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第7話
合宿と適正 ③
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一級河川である那珂川の支流にあたる木ノ俣川でキャニオニングを楽しみ、民宿に戻ってきたのは午後四時過ぎだった。
陽がいくらか傾いている。明るいうちに、あいを連れて隣の牧場へ行った。
牧場の主人とは叔父を介して顔馴染みになっており、従業員も加奈恵を覚えていてすんなり中へ通してくれた。
他に客はおらず、売店や食事処はすでに営業を終えている。
山羊を飼っている囲いの前を通り、奥の放牧場へ向かった。
放牧場の手前で道を右に曲がると、牛舎と並んで建てられた厩舎の前に出た。
厩舎は、牛舎の五分の一ほどの大きさだが、手入れは行き届いていてみすぼらしい感じはまったくない。
厩舎と牛舎の並びには、搾乳した生乳を冷やし、一時的に置いておく貯蔵庫がある。
「あの車、なにやってるの?」
あいが、貯蔵庫の隣に横付けして停まっているタンクローリーに、物珍しそうな目を向けて訊いてきた。
「集乳やな。あのタンクローリーが、この辺にある中小規模の酪農家を回って、搾乳された生乳を回収するんや」
北海道など、大規模な農地を持ち、生産量の多い牧場はどうか知らないが、加奈恵の実家が酪農を営んでいた頃も、この形式で生乳を集荷してもらっていた。
集められた生乳は、加工工場へ運ばれ、検査、殺菌などの工程を経て、牛乳として市場の卸されるのだ。むろん、バターやチーズ、ヨーグルトなどの製品に加工される場合もある。
厩舎の中に入ると、八つの馬房があり、加奈恵の家から引き取ってもらった二頭の馬は、右端から二つの馬房にいた。
二頭とも加奈恵の気配を察知し、覗き穴から首を出している。
「半年ぶりぐらいか。元気にしとったか」
近づくと、湿った鼻先を擦り寄せてくる。ひとしきり撫でてやってから、厩舎の外へ出し、鞍と頭絡をつけて乗馬場へ曳いていった。許可はあらかじめ取ってある。
片方の馬は、あいが曳いた。
ちょっと接しただけのあいを、馬はすんなり受け入れた。もともと人見知りする馬ではないが、それにしても落ち着いている。
「馬の扱いはさすがやな。当然か。小さい頃から綾とずっと一緒におって、競馬学校でも毎日馬の世話しとるんやもんな」
あいと、特別な絆で結ばれた馬。綾。
中学時代にあいが描いたという綾の絵を、スケッチブックで見せてもらったが、実によく描けていた。他の絵は、からっきしらしかった。
綾だけは、見なくても描ける。
つまり、競馬学校に入学するまで、あいの世界には綾しかいなかった、ということだろう。
加奈恵も、馬には愛情を注ぎ、高校では馬術部にも入部したが、家には親に代わって面倒を見なければならない小さい弟、妹たちがいた。
雇っていた従業員はほとんどが高齢で、誰かが体調を崩すと、加奈恵が手伝いをしてその穴埋めをした。
とても馬だけに心を向けていられる環境ではなかったのだ。
そういう意味では、あいは恵まれていた。
騎手課程生の保護者参観があった時、あいが母親と話しているのを遠目に見かけた。
仕立てのいい服を着た、土いじりなどしたこともなさそうな、品のある母親だった。
父親は海上自衛隊の幹部なのだと、噂で聞いたこともある。
裕福な家で育ったのだとは、容易に想像できた。
「ほな、軽く駈けようか」
「うん」
普段は客を相手に乗馬体験をさせている砂地の馬場に入り、加奈恵は馬の背に跨った。小柄なあいは、よじ登るようにして馬に乗った。
並んで、速歩《はやあし》で駈ける。あいはほぼ手綱を使わず、脚で意思を伝えている。馬上での身のこなしもさりげない。
「馬術競技なら、」
加奈恵は、言いかけてやめた。
馬術競技ならいい選手になる。
あいを身近で見ていて、ひしひしと感じていることだった。
競馬騎手だと、わからない。
馬術と違い経験がないのもあるが、馬術と競馬では、ともに馬を操る競技でも、競技としての性格が大きく異なる。
正直に言えば、あいが騎手に向いているとは思えない。
どれだけ巧みに馬に乗ろうと、レースの勝敗が分かれる場所で、馬を過酷に追い込んでいるあいの姿が、どうしても想像できないのだ。
一方で、あいが騎手に懸ける想いも知っていた。
強い自分になる。
それがすべてなのだ。
おそらく、自分の生まれを恵まれていると考えたこともないだろう。
「加奈恵、もう少し早くても大丈夫?」
「さっきキャニオニングにビビりまくってたんとは別人やな。上等や、附いてったる」
それほど広い馬場ではない。弧を描くような進路でしか駈けられない。
あいが前に出た。馬の後ろ脚で蹴り上げられる砂を被らない位置につけ、追走した。
「気持ちいいね、加奈恵」
あいは手綱から手を離し、上体を大きく反らして振り向いた。
一瞬肝が冷えたが、落馬しそうな気配はない。駈けている馬の背で、手放しで振り返るなど、加奈恵には真似できない。
騎手課程の訓練には、馬上で上半身を使った体操をするものがあるとは聞くが、せいぜい速歩でやるものだろう。いまは軽い駈歩で、スピードも出ている。
無邪気に楽しむあいにつられ、加奈恵も笑い声をあげた。
鬣が靡いている。
陽が、西の空に沈もうとしていた。
陽がいくらか傾いている。明るいうちに、あいを連れて隣の牧場へ行った。
牧場の主人とは叔父を介して顔馴染みになっており、従業員も加奈恵を覚えていてすんなり中へ通してくれた。
他に客はおらず、売店や食事処はすでに営業を終えている。
山羊を飼っている囲いの前を通り、奥の放牧場へ向かった。
放牧場の手前で道を右に曲がると、牛舎と並んで建てられた厩舎の前に出た。
厩舎は、牛舎の五分の一ほどの大きさだが、手入れは行き届いていてみすぼらしい感じはまったくない。
厩舎と牛舎の並びには、搾乳した生乳を冷やし、一時的に置いておく貯蔵庫がある。
「あの車、なにやってるの?」
あいが、貯蔵庫の隣に横付けして停まっているタンクローリーに、物珍しそうな目を向けて訊いてきた。
「集乳やな。あのタンクローリーが、この辺にある中小規模の酪農家を回って、搾乳された生乳を回収するんや」
北海道など、大規模な農地を持ち、生産量の多い牧場はどうか知らないが、加奈恵の実家が酪農を営んでいた頃も、この形式で生乳を集荷してもらっていた。
集められた生乳は、加工工場へ運ばれ、検査、殺菌などの工程を経て、牛乳として市場の卸されるのだ。むろん、バターやチーズ、ヨーグルトなどの製品に加工される場合もある。
厩舎の中に入ると、八つの馬房があり、加奈恵の家から引き取ってもらった二頭の馬は、右端から二つの馬房にいた。
二頭とも加奈恵の気配を察知し、覗き穴から首を出している。
「半年ぶりぐらいか。元気にしとったか」
近づくと、湿った鼻先を擦り寄せてくる。ひとしきり撫でてやってから、厩舎の外へ出し、鞍と頭絡をつけて乗馬場へ曳いていった。許可はあらかじめ取ってある。
片方の馬は、あいが曳いた。
ちょっと接しただけのあいを、馬はすんなり受け入れた。もともと人見知りする馬ではないが、それにしても落ち着いている。
「馬の扱いはさすがやな。当然か。小さい頃から綾とずっと一緒におって、競馬学校でも毎日馬の世話しとるんやもんな」
あいと、特別な絆で結ばれた馬。綾。
中学時代にあいが描いたという綾の絵を、スケッチブックで見せてもらったが、実によく描けていた。他の絵は、からっきしらしかった。
綾だけは、見なくても描ける。
つまり、競馬学校に入学するまで、あいの世界には綾しかいなかった、ということだろう。
加奈恵も、馬には愛情を注ぎ、高校では馬術部にも入部したが、家には親に代わって面倒を見なければならない小さい弟、妹たちがいた。
雇っていた従業員はほとんどが高齢で、誰かが体調を崩すと、加奈恵が手伝いをしてその穴埋めをした。
とても馬だけに心を向けていられる環境ではなかったのだ。
そういう意味では、あいは恵まれていた。
騎手課程生の保護者参観があった時、あいが母親と話しているのを遠目に見かけた。
仕立てのいい服を着た、土いじりなどしたこともなさそうな、品のある母親だった。
父親は海上自衛隊の幹部なのだと、噂で聞いたこともある。
裕福な家で育ったのだとは、容易に想像できた。
「ほな、軽く駈けようか」
「うん」
普段は客を相手に乗馬体験をさせている砂地の馬場に入り、加奈恵は馬の背に跨った。小柄なあいは、よじ登るようにして馬に乗った。
並んで、速歩《はやあし》で駈ける。あいはほぼ手綱を使わず、脚で意思を伝えている。馬上での身のこなしもさりげない。
「馬術競技なら、」
加奈恵は、言いかけてやめた。
馬術競技ならいい選手になる。
あいを身近で見ていて、ひしひしと感じていることだった。
競馬騎手だと、わからない。
馬術と違い経験がないのもあるが、馬術と競馬では、ともに馬を操る競技でも、競技としての性格が大きく異なる。
正直に言えば、あいが騎手に向いているとは思えない。
どれだけ巧みに馬に乗ろうと、レースの勝敗が分かれる場所で、馬を過酷に追い込んでいるあいの姿が、どうしても想像できないのだ。
一方で、あいが騎手に懸ける想いも知っていた。
強い自分になる。
それがすべてなのだ。
おそらく、自分の生まれを恵まれていると考えたこともないだろう。
「加奈恵、もう少し早くても大丈夫?」
「さっきキャニオニングにビビりまくってたんとは別人やな。上等や、附いてったる」
それほど広い馬場ではない。弧を描くような進路でしか駈けられない。
あいが前に出た。馬の後ろ脚で蹴り上げられる砂を被らない位置につけ、追走した。
「気持ちいいね、加奈恵」
あいは手綱から手を離し、上体を大きく反らして振り向いた。
一瞬肝が冷えたが、落馬しそうな気配はない。駈けている馬の背で、手放しで振り返るなど、加奈恵には真似できない。
騎手課程の訓練には、馬上で上半身を使った体操をするものがあるとは聞くが、せいぜい速歩でやるものだろう。いまは軽い駈歩で、スピードも出ている。
無邪気に楽しむあいにつられ、加奈恵も笑い声をあげた。
鬣が靡いている。
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