追想

秋音なお

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岸根リョウという作家がいた。

『創作』

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 僕の書いた小説が売れた。
 正しく言うと、異例の大ヒットを記録した。何度重版を繰り返しても売れていき、僕の名前が世に浸透していく。それだけではない。僕が過去に出した作品もつられるように売れていく。今までの比にならないくらいに売れた、売れてしまった。驚きを超えて恐怖すら感じた。
 きっかけになったのは、数ヶ月前に出版した短編集だった。君のいない喪失感を起爆剤にして書き殴った作品たちをまとめたものだ。人に見せるためというよりは、部屋のパソコンのフォルダに眠っていた作品たちから選りすぐりのものを整列させたような短編集。
 これが飛ぶように売れた。
 店頭での完売はもちろん、オンラインショップにて『SOLD OUT』の表示すらあったらしい。インターネットを覗けば作品は高評価の嵐で、その数は追えないほどに寄せられていた。文字通り、夢のような現実だ。現実を飲み込めず、戸惑う僕のことなんてお構い無しに世間は僕の作品に夢中だった。

 そこから大した時間も経たずに僕は有名小説家になった。

 その称号の副賞のように莫大な印税も手元に入った。売れた数なんて興味もないから聞かなかったが、風の噂によると件の短編集だけで百万部以上刷られたらしい。それだけ僕の作品は読まれ、需要があるということだ。一人の小説家として凄く嬉しい。小説家にとって、これほどまで嬉しいことはない、……はずなのに。

 ……どうしてだろう。
 つまらないと思ってしまうのは。

 ……あぁあ、小説家なんてもう飽きてしまったな。
 
 自分の中で創作に対する熱が冷めていく感覚があった。
 僕が小説を書いていたのはお金のためなんかじゃない。ただ、自分の書きたいと思ったものを書くことができればそれで良かった。それだけで良かった。

 だから僕は君のことを書いた。
 何度だって君を書いた。
 今は亡き君を小説の中で何度も生かした。
 それだけで良かったんだ。
 売れてしまったのは失敗だった。
 ここまで広く売れてしまったことに、言い表すことのできない罪悪感と嫌悪感を抱いた。

 ……僕の小説は、僕の中だけで自己完結すべきだった。

 これじゃまるで、君を使ってお金を稼いでいるみたいじゃないか。
 君の命を、君の死を、お金に替えているみたいだ。
 それがとてつもなく気持ち悪い。
 君がお金になっていく、その一部始終を見ているみたいだ。
 こんなくだらないことがしたくて僕は小説家になったんじゃない。
 君を小説の中に宿したんじゃない。
 富や名声、そんなくだらないもののために僕は小説を書いていたんだろうか。
 こんなお金ごときで君の命が片付いてたまるか。
 君の人生はもっと、もっと、……もっと、もっと……。

 ……そう、思っているのに。

 どうして、売れるとはこんなにも気持ちいいんだ。
 どうして、僕は売れていく僕の小説から目を離せないんだ?

 気持ちよくて仕方がない。有名になることもだ。
 ただの大衆の一人だった僕が今じゃ街を歩けば声をかけられる有名人だ。気持ちよくないはずがない。
 有名になった現実に浮かれ、喜ぶ僕がいた。

 最低だ、最低だ。
 最低だ最低だ最低だ最低だ。

 僕は、最低な人間だ。

 こんなの矛盾している。矛盾しているはずなのに、やめられない。あと少しだけ、もう少しだけ、君のいない喪失感から逃げるように僕は有名人という夢に酔いしれた。聞こえのいい言い訳をするとしたら、これは現実逃避だったのかもしれない。
 あぁ、そうだ。これは現実逃避だ。
 僕は悪くない。僕はただ、君を失ったあの日から空いた穴を満たして欲しい、ただそれだけなんだ。
 オファーを受ければいくらでもインタビューに答えた。雑誌にネット記事、ある時は顔を隠してテレビ出演もはたした。どのインタビューも蓋をあけてしまえば大抵が似たり寄ったりの内容だった。そんなインタビューに対して、僕は浮ついた言葉、陳腐な言葉を返していく。

 もうどうにでもなれと思っていた。
 もう創作する気なんてさらさらなかった。

 君のことだって、もう書かなくなっていた。ネタが尽きたわけじゃない。ネタは探せばきっとまだあった。でも書かなかった。書こうと思わなくなっていた。別に書けなくとも、今後小説を発表しなくとも、僕の手元には一生分の財産があった。罪悪感なんて忘れて僕は好き勝手に暮らした。
 いつからかインタビューへの答えには、僕の人生や想い出、大切にしていたはずの心までも切り取った言葉が混じるようになっていた。時には表現の自由という言葉で許されるギリギリのことだって話した。そんな僕を叱る人間なんて誰もいない。盲目的な世間にはこんな僕すらもウケた。まるで体のいい偶像崇拝だ。

 僕の人生を捧げた創作というのは。
 こんなにもチープな文化だったのだろうか。

 小説とはもっと、違ったものじゃなかっただろうか。

 僕の追いかけていた巨匠は、名作は。
 こんな形だけの創作だったんだろうか。

 時が経つにつれ、心の温度が冷えていく。人間らしい感情が、君が好きだったはずの僕が消えていくのがわかった。


 ある日、世の中の熱が少し冷めた頃、僕の作品を映像化したいという話が来た。言うまでもなくその作品というのは、あの短編集だ。あの作品の文学的な美しさを是非映像という別の形で表現したい、ということだった。なんともありきたりな文句だ。今までだったら断ったかもしれないが、僕は何も考えずに二つ返事で承諾した。もう欲しいものなんてなにもなかった。ただ、僕の作品が映像になることで何かが変わるかもしれない、何かが得られるかもしれないと思った。
 この頃にはもう、僕は創作をしなくなっていた。アイデアを探すことすらしなくなった。執筆用のパソコンはネットサーフィンに使われ、原稿用紙は買わなくなった。万年筆のインクも乾いて使えなくなっていた。
 そしてその映像化の話は順調に進み、しばらくすると映画として全国の映画館で上映された。関係者が最高の出来だと喜ぶ中、

 僕は一人、この映画のことを許せなかった。

 シナリオは申し分無かったし、カメラワークも劇中歌も良い。ただ、作品のヒロインを演じた一人の女優のことだけが、どうしてもどうしても許せなかった。

 あの作品のヒロインは君だ、君だけなんだ。
 君だからあの作品が成り立ったんだ。
 なのにあれはなんだ。
 スクリーンに写るヒロインは君じゃない他の誰かだ。
 他の誰かが、君の名前を名乗っている。
 あんなの、気持ちの悪い偽物だ。吐き気がする。

 わかっていたはずなのに、目にすると見るに堪えない。

 こんなことがあっていいのか。
 もう我慢ならない。
 僕の作品を汚すな。
 君のいないこの作品に価値があってたまるか。
 こんなものが売れてたまるか。

 ……あぁ、このまま売れなきゃいい。

 コケてしまえばいい。
 この際僕の名声が消えたって構わない。
 大失敗に終わってしまえばいい。
 こんなもの、売れるはずもないんだ。
 あぁそうだ、きっと売れないに決まってる。
 そうだ、そうだ。だから大丈夫だ、この作品はきっと。
 ……そう思っていたのに。

 映画は僕の意に反して大ヒットした。

 考えてみればそうか、原作があんだけ売れたんだ。そりゃ売れるに決まっている。テレビのコマーシャルでは内容はもちろん、来場者数や興行収入が謳い文句になっていた。人が人を呼び、拍車をかけるように売れていく。まるで短編集が売れた時と同じだ。あの時と同じような景色が目の前にある。

 なのに、全く嬉しくない。

 世間がヒロインの演技を褒める度、僕の心臓はおかしな挙動をみせた。世間があの映画を受け入れる程、世間の解釈が僕の解釈と遠のいていく。僕の思い描いていたはずの作品からずれていく。僕の創作した作品が、どんどん別の色に染められていくのがわかった。こうして、今度は君のことまでも、変えてしまうのだろうか。

 変わっていくのだろうか。
 誤った君を愛していくのだろうか。

 怖くなった。

 目の前にあるテレビへリモコンを投げた。
 液晶にヒビが入った。

 自室のノートパソコンを何度も机に叩きつけた。
 形の歪んだオブジェになった。

 作品未満の書きかけのメモも全部破った。
 ゴミのような花吹雪が舞った。

 今までに出版した本もライターで燃やした。
 焦げた臭いが鼻の奥をつんと刺した。

 でも足りない。まだ足りない。僕は足りない。
 僕の創作に関わる全てのものを消し飛ばしたい。
 僕の創作は芸術なんかじゃない。

 ただの大罪だ。

 愛していた君のことを汚してしまった。
 許されてたまるものか、何よりも僕が僕を許せるか。
 もういっそこの世の全てが無くなってしまえ。

 思うまま、力のままに部屋を荒らした。音が響く度、何かの形が崩れる度、一瞬だけ息が吸えた。だけど息を吸えるのはその一瞬だけ。だからまた次の呼吸がしたくて衝動のままに破壊する。もうどうだっていいんだ、小説なんてもううんざりだ。このまま全部無かったことになればいい。
 そして気づけば部屋はゴミの山になった。ゴミに囲まれるように息の切れた僕が立っている。とても心は清々しく、同時に体は鉛のように重かった。脈打つ心臓だけが生を示していた。
 キッチンへ重い足取りで向かう中、何か固くて細いものを踏んだ。ふと足元を見ると、そこにはペン先の壊れた万年筆が一本、転がっている。それは僕の唯一持っている万年筆で、もう何年も使い古していた愛用品。創作をする時は必ずこれを使っていた、一番付き合いの長い相棒。そして、これは君が初めて僕にくれたプレゼントだった。

 ……僕は、こんな大切なものすら壊してしまったのか。

 僕という人間に、心底愛想が尽きた。
 涙も出なかった。もう殺してくれ。
 いっそ殺してくれる方が楽だ。
 死んでしまいたい。
 でも死んでも君に合わせる顔がない。
 僕は地獄に行こう。

 いや、僕の地獄行きはもう決まっているかもしれない。

 こんなにも罪を犯したのだから。
 創作も、君のことも汚してしまった。
 その罪はあまりにも大きい。

 ガラクタの中で僕は、唯一君の匂いがしそうな万年筆を拾い上げ、そっとペン先を撫でた。万年筆は黙りこくったまま冷たくなっている。インクはとっくに乾いて漏れていなかったが、それこそ僕が創作という君から離れていた時間の何よりの証明だった。
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