Ms.ジョッキー 〜落ちこぼれ少女、騎手になる〜

井ノ上

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第6話

先輩と蹄鉄 ③

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 保護者参観の日だった。
 あいはオハナに跨り、他の同期と、覆馬場おおいばばで隊列を組んで走行した。
 保護者は馬場と窓ガラスで仕切られた観覧席に居並び、携帯端末のカメラを構えたりしている。
 隊列走行のあとは、障害飛越だった。
 母の視線が気になった。心配そうな顔をしている。馬郷うまごうに通っていた頃、綾に乗っている姿は、何度も見てもらっていた。
 しかし、あいと綾が姉妹同然の仲で、綾があいに危害を加えるような行動は絶対にとらないことは、母も承知していた。
 その点、鞍を乗せ、頭絡とうらくを締めた綾とは別の馬に跨り、障害に挑もうとする一人娘の姿は、はらはらとするのだろう。
 家を出て、加奈恵などと家族の話をするうちに気づいたことだが、母は過保護気味らしかった。
 そうと気付くと、思い当たる節は色々とあった。まだ幼児であったあいがなにかするにも、すぐ手を貸してしまって、よく父に諫められたものだ、という話を、母からちらりと聞いたこともあった。
 その話をすると、加奈恵は、あいが不器用なのはそれが原因でもあるのでは、と言いさしたが、あいはそうは思わなかった。
 仮に、そうであったとしても、母を責める気はない。それも含めて、自分の人生がある、と思うだけだ。
 訓練を終え、厩舎の前に戻ると、馬を交えて家族と過ごす時間が与えられた。
 あいは母に、オハナと、馬房から顔を覗かせているサファイアジャケットを紹介した。
 他の同期も、ほとんどが学校で世話をしている馬の話をしている。
「母さん、体調は悪くない? 今日は陽射しが強いし、あまり外にいない方が」
 正士郎が、正士郎らしからぬ気忙しさで、母親と話しているのが聞こえてきた。
 視線を向けると、正士郎の担当馬は厩舎前の洗い場に繋がれている。
 その前にいる、色白ではかなげな雰囲気のある女性が、正士郎の母親のようだ。
「これぐらい平気よ」
「いや、少し顔色が悪いよ。だから、来なくていいって言っておいたのに」
「ふふ、心配し過ぎよ。最近は、近所の公園まで散歩に出かけたりしているのよ。それより、正士郎の騎乗が見られて、感動しちゃったわ」
「大袈裟な。乗馬クラブに通っていた頃にも、何度か見てるじゃないか」
「そうね。でも、競走馬に乗っているのを見たのは、はじめてだわ。デビュー戦のときのお父さんを、思い出したわ」
「そう、それは、よかったよ」
 正士郎は、微笑する母親から視線を逸らした。
 諏訪母子のやり取りを何気なく聞いていたあいと、正士郎の目が合った。
 正士郎の瞳。冷たい、海の底のような暗さを湛えていた。そこにあるのは、哀しみか。
 あいは、咄嗟にどう反応すればいいかわからず、戸惑った。
 横木に繋がれている正士郎の担当馬が、正士郎の波立った気持ちを汲んだように、顔をすり寄せた。
 正士郎はあいから視線を切り、母との会話に戻った。
 翌日から、夏季期間がはじまった。
 夜明けと日没の時間に合わせ、起床時間と就寝時間がそれぞれ一時間早まる。
 それだけでなく、日中の暑い時間の訓練を避けるため、早朝の厩舎作業と訓練の時間が入れ替えられた。
 あいの起床に少し遅れて、時間をセットし直した目覚まし時計が鳴り響いた。
「おはようさん。はぁ、今日からしばらく四時起きやなぁ」
「おはよう。加奈恵が朝に眠そうなの、珍しい」
「さすがにな。家で家畜の世話の手伝いしとった時も、ここまで早起きはしとらんかったし。オトンらは、夜明け前から起きて働いとったけど。にしても、あいは全然平気そうやな」
「うん、早起きは得意だから」
「ウチもはやく慣れな。うっし、いっちょ気合入れて、今日も厩舎作業に行くとするか」
 加奈恵はぱちりと両手で頬を打ち、気合を注入した。
 朝の検量を済ませ、厩舎へ行くと、正士郎と大矢が先に作業をはじめていた。
 今日は休養日だったが、訓練はなくとも馬の世話は毎日ある。
 挨拶を交わし、あいもステーブルフォークを取り、オハナの馬房から寝藁の取り換えにかかった。
 昨日、母親と話していた正士郎が垣間見せた瞳が忘れられなかった。かといって、本人に尋ねるのも憚られた。
 正士郎と仲がいい大矢なら、なにか知っているのかもしれないが、詮索がましいことはしたくなかった。
 飼葉桶に飼料をやると、正士郎はさっさと帰ってしまった。
 サファイアが、馬房から首を出し、あいのジャージの肩口を食んできた。
「ん、散歩に出たいの? いいよ、朝食のあとに行こうか」
 休養日で、朝の作業を終えれば予定はなかった。
 同期には休養日に街へ出かけて気分転換をする人もいたが、あいにとっては、馬と過ごす以上に楽しく、心落ち着く時間はなかった。
 あいは食堂で朝食を摂ってから、厩舎に戻った。
 頭絡だけして手綱を曳き、サファイアと並んで校内を歩いた。
 サファイアが、背に乗れ、というように首を上下させてきた。
「今日は散歩だけ。ほんとは私も乗りたいけど、ごめんね、学校では鞍なしで乗るのは駄目って言われちゃってるから」
 不慮の事故を防止するため、教官の目の届かないところでの騎乗は禁止されていた。
 馬場と馬場の間に広がる放牧地へ行き、しばらくまったりとした。
 青々と茂る夏草の中に、蒲公英が咲いていた。寝っ転がっているサファイアの鼻先に、天道虫が登ってきた。サファイアが、盛大にくしゃみをする。
「あはは、くすぐったかった?」
 天道虫はくしゃみの勢いで吹き飛ばされていった。
 雲が流れていく。湿った風が吹いていた。
 陽射しが出、気温が高くなる前に、厩舎に戻った。
 サファイアに水を与え、あいは装蹄所を覗いてみようと思いついた。
 厩務員課程生である加奈恵が、先日行われた装蹄の授業で、蹄鉄作りに興味を持ったらしかった。
 教官にそれを伝えると、校内の装蹄所で、古くなった蹄鉄を修繕したり、溶かして造り直したりする日どりを教えてもらったのだという。
 その内の一つが今日で、見学に行くと言っていたのを、思い出したのだ。
「まだ加奈恵いるかな?」
 装蹄所は校内の北西、本館の裏手にある雑木林と、汚水処理施設の間にある道を行った先にある。
 騎手課程はむろん、厩務員課程の学生も、普段はほとんど寄り付かない場所だった。
 あいがそちらへ歩いていくと、汚水処理施設を囲うフェンスに背を預け、電話している先輩の姿があった。
「あれは、志摩先輩?」
 わざわざ人気のない場所を選び、誰かと親密に話し込んでいる気配だった。
 装蹄所へは志摩の前を横切らなければ行けないが、近づくのは迷惑だろうか。
「いつも励ましてくれてありがとう。愛してるよ、沙耶」
 道の半ばで右往左往していると、志摩が言うのが聞こえてきた。
 あいはつい狼狽え、慌ててその場を離れようとして、落ちていた雑木林の折れた小枝に足を取られてつんのめった。
 その拍子にあげた声を聞きつけ、志摩が携帯端末を片手に振り向いた。
「君は、藤刀さん?」
「こ、こここ、こんにちは」
「もしかして聞かれちゃったかな」
「す、すみません」
 志摩は、ばつが悪そうに苦笑し、一旦恋人らしき人に断って通話を切った。
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