Ms.ジョッキー 〜落ちこぼれ少女、騎手になる〜

井ノ上

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第6話

先輩と蹄鉄 ④

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 志摩に誘われ、騎手課程男子寮と女子寮の間にある木陰へ来た。
 一度寮に戻った志摩が、一口大の焼き菓子を持ってきてくれた。
「装蹄所へ行く途中だったのに、付き合わせてしまって悪いね。お詫びと言ってはなんだけど」
「い、いえ。ありがとうございます」
 あいは礼を言って焼き菓子を受け取った。
 志摩が木の根もとに腰を下ろしたので、あいも隣に座った。
「前々から、藤刀さんと話してみたいと思っていたんだ」
「私と、ですか?」
「覚えていないだろうけど、二次試験の実技考査の時、俺は教官の手伝いであの場に居てね。
 驚いたよ。鞍をつけてない馬に乗って、あれだけ巧みな動きができる人が、受験者にいるんだってね」
「あ、あれは、誰にも怪我してほしくなくて、咄嗟に」
「確かに。人もそうだったけど、興奮して我を失っていた馬も、怪我しかねない状況だった」
「はい。そっか、志摩先輩も、あそこにいたんです、ね」
「ああ。だから、君のことは入学した時から知っていたんだ。ついでに、今年デビューした先輩、今春いまはるさんからも、来年面白い子が入って来ると聞かされていたんだ」
「零ちゃんから?」
「零ちゃん?」
「あ、あの、模擬レースを観戦できるチケットを貰って。試験の後に、零ちゃんから。それで、模擬レースの日に、たまたま会って話をして、花粉症だからって」
 志摩は、あいの要領を得ない話からも、経緯を汲み取ってくれた。
「なるほどな。そういえば、よくくしゃみをしていたな。でも、俺ら後輩や、彼女の同期の中で、名前呼びを許されてた人はいなかったよ。春を連想するだけでくしゃみがでる体質のことも、誰も知らなかったんじゃないかな」
「そ、そうなんですか?」
「それどころか、たぶん、後輩どころか同期の名前すら、彼女は憶えてなかったんじゃないかな」
「え?」
「眼中になかったんだ。つまり、藤刀さんは、今春さんに認められたんだろうな」
「零ちゃんが、私を」
 中山競馬場で零と約束したときのことを、あいは思い出していた。
 零は、あいがいる公開模擬レースに、自分も現役騎手の枠で参加するから、一緒に走ろうと言ってきた。
 あいがデビューするまで待ちきれない、といったふうで、まるでクリスマスを待ち遠しくする子どものような表情をしていた。
 あいも、早く零と馬を並べて競走してみたかった。
 だが、現状、それを実現するためには自分に足りないものが多すぎることも、自覚はしている。
「ちょっと、悔しいな。思えば、彼女は君が試験を合格していることを、学校が発表する前に確信していた」
 志摩が苦々しげに言った。
 あいは、なんと言っていいかわからず、話題を替えることにした。
「あの、さっき電話をしていた人って」
「ああ、そのお詫びもしないとね」
「お詫びなんて、そんな。あ、クッキー、美味しかった、です」
「よかった。カウボーイクッキーと言ってね、もう察しているとは思うけれど、さっきの電話相手、僕の恋人なんだが、彼女が差し入れに送って来てくれたんだ」
「え、私が食べちゃってよかったんですか」
「たくさんあったから気にしないで。同期とも分けたし、彼女もそのつもりだったろうしね」
 校門へと続く道の方から、人の話し声が近づいてきた。
 先日、あいと大矢を呼び出して叱った先輩が、同期の二、三人と、外出から戻って来たようだった。
 寮の入口で、強面な先輩があいと志摩に気づいたが、特に声をかけて来ることもなく、仲間と寮に入っていった。
「あの様子だと、お目当ての一番くじは当てられたみたいだな」
「え?」
「渋川さ。出所してきたやくざみたいな顔だけれど、あれで、アニメや漫画が好きでね。コンビニの一番くじで、好きな漫画のキャラクターのグッズが出ると知って、朝イチで出かけていたんだ」
「そ、そうだったんですね」
「俺は、実は一度ここの試験に落ちていてね」
 急に、志摩が言った。
 なんでもない口調のままだったので、あいは聞き間違いかと、一瞬疑いかけた。
「一年間、競馬学校を目指す学生のための予備校みたいな場所に通って、二度目の挑戦でなんとか、入学できたんだ」
「じゃあ、先輩は、私の二つ上、なんですね」
 なにか言わなければと思い、あいは、つまらないことを口にした。
 志摩は、ちょっと微笑んだだけで、話を続けた。
「彼女は、沙耶という名前なんだけれど、中学時代に付き合いはじめて、高校を卒業したら、栄養士の資格を取るために専門学校に進学すると言ってくれているんだ」
「それは、志摩先輩のために、ってことですか?」
 騎手として生きていく以上、体重管理は一生付きまとってくる問題だった。
 特に、志摩はすでに百六十近い身長があり、ここからさらに伸びると考えると、百七十を超えるかもしれない。いなくはないが、騎手では大柄な方だ。
 志摩の恋人は、ゆくゆくは食事の面で、騎手となった志摩を支えていこうと決意しているのか。
「両親も、俺が一度受験に失敗して、それでも諦めきれないからあと一度だけ挑戦したいと言った時に、なにも言わずに応援してくれた。
 入学してからも、一年遅れの俺を、同期のあいつらは快く受け入れてくれた」
 志摩が自分の周りにいる人間に感謝している気持ちが、幸運を噛みしめるような口調から、ひしひしと伝わってきた。
「俺は、幸運ラッキーなんだ。それだけの男でいたくはないから、せめて自分は、誰よりも自分に厳しくいよう、と心がけているつもりなんだけど。
 って、後輩の君に、なんでこんな話をしてるのかな」
「私も」
「ん?」
「私も、自分がすごいラッキーだと、思います。ここに来られたのは、色んなヒトに応援してもらって、助けてもらったおかげだから」
「似た者同士なのかな」
「す、すいません、知ったふうなこと言って」
「いや、嬉しいよ。今春先輩は、俺の一番身近な、憧れの人でね。その人に認められている君と、俺に共通点があるのなら、励みになる」
「そ、そんな。先輩の方が、私なんかより、ずっとずっとすごいです」
「藤刀さん、自分を卑下するものじゃないよ。自分を律することと、卑下することは違うし、自分を支えてくれている人がいると知っているなら、なおさらね」
 志摩の言葉に、あいは、はっとした。
 綾や両親、山南、天道。自分を蔑ろにするということは、自分を大切にしてくれているそういったヒトたちも、蔑ろにすることではないのか。
「気をつけます」
「お互い、これからも騎手を目指して頑張ろう」
 志摩が拳を差し出してきた。
 あいがどう返していいかわからないでいると、志摩は自分のもう片方の手で、拳と拳をつき合わせる仕草をした。
 あいも拳をつくり、志摩の拳と合わせた。すると、不思議と、心が通じ合った、という気がした。
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