実際、厩務実習で色々と仕込もうと思ったら、調教師になっておいた方が都合がよかったってのは、確かですね」
「実習は、二年の八月からだものな。確かに、その頃にはここは天道厩舎さ」
「感謝してますよ。すぐに厩舎の受け持ちが決まったの、遠野さんが俺を後任に推薦してくれたって聞きました」
「候補の中じゃ、お前が一番マシだったってだけさ」
「遠野さんの下で鍛えられましたから」
「ふん。精々、楽しみにしとくよ」
「遠野厩舎のやり方を、崩す気はありませんよ」
「そうじゃねえ。俺が言ったのは、お前の弟子とやらのことさ」
遠野は、そう言い残して、厩舎の中へと入っていった。十日前に心筋梗塞を起こし、今日の朝まで入院していたとは思わせない、矍鑠とした足取りだった。
ただ、本人にしかわからない衰えはあるのだろう。
数年前からなにかにつけ、天道に調教師になることを薦め、暗に自分の厩舎を継がせようとしていたのだ。
天道が、遠野の意を受け、調教師になる決心をつけたのは、あいと出会ったからだった。
騎手となったあいの隣で、レースに臨むには、調教助手のままでは役不足だった。
調教助手でも、競走馬の調教には携われるが、馬主の意向を受けとめ、騎手とも意見交換して調教の方針を決めるのは、調教師でなければできないことだ。
「にしても、まさか、凱旋門賞と言い出すとはね」
ついさっき聞かされたあいの宣言に、天道は苦笑いをこぼした。
聞いた瞬間、あいが、ロンシャン競馬場の芝を馬と駈ける様を、想像してしまった。コース沿いに建つ石造りの風車の前を、颯爽と駈け抜けていた。
「未練だな」
あいに、自分がかつて抱いていた夢を、背負わせるつもりはなかった。騎手である自分は、すでに死んだのだ。
それでも、生きている。その実感がある。
あいに生き返らされのだ、と天道は思った。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる