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「お、秋原!」

 そう声をかけて来たのは、同じ機動班のA班で、最も年長の赤井先輩だった。

 船上パーティーの際に、おれを後方デッキに呼び出した彼だ。

 30代中頃の赤井先輩はロイという年嵩の人狼と、もう10年以上バディを組んでいるベテランだった。

「お疲れ様です、赤井先輩」
「おつかれー」

 船上パーティー以来、こうして手洗いを利用した時など、顔を合わせると世間話程度に話をすることがあった。

 そんなこの日も、トイレの前で偶然鉢合わせたのだ。

「お前なんかやつれてね?ちゃんと食って寝てるか?機動班は体力仕事だからさ、自己管理はきっちりしろよ」

 毎度赤井先輩は、おれの体調など一通り心配して声をかけてくれる。

「自分なりに健康面には気を遣っているつもりなんですが……」

 と、言葉尻を濁したおれに、赤井先輩は、はあ、とため息を吐いた。

「まあそうだよなぁ。お前も大変だよな!まあでもさ、そんなに気にする事ないと思うぞ?最初からそんな噂はあったんだから、お前もここに配属したてで、しょうがなかったんだよ」

 おれは、は?と赤井先輩の言葉の意味がわからず、多分とても失礼なくらいに顔を歪めたと思う。

 赤井先輩はそんなおれの態度に怒りもせず、逆にバツの悪い顔をした。

「あ、ごめんな、今の無しで!」
「いやちょっと、意味もわからないのに無しにってことにはできませんよ!」

 食い下がったおれに、赤井先輩は溜息をこぼして言う。

「あー、あのさ、知らなかったんなら、ホントごめん。でも、だからこそ言っておいた方がいいのかもな……」
「一体何の話ですか?」
「ルナってさ、80年もここにいるだろ?」

 ん?と、おれは話の行く先がイマイチわからず、そしてなぜここでルナが出てくるのかもわかっていないままに、とりあえず頷いた。

「秋原はさ、今まで普通のビールをたらふく飲んできたとするだろ?じゃあ明日からノンアルビール一本で寝ろって言われたらできる?」

 例え方がよくわからないが、おれは少し考えてから答えた。

「人によると思うのですが、重度のアルコール依存症なら不可能ですね」
「だよな?じゃあルナがさ、80年ずっと、本当に人工血液だけで生きてきたと思うか?奴らの本当の食事は、人間の血なんだぜ?」

 おれはなんだか、自分がバカにされているような気持ちになった。おれは一度も、ルナを疑ったことがなかったから。

「いやぁ、そんな怖い顔しないでな?これはあくまでも噂何だけどさ……ルナのバディはほとんどみんなトラウマ抱えて辞めて行ったか、死んだか、どちらかなんだ。それもさ、どれも血みどろのグロテスクな現場に遭遇して、だ。何があったかなんてのは、まあ、わかんないんだけどさ……いつも残虐な犯行現場に居合わせるのはルナとそのバディだった。それも、最前線には出ないはずのD班でな」
「それはたまたま、なんじゃないんですか?」
「たまたま、と言うには多すぎるんだ。お前もあと数年機動班にいてみろ。こんな都市だけど、だからこそ、案外くだらない犯罪が多いんだよ。銃持った人間と生身の人間では対処が違うだろうけど、ここでは銃持った人間にバカみたいな能力のある人外が対処する。まあ、そう重犯罪は起きないわけだな」

 それは数年東京の公安にいた自分にもよく理解ができた。東京には人外の数が少ない。よって滅多に人外絡みの事件はおきない。

 そんな中でおれが対処してきたのは、人間によるテロ行為や密売行為だった。その際には、少ないが命を落とす同僚もいたが。

「だけどルナは違う。あいつがただ運が悪いだけならいいんだ。ほら、見た目は子ども頭脳はなんちゃら、のアニメみたいに、毎週殺人事件にあいます、ってのがさ、現実になったみたいなことだから」

 それはそれでどうかと思うが、おれはとりあえず頷いた。赤井先輩はチラチラと周りに視線を投げかけながら続けた。

「でも一部の機動班はこう考えてる。ルナが犯人を切り刻んでるんじゃないかってな。それで、目撃してしまったバディが、イカレるか、目撃してしまったが故に殺されたのか、そのどちらかなんじゃないかと、」
「そんなわけない!!」
「お前にとってはそうだろうな。でも実際、途中で有耶無耶にされてしまったが、本町とエリスの件はほぼ確定しているんだ。ルナに関わるあの件で吸血鬼に殺されたって」

 思わず大きな声で反論したが、確かに、本町とエリスのことは、しっかり聞いたわけではないがルナがその真相を知っているのは確かだ。そこにジークが絡んでいてルナは自ら拉致された。

「ルナはそんなことしません」

 おれはもう一度そう言ったが、今度は弱々しい声だった。

「でも実際にな、俺たちが必死こいて捕まえた犯罪者である人外がさ、拘置所で消えるって話もあるんだ。そいつらは揃って共通点がある」

 おれはそこで気付いた。赤井先輩が言おうとしていることに。

「ここに収容された吸血鬼連中は、数日以内に存在自体がなかったことにされる。正式に刑務所に行く前なのか、後なのか、それはわからないが。ともかくいつの間にか消えてしまうんだ」
「それはでも、噂なんですよね?」
「まあそうだけど。でも今回の件ではっきりわかったことがある。ルナはさ、ベルセリウスっていうちょっと特殊な家系の吸血鬼だろ。そいつらは罪を犯した同族を狩るんだってな。だったら辻褄があってしまうだろ?」

 今回の件というのは、ルナが拉致され、その過程でルナの兄たちがベルセリウスの名を出して捜索させたことを言うのだろう。

 おれはルナのベルセリウスとしての役割を明確に知っている。それを誰かに言うつもりは一切ないが、憶測に憶測を重ねた噂話ほど怖いものはない。

 認めたくはないが、疑われても仕方がないと思ってはいる。

 そして最近、署内でヒソヒソと噂されているのも、ルナに関してのものであることを、おれは認めたくなかった。

「でさ、最近また噂されてるだろ。一家惨殺とかさ、そういう大きな事件が、署内で揉み消されてるってやつ。あれな、その殺された奴らが、ルナの件で関わった人間らしいって」
「そんなの信じられません!おれは、ルナが戻ってくる条件のひとつとして、常にGPS信号を確認するように言われています。それは署長や病院の医師、ルナの兄も同じです。でもルナはいつもおれのそばにいます」
「お前が寝た後はどうだ?それで、お前だげが知らないことがあるかもしれないだろ?GPSなんてただの電気信号だ。例えばお前以外の誰かが、その信号を遮断して隠蔽したら、お前はルナの居場所がすぐにわかるか?むりだろう?だから、噂は飛び交うし真相は本人にしかわからないんだ」

 おれは胸がズキリと痛む感覚に顔を顰めた。

 確かに赤井先輩の言う通りだった。多額の寄付金で口を閉ざす署の上層部。そこと繋がっている病院兼研究所。なによりルナの兄たちは、完全にルナの意思を尊重している。

 そしておれは知っていた。

 夜中に部屋を抜け出して、どこかへ行っているルナを。

 そして寝不足で帰ってくるのを、おれは知っている。

 最近のルナはどこかおかしい。

 前までは、やる気のないチャランポランな奴だったが、最近のルナは違う。どこか空気が張り詰めていて、そして、平気で突拍子もない行動をとる。

 例えばあの、天使と悪魔の交通事故の現場に出向いた時。

 武器を隠し持っていたのは許されることではなかった。しかしルナは、一瞬で武器を奪い、そして彼らを、下手したら殺していたのだ。

 いくら人間より頑丈な人外でも、肺を潰されたり首を斬り飛ばされて無事なわけがない。

 それを知っているはずなのに、ルナは何の躊躇いもなく行動した。おれが止めていなければ、ルナはそこに血の海をつくっていただろう。

 それ以外にも、同じ部屋で、バディ以上に恋人として、ルナと過ごしていてその変化に気付かないわけがなかった。

 ルナ本人がそんなつもりはなくても。

「まあだからさ、ルナには気を付けろ。お前、自分の血をやってるんだろ?ずっと、それこそ80年もの長い間、人工血液だけでやってきたんだとしたらさ、人間の血を得ている今、ルナはどんな気分なんだろうな……俺はさ、機動班に入ってからもう10年くらいタバコ吸ってないけど、もう一度始めたらやめられないだろうなって思うんだけど……吸血鬼にとっての血はそんなものと比較できないと思うぜ」

 赤井先輩は苦笑いを残して行ってしまった。

 ルナは、本当に自分に関わった人間を殺してまわっているのだろうか。

 信じたくはなかった。だっておれは、ルナを愛しているから。

 だからこそすぐに疑うことができなかった。

 例えばルナが、夜中にこっそり部屋を出ている事実を。

 僅かに飛んだ血が、シャツについたままだということも。

 そして、どこか冷たい目をしていることも。蔑んだような目は、おれにも向けられているような気がして。

 支離滅裂な発言や行動と、それらを取り繕おうとしているルナの、痛々しい葛藤を間近で感じている。

 おれはどうすればいいのだろう。

 おれは別にどうでもいいんだ。お前がそれでいいのなら、おれは受け入れようと思っているんだ。

 でもおれは以前、無意識に言った。

 復讐で人間を殺すな、と、そんなようなことを。

 だからルナはおれには何も言わない。

 時々起こるフラッシュバックも、全部自分の弱さのせいだと思い込んで。

 追い詰めてしまっているのは、きっとおれなんだろう。
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