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第十二章
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「リリベット!」
リリベットは、今まで一度だって叱られたことのないクローディアの叱責に、びっくりして瞳を見開いた。その瞳は忽ち水を湛えて潤んで、彼女はそれをなんとか堪えようと唇を強く噛んだ。
だが、十歳の少女が堪えるのには限界がある。堪らず溢れてしまった涙の雫が、リリベットの紅潮した頬を伝った。
驚いたのはクローディアよりアンネマリーのほうだった。
「クローディア……」
アンネマリーも見たことのないクローディアの姿。アンネマリーこそ、誰かが誰かを叱責する声など、生まれてこのかた聞いたことなど無かっただろう。
「お、お嬢様、失礼致します」
リリベット付きの侍女が透かさず前に出て、リリベットの背中を促した。よほど慌ててしまったのか、クローディアを夫人とは呼ばずに生家にいた時の呼び方でお嬢様と呼んだ。
「リリベット。謝罪が先です。貴女は自分で望んでここを訪っているのです。招いた家を侮ってどうしたいの?」
「そ、そんなつもりじゃなかったの」
「貴女にそのつもりはなくても、言ってしまった言葉は戻ってこないわ。それよりも、先に謝罪なさい」
「ご、ごめんなさい、お姉様」
「そうではないわ、リリベット。貴女が謝罪するのはアンネマリーよ。ここはアンネマリーの家なのよ」
「ごめんなさい……」
普段溌剌としたリリベットが、涙を零すのはクローディアにとっても切ない姿だった。だが、リリベットの発言は「そんなつもりはなかった」では済まされない類のものだった。
彼女は侯爵家の令息と縁を結んでいる。身分のある人間のうっかり放った言葉とは、忽ち一人歩きを初めて、いつか巡り巡ってリリベットの首を絞めるだろう。
そんなことより何より。
それは単純なことだった。クローディアは、アンネマリーがその黒髪を揶揄されたことがどうにも我慢ができなかった。
クローディアも黒髪だが、そんなことは気にならなかった。自分は既に醜聞塗れだ。今更、髪色くらいで何かを言われたとしても、それこそ今更だと思う。
リリベットは侍女に涙を拭かれながら、結局、アンネマリーへのはっきりとした謝罪はせぬまま邸を辞した。
まだ十歳の少女には、厳しい態度だったろうか。けれど、クローディアは他人ではない。半分だけでも血を分けた肉親で、リリベットをクローディアなりに可愛がっていた。
リリベット付きの侍女も、はっきりしない態度のまま、逃げるように馬車に乗り込んだ。護衛だけが気不味そうに頭を下げて、それで結局、一行はそのまま帰っていった。
「アンネマリー。悪かったわね」
門扉を抜ける馬車を見送りながら、クローディアは隣にいるアンネマリーに語りかけた。
「別に、気にしていないわ」
アンネマリーは慣れている。その気持ちがクローディアには痛いほど理解出来た。クローディアこそ幼い頃に、この黒髪に向けられる眼差しへの諦念を経験している。
「アンネマリー。貴女の為だけに叱ったわけではないのよ。リリベットの為でもあるの」
「リリベットの?」
「そうよ。あの子は傅かれることに慣れている。それは悪いことではないけれど、良いことアンネマリー。傅かれる人ほど、話す言葉に気を付けなければならないの。貴女のお父様も、きっと同じことを思うでしょう」
そこでアンネマリーが口を開いた。思わず言ってしまったのだろう。
「お父様は、誰にもなにも言わないわ」
確かに。
クローディアまでアンネマリーの言葉に納得してしまった。
アンネマリーが自室に戻って、クローディアも自分の部屋に戻って一人になった。
「私、間違ってた?」
見るともなしに目を向けた窓の外。リリベットはとっくに邸の敷地を出ていたし、そろそろ生家に着く頃だろう。
感情を露わにすることに、クローディアは慣れていない。激しい怒りを知らない訳ではないが、瞬間的に激昂するなどこれまで経験したことはなかった。
リリベットがうっかり放った言葉に、周到に用意した悪意はなかった。本当に、思わずうっかり言ってしまったのだろう。
だが、その「うっかり」こそ、根底に他者を見下す思考があることの現れなのだと思う。
同じ年ということが、リリベットの中でアンネマリーを比較する対象にしたのだろう。
愛されている自覚があるリリベットは、アンネマリーの噂を聞いて、興味とともに見下す感情を抱いていたのだろう。
「はあ」
面倒事の予感を覚えて、クローディアは溜め息をついた。
「そんなことが」
晩餐の席で、クローディアは今日の出来事をローレンスに報告した。アンネマリーばかりでなく使用人たちの前でも、騒動をクローディアが重く受け止めたのだと示したかった。
無礼であったのはリリベットの方で、彼女はクローディアの実妹である。彼女の判断や言動を、クローディアの思考と同じだと思わないでほしかった。
「お父様」
一頻り、概要を纏めて話していたクローディアの後に、思い掛けなくアンネマリーが口を挟んだ。それはとても珍しいことだった。
「なんだ」
冷たくないが短い返答。
こんなローレンスをアンネマリーはどう思うのか。
「謝ったわ」
「なに?」
「あの子、ごめんなさいって言ってたわ」
あれは、クローディアに叱られて咄嗟に出た言葉だろう。アンネマリーへの無礼を自覚して詫びた訳ではない。
だが十歳の少女の分別を、どこまでも追い詰めるつもりはなかった。喩え実の妹であっても。
ローレンスは、少女たちの諍いごとに口を挟むつもりは無いようだった。
彼には考えなければならないことが他に幾つもある。領地も民も馬たちも待ってはくれない。生家に纏わるトラブルに、これ以上ローレンスを関わらせたくはなかった。
だが、往々にしてトラブルとは自分の方から出向いて来る。
「はあ」
溜め息しか出なかったのは、明けた翌朝、生家から文が届いたからだった。送り主は思った通り、父だった。
クローディアを生家に呼び出すその内容に、心から面倒くさいと思った。
リリベットは、今まで一度だって叱られたことのないクローディアの叱責に、びっくりして瞳を見開いた。その瞳は忽ち水を湛えて潤んで、彼女はそれをなんとか堪えようと唇を強く噛んだ。
だが、十歳の少女が堪えるのには限界がある。堪らず溢れてしまった涙の雫が、リリベットの紅潮した頬を伝った。
驚いたのはクローディアよりアンネマリーのほうだった。
「クローディア……」
アンネマリーも見たことのないクローディアの姿。アンネマリーこそ、誰かが誰かを叱責する声など、生まれてこのかた聞いたことなど無かっただろう。
「お、お嬢様、失礼致します」
リリベット付きの侍女が透かさず前に出て、リリベットの背中を促した。よほど慌ててしまったのか、クローディアを夫人とは呼ばずに生家にいた時の呼び方でお嬢様と呼んだ。
「リリベット。謝罪が先です。貴女は自分で望んでここを訪っているのです。招いた家を侮ってどうしたいの?」
「そ、そんなつもりじゃなかったの」
「貴女にそのつもりはなくても、言ってしまった言葉は戻ってこないわ。それよりも、先に謝罪なさい」
「ご、ごめんなさい、お姉様」
「そうではないわ、リリベット。貴女が謝罪するのはアンネマリーよ。ここはアンネマリーの家なのよ」
「ごめんなさい……」
普段溌剌としたリリベットが、涙を零すのはクローディアにとっても切ない姿だった。だが、リリベットの発言は「そんなつもりはなかった」では済まされない類のものだった。
彼女は侯爵家の令息と縁を結んでいる。身分のある人間のうっかり放った言葉とは、忽ち一人歩きを初めて、いつか巡り巡ってリリベットの首を絞めるだろう。
そんなことより何より。
それは単純なことだった。クローディアは、アンネマリーがその黒髪を揶揄されたことがどうにも我慢ができなかった。
クローディアも黒髪だが、そんなことは気にならなかった。自分は既に醜聞塗れだ。今更、髪色くらいで何かを言われたとしても、それこそ今更だと思う。
リリベットは侍女に涙を拭かれながら、結局、アンネマリーへのはっきりとした謝罪はせぬまま邸を辞した。
まだ十歳の少女には、厳しい態度だったろうか。けれど、クローディアは他人ではない。半分だけでも血を分けた肉親で、リリベットをクローディアなりに可愛がっていた。
リリベット付きの侍女も、はっきりしない態度のまま、逃げるように馬車に乗り込んだ。護衛だけが気不味そうに頭を下げて、それで結局、一行はそのまま帰っていった。
「アンネマリー。悪かったわね」
門扉を抜ける馬車を見送りながら、クローディアは隣にいるアンネマリーに語りかけた。
「別に、気にしていないわ」
アンネマリーは慣れている。その気持ちがクローディアには痛いほど理解出来た。クローディアこそ幼い頃に、この黒髪に向けられる眼差しへの諦念を経験している。
「アンネマリー。貴女の為だけに叱ったわけではないのよ。リリベットの為でもあるの」
「リリベットの?」
「そうよ。あの子は傅かれることに慣れている。それは悪いことではないけれど、良いことアンネマリー。傅かれる人ほど、話す言葉に気を付けなければならないの。貴女のお父様も、きっと同じことを思うでしょう」
そこでアンネマリーが口を開いた。思わず言ってしまったのだろう。
「お父様は、誰にもなにも言わないわ」
確かに。
クローディアまでアンネマリーの言葉に納得してしまった。
アンネマリーが自室に戻って、クローディアも自分の部屋に戻って一人になった。
「私、間違ってた?」
見るともなしに目を向けた窓の外。リリベットはとっくに邸の敷地を出ていたし、そろそろ生家に着く頃だろう。
感情を露わにすることに、クローディアは慣れていない。激しい怒りを知らない訳ではないが、瞬間的に激昂するなどこれまで経験したことはなかった。
リリベットがうっかり放った言葉に、周到に用意した悪意はなかった。本当に、思わずうっかり言ってしまったのだろう。
だが、その「うっかり」こそ、根底に他者を見下す思考があることの現れなのだと思う。
同じ年ということが、リリベットの中でアンネマリーを比較する対象にしたのだろう。
愛されている自覚があるリリベットは、アンネマリーの噂を聞いて、興味とともに見下す感情を抱いていたのだろう。
「はあ」
面倒事の予感を覚えて、クローディアは溜め息をついた。
「そんなことが」
晩餐の席で、クローディアは今日の出来事をローレンスに報告した。アンネマリーばかりでなく使用人たちの前でも、騒動をクローディアが重く受け止めたのだと示したかった。
無礼であったのはリリベットの方で、彼女はクローディアの実妹である。彼女の判断や言動を、クローディアの思考と同じだと思わないでほしかった。
「お父様」
一頻り、概要を纏めて話していたクローディアの後に、思い掛けなくアンネマリーが口を挟んだ。それはとても珍しいことだった。
「なんだ」
冷たくないが短い返答。
こんなローレンスをアンネマリーはどう思うのか。
「謝ったわ」
「なに?」
「あの子、ごめんなさいって言ってたわ」
あれは、クローディアに叱られて咄嗟に出た言葉だろう。アンネマリーへの無礼を自覚して詫びた訳ではない。
だが十歳の少女の分別を、どこまでも追い詰めるつもりはなかった。喩え実の妹であっても。
ローレンスは、少女たちの諍いごとに口を挟むつもりは無いようだった。
彼には考えなければならないことが他に幾つもある。領地も民も馬たちも待ってはくれない。生家に纏わるトラブルに、これ以上ローレンスを関わらせたくはなかった。
だが、往々にしてトラブルとは自分の方から出向いて来る。
「はあ」
溜め息しか出なかったのは、明けた翌朝、生家から文が届いたからだった。送り主は思った通り、父だった。
クローディアを生家に呼び出すその内容に、心から面倒くさいと思った。
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