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第7話
合宿と適正
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一学年の表情が引き締まっていた。
今日から、調教鞍《ちょうきょうあん》を使っての乗馬訓練である。
東西二ヶ所にあるトレーニングセンターで、調教時に用いている鞍である。
これまで一学年が乗馬訓練で使ってきた総合馬術向けの鞍と異なり、調教鞍には座面から後橋にかけて鞍骨がない。
その分馬には負担がかからないが、騎手は姿勢を保持するのにこれまで以上に体幹が必要となる。
調教鞍と、レース用の鞍とでは、造り自体は大きく違わない。
馬の扱いや馬術の基礎を修得する段階から、デビューに向けて一歩進んだかたちだ。
調教鞍での騎乗訓練を開始すると、一学年の顔つきが変わるのは、毎年のことだった。
「騎乗」
小早川は、一学年を乗馬で馬場へ向かわせた。
馬場へ移動すると、競争姿勢をとるよう号令を出した。鐙の長さは、厩舎であらかじめ短く詰めてある。
「競走姿勢は、自習時間やフィジカルとレーニングの一環で、各自木馬を使って練習してきただろう。だが、それは一旦忘れろ。馬と、一から覚えるつもりでやれ」
「はい」
一学年が、声を揃えて応えた。
「よし。まず、常歩で周回」
小早川は他の実技教官と目配せし、それぞれの配置についた。
すぐに教官の声が飛び交いはじめた。小早川も、気づいたことを指摘していく。
正士郎と大矢は、細かい点を除けば、様になっている。
乗馬未経験で入学した学生を含めた四人は、実際の馬と木馬の違いにまごついているが、すでに技術ではほとんど差はなくなっている。
あと一人、サファイアジャケットに乗ったあいが、小早川の前を通り過ぎた。
「藤刀、頭の位置が高い」
小早川の指摘に、あいは首を下げた。
躰を自在に使う身体操作性が、まだ足りていない。小早川から見ても、フィジカルはあいの課題だった。
ただ、駈ける裸馬にも乗っていられるだけの髀肉の強さと、体幹はある。受験前には天道に鍛えられてもいるので、じつは見た目ほどひ弱ではないのだ。
そしてなにより、馬と呼吸を合わせる能力に関してだけいえば、トップジョッキーと遜色のないレベルだった。
あいを背に乗せた、サファイアジャケットの黒っぽい毛が、昇ってきた朝陽を受け、青くきらめいた。
夏季期間中で、騎手課程生は比較的涼しい早朝に訓練後を行っている。朝食や厩舎作業は、その後だった。
その日の訓練を終えると、小早川は服についた砂を軽くはたき、職員室に引き上げた。
コーヒーを淹れ、自分の席で雑務をこなしていると、落合が出勤してきた。
「おはようございます、小早川君。サファイアジャケットは、すっかりここに馴染んだようですね」
どこかから、一学年の早朝訓練を覗いていたのか、落合は自分のデスクに鞄を置いて話しかけてきた。
「おはようございます。ええ、ここで引き取ったばかりの頃は、やたらと怯えて、馬房の外にも出たがらなかったものですが、近頃は他の馬と運動するのも積極的になりました」
「藤刀さんと組ませたのは、正解だったようですね」
馬主の事情で手放されたサファイアジャケットを引き取り、あいの担当馬にあてがうと決定したのは、主任教官である落合だった。
「レース経験もない若馬を、入学したての騎手課程生に付けるというのは、前例のないことでした。結果的に、問題は起こりませんでしたが、渡る必要もない危険な橋だった、と私は思います」
「真面目ですね、小早川君は」
「人ひとり、馬一頭の、生涯に関わることです」
「それはもちろん、わかっていますよ。
ただ、昔に比べると、新人騎手はより高い完成度を要求されています。私が現役だった頃は、ほんのひと摘まみの天才を除けば、まぁ新人なんてのはみっともないレースをしたものでした」
「確かに、近頃は新人であろうと即戦力の実力が求められるようになったのかもしれません」
しかし、それとサファイアジャケットの件はなんら関係ない。
小早川が言おうとすると、落合の老いた手が肩に置かれた。
「学生から教官などと呼ばれていても、私たちもまだまだ道半ば。前例にとらわれず、前途ある学生になにができるのか、模索し続けなければ」
「今年に限ってそう言われるのは、藤刀に、落合さんはなにかしらの可能性を感じているのですか」
「可能性は学生に等しくあると思っていますよ。ただ、そうですね。藤刀さんは面白い騎手になるかもしれない、という気はしています」
型破りな才能を育てるには、指導する側も、それに見合った挑戦心が必要だ、ということか。
小早川が真意を尋ねる前に、落合は近くを通りかかった別の教官をつかまえ、一緒に歩き去ってしまった。
翌週から、一学年は二泊三日の夏季合宿だった。
合宿の進行を受け持つ教官は、普段の業務に加え、宿などの手配もしなければならず、忙しそうにしていた。
合宿といっても、学校を離れた土地で、学生に夏の思い出をつくらせるための行事だ。
将来を見据えて日々鍛錬を積む学生とはいえ、まだ十三、四の少年少女たちなのだ。
騎手を育てることとは別に、人としての心を育む時間も必要であるとは、小早川も理解している。
小早川は仕事に戻ったが、落合との会話が、胸にひっかかっていた。
確かに、あいには才能がある。
馬とよく折り合えているということは、それだけ馬は負担なく駈けられ、純粋な力を発揮できる。
そこは、さすがにあの天道が見込んで、入学試験に送り込んできただけのことはあった。
しかし、それだけでは騎手は務まらない。
技術やフィジカルなどは、一つ一つ身に付けていけばいい。それよりも、あいには、騎手として闘っていくには致命的に足りていないものがある。
競馬は、勝負の世界だ。
勝負で、最後の最後の部分で勝ちを掴み、生き残っていくには、闘争心が不可欠になってくる。
藤刀あいには、それがない。
天道や落合は、そこについてどう認識しているのか。
小早川は、コーヒーを一口啜り、頭を切り替えてから、片付けなければならない書類に目を通していった。
今日から、調教鞍《ちょうきょうあん》を使っての乗馬訓練である。
東西二ヶ所にあるトレーニングセンターで、調教時に用いている鞍である。
これまで一学年が乗馬訓練で使ってきた総合馬術向けの鞍と異なり、調教鞍には座面から後橋にかけて鞍骨がない。
その分馬には負担がかからないが、騎手は姿勢を保持するのにこれまで以上に体幹が必要となる。
調教鞍と、レース用の鞍とでは、造り自体は大きく違わない。
馬の扱いや馬術の基礎を修得する段階から、デビューに向けて一歩進んだかたちだ。
調教鞍での騎乗訓練を開始すると、一学年の顔つきが変わるのは、毎年のことだった。
「騎乗」
小早川は、一学年を乗馬で馬場へ向かわせた。
馬場へ移動すると、競争姿勢をとるよう号令を出した。鐙の長さは、厩舎であらかじめ短く詰めてある。
「競走姿勢は、自習時間やフィジカルとレーニングの一環で、各自木馬を使って練習してきただろう。だが、それは一旦忘れろ。馬と、一から覚えるつもりでやれ」
「はい」
一学年が、声を揃えて応えた。
「よし。まず、常歩で周回」
小早川は他の実技教官と目配せし、それぞれの配置についた。
すぐに教官の声が飛び交いはじめた。小早川も、気づいたことを指摘していく。
正士郎と大矢は、細かい点を除けば、様になっている。
乗馬未経験で入学した学生を含めた四人は、実際の馬と木馬の違いにまごついているが、すでに技術ではほとんど差はなくなっている。
あと一人、サファイアジャケットに乗ったあいが、小早川の前を通り過ぎた。
「藤刀、頭の位置が高い」
小早川の指摘に、あいは首を下げた。
躰を自在に使う身体操作性が、まだ足りていない。小早川から見ても、フィジカルはあいの課題だった。
ただ、駈ける裸馬にも乗っていられるだけの髀肉の強さと、体幹はある。受験前には天道に鍛えられてもいるので、じつは見た目ほどひ弱ではないのだ。
そしてなにより、馬と呼吸を合わせる能力に関してだけいえば、トップジョッキーと遜色のないレベルだった。
あいを背に乗せた、サファイアジャケットの黒っぽい毛が、昇ってきた朝陽を受け、青くきらめいた。
夏季期間中で、騎手課程生は比較的涼しい早朝に訓練後を行っている。朝食や厩舎作業は、その後だった。
その日の訓練を終えると、小早川は服についた砂を軽くはたき、職員室に引き上げた。
コーヒーを淹れ、自分の席で雑務をこなしていると、落合が出勤してきた。
「おはようございます、小早川君。サファイアジャケットは、すっかりここに馴染んだようですね」
どこかから、一学年の早朝訓練を覗いていたのか、落合は自分のデスクに鞄を置いて話しかけてきた。
「おはようございます。ええ、ここで引き取ったばかりの頃は、やたらと怯えて、馬房の外にも出たがらなかったものですが、近頃は他の馬と運動するのも積極的になりました」
「藤刀さんと組ませたのは、正解だったようですね」
馬主の事情で手放されたサファイアジャケットを引き取り、あいの担当馬にあてがうと決定したのは、主任教官である落合だった。
「レース経験もない若馬を、入学したての騎手課程生に付けるというのは、前例のないことでした。結果的に、問題は起こりませんでしたが、渡る必要もない危険な橋だった、と私は思います」
「真面目ですね、小早川君は」
「人ひとり、馬一頭の、生涯に関わることです」
「それはもちろん、わかっていますよ。
ただ、昔に比べると、新人騎手はより高い完成度を要求されています。私が現役だった頃は、ほんのひと摘まみの天才を除けば、まぁ新人なんてのはみっともないレースをしたものでした」
「確かに、近頃は新人であろうと即戦力の実力が求められるようになったのかもしれません」
しかし、それとサファイアジャケットの件はなんら関係ない。
小早川が言おうとすると、落合の老いた手が肩に置かれた。
「学生から教官などと呼ばれていても、私たちもまだまだ道半ば。前例にとらわれず、前途ある学生になにができるのか、模索し続けなければ」
「今年に限ってそう言われるのは、藤刀に、落合さんはなにかしらの可能性を感じているのですか」
「可能性は学生に等しくあると思っていますよ。ただ、そうですね。藤刀さんは面白い騎手になるかもしれない、という気はしています」
型破りな才能を育てるには、指導する側も、それに見合った挑戦心が必要だ、ということか。
小早川が真意を尋ねる前に、落合は近くを通りかかった別の教官をつかまえ、一緒に歩き去ってしまった。
翌週から、一学年は二泊三日の夏季合宿だった。
合宿の進行を受け持つ教官は、普段の業務に加え、宿などの手配もしなければならず、忙しそうにしていた。
合宿といっても、学校を離れた土地で、学生に夏の思い出をつくらせるための行事だ。
将来を見据えて日々鍛錬を積む学生とはいえ、まだ十三、四の少年少女たちなのだ。
騎手を育てることとは別に、人としての心を育む時間も必要であるとは、小早川も理解している。
小早川は仕事に戻ったが、落合との会話が、胸にひっかかっていた。
確かに、あいには才能がある。
馬とよく折り合えているということは、それだけ馬は負担なく駈けられ、純粋な力を発揮できる。
そこは、さすがにあの天道が見込んで、入学試験に送り込んできただけのことはあった。
しかし、それだけでは騎手は務まらない。
技術やフィジカルなどは、一つ一つ身に付けていけばいい。それよりも、あいには、騎手として闘っていくには致命的に足りていないものがある。
競馬は、勝負の世界だ。
勝負で、最後の最後の部分で勝ちを掴み、生き残っていくには、闘争心が不可欠になってくる。
藤刀あいには、それがない。
天道や落合は、そこについてどう認識しているのか。
小早川は、コーヒーを一口啜り、頭を切り替えてから、片付けなければならない書類に目を通していった。
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