追想

秋音なお

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岸根リョウという作家がいた。

『大根役者』

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「僕の人生を買い取ってください」

 僕は今、廃れた町を抜けた先にある半壊した町工場の一室にいた。言うまでもないが建物の中は物が四方八方に散乱しており、至る所で砂や埃にまみれている。
『では、何年分を希望されますか?』
 向かい合うように立つ人型の存在は、淡々とした口調で僕に尋ねた。シルエットはまさしく人型なのだが、深くフードを被ったローブ姿の彼からは人間と表すにはいささか無理のある、ノイズのような声が出てくる。それはまるで、アニメや漫画の世界に出てくる、別次元の世界からやってきた高度な知性を持つ生命体みたいだった。そんなチープな感想ばかりが浮かぶ。
「僕の寿命から一日分を除く、残りの全てをお願いします」
 彼のなんとも言えないオーラに負けないよう、彼にペースを奪われないよう、平然を装い、彼に倣って淡々と答えた。その言葉は大層つまらなく響き、そしてすぐに消える。彼はその余韻すらもきちんと聞き届けると、ほう、と言葉を漏らした。
『それはつまり、貴方様に残っている余命、六一年と一四三日の内、六一年一四二日分を買い取って欲しい。こちらでお間違いないでしょうか』
「……はい」
 そんなにも僕に人生が残っているなんて思わなかった。不摂生とまでは言わないが、見る人が見れば指をさすような生活。喪失感に身を任せた日々。その割には意外と余命が残っていて、売ってしまうのはどこかでもったいないような気もする。そんな、迷いのような心情に息苦しさを覚えた。
『我々としては、貴方様のような内容の買取希望であったとしても、基本的には喜んでお受けいたします。ですが、どうしてこうも極端な買取を? せっかくの人生、一日しか残らないのであれば、どんなに巨額のお金を得たとしても使い切れないでしょう』
 人の命は安くありませんから、と彼は自己啓発本のような言葉を口にする。命を買い取る側の発言としては似合わない、人間みたいな発言に聞こえた。
「お金なんて、この際どうだっていいです」
『はぁ、そうですか』
「はい」
『……でしたら、貴方様は一体なにを所望しているんです? 話し方からして、貴方様が死にたがっているということはなんとなく察しがつきました。ですが、私の中でどうも腑に落ちないのです。死にたいのであれば、勝手に死んでしまえばいい。そう思いませんか? 死にたいという希死念慮から我々の元を訪れるなんて、考えにくいのですが』
 彼にとって僕のような人間、依頼者は珍しいのか、ふむと首を傾げている。
「……貴方は、自殺と病死、あるいは事故死、老衰や他殺。このふたつの違いはなんだと思いますか?」
『違い、ですか』
 彼はわざとらしく首を傾げたまま右手を顎に添える。
『……わかりませんね。見当もつきません。我々からすると死に方こそ違えど、どれも等しく人間の死という認識ですから。それ以上、それ以下でもありませんよ』
 はぁ、と彼は困ったように息を吐く。
『答えを教えていただいてもよろしいですか? 考えたところで、貴方様に納得していただけるような答えが浮かぶとは思えませんから。貴方様の思う、この違いとやらは一体なんなのでしょう』
「前者は指をさされ、後者は指をさされないこと。……少なくとも、僕はそう思っています」
『……と、言いますと?』
「……貴方、本当に俗世に疎いんですね」
 僕が揶揄の意味を込めてそう言うと、彼は『こういう存在ですので』と言い訳のような言葉を返した。そんな言葉で片付けてよいものなのか、これは。
「自殺は人間にとって、社会にとって、やはり間違った行為として認識されている。自殺には、まだ生きられるのにもったいない、産んだ親の気持ちを考えろ、周りの人間のことも考えられないのか、そんな酷評ばかりが飛んでいく。余程の大きく仕方の無い事情、それも手の施しようもないくらいの事情を抱えなくちゃ、自殺は許容されない。悪しき行為として、分類されてしまう」
『へぇ? そうなんですか。人間というのは死に対して独特の思想をお持ちなんですね。初耳です』
「……僕もそう思うよ。でもこっちじゃこれが一般論なんだ。誰も異議を唱えない。なんなら、若くして病死してしまうケースなんかはその生き様が美化されてしまうことだってある。命を全うした、だなんて褒められることもある。短い命だけど幸せだったなんて値をつけられてしまうことだってそうだ。……本当の幸せなんて、本当は誰も知らないはずなのに」
 どうして、誰も彼も自死を許してくれないんだ。
 僕はずっと、あの日から苦しくてたまらないのに。

 誰もその苦しみを、取り除いてくれやしなかったのに。

『……人間の幸せが如何なるものであるのか、一切知りませんが、貴方様が苦悩した末、ここにたどりついたことはわかりました。だからどうか、そうやって俯くのはもうやめにしませんか。貴方様の苦しみは、わかりましたから』
 彼は懐から名刺ほどのサイズをした紙切れを取り出す。
『こちらが、貴方様の人生に対して査定された買取金額になります』
 そこには九桁の数字が並んでいる。
『ご納得いただけましたら、そのままお受け取りください』
「……はい」
 僕は迷わずそれを受け取った。
 金額なんてどうでもよかった。
 お金なんてもう必要ない。
 そんなことは小説の印税で知っていた。
 君を売って得たお金で、僕は生きていた。
 大罪を抱えて、生きていたから。
『……本当に、これでよろしいのですか?』
「今更ですよ、こんなの」
『……そのようなもの、なんですね。人生というのは』
「……もしかして、動揺してたりします?」
『左様で。……なにせ、我々は悪徳業者ですから』
「それ、なにも言い訳になっていないと思いますよ」
 ははは、と乾いた笑いをしてみせる彼はすごく人間臭かった。
『ところで、こちらのお金はどうしましょうか。直接持ち帰っていただくのは物理的に不可能ですし、そうなるとご自宅への郵送か銀行振込になるのですが、お好きな……』
「適当に匿名でどこかのボランティア団体にでも寄付しといてくれますか」
『……全額、ですか』
「ええ、全額」
『……ご自身のために、使われないのですか』
「あまり、物欲とかないんで大丈夫です。今更何かを買ったって、使いようもありませんし」
『……そうですか』
「それに、そんな無駄な使い方してももったいないだけですから。それなら、社会のためになにかしてくれるところへ送ってしまう方がいい。僕が持っていたってどうしようもないし、どうせなら幸せになりたい人のために使うべきだから」
『……わかりました』
「……それに、もう僕は満足してるんで」
 やっと気が晴れた。
 喉のつかえが取れた気分だ。
「僕にはずっと、大切な人がいた。ずっと一緒、離れるものかって、馬鹿なことを考えてしまうくらい、愛した人がいました。……でも、亡くなってしまった。僕の手には届かない、遠く遠く、遙か遠い星の向こうにまで行ってしまった。それがつらくて苦しかった。僕は確かに幸せだった。幸せだったことは嘘じゃない。全て本当のことだ。でももう、過去の話だ。君がいなくなってしまったら、時間も記憶も全て過去のものになってしまう。僕だけが歩いている。変わっていく。そんなの、耐えられるわけがないじゃないですか」

 もう疲れてしまったんだ。
 君のいない日々を、これからと呼ぶことも。
 これでもうおしまいにしよう。
 続きなんて書くものか。
 これが最後の作品だ。
 君と書いて、過去と同意にしたくないんだ。
 僕はずっと、君と横に並んで歩きたかった。
 どうして君ばかりが先を行くんだ。
 君の死を追いかけるばかりの人生なんて散々なんだ。
 君の欠片を拾い歩く人生はもうやめたい。
 思い出さないと会えないなんておかしいじゃないか。

 そんなの、君を攫った花散らしと同じだ。

「僕が自殺すれば、ここに来なくてよかったかもしれない。僕一人で全てが自己完結できる。でも、そしたら社会は僕の自殺を好き勝手にあーだこーだと言い始める。別に、僕のことを好き勝手言うのは構わない、僕が招いたことだ、全て甘んじて受け止めてやる。言いたいやつには言いたいだけ言わせてやればいい。……でも、いつかその言葉の矛先が僕の愛した人に向くかもしれない。君が死んだから、僕が死んだんだって言われるかもしれない。責められるかもしれない。君は悪くない、悪いのは弱かった僕だけだ。それだけなのに、そんなのひどいじゃないか。こんなの、……ただの死体撃ちだ」
『……だから、貴方様は我々の元へ来たのですね』
「……ここなら、好きな分の寿命を売ることができて、死ぬことだってできる。それも死因は病死や事故死といった仕方のないものばかりだ。こんな素敵なことはない。これならみんな報われる。君もきっと許してくれる。僕も安心して、君のことを追いかけることができる」
『……』
 彼はなにか言いたげにしていたが、諦めたようにポケットからひとつのカプセル薬を取り出した。
 赤と白のツートンカラー。
 如何にもこれは薬ですと言わんばかりの容姿。
『……では、こちらをお飲みください。飲んでいただくことで、余命を調節いたします。貴方様の場合、明日の二十四時を目標に五分ほど前から徐々に体から力が抜けるようになります。そして、ゆっくりと眠るように死にます』
「……ありがとうございます」
 僕はそれを躊躇わずにさっさと飲んだ。
 水なしで飲むのはあれだったが、上手く飲み込めたと思う。
 特に体の変化は感じられない。
『では、以上で買取の方は終わらせていただきます』
「ありがとうございました」
『………………あの』
「……はい?」
 彼に背を向け、この一室を出ようと数歩進んだ頃、声をかけられる。振り向くと彼はうつむいており、床を見ていた。呼んだくせに、僕の方を向いていない。
『……我々、いえ、これは私個人としての意見です。だからどうか、聞き流していただいて結構です。ですが、一言だけ』
 彼の声が一瞬だけ、ノイズが除かれたように鮮明になる。
 懐かしいような、記憶の奥にあるような大人の声。
『……私は、貴方様のような人間が自死を選び、静かに消えていくことを悲しく、そして、悔しく思います』
「……大袈裟だと思いますよ、きっと」
 僕は再び背を向けて歩き出す。
 部屋はまた、静かに足音だけを響かせていた。


 そして次の朝が来た。僕の人生、最後の一日。
 でも、だからといって特筆するようなものはなにもなかった。
 ありふれた一日とやらを、敷かれたレールの上をなぞるように過ごした。死が待っているとわかっていたが、なにも特別なことはしなかった。

 あくまで、僕は不慮の病死で終わるんだ。
 不慮の事故を演じなくてはならない。
 舞台は昨日、用意してもらったのだから。
 人生という戯曲、最期くらいは上手く演じなくては。
 僕みたいな大根役者でもできるだろうか。
 きっと、できるだろうか。
 これまでの日々に思いを馳せながら、ただ時間を待った。

 そしてそのまま、文字通りに時間が流れ、夜になった。
 暗いキッチンに一人、マグカップを片手に立っている。
 中身は珈琲にした。
 僕はもうとっくに二人分淹れなくなっていた。
 珈琲を捨てることが面倒になったわけじゃない。
 もったいないと思ったわけでもない。
 きっかけもなかったが、ある日を境に淹れなくなった。
 君のことを書いた短編集が重版を繰り返したあたりか。
 君への罪悪感だったのかもしれない。
 君へ寄り添っていいのか、わからなくなっていた。
 どうやったって僕は大罪人だ。

 僕が許せないのが僕だった。

「……もうそんな時間か」
 マグカップが手から滑り落ち、床に着地、そして盛大な音を立てて爆ぜた。珈琲は水溜まりのように床に広がり、割れたマグカップの破片が浸かっている。夜の海に沈み行く、難破船のように見えた。
「……あっけないものだったな」
 僕はゆっくりと崩れるように水溜まりのそばに座った。
 膝を抱えるように座ると、冬の朝のような微睡みを感じる。
 目を瞑ると暗闇の中になにかが見える。
 ぼやけたなにかが少しずつ、近づいてくる。

 僕はそれを待っている。

 青白い光に包まれているような気分だ。
 まるで海のような、……いや、なにか違うな。
 もっと繊細でほつれるような光。
 柔らかくて、飲むこともできそうな光。
 そのまま体に宿り、内部から漏れるようななにか。

 僕の知らないものだ。

 海が満ちていくような感覚。
 浮力によって生きることを忘れてしまうような。
 だけどどこかで見たような色。

 ずっと奥底で記憶が眠っている。
 僕はそれに手を伸ばしている。
 浮力すら手放し、僕は海底に手を伸ばしている。

 耳も聞こえなくなるような、暗い藍色、輪郭。
 瞼の裏で鮮明になる人影。
 色彩が補われていく情景、思い出。
 振り向く声、笑う姿を。
 シャワー、散歩、マグカップ、喘鳴、供花。

 僕はまた、思い出している。
 走馬灯のように、君を見ている。
 君の人生を見ている。

 目の前に君が立っている。

 瞼を開ける気力すらない。
 両腕も重力に従って落ちている。
 体が床に伏すのも時間の問題だろう。
 意識が残っているのか、それすらわからない。

「……待ってたよ」

 君が笑っている。
 記憶と大差なく、君はやっぱり綺麗だ。

 その声が聞きたかった。

 おぼつかない足取りで君の元へ向かう。
 何から話そうか、何を伝えようか。
 感情だけが先走る。

 僕はどんな風に見えていたんだろうか。
 僕の小説は正しかったのだろうか。

 君は僕のことを許してくれるだろうか。
 後を追った僕を、許してくれるだろうか。

 僕の言葉は届いてくれるだろうか。
 小説は読んでくれただろうか。

 そんなわけがないよな。
 きっと届かないよな。

 わかっているよ。
 それでもいいよ。

 それでもいいから。

「……おまたせ、さくら」

 声にならない言葉を返す。
 心が震えて言葉となる。

 どこかで小さく、物音がした。
 どこかの誰かが、静かに死んだ。
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