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岸根リョウという作家がいた。
『雪国は。』
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長く暗いトンネルを抜けると、全景は白く、雪国が広がっていた。
終点に停まった列車を降りる。底冷えた空気に触れ、思わず「寒っ」と感想が漏れた。コートもマフラーも身につけていたが全然ダメだった。そしてここで不便だからと家に置いてきた手袋の存在をひどく後悔した。痺れるように手先が痛い。雪国というのはこんなにも寒いのか。
君がいたら、この冷たい手を握ってくれたんだろうか。
両手をコートのポケットに突っ込み、雪化粧の町を歩いた。町は本当に文字通り白一色に染められており、僕の吐いた息の白が負けてぼやけてしまうほどに白い。僕の住む町との明確な違いに少し心が揺れる。
ここは雪国。君の生まれ育った町だ。
君が生まれ、僕と出会うまでの二十年弱を過ごした町。僕は今日、初めてこの地を訪れた。君はよく「生まれ故郷は田舎だし、本当に何もないよ」なんて言っていたけど、この景色すらも新鮮だった。僕らの……、僕の住んでいる町はあまり雪が降らなかったし、降ったとしても積もることはほとんどなかった。もし仮に積もったとしても午後には大半が溶けてしまう。それが日常としてインプットされていた僕には、雪国というもの自体が好奇心の対象として大きかった。
そして僕は君の生まれた町を歩いた。町に散らばった君の足跡をたどるよう、君に関連する地へと赴く。君の生まれた町は僕の住んでいる町同様、君のいない町だというのに。
君の母校に、最寄りの無人駅。
誰かの作った雪だるま。
軒下に伸びたつらら。
懐いたように僕の後ろをついて来る野鳥。
君の影を探すように足を進める。
この町に来たのは、気の迷いかもしれない。
ある日急に君のことが恋しくなった。普段から君のことは恋しいがその比にもならないくらい、急激に君が恋しい。会いたくなった。会えるはずもないのに、会いたくてたまらなくなった。理由はわからない。積もり積もった満たされぬ心か、色のない日常からの逃避か。或いは生きることへの飽和か。やっぱり理由はわからない。ただひとつ言えるのは、この感情はたまたまだとか気分だとか、そんな簡素な言葉なんかじゃ片付けられないくらいに肥大化しているということだった。
そんな思いを胸に君の生まれた町を歩いている。
ここに来れば、何かが見つかるかもしれない。何かが満たされるかもしれない。ただその一心だった。何かが得られたらそれでいいと思っていた。
でもやはり何も得られなかった。
この町にも君がいない。
ただ現実が突きつけられるだけだった。
スマホを使って君の名前の由来にもなった桜のある公園にも行った。公園の丁度真ん中あたりに本当に大きな桜の樹がそびえ立っており、その枝を広げる姿も目にした。圧のような存在感に僕は息を飲んだ。でも、それだけだった。季節が悪かったのか、雪化粧の桜ではただの感想しか浮かばない。君の匂いが一番するはずだというのに、桜のことを桜の樹としか見ることができなかった。これならば見なきゃ良かったとすら思った。こんな寒い思いをして、得られたものは何もなかったんだから。
日も落ち始めた頃、もう家へ帰ってしまおうかと思ったが、あまりにも指が悴んでしまい、逃げるように駅前のカフェへと入った。半分ほどの席が埋まっており、ほどよく賑わっている。空いている席へどうぞ、と促されたためすぐ近くの窓際、向かい合うように二つの椅子の並ぶテーブルへと座った。しばらくして店員が来たのでコーヒーを一杯、と短く頼む。
「ご注文は以上でよろしいですか?」
「はい。それで……」
店員の確認を頷こうとした時、ふと目先のテーブルで談笑する女学生の姿が目に入った。手元にはパンケーキがたたずんでいる。パンケーキにホイップクリーム、イチゴの添えられた一皿。ありふれたものだというのに、どうしてかそのパンケーキがひどく目を引いた。
……そう言えば、君は甘いものが好きだったね。
「……やっぱり、パンケーキもひとついいですか。あそこの席の子たちが食べてるのと同じものを」
「パンケーキが一皿、ですね」
「あと、コーヒーをもう一杯」
「コーヒー、ですか。二杯目がご希望でしたら後から淹れたてのものをお持ちしますけど」
「いえ。二杯、でお願いします」
「はぁ。かしこまりました」
店員は少し首を傾げながら僕のおかしなオーダーを厨房へと持ち帰った。そうしてしばらくするとさっきの店員が二杯のコーヒーとパンケーキを持ってくる。僕はそれを向かい合う席それぞれの手元へ並べるよう頼んだ。店員はそれこそ最初は不思議そうな顔をしていたが、僕から何らかの意図を汲み取ったのか、希望通りに並べてくれた。互いの席にコーヒーが一杯、そして君の元へとパンケーキを一皿。ごゆっくりどうぞ、と店員は厨房へと戻る。
窓際の席に僕は一人、君と駅前のカフェで暖を取っている。
「パンケーキ、好きだったっけ」
僕は小さく誰にも聞こえないよう、君にだけ聞こえるように尋ねた。少しの間が空く。もちろん、答えは返ってこない。
あぁ、そうだよな。わかっているよ。
僕は現実の冷たさをコーヒーに混ぜて呑んだ。それ以上の言葉は口にせず、ただ自分のコーヒーに口をつける。体は温まっても、やはりどこか悴んだままだ。
それが少しだけ、悲しい。
コーヒーを飲み終えても君はパンケーキどころかコーヒーにも口をつけていなかった。お気に召さなかったのかもしれない。そういえば、君はイチゴよりもみかんが好きだったな。もうひとつのパンケーキにしたら良かったかな。これは君のために頼んだものだからそのままにして帰ろうかとも思ったけど、どうも申し訳なさが勝ってしまって「ごめんね」と一言添えてそれらを腹に収めた。コーヒーもちゃんと君の分まで飲んだ。そして会計を済ませて僕だけが店を出る。外はやはり空気が鋭く、刺すように痛い。
窓際の席に、やっぱり君はいなかった。
終点に停まった列車を降りる。底冷えた空気に触れ、思わず「寒っ」と感想が漏れた。コートもマフラーも身につけていたが全然ダメだった。そしてここで不便だからと家に置いてきた手袋の存在をひどく後悔した。痺れるように手先が痛い。雪国というのはこんなにも寒いのか。
君がいたら、この冷たい手を握ってくれたんだろうか。
両手をコートのポケットに突っ込み、雪化粧の町を歩いた。町は本当に文字通り白一色に染められており、僕の吐いた息の白が負けてぼやけてしまうほどに白い。僕の住む町との明確な違いに少し心が揺れる。
ここは雪国。君の生まれ育った町だ。
君が生まれ、僕と出会うまでの二十年弱を過ごした町。僕は今日、初めてこの地を訪れた。君はよく「生まれ故郷は田舎だし、本当に何もないよ」なんて言っていたけど、この景色すらも新鮮だった。僕らの……、僕の住んでいる町はあまり雪が降らなかったし、降ったとしても積もることはほとんどなかった。もし仮に積もったとしても午後には大半が溶けてしまう。それが日常としてインプットされていた僕には、雪国というもの自体が好奇心の対象として大きかった。
そして僕は君の生まれた町を歩いた。町に散らばった君の足跡をたどるよう、君に関連する地へと赴く。君の生まれた町は僕の住んでいる町同様、君のいない町だというのに。
君の母校に、最寄りの無人駅。
誰かの作った雪だるま。
軒下に伸びたつらら。
懐いたように僕の後ろをついて来る野鳥。
君の影を探すように足を進める。
この町に来たのは、気の迷いかもしれない。
ある日急に君のことが恋しくなった。普段から君のことは恋しいがその比にもならないくらい、急激に君が恋しい。会いたくなった。会えるはずもないのに、会いたくてたまらなくなった。理由はわからない。積もり積もった満たされぬ心か、色のない日常からの逃避か。或いは生きることへの飽和か。やっぱり理由はわからない。ただひとつ言えるのは、この感情はたまたまだとか気分だとか、そんな簡素な言葉なんかじゃ片付けられないくらいに肥大化しているということだった。
そんな思いを胸に君の生まれた町を歩いている。
ここに来れば、何かが見つかるかもしれない。何かが満たされるかもしれない。ただその一心だった。何かが得られたらそれでいいと思っていた。
でもやはり何も得られなかった。
この町にも君がいない。
ただ現実が突きつけられるだけだった。
スマホを使って君の名前の由来にもなった桜のある公園にも行った。公園の丁度真ん中あたりに本当に大きな桜の樹がそびえ立っており、その枝を広げる姿も目にした。圧のような存在感に僕は息を飲んだ。でも、それだけだった。季節が悪かったのか、雪化粧の桜ではただの感想しか浮かばない。君の匂いが一番するはずだというのに、桜のことを桜の樹としか見ることができなかった。これならば見なきゃ良かったとすら思った。こんな寒い思いをして、得られたものは何もなかったんだから。
日も落ち始めた頃、もう家へ帰ってしまおうかと思ったが、あまりにも指が悴んでしまい、逃げるように駅前のカフェへと入った。半分ほどの席が埋まっており、ほどよく賑わっている。空いている席へどうぞ、と促されたためすぐ近くの窓際、向かい合うように二つの椅子の並ぶテーブルへと座った。しばらくして店員が来たのでコーヒーを一杯、と短く頼む。
「ご注文は以上でよろしいですか?」
「はい。それで……」
店員の確認を頷こうとした時、ふと目先のテーブルで談笑する女学生の姿が目に入った。手元にはパンケーキがたたずんでいる。パンケーキにホイップクリーム、イチゴの添えられた一皿。ありふれたものだというのに、どうしてかそのパンケーキがひどく目を引いた。
……そう言えば、君は甘いものが好きだったね。
「……やっぱり、パンケーキもひとついいですか。あそこの席の子たちが食べてるのと同じものを」
「パンケーキが一皿、ですね」
「あと、コーヒーをもう一杯」
「コーヒー、ですか。二杯目がご希望でしたら後から淹れたてのものをお持ちしますけど」
「いえ。二杯、でお願いします」
「はぁ。かしこまりました」
店員は少し首を傾げながら僕のおかしなオーダーを厨房へと持ち帰った。そうしてしばらくするとさっきの店員が二杯のコーヒーとパンケーキを持ってくる。僕はそれを向かい合う席それぞれの手元へ並べるよう頼んだ。店員はそれこそ最初は不思議そうな顔をしていたが、僕から何らかの意図を汲み取ったのか、希望通りに並べてくれた。互いの席にコーヒーが一杯、そして君の元へとパンケーキを一皿。ごゆっくりどうぞ、と店員は厨房へと戻る。
窓際の席に僕は一人、君と駅前のカフェで暖を取っている。
「パンケーキ、好きだったっけ」
僕は小さく誰にも聞こえないよう、君にだけ聞こえるように尋ねた。少しの間が空く。もちろん、答えは返ってこない。
あぁ、そうだよな。わかっているよ。
僕は現実の冷たさをコーヒーに混ぜて呑んだ。それ以上の言葉は口にせず、ただ自分のコーヒーに口をつける。体は温まっても、やはりどこか悴んだままだ。
それが少しだけ、悲しい。
コーヒーを飲み終えても君はパンケーキどころかコーヒーにも口をつけていなかった。お気に召さなかったのかもしれない。そういえば、君はイチゴよりもみかんが好きだったな。もうひとつのパンケーキにしたら良かったかな。これは君のために頼んだものだからそのままにして帰ろうかとも思ったけど、どうも申し訳なさが勝ってしまって「ごめんね」と一言添えてそれらを腹に収めた。コーヒーもちゃんと君の分まで飲んだ。そして会計を済ませて僕だけが店を出る。外はやはり空気が鋭く、刺すように痛い。
窓際の席に、やっぱり君はいなかった。
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