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第6話
先輩と蹄鉄 ⑤
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志摩とゆっくり話した日の夕方、加奈恵は古い蹄鉄をいくつか持って帰って来た。
装蹄所を見学した帰りに、仲良くなった職人がいくつか譲ってくれたのだという。
蹄鉄は、ヨーロッパの方では魔除けのお守りとされているらしかった。
あいは、加奈恵から蹄鉄のお守りを一つ貰った。
他のものをどうするか、悩んでいたので、もう一つ分けてもらえないかと尋ねると、加奈恵がニタリと笑った。
「なんや、いい人でもできたんか?」
「いいひと?」
「好きな人、っちゅう意味や」
「そ、そそそ、そんなんじゃないよ」
志摩のことを考えていただけに、あいは狼狽した。
自分を卑下することは、自分を大切にしてくれている人に対して失礼なのだと、志摩は気づかせてくれた。
それに対する礼をしたい気持ちがあるだけで、けして恋愛感情はなかった。
「慌てるところが怪しいわぁ」
「か、からかわないで、加奈恵。ほら、もう夕食の時間だから、行こ」
「つれへんなぁ。たまにはこういう女子トークっぽいのもええやん」
「私、男の人を好きになったこととか、ないし、よくわかんないよ」
「ほーん。なら、ちなみにその蹄鉄は誰にあげるん?」
一学年上の男の先輩だと答えると、面倒なことになる予感がして、あいは返答をはぐらかした。
加奈恵と部屋を出て、食堂へ向かった。
厳密なルールがあるわけではないが、同じ食堂内であっても、食事は騎手課程生と厩務員課程生は別々にかたまって摂る。
食堂の入口で加奈恵とは一旦別れ、騎手課程の同期と合流した。
持ち回りで担当している配膳係が、先に来て食事の支度をしていた。今日の担当は大矢だった。
翌日からは、また訓練漬けの日々だった。
夏季期間になっている。起床、検量をして、軽食を摂ると、厩舎で馬の体調をチェックする。
それを終えると、鞍と頭絡を装着し、薄っすらと夜が明けていく空の下、馬場へ出て行って乗馬訓練を開始する。
日中、酷暑になることが少なくなく、学生や馬の健康面を配慮しての時間割だった。
その日は、前半は障害を加えた部班運動で、後半は馬を乗り替え、学生が個々の馬の特性を踏まえて考えたトレーニングメニューを行った。
この馬にはこういう癖やポテンシャルがあるため、それを伸ばすべく、こういう運動を行う、という草案を、あらかじめ教官には提出している。
教官はその草案に書き添えをして返却し、再度学生が手直しした内容を、個別トレーニングに採用するという手順だった。
訓練を終えると、しっかりとした量のある朝食を摂り、小休憩を挟んでから厩舎作業をする。
昼食以降の時間割は、就寝時間が一時間早いことを除けば、通常の週間と変わらなかった。
そうした中で、先輩である志摩と顔を合わせる機会は度々あるが、落ち着いて話す時間はなかなかとれなかった。
夜の自由時間、志摩は自室でも鍛えられる動体視力や反射神経のトレーニングに当てているらしかった。
あいにとっても自由時間は貴重で、少しでも自身の課題である筋力、持久力の向上を図りたかった。
そうして日々を過ごしている間に、二学年が厩舎実習へと出発する日が近づいてきた。
約一年間に及ぶ厩舎実習を終え、三学年が帰校した。
その五日後には、二学年が実習へ出て行く。全学年が揃い、学校内はにわかに活気が増した感じになった。
二学年が厩舎実習へ行く、二日前。二学年にとっては実習前の最後の休養日に、あいは志摩を校門前で呼び止めた。
志摩は、同期の仲間たちと、町へ外出するところだった。
「先にバス停に行っていてくれ、渋川」
「構わないが、もうあまり時間がないぞ」
「乗り遅れたら、一本あとのバスに乗っていくよ」
「それもそうか」
志摩は仲間を見送ってから、校門の手前で待っていたあいの方へ戻って来た。
「なにか用かな、藤刀さん」
「あ、あの、志摩先輩に渡したいものがあって。あの、これ」
あいは、蹄鉄を布袋に入れたまま渡した。
加奈恵に妙なことを言われたせいか。そんなつもりは微塵もないのに、まるで異性としても慕う先輩に告白する女子学生のように、どぎまぎとした。
「なんだろう。開けてもいい?」
「はい」
志摩が袋から蹄鉄を取り出した。赤茶色の錆が浮いた、傷だらけの蹄鉄である。
加奈恵が自分の蹄鉄を磨いて、綺麗にしていたことを思い出し、今更ながら、志摩への蹄鉄も綺麗に手入れしてから渡せばよかった、とあいは後悔した。
しかし、志摩は薄汚れた古い蹄鉄に慈しむような目を向け、それから、あいに視線を戻した。
「ありがとう。実を言うと、厩舎実習を無事やり切れるか、少し不安だったんだ。お守りに持っていくよ」
「は、はい。あの、私、もう絶対、自分なんてって言いません。考えないようにするのは、まだちょっと時間がかかるかもですけど、頑張りますっ」
あいが宣言すると、志摩はきょとんとしてから、くすりと笑った。その口元に、白い歯がちらりと覗いた。
「俺も、藤刀さんみたいに今春先輩に認めてもらえるよう、頑張るよ」
後日、志摩はあいが渡した蹄鉄のお守りを荷物の中に入れ、厩舎実習が行われる関東美駒トレーニングセンターへと出発した。
装蹄所を見学した帰りに、仲良くなった職人がいくつか譲ってくれたのだという。
蹄鉄は、ヨーロッパの方では魔除けのお守りとされているらしかった。
あいは、加奈恵から蹄鉄のお守りを一つ貰った。
他のものをどうするか、悩んでいたので、もう一つ分けてもらえないかと尋ねると、加奈恵がニタリと笑った。
「なんや、いい人でもできたんか?」
「いいひと?」
「好きな人、っちゅう意味や」
「そ、そそそ、そんなんじゃないよ」
志摩のことを考えていただけに、あいは狼狽した。
自分を卑下することは、自分を大切にしてくれている人に対して失礼なのだと、志摩は気づかせてくれた。
それに対する礼をしたい気持ちがあるだけで、けして恋愛感情はなかった。
「慌てるところが怪しいわぁ」
「か、からかわないで、加奈恵。ほら、もう夕食の時間だから、行こ」
「つれへんなぁ。たまにはこういう女子トークっぽいのもええやん」
「私、男の人を好きになったこととか、ないし、よくわかんないよ」
「ほーん。なら、ちなみにその蹄鉄は誰にあげるん?」
一学年上の男の先輩だと答えると、面倒なことになる予感がして、あいは返答をはぐらかした。
加奈恵と部屋を出て、食堂へ向かった。
厳密なルールがあるわけではないが、同じ食堂内であっても、食事は騎手課程生と厩務員課程生は別々にかたまって摂る。
食堂の入口で加奈恵とは一旦別れ、騎手課程の同期と合流した。
持ち回りで担当している配膳係が、先に来て食事の支度をしていた。今日の担当は大矢だった。
翌日からは、また訓練漬けの日々だった。
夏季期間になっている。起床、検量をして、軽食を摂ると、厩舎で馬の体調をチェックする。
それを終えると、鞍と頭絡を装着し、薄っすらと夜が明けていく空の下、馬場へ出て行って乗馬訓練を開始する。
日中、酷暑になることが少なくなく、学生や馬の健康面を配慮しての時間割だった。
その日は、前半は障害を加えた部班運動で、後半は馬を乗り替え、学生が個々の馬の特性を踏まえて考えたトレーニングメニューを行った。
この馬にはこういう癖やポテンシャルがあるため、それを伸ばすべく、こういう運動を行う、という草案を、あらかじめ教官には提出している。
教官はその草案に書き添えをして返却し、再度学生が手直しした内容を、個別トレーニングに採用するという手順だった。
訓練を終えると、しっかりとした量のある朝食を摂り、小休憩を挟んでから厩舎作業をする。
昼食以降の時間割は、就寝時間が一時間早いことを除けば、通常の週間と変わらなかった。
そうした中で、先輩である志摩と顔を合わせる機会は度々あるが、落ち着いて話す時間はなかなかとれなかった。
夜の自由時間、志摩は自室でも鍛えられる動体視力や反射神経のトレーニングに当てているらしかった。
あいにとっても自由時間は貴重で、少しでも自身の課題である筋力、持久力の向上を図りたかった。
そうして日々を過ごしている間に、二学年が厩舎実習へと出発する日が近づいてきた。
約一年間に及ぶ厩舎実習を終え、三学年が帰校した。
その五日後には、二学年が実習へ出て行く。全学年が揃い、学校内はにわかに活気が増した感じになった。
二学年が厩舎実習へ行く、二日前。二学年にとっては実習前の最後の休養日に、あいは志摩を校門前で呼び止めた。
志摩は、同期の仲間たちと、町へ外出するところだった。
「先にバス停に行っていてくれ、渋川」
「構わないが、もうあまり時間がないぞ」
「乗り遅れたら、一本あとのバスに乗っていくよ」
「それもそうか」
志摩は仲間を見送ってから、校門の手前で待っていたあいの方へ戻って来た。
「なにか用かな、藤刀さん」
「あ、あの、志摩先輩に渡したいものがあって。あの、これ」
あいは、蹄鉄を布袋に入れたまま渡した。
加奈恵に妙なことを言われたせいか。そんなつもりは微塵もないのに、まるで異性としても慕う先輩に告白する女子学生のように、どぎまぎとした。
「なんだろう。開けてもいい?」
「はい」
志摩が袋から蹄鉄を取り出した。赤茶色の錆が浮いた、傷だらけの蹄鉄である。
加奈恵が自分の蹄鉄を磨いて、綺麗にしていたことを思い出し、今更ながら、志摩への蹄鉄も綺麗に手入れしてから渡せばよかった、とあいは後悔した。
しかし、志摩は薄汚れた古い蹄鉄に慈しむような目を向け、それから、あいに視線を戻した。
「ありがとう。実を言うと、厩舎実習を無事やり切れるか、少し不安だったんだ。お守りに持っていくよ」
「は、はい。あの、私、もう絶対、自分なんてって言いません。考えないようにするのは、まだちょっと時間がかかるかもですけど、頑張りますっ」
あいが宣言すると、志摩はきょとんとしてから、くすりと笑った。その口元に、白い歯がちらりと覗いた。
「俺も、藤刀さんみたいに今春先輩に認めてもらえるよう、頑張るよ」
後日、志摩はあいが渡した蹄鉄のお守りを荷物の中に入れ、厩舎実習が行われる関東美駒トレーニングセンターへと出発した。
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