犬飼ハルノ

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征司、蒼、高遠

夕立-蒼-

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 今にも雨が降りだしそうだ。


 塀に寄り掛かり、厚い雲のかかった空を見上げて蒼は思う。

 泣きだしそうな空だとも。

 そろそろ雨粒が落ちてくるだろうかと目を凝らしていると、車のエンジン音がゆっくりと近づいてくるのが聞こえた。

 紺色のセダン。

 間違いない。

 身体を起こして道の真ん中に立つ。

 車は数メートルほど前で止まった。

 蒼はゆっくり歩み寄り、だん、とボンネットに両手をついた。



「征司、降りろよ。話がある」



 フロントガラスの向こうの、後部座席に向かって視線を投げつける。

 一瞬、運転席の男がシートから身体を起こしたのが目の端に入った。


「あんたには用がない!」


 もう一度、力いっぱい、ボンネットを叩く。

 長いような短いような時をおいて、静かに後部席のドアが開いた。

 亜麻色の髪が曇り空に溶け込む。


「・・・蒼」


 ぽつん、と雫が二人の間に落ちてきて、アスファルトにしみを作る。

 仕立ての良い白いシャツの征司。おそらく、上等なスーツの上着とネクタイは車を降りるときに置いてきたのだろう。

 対する自分は着古したジーンズにTシャツ姿。

 些細なその気遣いでさえ胸の奥にざらついたものを感じる。


「どうしてここに?」

「毛利から聞きだした。今日は本宅で法的な手続きをした後、夕方に会食のために移動するって」

「そうか・・・」

「わかってはいると思うけど、あいつのせいじゃないからな。俺がさんざん脅して聞きだしただけだ」

「うん、そうだね・・・」


 うつむくその顔を上げさせたくて腕を掴んだ。


「来いよ、場所を変えよう」


 すると、それを振り払われた。

「ここでいい。知っての通り、次の約束があるから」

「何かあったら秘書が飛び出すという算段か?」


 運転席を顎で指して鼻で笑うと、青みがかった瞳がにらみ返していた。


「高遠には何があっても出てくるなと言ってある。それにどうせここにはだれも来ない」


 この道は征司の家の私道で、両脇の塀の向こうはどちらもうっそうと樹が茂って建物から遠い上に彼の所有地だった。だから、蒼も誰に怪しまれることなく待ち続けることができた。確かに、ここほど話し合いにうってつけの場所はないだろう。

 しかしそれは、蒼と征司の立場の違いを明確に見せつけるものになった。


「征司…」

「それに、もう、話なんてない」


 陶器のように綺麗な眉間にしわを寄せて征司は言う。


「僕たちは終わったんだ」

「終わってなんかない!!」


 乱暴に肩を掴んだ。


「勝手に終わらせるなと何度も言ってるだろう。俺たちは離れちゃいけないんだ」

「もう、無理だよ。蒼だって良く解っているだろう?このまま続けていても、蒼の未来がめちゃくちゃになるだけだ!!」

「そんなの、その時にならないと分かんないだろう?勝手に俺のことを決めつけるよ!!」

「決めつけてなんかない!!事実だろう!!」


 ぽつり、ぽつりと落ちてきていた大粒の雨が、やがて一斉にぱたぱたと互いの体を叩き始める。


「蒼、ここの所全く研究室へ顔を出していないだろう?教授からの電話にも出ないで何してるんだよ、・・・今が一番大事な時なのに」

「お前以外に大事なものなんてあるか!」


 手首を掴んだらまた振り払われる。


「それだから、だめなんだよ!!」


 ざーっと、木々の葉が雨に打たれて音を立てるのをどこか遠くで聞いているような気になった。


「大学にもいかずに、こんな無茶なことばかりして…。この前も大叔父たちにあんなこと言って、ただで済むわけがないんだ。今の蒼は無鉄砲すぎる…。何も見ないで突っ走るだけの、考えなしの馬鹿だよ!!」


 降りしきる雨と征司の言葉に体温が下がる。


「なんだと?もういっぺん言ってみろよ…」

「何度でもいうさ。毛利たちの気遣いも教授の心配も何もかもぶち壊しにして、それで何を得るんだ?何もないじゃないか!君の子供っぽさに、もう、うんざりだ!」


 思わず手が出る。

 ぱしんと、音がして、征司は驚いたような顔をして頬を抑えた。


「あ・・・」

「蒼・・・」



 殴ってしまったのは今回が初めてじゃない。

 逃げる征司を引き留めたくて、それ以上のことを何度もしてしまった。

 抱きしめてもどこか霞のようにぼんやりと掴みどころのない征司の生身の声を聞きたくて、何度も何度も心と身体を切り裂いた。

 涙を流されても、悲鳴をあげられても、止められなかった。

 自分の中の獣が征司を欲しいと吠える。

 どんなに力で抑えつけても、どれほどの血が流れても、芯が見つからない。

 空しさだけが手のひらに残された。



 いつも征司は語らない。


 大切なことをどこか別の場所に置いたまま、誰にもたどり着けない高い所に独りで立ち、遠くを見ている。

 ずいぶん前から気が付いていた。

 とうに征司は別れという答えを出し、思い出も思いも、そして自分までも部屋に置き去りにした。

 全てを取り戻したくて、独りであがき続けている。

 何もかもを壊してまで。

 そして、そんな自分を見つめるかなしそうな瞳を見るたびに獣が暴れだす。

 本当は、優しくしたいのに。



「・・蒼。お願いだからそんな顔しないで。悪いのは僕だ。殴られて当然なんだよ。僕たちの関係に先なんかないことは、最初から解っていたのに・・・」


 頬に手をあてたまま、見上げる瞳が潤んだ。


「あの時、僕が間違ってしまったんだ…」

「間違いだなんていうな!!」


 その先を言わせたくなくて抱きしめる。

 腕の中の体は、抱きしめるたびにいつからかだんだん細くなっていった。

 今にも折れそうな身体なのに、あらんかぎりの力で抵抗する。


「そ・・・う、蒼、だめだ、離して、蒼っ!!」


 名を呼び続けるその唇を自分のそれでふさぐ。

 そして、深く深くその内側を探った。

 大丈夫、征司はここにいる。


「ん・・・。だ・・・め、離して…」


 吐息が甘い。

 いつでも、どんな時でも、征司の吐息は蜜のように甘かった。

 首元から立ち上る匂いも、男なのに咲きたての花のように清々しく、甘い。


「征司…。行くな」

「そう・・・。いや・・・。やめて・・・」


 嘘だ。


 こんなに熱い舌で答えるのに、こんなに甘い声で自分を呼ぶのに、それでも別れを口にする征司が憎い。

 この唇とこの手はどこを触れば感じるか、どのように愛せばいいか知っている。

 征司が自分の体を知っているように。

 この五年はそうやってきたはずだった。


「思い出せよ、俺たちはそんなもんじゃない・・・」


 更に深く、深く唇を合わせる。舌を強く吸い、歯列をたどると腕の中の身体が震える。

 髪を梳いて耳を愛撫し、首筋から背中を何度も撫でると熱い息を吐き出した。

 まるで滝のように降り注ぐ雨の中、あるのはお互いの体と、おさまりようのない熱と、乱れた息だけだ。

 腕にしがみついてくる指先から心がまだ残っていることを感じる。


「いや・・・。蒼・・・。い・・や・・・っ」


 絶え間なく求めると情熱的に返してくる舌は、いつまでも裏腹な言葉を差し出す。

 どんなときも、抱きしめたら必ず反応する身体。

 こんなに好きなくせに、俺がいないと駄目なくせに、それでもなぜ・・・!

 ボンネットの上にその体を乱暴に倒して押さえつけた。

 首を振る征司の後頭部を片手で掴んで固定し、更に唇を犯す。

 思い出せ。

 この身体は俺のものだ。


 「そう・・・」


 降りしきる雨の中、夜明け前の空のような濃く青い瞳からは涙が次から次へとこぼれおちていく。

 なぜ涙を流す。

 俺はここにいる。

 ここにいるのに。


「お願いだから・・・!」


 亜麻色の髪が紺色のボンネットの上に散った。

 濡れた金色の糸が夕闇色の塗装に映えて美しかった。

 ここは、車の上。

 今さらながらに気がついてふと顔を上げると、運転席が目に入った。

 ざらざらと音を立てて落ちる雨の向こうの、車の中に黒い影がある。

 雨に洗われて隠されている筈のフロントガラスの向こうの男と目が合ったような気がした。

 いつでも、どんなときにも落ち着ききった、深い湖のような黒い瞳と。



「―――――っ!!」


 喉の奥がかっと熱くなった。



 初めて会ったときから憎かった。

 あの瞳が、自分たちを引き離す。



「・・・蒼?」


 不安げに見上げる征司の襟もとに両手をかけて、左右に大きく引っ張った。

 布の切り裂かれるような音とボタンがボンネットにあたった音が聞こえる。

 反射的に身を起しかけた征司を体重をかけ直して押さえつけ、首から耳を唇と舌でねぶる。


「いや!!やめ・・・」


 小刻みに震える体を強く抱きしめながら言った。


「なあ・・・。こんな身体で、俺なしで生きていけるのかよ」


 胸元に手を差し込むと背中をそらせる。

 クリームのように白く、触れれば吸いつくような肌は熱く、うっすら赤みがさしていた。


「そう・・・」

「こんなに感じ易い身体で…」


 むき出しにした肩に噛みつく。


「どうやって、これから生きていくんだよ…」


 ぐい、と股間を合わせた。


「こんなに、ここで、俺を欲しがっているくせに」

「―――――っ!」


 朱に染まる耳たぶを舐めて問う。


「俺がいなくなったら、あいつに抱いてもらうつもりかよ?」


 がっ、と、かつてない力で胸をはじき返された。

 気がつくと、お互い立ち上がり、向き合っていた。


「蒼」


 征司が手を振り上げ、蒼の頬に打ちおろす。

 ぱしんという音とともにじわりと熱を感じた。


「高遠を侮辱するな」


 じんじんと痛みが頬を覆って行く。


「まいったね・・・」


 目の前の顔は完全に夢から覚めたような表情をしていた。


「最初に言うのが、そこなのかよ・・・」


 この雨の中は、俺たち二人だけなのに。


「言うよ。もっと言わせてもらう」


 頬を叩く事はできるけれど、抱きしめる事はできない所で両足を踏みしめたまま、征司は睨んでいる。


「僕の知っている蒼はこんな男じゃない。僕が好きだった蒼はこんな顔をするじゃなかった。君はいったい誰?」

「征司…」

「触ったらいけない!!」


 手を伸ばそうとするのを素早く察知して一歩後ずさった。


「…触ったら、ますます駄目になるんだ、僕たちは。それではどこにも行けない。一緒にいても幸せになんてなれないんだよ、蒼」


 すっかり濡れそぼった金の髪の隙間から、燃えるような瞳が蒼の胸をえぐる。


「・・・俺がいなくても、お前は幸せになれるのか、征司」

「・・・うん。なるよ。君も、僕も」

「本当に?俺に抱かれないと眠れないくせに」

「・・・そんなことないよ。今もちゃんと眠れてる」


 ・・・嘘つき。

 会えなかった数日間で、ますます顎は細く、肌も薄くなった。

 見え透いた嘘で、蒼を遠ざけようとする。


「だから、振り返らないで。君は、君の道を行くんだ」


 そして、無理やり背中を押した。

 お前のいないその道に何の意味があるのか。

 言いたいことがいっぱいあるのに、後から後から降り続く雨が言葉を洗い流してしまう。


「あとで後悔しても、もう、俺は・・・!!」


 どんなに声を荒げても、征司の表情は変わらなかった。


「後悔しない」


 しんと静かな、囁くような声が耳に届く。


「だから、今、ここで、別れよう」



 終わった。

 あっけなく、何もかも終わった。

 完敗だった。


 心はここにあるのに、手を伸ばせは抱きしめられるのに、歩み寄れない何かがそこにある。

 それは、彼と自分の生れのせいでもなく、育ちのせいでもなく、雨の向こうのあの男のせいでもなく…。

 雲の隙間から陽の光がいきなり差し込むように、二人の前に何もないのがが見えてしまった。

 自分だけ、目をつぶり、耳をふさいで気がつかないふりをしていたものが、はっきりと表れた瞬間だった。



「わかった」


 拳を握りしめ、征司のつま先を見る。

 彼の上等なズボンも靴もぐっしょりと濡れて色を変えていた。

 おそらく、自分も同じようなものだろう。


「さよならだ」


 顔を上げると、安堵と落胆と絶望と・・・色々な表情の入り混じった顔が泣き笑いのような形を作っていた。


「うん」



 彼は今も俺を愛している。

 誰よりも、愛してくれた。

 それで、十分だ。



 踵を返すと、背中に頼りなげな声がかかった。


「ごめん、蒼。・・・さよなら・・・」



 抱き締めないために、足を進めた。

 それが、自分にできる、彼への誠意だった。



 どこで道を間違えたのだろう。

 どこかで・・・。

 考えたところで、もう、自分は歩き始めてしまった。

 雨の中に、愛しい人を残して。



 彼の視線を、背中に痛いほど感じた。

 けれどそれも、もう、一時のことで。

 厚いカーテンのように大粒の雨が全てを遮断する。

 今は、何も感じない。

 ずぶぬれの身体の奥が冷えて行くのと同じように。



 雨が降る。

 絶え間なく降る。

 愛しさも、悔しさもそこに残して。

 全てを壊し、容赦なく雨は、ひたすらに降り続く。
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