追想

秋音なお

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あなたのことを思い出した。

ガラス玉のさだめ

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 瓶ラムネを買った。夜の露店で買った。
 一本のガラス瓶と二枚の硬貨を交換して少し歩く。ざわつく人の波を抜け、神社の境内も抜け、場末のような河川敷にたどりついた。生温い夜風がどこか息苦しくて不快。日はとっくに暮れたというのに空気は一向に冷えない。
 身体中にまとわりつくようなそれらを吹き飛ばしてしまいたくて、瓶ラムネのガラス玉を器具を用いて押しあけた。破裂のような音が鳴って、静かに泡が溢れる。こぼしてしまわぬように口をつけ、喉を鳴らす。
 快晴のような炭酸と甘味が、湯だった脳を鋭く刺した。

 夏の風物詩、風情のあるワンシーン。
 だけど、どこか後ろめたいトラウマのような瓶ラムネ。
 あの日からずっと、僕の頭を引っ掻いている。
 霞む残影に囚われている。

 あの夏をずっと、繰り返そうとしている。


 数年前のあの夏も、僕は露店で瓶ラムネを買っていた。二本分を、でもあの頃は硬貨二枚あれば二本の瓶ラムネがもらえた。懐かしむというよりは、不燃を匂わすような寂寥。追憶に近いような、そんな記憶。
 ひとつ年上で今年が受験生の先輩と二人、あの日も河川敷で並ぶように腰掛けていた。夜風にあてられて、芝生の上で瓶ラムネを呷っているだけ。
 ただ、それだけの夜。

「ラムネ、やっぱ美味しいですよね」
「そうだね。これを飲むと夏なんだなってあたしも思うよ」
 小さく上下する喉元が月明かりに照らされて色めいている。かすかに伝う汗すらもそれを助長している。目を奪われてしまっている本音を隠したくて、先輩に倣って瓶ラムネを呷る。
 ……ラムネって、こんなに甘かったっけ。
「……でも、瓶ラムネって飲む時、このビー玉が邪魔じゃないですか? これのせいで一気に飲めないというか」
「あー、瓶が傾くと中で飲み口を塞いでしまうからね」
「そうですそれそれ。あー、でもあの、あける時のプシュッてするのは好きなんですよ。ビー玉で蓋されてるからできることじゃあるんですけど」
「あれ楽しいよね。あたしも好き。……ねぇ、君は知ってる? このガラス玉、実はビー玉じゃないんだよ」
「え?」
 驚いて横向くと、先輩は目の前でカラカラと瓶ラムネを振って音を鳴らしてみせる。瓶ラムネはもう空になっていた。
「この瓶ラムネの中に入ってるガラス玉。これはね、ビー玉じゃなくて、正しくはエー玉って言うの」
「……エー、玉」
「そう。アルファベットのAのA玉。あたしたちが子供の頃に遊んでたビー玉とは少し違う。……あ、ちなみにこのビー玉のビーもアルファベットのBなんだけどね、正しくは」
「へぇー、知らなかった」
「細かく指摘する人なんてほとんどいないもんね。それでね、このA玉っていうのは瓶ラムネの蓋に使える歪みのないガラス玉のことを言うの。逆を言うと、この瓶ラムネの蓋に使えない規格外のガラス玉がB玉ってわけ。いわゆるB級品ってことだね」
 ひどい名前だよね、と先輩は笑った。でも声がどこか陰っている。無理に笑うような、取り繕うような、人工甘味料のような声。それが耳に残っている。

「……ごめん、変なこと聞いてもいい?」

 先輩は川の向こう側をぼんやりと遠い目で眺めている。
「君なら、どっちのガラス玉になりたい?」
「どっちの、ガラス玉…」
「うん。君なら、どっちのガラス玉として生きていきたいかなって。A玉は名前からして聞こえがいいし、本来の目的である瓶ラムネの蓋にも抜擢される。でも生涯ずっとあの狭い瓶ラムネの中でしか生きられない。対してB玉は生まれた時点でひどい名前だし、瓶ラムネの蓋にもなれない。その代わり玩具としてずっと遊んでもらえる。外の世界を知ることができる。もう一度聞くね。君だったら、どっちの人生を歩みたい?」
 ……難しいと思った。全ての人生、そのどれもが一長一短の人生ならば、どちらの方が結果的に幸せになるんだろうか。人生には確実なる正解がない。だからこそ、人は進むことに足が竦んでしまう。立ち止まってしまう。不明瞭な暗闇を歩くには勇気がいる。その先の未来に怯えてしまうから、僕は何者にもなれないんじゃないだろうか。
「……あたしはね、B玉かなって思うんだ」
「B玉、ですか」
「あたしはね、人生の価値はその人自身に宿るんじゃなくて、その人の生き方や時間に宿ると思っている。その人がいかに優秀で、称えられるような功績を持っていたとしても、その人がその人生を楽しいと思えなきゃ意味がない。そんなの可哀想。それならあたしはどうしようもなくダメ人間でもいいから自分らしく生きたい。……君はどう? あたしと同じ、ダメ人間でもいい感じ? ……それとも、あたしと違って名声のA玉になりたい?」
 先輩が明度の低い弱った目で僕の顔を覗く。
 どうして、先輩の瞳はそんなに力ない蛍火のようになっているんだろう。
 どうしてそんなに、軽くて空っぽなんだろう。
「……僕には、正直わかんないです」
 その瞳からは心の隙間しか汲み取れなくて、深くて暗くて沈んで重くて。
 夜風くらいじゃ靡いてくれなくて、もう。
「僕は馬鹿だし頭も悪いから、優秀になれるならそれでもいいかなって思います。指をさされる代わりに拍手を浴びるのも悪くないかもって羨ましくなります。でも、それが僕のしたいことなのかと聞かれたらわからないです。僕にはやりたいことも将来の夢もなくて、ただ人生を漫然と浪費しているだけで」
 その瞳の意味も、目に映らないならただの半透明で。
「これから先どうしたらいいのかわからないし、このまま大したことも成せないまま、燻るように死んでいくのかもしれません。でもそんな人生の方が僕らしいかもなって思えてしまって、仕方ないよなって腑に落ちるんです。でも、そんな自分をやめたいと思う僕もいて、ぐちゃぐちゃになります。……すみません、全然まとまらなくて」
「大丈夫だよ。……君らしいね、そういうところ。……でもあたしは君のそういうところ、嫌いじゃないよ」

 口から飛び出したのはただの不安感。
 先輩の問いには相応しくない弱音。
 葛藤なんて言葉で片付けていいのかもわからない迷走。
 その瞳の奥を覗きたいのに空回りする僕の具現。

 生きるってなんなんだろう。

 せめて僕も、ガラス玉だったら楽だったんだろうか。
 ガラス玉越しならば、先輩の心も覗けたんだろうか。

「……あたしからすれば、君のことが羨ましいよ」
「……え? 今、なんて」
 先輩の吐いた言葉は小さすぎて、夜風に揉まれて曖昧に崩れてしまう。
 鼓膜が拾いきれなかった。
「ううん。なんでもない。……帰ろっか」
 腰を上げ、歩き出す先輩を追うように僕も立ち上がる。
 いつの間にか夜風が冷えている。
 背を押すように吹くくせに、無責任に冷たいだけの夜風。
 今となってはそれすらも恨めしい。

 だから僕は、ずっとこの夜を反芻してしまう。


 それからすぐに先輩は亡くなった。亡くなったという表現は正しいのだろうか、死因は入水自殺だった。あの後、あの河川敷の下流でボロボロの遺体となって発見された。暑いはずの夏が嘘のように冷えたことだけを覚えている。

 そしてここから先の独白は、限りなく真実に近く、されど確証のない話だ。聞き流してもらってもかまわない。
 先輩の家は異常なまでの実力至上主義だった。代々医者の家庭で、一人娘である先輩も先代に倣って医者になることを強要されていた。実際、先輩は頭が良かった。両親からしても自慢の娘で、このまま順調に医者になるんだと思われていた。
 でも、先輩は両親に大学にすら行かないと言った。音楽を生業にしたいと言った。高校を卒業したらそのまま上京すると伝えたらしい。それをこの両親が許すはずがない。当然修羅のような口論に発展し、その怒りは先輩の愛用していたギターへと矛先を向け、結果ギターは真っ二つに折られてしまった。
 二人並んで瓶ラムネを呷った、あの日の昼のことである。

 今になって思う。先輩はあの日、あの瓶ラムネに閉じ込められていたA玉に自身の人生を投影していたんじゃないか、って。だから、B玉になりたかった。自由に外の世界へと足を踏み入れたかった。それを僕は、気づけなかった。なにもできなかったことを悔やんでいる。後悔が思い出なんて綺麗なフリして記憶を引っ掻いている。
 あの日、僕がなにか気の利いたことのひとつでも言えたら、救えていたんだろうか。あの瓶ラムネを割ることができたら、中からガラス玉を取り出すことができたら、どうだったんだろう。

 先輩は、B玉になれただろうか。
 笑えただろうか。

 生きていてくれただろうか。

 それから僕は人が変わったように勤勉になった。狂ったように机に向かった。意識に隙間があると先輩の影がチラつくような気がしたし、なにより先輩と同じ景色を見たかった。これが僕にできる唯一の贖罪だと思っていた。

 そうしたら、許されるような気がして。
 あの日の先輩に寄り添えるような気がして。
 僕は僕のために生きるなんて向いてないから。
 ガラス玉に投影するのは、次は僕だと思った。

 そして僕は奇跡的に医学部に現役合格を果たした。やはり、医学部という名前は伊達じゃなくて、毎日が忙しなく、めまぐるしい。なんとかしがみつくように生きている。要領の悪い僕は大学でもギリギリの成績で綱渡りしている。先輩だったらきっと上手くこなすんだろうなんて思いながら努めている。
 ……いや、違うか。先輩だったらこんなことしないで、好きなことに時間を費やするんだろうな。自由を謳歌するんだろう。忘れちゃいけない。これが、先輩が僕に残してくれた素敵なアイデンティティなんだから。
「……敵いませんね、ほんと。……これからも」
 僕は一口、ラムネを飲んだ。少し気の抜けたラムネ。
 その気が抜けるまでにかかった時間が先輩への追悼の手向けだろう。

 飲んでも飲んでも報われない。
 どこまで歩けば僕らは救われるんだろう。
 少なくとも僕はあと数十年もがくんだ。
 そしたらわかるんだろうか。
 A玉とB玉、本当の幸せな生き方ってものが。

「……また、来年も一緒に飲みましょうね、先輩」

 ゆっくりと瓶ラムネを飲み干す。
 瓶は僕と同じように汗をかいている。
 僕は泣いたが、瓶は泣かなかった。
 その結露は涙じゃなくて汗だ。
 誰がなんと言おうが、涙じゃない。
 先輩には泣いてほしくないだけ。

 またひとつ、夏が始まり終わろうとする。
 人生の中でその一部始終を何度も繰り返していく。
 そうやって、ガラス玉は完成するんだろうか。
 ガラス玉の名前は、その時に決まればいい。

「……先輩は、そう思いませんか?」

 独りよがりな言葉を空にひとつ。
 されど、カランと小さくA玉が鳴るだけ。

 ただ一度、A玉が鳴って終わるだけ。
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