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第5話
師弟と日本ダービー ⑧
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天道は、携帯端末の電源を切り、夜空で瞬く星を見上げた。
馬の寝藁の匂いが、ほのかにしていた。
関西で競走馬を飼育、調教する、御園トレーニングセンターにある、厩舎の前だった。
清潔は保たれており、糞尿の匂いはほとんど気にならない。
天道が調教助手として赴任した当時は、築年数五十年を超える古びた厩舎が建っていたが、三年前に建て直され、現代風の外観になった。
変わったのは見た目だけでなかった。
近年の猛暑で馬が体調を崩さないよう、屋根を二重構造にし、冷房が馬体に直接当たらない工夫がなされていた。
また、馬が寝返りを打つ際に、脚をひっかけて利用する壁の横木なども、形状にひと手間が加えられており、噛み癖のある馬のために材質は樫を選んであった。
他にも、随所に馬のことを考えた工夫が施された、築浅の厩舎を、改めて真正面に見つめた。
「ここが、俺の厩舎にね」
呟いていた。
「おい、あと一年は、ここは俺のもんだぜ」
振り向くと、薄手のジャンパーを羽織った調教師の遠野が歩いてきた。
「遠野さん、夜の見廻りですか。そういうの、俺らに任せてくれていいんですよ」
「今更言うな。俺の性分だ、知ってるだろう」
厩舎の前で、遠野と肩を並べた。
「電話してたのか?」
「ええ。弟子に、調教師になった報告をしようと。ま、言いそびれちゃいましたけど」
「例の子どもか。俺が散々調教師の認定試験を受けろと言っても、聞かなかったくせに。小娘に簡単にほだされやがって」
「そんなんじゃありませんがね。ただ実際、厩務実習で色々と仕込もうと思ったら、調教師になっておいた方が都合がよかったってのは、確かですね」
「実習は、二年の八月からだものな。確かに、その頃にはここは天道厩舎さ」
「感謝してますよ。すぐに厩舎の受け持ちが決まったの、遠野さんが俺を後任に推薦してくれたって聞きました」
「候補の中じゃ、お前が一番マシだったってだけさ」
「遠野さんの下で鍛えられましたから」
「ふん。精々、楽しみにしとくよ」
「遠野厩舎のやり方を、崩す気はありませんよ」
「そうじゃねえ。俺が言ったのは、お前の弟子とやらのことさ」
遠野は、そう言い残して、厩舎の中へと入っていった。十日前に心筋梗塞を起こし、今日の朝まで入院していたとは思わせない、矍鑠とした足取りだった。
ただ、本人にしかわからない衰えはあるのだろう。
数年前からなにかにつけ、天道に調教師になることを薦め、暗に自分の厩舎を継がせようとしていたのだ。
天道が、遠野の意を受け、調教師になる決心をつけたのは、あいと出会ったからだった。
騎手となったあいの隣で、レースに臨むには、調教助手のままでは役不足だった。
調教助手でも、競走馬の調教には携われるが、馬主の意向を受けとめ、騎手とも意見交換して調教の方針を決めるのは、調教師でなければできないことだ。
「にしても、まさか、凱旋門賞と言い出すとはね」
ついさっき聞かされたあいの宣言に、天道は苦笑いをこぼした。
聞いた瞬間、あいが、ロンシャン競馬場の芝を馬と駈ける様を、想像してしまった。コース沿いに建つ石造りの風車の前を、颯爽と駈け抜けていた。
「未練だな」
あいに、自分がかつて抱いていた夢を、背負わせるつもりはなかった。騎手である自分は、すでに死んだのだ。
それでも、生きている。その実感がある。
あいに生き返らされのだ、と天道は思った。
馬の寝藁の匂いが、ほのかにしていた。
関西で競走馬を飼育、調教する、御園トレーニングセンターにある、厩舎の前だった。
清潔は保たれており、糞尿の匂いはほとんど気にならない。
天道が調教助手として赴任した当時は、築年数五十年を超える古びた厩舎が建っていたが、三年前に建て直され、現代風の外観になった。
変わったのは見た目だけでなかった。
近年の猛暑で馬が体調を崩さないよう、屋根を二重構造にし、冷房が馬体に直接当たらない工夫がなされていた。
また、馬が寝返りを打つ際に、脚をひっかけて利用する壁の横木なども、形状にひと手間が加えられており、噛み癖のある馬のために材質は樫を選んであった。
他にも、随所に馬のことを考えた工夫が施された、築浅の厩舎を、改めて真正面に見つめた。
「ここが、俺の厩舎にね」
呟いていた。
「おい、あと一年は、ここは俺のもんだぜ」
振り向くと、薄手のジャンパーを羽織った調教師の遠野が歩いてきた。
「遠野さん、夜の見廻りですか。そういうの、俺らに任せてくれていいんですよ」
「今更言うな。俺の性分だ、知ってるだろう」
厩舎の前で、遠野と肩を並べた。
「電話してたのか?」
「ええ。弟子に、調教師になった報告をしようと。ま、言いそびれちゃいましたけど」
「例の子どもか。俺が散々調教師の認定試験を受けろと言っても、聞かなかったくせに。小娘に簡単にほだされやがって」
「そんなんじゃありませんがね。ただ実際、厩務実習で色々と仕込もうと思ったら、調教師になっておいた方が都合がよかったってのは、確かですね」
「実習は、二年の八月からだものな。確かに、その頃にはここは天道厩舎さ」
「感謝してますよ。すぐに厩舎の受け持ちが決まったの、遠野さんが俺を後任に推薦してくれたって聞きました」
「候補の中じゃ、お前が一番マシだったってだけさ」
「遠野さんの下で鍛えられましたから」
「ふん。精々、楽しみにしとくよ」
「遠野厩舎のやり方を、崩す気はありませんよ」
「そうじゃねえ。俺が言ったのは、お前の弟子とやらのことさ」
遠野は、そう言い残して、厩舎の中へと入っていった。十日前に心筋梗塞を起こし、今日の朝まで入院していたとは思わせない、矍鑠とした足取りだった。
ただ、本人にしかわからない衰えはあるのだろう。
数年前からなにかにつけ、天道に調教師になることを薦め、暗に自分の厩舎を継がせようとしていたのだ。
天道が、遠野の意を受け、調教師になる決心をつけたのは、あいと出会ったからだった。
騎手となったあいの隣で、レースに臨むには、調教助手のままでは役不足だった。
調教助手でも、競走馬の調教には携われるが、馬主の意向を受けとめ、騎手とも意見交換して調教の方針を決めるのは、調教師でなければできないことだ。
「にしても、まさか、凱旋門賞と言い出すとはね」
ついさっき聞かされたあいの宣言に、天道は苦笑いをこぼした。
聞いた瞬間、あいが、ロンシャン競馬場の芝を馬と駈ける様を、想像してしまった。コース沿いに建つ石造りの風車の前を、颯爽と駈け抜けていた。
「未練だな」
あいに、自分がかつて抱いていた夢を、背負わせるつもりはなかった。騎手である自分は、すでに死んだのだ。
それでも、生きている。その実感がある。
あいに生き返らされのだ、と天道は思った。
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