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 実に一月ほど、俺はこの狭くるしい真っ白の部屋に閉じ込められている。

 もう今が何月の何日なのかわからないが、とりあえず、本当に少しずつ、俺は俺を取り戻していった。

「また来たのか……そんなに毎日来なくても、俺は変わらないが」

 扉の前に立ち尽くす灯に、俺は呆れて言う。

「ほら、もう眼の色も青に戻っただろ?血をくれって喚いたり襲ったりもしないから、心配するなって」

 一体なんと声を掛ければ良いのか。喚き散らして暴れまくり、挙句に縋り付いて血をくれよと懇願するなどの醜態を、散々晒して来たのだから、もういっそのこと笑ってくれよと思うんだが……

「それにしてもさ、人工血液ってクソ不味いって改めて思ったよ……機動班に入る前にやったプログラムを思い出すよ。あん時もさ、総司が毎日様子を見に来て、なんて言ったと思う?『伝染病の隔離患者みたいだな』だってさ。あれには本当にムカついた」

 灯は相変わらず、どこか難しい顔をしていた。何か苦い飴でも舐めているのだろうか、と、俺は思ったのだけれど。

 あー、えっと、と、俺はまた適当に口を開く。沈黙は苦手だ。

「あの頃必死で耐えて、それでも1年くらいかかったんだ。それで、やっと外に出て、総司が珍しく食事を奢ってやるっていうからついて行ったら、やっすいファミレスでさ。俺、死ぬ思いで血を飲むのを辞めたのに、外出て最初の食事がファミレスだったんだよ。酷いよな」

 それで、と口を開こうとした時だった。

 灯が小さな声で何か言った。俺でも聞こえないくらいだったから、なに?と首を傾げて灯を見た。

「……もういい、わかった。やっぱりお前のバディはそのひとりだけなんだな。お前はまだそいつが好きなんだろ」
「え、違う、そう言う訳じゃなくて……」

 俺にとって総司とのことは、何よりも色濃く記憶に残っていて、その時は確かに好きだったけれど、でも、死んでしまったから嫌いになるわけではないから。

「悪い。今のはおれが大人気なかった。忘れてくれ」

 いや、大人気ないもなにも、俺からすれば灯なんて赤ちゃんだぜ、なんて下らない事を思ったけど、なんだか口に出せる雰囲気でもなかった。

「あのさ、やっぱり、灯はもうここに来ない方がいいよ」
「どうして?」
「俺、実家に帰るから。機動班にもいられないし」

 灯の表情が一瞬で固まった。

「何でおれに相談してくれなかったんだ?お前はてっきり、また機動班に戻って来ると思っていたんだが」

 今度は俺が苦い顔をする番だった。

「ごめん。でももう俺、人間の血がないとダメだと思う。そしたらやっぱり機動班には戻れないだろ?俺の役目のこともある。そろそろお仕事に戻らないとだから」

 この機会にいっそ、元の世界に戻ろうと決めたのだ。じゃないと、また灯に迷惑をかけてしまうかもしれないから。

「本当のことを言うとさ、灯のそばに居たら、無意識に噛みついちゃいそうだし……それにさ、俺は他の誰かを信用する事が、もうできないかもしれない。怖いんだ。あの暗い檻に入れられて、知らない誰かに、嫌ってほど触られて、それで、よくわからないままに好き勝手に弄ばれて……俺は灯のことも信用できないかもしれない。今だって怖いよ。俺が灯を噛むかもってことも怖いし、灯に触れられるのも、多分、怖い……」

 灯はまた俺を、恋人として側に置いてくれるだろう。

 でも俺は?

 灯は俺の餌じゃない。そして酷いこともしない。

 わかっているけど、俺のもっと、心の奥深いところで、どうしても恐怖を感じてしまう。

 それくらい辛かったんだ。今だって目を瞑ると、その時の光景がフラッシュバックして来て、俺は今まともに睡眠をとるのも難しい。

 眠ってしまうと、起きた時に自分が何処にいて、どういう状態なのかを把握するまで時間が必要で、その間の記憶があまり無い。内川さんや他のスタッフが疲弊しているのを見て、やっと自分が暴れたのだろうと見当がつく、そんな状態なのだ。

 そんな中で、唯一安らげる時が、総司との思い出を夢に見ている時だけだった。これはあの檻に閉じ込められている間もそうだった。

「灯、今までありがと。灯が必死で探してくれたの、兄たちに聞いたよ。心配かけてごめん。でももう、俺のことは……そうだな、犬に噛まれたとでも思って忘れてくれ」

 俺はちゃんと笑えてるだろうか?

 泣いてないか、は、ちょっと自信はないけど、でも俺は弱いから。自分でもよく泣くな、と思ってるんだけど。

 でもそんな感情を表に出せるのは、総司が俺を見つけてくれて、灯が受け入れてくれたからだ。

「嫌だ……と言ったら、お前はまだここにいてくれるか?」

 俺は困ったなと、苦笑いを浮かべていると、灯は真剣な顔で言った。

「悪い、ルナ。おれもお前に黙っていた事がある」
「何?もしかして他に好きな人でもできた?なら俺は祝福するよ。あ、でもその人が俺と同じ吸血鬼だったら、ちょっと複雑だけど」

 軽口を叩いていないと、自分が保たないだろうと思った。灯が何を言おうとしているのか、最悪の言葉を想像していないと、自分が保てないような気がして。

「お前が口にしている輸血用の血液は、おれの血なんだ」
「……どういうこと?」

 ドクンと心臓が音を立てた。灯は何を言っているのだろう。

「お前の兄たちと決めたんだ。おれがルナを手放せないから。だから、おれの血だけに慣れさせれば、他の人を襲うことはないだろうと……ルナ、ごめんな。でもおれは、あの日のようにルナを見失いたくないんだ。お前のありがとうは、さようならって意味だろ?そんなのもう二度とごめんだ」

 灯は泣きそうな顔で微笑んだ。それから続けてこう言った。

「もしルナがおれの血だけで生きる事ができるなら、機動班にも戻れることになったんだ。ルーカスとルイスが署長を説き伏せてくれて。だから、」
「なんで…?そんな、余計な事するの?俺、灯のことが好きだ。だからこそ、お前の血は絶対に飲みたくなかったのに……」

 どうしていつも、俺の思い通りにはならないのだろう。

 どうしていつも、俺の知らないところで、勝手に何かが決まってしまうのだろう。

 例えば総司と花火をした時。

 あの時既に、総司は進学先を決めていて、なのに俺に好きだと言ってキスをしたのだ。残される俺の気持ちなんて考えずに。

 灯だってそうだ。灯からしか血を貰えなくなった俺を、じゃあお前が死んだ後はどうするんだと、俺のことなんて何も考えていないじゃないか。

「もういい。灯の好きにすれば良いさ。お前が側にいろと言うのなら、俺はお前に従う。お前が死ぬまでな。それで、俺はお前に返せるものがないが……まあ、好きなように扱えばいい。そんなのはもう慣れてしまったから。灯の好きなプレイでも……そうだな、俺は死なないから、どんな酷い扱いをしてもいい。首絞めながら突っ込むと良いらしいぞ。俺が相手した奴らは、みんなそんな感じだった。それで、適度に制御装置でも使えばいいんだ。そうすれば俺は抵抗できないからな」

 そこまで言って、俺は灯を見た。とても冷たい目をしていた。そして何処か、悲しそうだった。

「別にそんな悲壮感たっぷりな顔をしなくてもいいだろう?俺は結局、お前らの奴隷なんだ。お前らは短命で弱くて、でも、心だけ奪っていく。だったら最初から、お前ら人間に気を許さなければよかったんだ。気に病むことはない、俺がバカだっただけだから」

 何でか、自分でもよくわからないけれど、俺は何も面白くないのに笑えて来て。

「お前が俺に飽きたら、ちゃんと殺してくれよ。俺は抵抗しないと誓う。それまではお前のオモチャでも、番犬でも、何だってやってやるさ。血さえくれるのならな」

 そう、ヘラヘラと笑って言ったその時、目の前までやって来た灯が、思いっきり力を込めて俺の頬を叩いた。

「……おれは、そんなつもりでこうした訳じゃない。お前をおれの奴隷や、オモチャだなんて思ったこともない。今のルナを、愛しているから、だからこうすることに決めたんだ。勝手だったことは認める。すまないと思う……でも、おれが間違っていたみたいだな。今のお前は、おれの愛したルナじゃないようだ」
「フ、アハハッ!今の俺がなんだ?じゃあ前の俺はどんなだった?そうだな、確かに俺は変わってしまった。でも仕方ないだろ?お前はさ、無理矢理ケツに突っ込まれて、泣いても喚いても犯されて、気絶しても終わらない、そんな、地獄のような経験をして、じゃあ元の自分に戻りますなんて、そんなことできると思ってんのかよ?俺が唯一学んだとしたら、黙って言うことを聞いた方が楽だってことだ。それはお前にも同じだよ」

 こんなこと言うつもりはなかったんだ。でももう、口を開いたら止まらなくて。

 俺は尚も軽口を叩き続けた。

「お前もやってみればどうだ?俺の体は人間と変わらない。皮膚を切り裂いて、内臓を引き摺り出したって、俺は死なない。生きたまま解剖できるんだぜ?そんで、ぐちゃぐちゃにして突っ込めばいい。それで終わったらちゃんと血をくれよ?じゃないと治るまでに時間がかかるからさ!」

 ガチャ、と隔離部屋の扉が閉まった。灯は何も言わずに出て行ってしまったようだ。

 それで、俺はひとりで、両膝を抱えて顔を埋め、静かに泣いた。

「ああ、今のは酷かった。聞いているこっちが吐きそうだったよ……」

 そう言って、灯の代わりに部屋に入ってきたのは内川さんだった。

「ごめん……でも止まらなかったんだ……内川さんだって、どっか俺を、研究対象だって思ってるだろ?総司も、灯も、自分勝手なんだよ。いつも俺は置いていかれる。俺の意見なんて、誰も聞いてくれないんだ。でもそれでいい。だって俺はさ、ベルセリウスの三男で、その役目のためだけに産まれたから。役割を果たすにしても、結局誰かの言いなりなんだ。だったらもう、俺は俺でなくてもいいんだ」

 他の全ての生物が持っている自我というものは、俺には必要がないものなのだ。

 俺に役割を引き継いだ先代のベルセリウス三男である叔父は、常々俺に言っていた。

 自分というものは、捨てた方が楽だと。同族を殺すためだけに産まれた自分という存在は、ただの機械だと思えと、そう教えてくれた。

 それを、総司と出会ってから、すっかり忘れてしまっていた。

 俺もまた、機械になれるだろうか。なれるといいな。その方が、ずっと楽だから。
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