追想

秋音なお

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俯瞰している。

捨て子のアリア

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 ずっと思い出そうとしている。
 幸せだった日々のことを、思い出そうとしている。
 リノリウムで作られた六畳一間の一室。
 ツンと鼻を突き刺すエタノールの臭い。
 膝を抱えて見つめるのは何も無い壁。
 くだらないことにばかり頭を使っている。

 もうどれくらいの時間が流れたんだろう。
 窓も無いこの部屋じゃ、外のことはなにもわからない。
 私がここに居る間に何度季節が巡ったことだろう。
 想像すらつかない。
 数えることすら億劫になるほど、私はここに居る。

 部屋は恐ろしく冷静に殺風景だった。
 ベッドに小さな机。
 あとは大して収納もできない棚がひとつだけ。
 テレビのひとつも置いてない。
 同居人が居るはずもない。
 ずっとこの部屋にいるのは私だけ。
 狂いそうになるくらいの孤独を抱えている。

 とっくに声の出し方も忘れた。
 自分の声がどんなものだったのか。
 それすらも思い出すことが難しくなってきていた。
 それくらいに途方もない孤独を食べている。

 だが、孤独だけでは腹を満たすことができない。
 いくら冷めた人生を暮らしていても人間だから腹が減る。
 そんな時はボトルに入った錠剤を飲んで過ごしていた。
 中身や成分は知らない。
 ただ、飲むと一時の間、心が報われるような感覚になった。
 錠剤を二十程、ミネラルウォーターで流し込むだけ。
 それだけで得られる春のようなささやかな温もり。
 私はそれが好きだった。

 代わりと言うと変だが、私はその分固形物を食べなかった。
 生まれつき少食だったがそれは関係ない。
 ある日を境に料理されたものを受けつけられない体になっていた。
 料理というのは基本的に人が行うものだ。
 食べる人のことを思い、考え、料理は行われる。
 そしてそこには、形や量は違えど必ず作り手の愛が宿っている。

 その愛とやらを私の心と体がアレルギーのように嫌った。

 愛なんてもの、もうこりごりだ。
 愛なんて曖昧なものに金輪際触れたくない。
 あぁそうだ、きっとそうだ。
 愛なんて最初から存在しないんだ。
 あんなもの、誰かの作ったただの紛いものだ。
 愛なんて所詮ただの毒だ、遅効性の猛毒だ。
 だからこんなにも苦しくて仕方がない。
 触れることに怯えてしまう。

 ……だから、私はずっとここにいるんでしょう?

 私はボトルを開けて浴びるように錠剤を呷った。
 ミネラルウォーターすら邪魔だった。
 食事のように錠剤を飲んだ、飲み続けた。
 ボトルからは終わることなく永遠に錠剤がこぼれる。
 だから私も同様に錠剤を胃袋へと流し続ける。

 ずっと、ずっと溢れていく。
 ずっと、ずっと、ずっと飲み続けていく。

 なのに胃袋は少しも音を上げない。
 するりするりと錠剤を収めていく。
 ついには体より先に心が音を上げて、ボトルを呷る手を下ろした。

 喉がひどく乾いている。
 呼吸が荒くなっていた。

 幸せなんて本当はなかった。
 思い出せるような幸せなんてきっとなかった。
 最初から私は不幸だった。
 幸せだと思いたかったのはきっとただの現実逃避だ。
 本当にくだらないことにばかり頭を使っている。
 本当にくだらない。

 くだらないよ、本当に。

 私は本当に、不幸だったんだ。
 不幸だから捨てられた、捨てられてしまった。
 だからこんな無機質なリノリウムに囲まれている。

 最低だ。
 大嫌いだ。
 うんざりだ。

 どうして抱きしめられたあの日のことを思い出してしまうんだ。

 あなたの体温が体から抜けなくなってしまうんだ。
 あんな言葉は全部嘘。
 あなたを責められないんだ、嫌いになれないんだ。
 あの瞬間感じた温もりひとつ、信じてしまう私がいる。
 嘘だとわかっているのに、微かな可能性に縋ってしまう。

 あの日、別れ際にくれた羽のような抱擁。
 最後に見せてくれた、朝のような柔らかな微笑み。
 あなたの顔がずっと浮かんでそのまま消えなくて。
 だからご飯だって喉を通らない。
 あなたの作ったものが食べたくて、
 それ以外のご飯なんて食べたくなくて、
 あなた以外のご飯から愛なんて感じたくなくて。
 私はあなたからの愛が欲しいんだよ、今も。

 ねぇ、今もずっと。
 これからもずっと。

 頬を伝うのは悲しみでも苦しみでもなくて寂しさ。
 私はずっとその雫を拭われる日を待っている。
 あなたのその両手で拭われる日を待っている。
 この落涙を、もう一度だけでもいいから。

 飲みすぎた錠剤の影響か、頭が重くなる。
 今日もまた、諦めるようにベッドへ体を落とす。
 今が朝なのか昼なのか夜なのか見当もつかない。

 世界の端っこでただ孤独に目を瞑る。
 意識をゆっくりと体から手放す。
 あなたのことを考え、思いを馳せる。
 私はずっと、あなたのことを待っている。

 なのにどうして、夢の中すらあなたに会えないんだろう。
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