Ms.ジョッキー 〜落ちこぼれ少女、騎手になる〜

井ノ上

文字の大きさ
35 / 43
第6話

先輩と蹄鉄 ③

しおりを挟む
 保護者参観の日だった。
 あいはオハナに跨り、他の同期と、覆馬場おおいばばで隊列を組んで走行した。
 保護者は馬場と窓ガラスで仕切られた観覧席に居並び、携帯端末のカメラを構えたりしている。
 隊列走行のあとは、障害飛越だった。
 母の視線が気になった。心配そうな顔をしている。馬郷うまごうに通っていた頃、綾に乗っている姿は、何度も見てもらっていた。
 しかし、あいと綾が姉妹同然の仲で、綾があいに危害を加えるような行動は絶対にとらないことは、母も承知していた。
 その点、鞍を乗せ、頭絡とうらくを締めた綾とは別の馬に跨り、障害に挑もうとする一人娘の姿は、はらはらとするのだろう。
 家を出て、加奈恵などと家族の話をするうちに気づいたことだが、母は過保護気味らしかった。
 そうと気付くと、思い当たる節は色々とあった。まだ幼児であったあいがなにかするにも、すぐ手を貸してしまって、よく父に諫められたものだ、という話を、母からちらりと聞いたこともあった。
 その話をすると、加奈恵は、あいが不器用なのはそれが原因でもあるのでは、と言いさしたが、あいはそうは思わなかった。
 仮に、そうであったとしても、母を責める気はない。それも含めて、自分の人生がある、と思うだけだ。
 訓練を終え、厩舎の前に戻ると、馬を交えて家族と過ごす時間が与えられた。
 あいは母に、オハナと、馬房から顔を覗かせているサファイアジャケットを紹介した。
 他の同期も、ほとんどが学校で世話をしている馬の話をしている。
「母さん、体調は悪くない? 今日は陽射しが強いし、あまり外にいない方が」
 正士郎が、正士郎らしからぬ気忙しさで、母親と話しているのが聞こえてきた。
 視線を向けると、正士郎の担当馬は厩舎前の洗い場に繋がれている。
 その前にいる、色白ではかなげな雰囲気のある女性が、正士郎の母親のようだ。
「これぐらい平気よ」
「いや、少し顔色が悪いよ。だから、来なくていいって言っておいたのに」
「ふふ、心配し過ぎよ。最近は、近所の公園まで散歩に出かけたりしているのよ。それより、正士郎の騎乗が見られて、感動しちゃったわ」
「大袈裟な。乗馬クラブに通っていた頃にも、何度か見てるじゃないか」
「そうね。でも、競走馬に乗っているのを見たのは、はじめてだわ。デビュー戦のときのお父さんを、思い出したわ」
「そう、それは、よかったよ」
 正士郎は、微笑する母親から視線を逸らした。
 諏訪母子のやり取りを何気なく聞いていたあいと、正士郎の目が合った。
 正士郎の瞳。冷たい、海の底のような暗さを湛えていた。そこにあるのは、哀しみか。
 あいは、咄嗟にどう反応すればいいかわからず、戸惑った。
 横木に繋がれている正士郎の担当馬が、正士郎の波立った気持ちを汲んだように、顔をすり寄せた。
 正士郎はあいから視線を切り、母との会話に戻った。
 翌日から、夏季期間がはじまった。
 夜明けと日没の時間に合わせ、起床時間と就寝時間がそれぞれ一時間早まる。
 それだけでなく、日中の暑い時間の訓練を避けるため、早朝の厩舎作業と訓練の時間が入れ替えられた。
 あいの起床に少し遅れて、時間をセットし直した目覚まし時計が鳴り響いた。
「おはようさん。はぁ、今日からしばらく四時起きやなぁ」
「おはよう。加奈恵が朝に眠そうなの、珍しい」
「さすがにな。家で家畜の世話の手伝いしとった時も、ここまで早起きはしとらんかったし。オトンらは、夜明け前から起きて働いとったけど。にしても、あいは全然平気そうやな」
「うん、早起きは得意だから」
「ウチもはやく慣れな。うっし、いっちょ気合入れて、今日も厩舎作業に行くとするか」
 加奈恵はぱちりと両手で頬を打ち、気合を注入した。
 朝の検量を済ませ、厩舎へ行くと、正士郎と大矢が先に作業をはじめていた。
 今日は休養日だったが、訓練はなくとも馬の世話は毎日ある。
 挨拶を交わし、あいもステーブルフォークを取り、オハナの馬房から寝藁の取り換えにかかった。
 昨日、母親と話していた正士郎が垣間見せた瞳が忘れられなかった。かといって、本人に尋ねるのも憚られた。
 正士郎と仲がいい大矢なら、なにか知っているのかもしれないが、詮索がましいことはしたくなかった。
 飼葉桶に飼料をやると、正士郎はさっさと帰ってしまった。
 サファイアが、馬房から首を出し、あいのジャージの肩口を食んできた。
「ん、散歩に出たいの? いいよ、朝食のあとに行こうか」
 休養日で、朝の作業を終えれば予定はなかった。
 同期には休養日に街へ出かけて気分転換をする人もいたが、あいにとっては、馬と過ごす以上に楽しく、心落ち着く時間はなかった。
 あいは食堂で朝食を摂ってから、厩舎に戻った。
 頭絡だけして手綱を曳き、サファイアと並んで校内を歩いた。
 サファイアが、背に乗れ、というように首を上下させてきた。
「今日は散歩だけ。ほんとは私も乗りたいけど、ごめんね、学校では鞍なしで乗るのは駄目って言われちゃってるから」
 不慮の事故を防止するため、教官の目の届かないところでの騎乗は禁止されていた。
 馬場と馬場の間に広がる放牧地へ行き、しばらくまったりとした。
 青々と茂る夏草の中に、蒲公英が咲いていた。寝っ転がっているサファイアの鼻先に、天道虫が登ってきた。サファイアが、盛大にくしゃみをする。
「あはは、くすぐったかった?」
 天道虫はくしゃみの勢いで吹き飛ばされていった。
 雲が流れていく。湿った風が吹いていた。
 陽射しが出、気温が高くなる前に、厩舎に戻った。
 サファイアに水を与え、あいは装蹄所を覗いてみようと思いついた。
 厩務員課程生である加奈恵が、先日行われた装蹄の授業で、蹄鉄作りに興味を持ったらしかった。
 教官にそれを伝えると、校内の装蹄所で、古くなった蹄鉄を修繕したり、溶かして造り直したりする日どりを教えてもらったのだという。
 その内の一つが今日で、見学に行くと言っていたのを、思い出したのだ。
「まだ加奈恵いるかな?」
 装蹄所は校内の北西、本館の裏手にある雑木林と、汚水処理施設の間にある道を行った先にある。
 騎手課程はむろん、厩務員課程の学生も、普段はほとんど寄り付かない場所だった。
 あいがそちらへ歩いていくと、汚水処理施設を囲うフェンスに背を預け、電話している先輩の姿があった。
「あれは、志摩先輩?」
 わざわざ人気のない場所を選び、誰かと親密に話し込んでいる気配だった。
 装蹄所へは志摩の前を横切らなければ行けないが、近づくのは迷惑だろうか。
「いつも励ましてくれてありがとう。愛してるよ、沙耶」
 道の半ばで右往左往していると、志摩が言うのが聞こえてきた。
 あいはつい狼狽え、慌ててその場を離れようとして、落ちていた雑木林の折れた小枝に足を取られてつんのめった。
 その拍子にあげた声を聞きつけ、志摩が携帯端末を片手に振り向いた。
「君は、藤刀さん?」
「こ、こここ、こんにちは」
「もしかして聞かれちゃったかな」
「す、すみません」
 志摩は、ばつが悪そうに苦笑し、一旦恋人らしき人に断って通話を切った。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

とある男の包〇治療体験記

moz34
エッセイ・ノンフィクション
手術の体験記

性別交換ノート

廣瀬純七
ファンタジー
性別を交換できるノートを手に入れた高校生の山本渚の物語

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-

ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

処理中です...