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第4章 懐妊の悲劇
第9話 身篭った化物
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伏見 多恵。村の女性の中では比較的若い女だが、戦後すぐに結婚をしている。そして今では妊娠までしており、幸せに見える女。こんな女に心の傷があるのかと鶴は疑っていたが、その過去を知ると彼女も黙って納得した。
彼女は戦時中、看護婦として仕事をしていた。そしてこれも軍事関係の人間だった祖父・源氏から昔に聞いた話だったが……彼女は看護婦でありながら、戦場の兵士たちに強姦に近い形で性欲のはけ口に使われていた。
特に部隊長と言う階級の高い兵士のお気に入りだったらしく、伏見 多恵は毎日のようにその男に犯されていたという。
村では彼女の過去は知られておらず、幸せな新婚という体で、今は夫と共に幸せに暮らしている。
彼女を獲物として提案した時、鶴は壊れたように笑っていた。
幸せな人間を、不幸のどん底まで突き落とす事ほど、面白いことは無いと……。
*
「笛吹のおばさん、酷い有様だった」
笛吹さんの家に行っていた夫が帰って来た。昨晩、笛吹さんが無くなったというので夫がその様子を確認しに行ったのだ。
だが、ただ亡くなったでは無かった。詳しくは教えてくれなかったが、この世のものとは思えないほどの酷い死に方だったという。
「私も、せめてお顔だけでも……」
「いや、やめておいた方がいい。その……本当にひどいものだったんだ。それに、今の君には妙な刺激を与えたくないんだ、お腹の子の為にも……分かるね」
夫が私に寄り添い、優しくお腹を撫でる。
ようやく手に入れた幸せ。私は改めてそれを実感する。
「長かった。本当に……戦争なんてなければ、と何度も思っていた。戦争さえなければ……」
「君が責任を感じる事じゃない。悪いのは国だよ、僕らは望んでもいない戦争を」
私たちは戦時中から兵士と看護婦と言う関係から始まり、すぐに男女の仲になった。
実は戦時中にも子を孕んだのだが、その子はすぐに流産してしまった。
戦場の劣悪な環境のせいか、私が母親に相応しくなかったのか。私は自分自身を激しく攻め立てた。
「ようやく平和な日々が訪れたんだ。焦らず、ゆっくり頑張って行こう」
だが、戦争も終わりようやく新たな命が私に宿った。私たちは、今度こそ幸せになる。私は夫の手を強く握った。
「けど怖いわ、工藤さんの所に続いて今度は笛吹さんも。戦争が終わって、ようやく平和に暮らせると思ったのに……」
「一部では祟りだなんて騒いでる連中もいるみたいだけど、心配いらないよ。僕らが祟られるわけがない」
夫は私を元気づけるため、気丈に振舞る。だが、その表情にはどこか影があった。
「けど、あの白羽の娘が骨人形の偽物を持ち出して何やら動き回っててさ。鈴音様を騙ってるみたいなんだ」
「なんて罰当たりなの、流石は村を捨てた裏切者ね、鈴音様への信仰の欠片も無い」
白羽……村を捨てた臆病者。私たちが戦争で苦しんでいる中、奴らは戦うこともせずに逃げた。私は白羽の人間が許せなかった。
翌朝、夫を仕事に送り出し、家事がひと段落着いた時。断りもなく、唐突に家の扉が開かれる。
扉が無造作に開けられる音を聞き、私は恐る恐る今から玄関を覗き込む。
片手には包丁を握っていた。何があっても私はお腹の子を守らねばならない。その覚悟の表れだった。
しかし、玄関に佇んでいたのは、強盗などではなく、一人の華奢な少女だった。
「いきなり申し訳ございません、私、白羽 鶴と申します。村を捨てた裏切者としてよく知られております」
少女はゆっくりとお辞儀をし、自嘲気味に笑った。
先ほどまでの恐怖とはまた違う恐怖を感じた。それは少女と抱かれた人形の表情が、瓜二つに見えたからだ。
「……何の用かしら。宗教ごっこは他所でやってちょうだい」
「おや、御主人はいらっしゃらないのですか。大事なお話があったのですが」
私の言葉など聞かず、少女は土足のままズカズカと今へと上がり込んでくる。
その瞬間、私の防衛本能がはたらき、持っていた包丁を少女の前に出す。
「帰って! 鈴音様だか何だか知らないけど、今の私にはもう必要ないの!」
「おや、良いのでしょうか? あなたのそのお腹の中のお子さんに関する、重大なお話なのですが」
目の前に包丁を出されても、少女は怯える様子など一切なかった。
まるで神の加護を受けているかの如く、少女からは絶対的な自信を感じられた。
「悩まれているのでしょう? そのお腹の子の事で」
畳の上で、律儀に正座をしたまま少女は言った。
そんな中でも、人形は常に抱いている。
「何を言っているの、悩みだなんて。私はこの上なく幸せですよ」
「隠さなくてもいいでしょう。そのような忌々しい子を宿しているのです。中絶も間違えではないでしょう」
私の自信満々の態度を、少女は鼻で笑った。
少女の態度に私は苛立ちを隠しきれなかった。何が可笑しい?
私は、本当にこれ以上ないくらい幸福だというのに。
「中絶? 馬鹿な、何故私がそんなことを……私と夫の愛しい子を? あなた本当に気が触れてしまったのかしら? 確かに妹さんの事はお気の毒だけれど……」
「現実と向き合え、ですか? それはあなたに対する言葉です……お辛いでしょう。けれど、貴方は現実と向き合う向きです。あなたのそのお腹に宿った怪物の存在と」
少女は私の言葉を遮るように、言葉を紡いだ。
「何を言っているのかしら……母親の私には分かるわ、この健やかな命が毎日少しずつ成長していくのを。あなたのような子供には分からないでしょうけどね。母親っていうのはね、我が子の温もりを常に感じているの。あなたに何かを言われる筋合いなんて」
「本当に、そうでしょうか?」
その時、少女の左目……作り物のような、温度の無い瞳が見開かれた。
覗き込めば、そのまま飲み込まれそうになるような深い緑。
「なに……なんなの」
目が合った瞬間、身体の自由が失われる。まるで金縛りのよう。
そして、腹の奥から感じられていたはずの我が子の温もりが、違う何かに変化していく。
「思い出しませんか? この感覚。自らの身体を内側から汚される……あの頃の感覚」
少女は薄ら笑いを浮かべながら、私の腹を摩る。
そのたびに、温もりは不快な感覚へと変化していく。まるで、身体にとてつもなく気持ちの悪い虫の卵でも産みつけられたような感覚。
「私……いいえ、鈴音様には全てお見通しなのですよ? あなたが……戦地で兵士たちの欲望のはけ口となっていたと」
その瞬間、私の胃液が逆流した。朝食が吐瀉物となって喉まで一気に駆け上がり、そのまま私は畳に嘔吐する。
「違うっ……違うわ! 私は、私は!」
頭をよぎった、汚らわしい過去。
もう、忘れたはずなのに……頭にずっと張り付いている悪夢。
「あなたを責めているわけではありません。戦地で立場の弱い看護婦が、兵士に逆らえるわけがない。当時はそうするしかなかったのでしょう」
すると、少女は聖母のような柔和な表情で私とその腹に宿った『何か』 ごと抱きしめる。
気持ちの悪い感覚は消えない。腹の中で、我が子ではない何かが蠢いているのだ。
「常に死と隣り合わせの中、兵士たちは獣の様にあなたの身体を貪ったことでしょう。まるでモノのように」
汚らわしい戦場の男たちが、獣のように襲い掛かってくる。私に拒否権など無かった。
ただ、求められればそれに応えることしかできなかった。
「その当時、相手にした男たちの誰がその子の父親なのか。もはや誰にもわからない。あなた自身も顔も分からない獣の子など、宿しているだけで気が狂ってしまいそうでしょう」
少女はとんでもないことを言い出した。
私の腹の中の子が、あの汚らわしい獣から授かったものだと。考えただけでも恐ろしい。
そんなことはあり得ない、あり得ないはずなのに。
「違う! これは私と夫の子よ! もう戦争から何年たったと思っているの?! 私は戦争が終わって、ようやくこの子を授かった! 愛する夫の子を!」
「断言できますか? あなたの身体の中に、その汚らわしい獣の遺伝子が一切残っていないと。それを確かめる術があるのですか? この医療設備も技術も無い村で」
少女は私を言葉で追い詰める。
言葉ではいくらでも否定できる。けれど、身体と心はあの悪夢を昨日の出来事の様に鮮明に覚えている。
私の中に注がれた汚らわしい遺伝子が、未だに残っていたとすれば……この子は。
「違う……違う。この子は……」
何故だろう、この子からぬくもりを感じられない。
我が子のはずなのに、とんでもない化け物を我が身に宿しているような不快な感覚。
腹の中で子が動く。嬉しいはずなのに、今は無数の虫が這うような感覚に鳥肌が立つ。
もしかしたら、もしかしたら……疑い始めると止まらない。
「違う……違う」
「鈴音様は時には子を諦めることも必要だとおっしゃっています。特に、あなたのような場合」
「うるさい! お前などに……私の気持ちが分かるか!」
私は錯乱していた。過去の悪夢を、この身が今でも受け継いでいる可能性。
私は、戦争が終わってからも苦しまないといけないのか。ふざけるな、私は幸せになるんだ。
これからは……夫と、子と……。
私は持っていた包丁を握りしめ、腹の上……子の上に突き当てる。
「本当に私たちの子なら、顔を見ればすぐに分かる! 私たちの血が流れている、実の子だと!」
私は何をしようとしているんだろう。腹を裂いて、自らの子の顔を見ようとしている。
この目で確かめるまで、きっと私の疑念は晴らされない。
一目見れば分かるはずなのだ。私と愛する夫の子、愛らしい天使のような子。
「あなたがそう望むのなら、私も鈴音様も止めません。けれど、やはりお勧めはできません」
「私はずっと看護婦をやってきた、あんたみたいな子供に心配される義理は無い!」
戦場でずっと治療をしてきた。腹を裂いて、塞ぐくらい難しい事では無い。
私が痛みに耐えて、腹を開いて我が子を目視する。たったそれだけの事なのだ。
それだけの事で、我が子の潔白は証明される。何も難しい事ではない。
「あなたの身体の心配じゃなくて、心の心配をしているのですよ」
包丁はどんどん腹の中に沈んでいき、腹部からは血が噴き出る。
とんでもない激痛が走るが、私は歯を食いしばって耐える。我が子の潔白の為なら、この程度の痛みなど大したことは無い。
そして、大きく開かれた腹にゆっくりと両手を入れ、中から胎児を取り出す。
そして、胎児を抱きかかえ、白羽の少女に向き直る。
「どう? 見なさいよこの子を。私と夫に似て……夫似かな? こんなに愛らしい……」
「本当に、そう思われますか? その子が、愛らしいと」
私は抱きかかえた胎児の顔を、目を凝らして見つめる。
その瞬間、私は戦慄した。明らかに赤ん坊の顔ではない。身体は胎児だが、顔だけは成人……いや、初老の男の皺だらけの顔。
「どうです? この子はあなたと夫の子ですか? 随分と……醜いようですが」
「あ……あ、え? なに、これ……何なのよ! これ、これが私のお腹に……?」
醜い胎児。いや、胎児ではなく化け物、怪物。
こんな悍ましいものを、私はずっと孕んでいたのか。もう吐き気すら起こらなかった。ただ、絶望という感情だけが心を塗りつぶし、涙が一筋流れるのみ。
『よぉ、多恵。久しぶりだな。覚えてんだろ? 俺の事』
その時、畳の上で血塗れの胎児が口を動かした。
流暢な言葉使いで、まるで胎児のモノではない。
「……」
私は茫然とその醜い胎児を見つめていた。ただ、醜い。
どこかで、見覚えのある……醜い顔。
『おいおい、部隊長やってた岩田だよ。覚えてねぇのか? お前には色んな意味で散々世話になったんだけどなぁ?』
その声と表情……私の中で再び悪夢が蘇る。
戦場で、血と硝煙の匂いの中で……この顔の男に、私は犯された。
『俺は戦争で死んじまったけどなぁ、まさかお前の腹の中で、お前の子として宿ったんだから悪くは無かったよ! お前にとって、俺は……初めての男だからなぁ? アハハ!』
岩田の顔をした胎児が下品な笑いを響かせる。
私の身体は……あの日から、ずっと岩田に侵され、汚され続けていたのか。何年、何十年経っても、私の身体が綺麗になることなど無い。
この身が朽ちるまで、あの獣たちの遺伝子を受け継いで……。
「めろ……やめろおおおおおおおおおおおお!」
私の絶望は激しい憎悪と怒りに変わった。
畳の上で下品に笑い続ける岩田。
私はその頭に狙いを定め、思い切り足を踏み下ろす。
果物の様に頭は潰れるが、私はそれでも止めない。腹の傷が広がり、夥しい血と共に臓物が腹の外に流れ出ても、私は止めない。
私は、止めない。
「汚いっ……汚い、汚れている……私は、汚い」
腹の中から、引っ張り出せるだけの汚物を全て手づかみで引きずり出す。
赤黒い汚い汚物を腹から掻き出す。痛い、痛い……けれど……。
これで、綺麗に……潔白になれるのなら。
彼女は戦時中、看護婦として仕事をしていた。そしてこれも軍事関係の人間だった祖父・源氏から昔に聞いた話だったが……彼女は看護婦でありながら、戦場の兵士たちに強姦に近い形で性欲のはけ口に使われていた。
特に部隊長と言う階級の高い兵士のお気に入りだったらしく、伏見 多恵は毎日のようにその男に犯されていたという。
村では彼女の過去は知られておらず、幸せな新婚という体で、今は夫と共に幸せに暮らしている。
彼女を獲物として提案した時、鶴は壊れたように笑っていた。
幸せな人間を、不幸のどん底まで突き落とす事ほど、面白いことは無いと……。
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だが、ただ亡くなったでは無かった。詳しくは教えてくれなかったが、この世のものとは思えないほどの酷い死に方だったという。
「私も、せめてお顔だけでも……」
「いや、やめておいた方がいい。その……本当にひどいものだったんだ。それに、今の君には妙な刺激を与えたくないんだ、お腹の子の為にも……分かるね」
夫が私に寄り添い、優しくお腹を撫でる。
ようやく手に入れた幸せ。私は改めてそれを実感する。
「長かった。本当に……戦争なんてなければ、と何度も思っていた。戦争さえなければ……」
「君が責任を感じる事じゃない。悪いのは国だよ、僕らは望んでもいない戦争を」
私たちは戦時中から兵士と看護婦と言う関係から始まり、すぐに男女の仲になった。
実は戦時中にも子を孕んだのだが、その子はすぐに流産してしまった。
戦場の劣悪な環境のせいか、私が母親に相応しくなかったのか。私は自分自身を激しく攻め立てた。
「ようやく平和な日々が訪れたんだ。焦らず、ゆっくり頑張って行こう」
だが、戦争も終わりようやく新たな命が私に宿った。私たちは、今度こそ幸せになる。私は夫の手を強く握った。
「けど怖いわ、工藤さんの所に続いて今度は笛吹さんも。戦争が終わって、ようやく平和に暮らせると思ったのに……」
「一部では祟りだなんて騒いでる連中もいるみたいだけど、心配いらないよ。僕らが祟られるわけがない」
夫は私を元気づけるため、気丈に振舞る。だが、その表情にはどこか影があった。
「けど、あの白羽の娘が骨人形の偽物を持ち出して何やら動き回っててさ。鈴音様を騙ってるみたいなんだ」
「なんて罰当たりなの、流石は村を捨てた裏切者ね、鈴音様への信仰の欠片も無い」
白羽……村を捨てた臆病者。私たちが戦争で苦しんでいる中、奴らは戦うこともせずに逃げた。私は白羽の人間が許せなかった。
翌朝、夫を仕事に送り出し、家事がひと段落着いた時。断りもなく、唐突に家の扉が開かれる。
扉が無造作に開けられる音を聞き、私は恐る恐る今から玄関を覗き込む。
片手には包丁を握っていた。何があっても私はお腹の子を守らねばならない。その覚悟の表れだった。
しかし、玄関に佇んでいたのは、強盗などではなく、一人の華奢な少女だった。
「いきなり申し訳ございません、私、白羽 鶴と申します。村を捨てた裏切者としてよく知られております」
少女はゆっくりとお辞儀をし、自嘲気味に笑った。
先ほどまでの恐怖とはまた違う恐怖を感じた。それは少女と抱かれた人形の表情が、瓜二つに見えたからだ。
「……何の用かしら。宗教ごっこは他所でやってちょうだい」
「おや、御主人はいらっしゃらないのですか。大事なお話があったのですが」
私の言葉など聞かず、少女は土足のままズカズカと今へと上がり込んでくる。
その瞬間、私の防衛本能がはたらき、持っていた包丁を少女の前に出す。
「帰って! 鈴音様だか何だか知らないけど、今の私にはもう必要ないの!」
「おや、良いのでしょうか? あなたのそのお腹の中のお子さんに関する、重大なお話なのですが」
目の前に包丁を出されても、少女は怯える様子など一切なかった。
まるで神の加護を受けているかの如く、少女からは絶対的な自信を感じられた。
「悩まれているのでしょう? そのお腹の子の事で」
畳の上で、律儀に正座をしたまま少女は言った。
そんな中でも、人形は常に抱いている。
「何を言っているの、悩みだなんて。私はこの上なく幸せですよ」
「隠さなくてもいいでしょう。そのような忌々しい子を宿しているのです。中絶も間違えではないでしょう」
私の自信満々の態度を、少女は鼻で笑った。
少女の態度に私は苛立ちを隠しきれなかった。何が可笑しい?
私は、本当にこれ以上ないくらい幸福だというのに。
「中絶? 馬鹿な、何故私がそんなことを……私と夫の愛しい子を? あなた本当に気が触れてしまったのかしら? 確かに妹さんの事はお気の毒だけれど……」
「現実と向き合え、ですか? それはあなたに対する言葉です……お辛いでしょう。けれど、貴方は現実と向き合う向きです。あなたのそのお腹に宿った怪物の存在と」
少女は私の言葉を遮るように、言葉を紡いだ。
「何を言っているのかしら……母親の私には分かるわ、この健やかな命が毎日少しずつ成長していくのを。あなたのような子供には分からないでしょうけどね。母親っていうのはね、我が子の温もりを常に感じているの。あなたに何かを言われる筋合いなんて」
「本当に、そうでしょうか?」
その時、少女の左目……作り物のような、温度の無い瞳が見開かれた。
覗き込めば、そのまま飲み込まれそうになるような深い緑。
「なに……なんなの」
目が合った瞬間、身体の自由が失われる。まるで金縛りのよう。
そして、腹の奥から感じられていたはずの我が子の温もりが、違う何かに変化していく。
「思い出しませんか? この感覚。自らの身体を内側から汚される……あの頃の感覚」
少女は薄ら笑いを浮かべながら、私の腹を摩る。
そのたびに、温もりは不快な感覚へと変化していく。まるで、身体にとてつもなく気持ちの悪い虫の卵でも産みつけられたような感覚。
「私……いいえ、鈴音様には全てお見通しなのですよ? あなたが……戦地で兵士たちの欲望のはけ口となっていたと」
その瞬間、私の胃液が逆流した。朝食が吐瀉物となって喉まで一気に駆け上がり、そのまま私は畳に嘔吐する。
「違うっ……違うわ! 私は、私は!」
頭をよぎった、汚らわしい過去。
もう、忘れたはずなのに……頭にずっと張り付いている悪夢。
「あなたを責めているわけではありません。戦地で立場の弱い看護婦が、兵士に逆らえるわけがない。当時はそうするしかなかったのでしょう」
すると、少女は聖母のような柔和な表情で私とその腹に宿った『何か』 ごと抱きしめる。
気持ちの悪い感覚は消えない。腹の中で、我が子ではない何かが蠢いているのだ。
「常に死と隣り合わせの中、兵士たちは獣の様にあなたの身体を貪ったことでしょう。まるでモノのように」
汚らわしい戦場の男たちが、獣のように襲い掛かってくる。私に拒否権など無かった。
ただ、求められればそれに応えることしかできなかった。
「その当時、相手にした男たちの誰がその子の父親なのか。もはや誰にもわからない。あなた自身も顔も分からない獣の子など、宿しているだけで気が狂ってしまいそうでしょう」
少女はとんでもないことを言い出した。
私の腹の中の子が、あの汚らわしい獣から授かったものだと。考えただけでも恐ろしい。
そんなことはあり得ない、あり得ないはずなのに。
「違う! これは私と夫の子よ! もう戦争から何年たったと思っているの?! 私は戦争が終わって、ようやくこの子を授かった! 愛する夫の子を!」
「断言できますか? あなたの身体の中に、その汚らわしい獣の遺伝子が一切残っていないと。それを確かめる術があるのですか? この医療設備も技術も無い村で」
少女は私を言葉で追い詰める。
言葉ではいくらでも否定できる。けれど、身体と心はあの悪夢を昨日の出来事の様に鮮明に覚えている。
私の中に注がれた汚らわしい遺伝子が、未だに残っていたとすれば……この子は。
「違う……違う。この子は……」
何故だろう、この子からぬくもりを感じられない。
我が子のはずなのに、とんでもない化け物を我が身に宿しているような不快な感覚。
腹の中で子が動く。嬉しいはずなのに、今は無数の虫が這うような感覚に鳥肌が立つ。
もしかしたら、もしかしたら……疑い始めると止まらない。
「違う……違う」
「鈴音様は時には子を諦めることも必要だとおっしゃっています。特に、あなたのような場合」
「うるさい! お前などに……私の気持ちが分かるか!」
私は錯乱していた。過去の悪夢を、この身が今でも受け継いでいる可能性。
私は、戦争が終わってからも苦しまないといけないのか。ふざけるな、私は幸せになるんだ。
これからは……夫と、子と……。
私は持っていた包丁を握りしめ、腹の上……子の上に突き当てる。
「本当に私たちの子なら、顔を見ればすぐに分かる! 私たちの血が流れている、実の子だと!」
私は何をしようとしているんだろう。腹を裂いて、自らの子の顔を見ようとしている。
この目で確かめるまで、きっと私の疑念は晴らされない。
一目見れば分かるはずなのだ。私と愛する夫の子、愛らしい天使のような子。
「あなたがそう望むのなら、私も鈴音様も止めません。けれど、やはりお勧めはできません」
「私はずっと看護婦をやってきた、あんたみたいな子供に心配される義理は無い!」
戦場でずっと治療をしてきた。腹を裂いて、塞ぐくらい難しい事では無い。
私が痛みに耐えて、腹を開いて我が子を目視する。たったそれだけの事なのだ。
それだけの事で、我が子の潔白は証明される。何も難しい事ではない。
「あなたの身体の心配じゃなくて、心の心配をしているのですよ」
包丁はどんどん腹の中に沈んでいき、腹部からは血が噴き出る。
とんでもない激痛が走るが、私は歯を食いしばって耐える。我が子の潔白の為なら、この程度の痛みなど大したことは無い。
そして、大きく開かれた腹にゆっくりと両手を入れ、中から胎児を取り出す。
そして、胎児を抱きかかえ、白羽の少女に向き直る。
「どう? 見なさいよこの子を。私と夫に似て……夫似かな? こんなに愛らしい……」
「本当に、そう思われますか? その子が、愛らしいと」
私は抱きかかえた胎児の顔を、目を凝らして見つめる。
その瞬間、私は戦慄した。明らかに赤ん坊の顔ではない。身体は胎児だが、顔だけは成人……いや、初老の男の皺だらけの顔。
「どうです? この子はあなたと夫の子ですか? 随分と……醜いようですが」
「あ……あ、え? なに、これ……何なのよ! これ、これが私のお腹に……?」
醜い胎児。いや、胎児ではなく化け物、怪物。
こんな悍ましいものを、私はずっと孕んでいたのか。もう吐き気すら起こらなかった。ただ、絶望という感情だけが心を塗りつぶし、涙が一筋流れるのみ。
『よぉ、多恵。久しぶりだな。覚えてんだろ? 俺の事』
その時、畳の上で血塗れの胎児が口を動かした。
流暢な言葉使いで、まるで胎児のモノではない。
「……」
私は茫然とその醜い胎児を見つめていた。ただ、醜い。
どこかで、見覚えのある……醜い顔。
『おいおい、部隊長やってた岩田だよ。覚えてねぇのか? お前には色んな意味で散々世話になったんだけどなぁ?』
その声と表情……私の中で再び悪夢が蘇る。
戦場で、血と硝煙の匂いの中で……この顔の男に、私は犯された。
『俺は戦争で死んじまったけどなぁ、まさかお前の腹の中で、お前の子として宿ったんだから悪くは無かったよ! お前にとって、俺は……初めての男だからなぁ? アハハ!』
岩田の顔をした胎児が下品な笑いを響かせる。
私の身体は……あの日から、ずっと岩田に侵され、汚され続けていたのか。何年、何十年経っても、私の身体が綺麗になることなど無い。
この身が朽ちるまで、あの獣たちの遺伝子を受け継いで……。
「めろ……やめろおおおおおおおおおおおお!」
私の絶望は激しい憎悪と怒りに変わった。
畳の上で下品に笑い続ける岩田。
私はその頭に狙いを定め、思い切り足を踏み下ろす。
果物の様に頭は潰れるが、私はそれでも止めない。腹の傷が広がり、夥しい血と共に臓物が腹の外に流れ出ても、私は止めない。
私は、止めない。
「汚いっ……汚い、汚れている……私は、汚い」
腹の中から、引っ張り出せるだけの汚物を全て手づかみで引きずり出す。
赤黒い汚い汚物を腹から掻き出す。痛い、痛い……けれど……。
これで、綺麗に……潔白になれるのなら。
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☆完結しました。ありがとうございました!☆
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