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第6話
先輩と蹄鉄
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あいは、目を回していた。
「競馬法に、競馬法施行規則、中央競馬会法に、会法施行令と会法施行規約、あと、あと」
学科の座学で、競馬にまつわる法律関連の授業終わりだった。
教本には、授業中に重要だと言われた部分にマーカーを引いてあるが、引きすぎて、もはやどこが重要か見分けはつかなかった。
「そうだ、今度、英会話の小テストをするから、前回の授業内容を多少復習しておくように」
言って、社会科や英会話などの一般教養を担当する教官は教室を出て行った。
「え、英会話もっ」
あいの頭から、笛吹きケトルのごとく蒸気が吹きあがる。
「はぁ、まじかよ。なんで競馬学校まで来て英語の勉強しなきゃならねえんだ」
「愚痴るなよ、大矢。騎手だって海外の行き来が増えてるんだ。英会話ができるに越したことはない」
あいの席の後ろで、正士郎が澄まし声で言った。
「そりゃあ、そうだろうけどよ」
「全部をいっぺんに考えようとするから、混乱するんだ。自分の課題はなにか、その課題を解決するために必要なことはなにか。物事に優先順位をつけていけばいい」
「俺の場合は、やっぱ足腰だな。よし、今日も木馬で自主練しよっと」
「お前の場合、少し頭も鍛えた方がいいと、僕は思うけど、まぁ好きにしなよ」
「一緒にどうだ、正士郎?」
「いや、僕は遠慮するよ。下半身のトレーニングは昨日やったばかりだから、今日は上半身のウェイトトレーニングに充てるよ」
「そっか」
正士郎が教室を出て行くと、大矢は前の席で茹っているあいの背を、気まぐれにペンの先で突っついた。
「へい、藤刀隊長、この後木馬でトレーニングしようと思ってんだけど、一緒にどうよ」
「大矢君、その呼び方やめてよ」
先日、学校からバスで十五分ほどの場所にある、海上自衛隊の航空基地を見学するという校外学習があった。
そこで案内役を務めた広報課員が、海自幹部のあいの父と面識があり、見学中に呼び止められ、個人的に挨拶を交わしたのだ。
その一部始終を見聞きしていたらしい大矢は、それからあいを冗談混じりに隊長と呼んでくるのだった。
「隊長だって、入学したばっかの頃、俺と会う度に、やたら南無南無って祈ってきただろ。あれ、けっこう怖かったんだぜ?」
「あ、あれは、大矢君、というか、大矢君の弟さんのおかげで、二次試験の個人面接を切り抜けられたから、感謝の念でつい」
個人面接での無茶な問答は、切羽詰まった状況でも思考し続けられる人間かどうかを見る、小早川なりの狙いがあったのだろうと、試験後に天道から聞かされた。
一次試験の集団面接で大矢の弟と同じグループだったおかげで、あいは小早川の質問に答えられたのだ。
「その話、前にも聞いたけど、小早川先生おっかなすぎるぜ。俺の面接担当、小早川先生じゃなくてほんとよかったよ」
大矢は大仰に身震いする仕草をした。
「ま、それはそれとして、どうよ、木馬トレーニング、隊長も一緒にやらね?」
「い、いいけど、勉強の方はいい、の?」
「正士郎が優先順位って話してただろ。いま俺たちに一番必要なこと、イコール、フィジカルじゃんよ」
「大矢君は、十分フィジカルあると思うけど」
大矢はともかく、あいがフィジカルに課題を抱えているのは確かだった。
午後の厩舎作業でサファイアとオハナの世話を終え、夕食を摂ってから、あいは大矢と、大矢が誘ったもう一人の同期を含めた三人で、本館に向かった。
騎乗トレーニング用の木馬は、男子寮にも置かれているらしいが、本館より数は少なく、先輩が優先であるのが暗黙の了解なのだという。
モンキー乗りとも呼ばれる競走姿勢で木馬に跨り、トレーニングをはじめると、大矢がもう一人の同期と、先輩への愚痴を言いはじめた。
「男子の先輩って、厳しいんだ、ね。こっちの先輩は、あんまり、そういうの、ない、かな」
入学初日に加奈恵が仲を取り持ってくれたこともあり、あいと先輩との関係は悪くなかった。
あいは競走姿勢を保ちつつ、全身でリズムを取った。同時に、手綱を絞る動作を繰り返す。二十秒をワンセットとし、十回もやると息が上がり、会話する余裕はなくなった。
「女子寮は平和そうだな。俺らなんて、週一の寮の掃除で、担当箇所にちょっと埃とか拭き残しがあるだけで、呼び出されて説教されるんだぜ?」
「大矢は、しょっちゅう呼び出されてるよな」
同期の一人が気の毒そうに言い、苦しくなったのか、騎乗の体勢を解いた。
大矢は一人、負荷の大きい青色の木馬を使っているが、まだかなり余力がありそうだった。やはり、体力は同期の中で大矢がずば抜けている。
負けたくない。
あいが大矢に対抗心を燃やし、木馬トレーニングを続けようとすると、部屋に三人の男子の先輩が入って来た。
「おつかれさまです」
「おう。悪いけど、そこ、俺と替わってくれる?」
先輩の一人が、一学年の挨拶に手だけで返し、あいが乗っている壁際の木馬の前まで来て言った。
「え、ここ、ですか?」
あいは、ちらりと先輩の後ろに目をやった。他にも、空いている木馬はある。わざわざ、自分と替わる必要があるのか。
「先輩、木馬なら、こっちが空いてるじゃないですか」
大矢が、困惑するあいの心中を代弁した。
先輩が、不快そうに眉根を寄せた。老け顔なうえに眉の薄い強面で、坊主頭であることも相まって、出所したてのやくざのような貫禄がある。
「俺は、そこが一番集中してトレーニングに打ち込めるんだ」
「なんすか、それ。そんな理由で、いま使ってる藤刀《ふじわき》を降ろそうってんですか」
「おい、大矢、よせよ」
止めに入ろうとした同期を、大矢は押し返した。おそらくだが、大矢をよく呼び出して叱っている先輩というのは、目の前の人なのかもしれない、とあいは思った。
「大矢君、いいよ、私は別の木馬でもいいから」
あいは大矢が先輩とこれ以上拗れる前に、木馬から降りようとした。
「そうそう、後輩は、先輩の言うことに素直に従ってりゃいいんだよ」
別の先輩が言い、大矢が、ぎりっと歯噛みするのがわかった。
それで、早く降りようとしたことが、かえって仇となった。片足が鐙にひっかかり、あいは木馬の上でバランスを崩した。
「わ、わわわ」
そのまま、先輩の立っている方へよろめき、咄嗟に平手を突き出した。ちょうど手刀のかたちをしたその平手が、したたかに、先輩のこめかみに直撃した。
「い、ってぇ」
「あ、あわわわわわ」
怒りで肩を戦慄かせる先輩の後ろで、大矢が堪えきれず笑い出した。
「ナイス、隊長」
「あ、あの、わざとじゃなくて」
「お前ら二人、話がある。今から部屋に来い」
地の底から響いてくるような先輩の低い声に、あいの全身から血の気が引いた。
「競馬法に、競馬法施行規則、中央競馬会法に、会法施行令と会法施行規約、あと、あと」
学科の座学で、競馬にまつわる法律関連の授業終わりだった。
教本には、授業中に重要だと言われた部分にマーカーを引いてあるが、引きすぎて、もはやどこが重要か見分けはつかなかった。
「そうだ、今度、英会話の小テストをするから、前回の授業内容を多少復習しておくように」
言って、社会科や英会話などの一般教養を担当する教官は教室を出て行った。
「え、英会話もっ」
あいの頭から、笛吹きケトルのごとく蒸気が吹きあがる。
「はぁ、まじかよ。なんで競馬学校まで来て英語の勉強しなきゃならねえんだ」
「愚痴るなよ、大矢。騎手だって海外の行き来が増えてるんだ。英会話ができるに越したことはない」
あいの席の後ろで、正士郎が澄まし声で言った。
「そりゃあ、そうだろうけどよ」
「全部をいっぺんに考えようとするから、混乱するんだ。自分の課題はなにか、その課題を解決するために必要なことはなにか。物事に優先順位をつけていけばいい」
「俺の場合は、やっぱ足腰だな。よし、今日も木馬で自主練しよっと」
「お前の場合、少し頭も鍛えた方がいいと、僕は思うけど、まぁ好きにしなよ」
「一緒にどうだ、正士郎?」
「いや、僕は遠慮するよ。下半身のトレーニングは昨日やったばかりだから、今日は上半身のウェイトトレーニングに充てるよ」
「そっか」
正士郎が教室を出て行くと、大矢は前の席で茹っているあいの背を、気まぐれにペンの先で突っついた。
「へい、藤刀隊長、この後木馬でトレーニングしようと思ってんだけど、一緒にどうよ」
「大矢君、その呼び方やめてよ」
先日、学校からバスで十五分ほどの場所にある、海上自衛隊の航空基地を見学するという校外学習があった。
そこで案内役を務めた広報課員が、海自幹部のあいの父と面識があり、見学中に呼び止められ、個人的に挨拶を交わしたのだ。
その一部始終を見聞きしていたらしい大矢は、それからあいを冗談混じりに隊長と呼んでくるのだった。
「隊長だって、入学したばっかの頃、俺と会う度に、やたら南無南無って祈ってきただろ。あれ、けっこう怖かったんだぜ?」
「あ、あれは、大矢君、というか、大矢君の弟さんのおかげで、二次試験の個人面接を切り抜けられたから、感謝の念でつい」
個人面接での無茶な問答は、切羽詰まった状況でも思考し続けられる人間かどうかを見る、小早川なりの狙いがあったのだろうと、試験後に天道から聞かされた。
一次試験の集団面接で大矢の弟と同じグループだったおかげで、あいは小早川の質問に答えられたのだ。
「その話、前にも聞いたけど、小早川先生おっかなすぎるぜ。俺の面接担当、小早川先生じゃなくてほんとよかったよ」
大矢は大仰に身震いする仕草をした。
「ま、それはそれとして、どうよ、木馬トレーニング、隊長も一緒にやらね?」
「い、いいけど、勉強の方はいい、の?」
「正士郎が優先順位って話してただろ。いま俺たちに一番必要なこと、イコール、フィジカルじゃんよ」
「大矢君は、十分フィジカルあると思うけど」
大矢はともかく、あいがフィジカルに課題を抱えているのは確かだった。
午後の厩舎作業でサファイアとオハナの世話を終え、夕食を摂ってから、あいは大矢と、大矢が誘ったもう一人の同期を含めた三人で、本館に向かった。
騎乗トレーニング用の木馬は、男子寮にも置かれているらしいが、本館より数は少なく、先輩が優先であるのが暗黙の了解なのだという。
モンキー乗りとも呼ばれる競走姿勢で木馬に跨り、トレーニングをはじめると、大矢がもう一人の同期と、先輩への愚痴を言いはじめた。
「男子の先輩って、厳しいんだ、ね。こっちの先輩は、あんまり、そういうの、ない、かな」
入学初日に加奈恵が仲を取り持ってくれたこともあり、あいと先輩との関係は悪くなかった。
あいは競走姿勢を保ちつつ、全身でリズムを取った。同時に、手綱を絞る動作を繰り返す。二十秒をワンセットとし、十回もやると息が上がり、会話する余裕はなくなった。
「女子寮は平和そうだな。俺らなんて、週一の寮の掃除で、担当箇所にちょっと埃とか拭き残しがあるだけで、呼び出されて説教されるんだぜ?」
「大矢は、しょっちゅう呼び出されてるよな」
同期の一人が気の毒そうに言い、苦しくなったのか、騎乗の体勢を解いた。
大矢は一人、負荷の大きい青色の木馬を使っているが、まだかなり余力がありそうだった。やはり、体力は同期の中で大矢がずば抜けている。
負けたくない。
あいが大矢に対抗心を燃やし、木馬トレーニングを続けようとすると、部屋に三人の男子の先輩が入って来た。
「おつかれさまです」
「おう。悪いけど、そこ、俺と替わってくれる?」
先輩の一人が、一学年の挨拶に手だけで返し、あいが乗っている壁際の木馬の前まで来て言った。
「え、ここ、ですか?」
あいは、ちらりと先輩の後ろに目をやった。他にも、空いている木馬はある。わざわざ、自分と替わる必要があるのか。
「先輩、木馬なら、こっちが空いてるじゃないですか」
大矢が、困惑するあいの心中を代弁した。
先輩が、不快そうに眉根を寄せた。老け顔なうえに眉の薄い強面で、坊主頭であることも相まって、出所したてのやくざのような貫禄がある。
「俺は、そこが一番集中してトレーニングに打ち込めるんだ」
「なんすか、それ。そんな理由で、いま使ってる藤刀《ふじわき》を降ろそうってんですか」
「おい、大矢、よせよ」
止めに入ろうとした同期を、大矢は押し返した。おそらくだが、大矢をよく呼び出して叱っている先輩というのは、目の前の人なのかもしれない、とあいは思った。
「大矢君、いいよ、私は別の木馬でもいいから」
あいは大矢が先輩とこれ以上拗れる前に、木馬から降りようとした。
「そうそう、後輩は、先輩の言うことに素直に従ってりゃいいんだよ」
別の先輩が言い、大矢が、ぎりっと歯噛みするのがわかった。
それで、早く降りようとしたことが、かえって仇となった。片足が鐙にひっかかり、あいは木馬の上でバランスを崩した。
「わ、わわわ」
そのまま、先輩の立っている方へよろめき、咄嗟に平手を突き出した。ちょうど手刀のかたちをしたその平手が、したたかに、先輩のこめかみに直撃した。
「い、ってぇ」
「あ、あわわわわわ」
怒りで肩を戦慄かせる先輩の後ろで、大矢が堪えきれず笑い出した。
「ナイス、隊長」
「あ、あの、わざとじゃなくて」
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