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「初めまして、アナベル嬢。」
「初めまして、アンドーヴァー子爵様。アナベル・ウェストン・アビンドンと申します。」
アナベルはアビンドン伯爵家の令嬢であるが、爵位は父のものであり、アナベル自身は無位の令嬢である。
子爵家当主のデイビッドに、カーテシーの姿勢で正式な礼をした。
「はは、そう硬くならずに。婚約者殿。」
デイビッドの声は低いというわけではないのに、耳朶に響いて残った。
婚約に纏わる諸々の手続きは、やはり大人達の内々で成されて、アナベルが触れたのは、婚約誓約書のサインのみであった。誓約書の内容についても、アナベルへの説明は無かった。前の婚約の際もそうであったから、アナベルもそう云うものだと承知していた。
長姉の婚約の際は、婿入りをする令息には婚姻に纏わる詳細な説明が成されていたが、それは姉の配偶者として当家へ迎える令息へ対するものであったから、アナベルと立場が違う。
向かい合って座っても、アナベルは未だ緊張が解れずにいた。
デズモンドの時は、幼い頃に顔を合わせた同年代であった為、照れる気持ちはあれど、これ程の緊張は感じずに済んだ。
大人の紳士を前に、アナベルはガチガチに固まっていた。
そんなアナベルに気付いていたのだろう。お茶を飲み終えた頃に、
「少し外を案内頂いても宜しいだろうか?」
そんな風にデイビッドが誘ってくれたのは、アナベルも肩の力が抜けて助かった。
両親は殊更庭園に拘りは無い人達で、母が嫁いで来てからも大きく手を掛ける事は無かった。先代から腕の良い庭師を雇っていた為に、変わることのない美しい庭園を保っているのは幸運な事であった。四姉妹で庭で遊んだり度々お茶会をしていたので、庭園の案内ならば熟せそうで、小さくなっていた背筋を伸ばしデイビッドの案内に努めた。
差し出された右腕に半歩下がってそっと手を添える。緊張を解す為の散策が、余計に緊張を誘われてしまう。
そう言えば、デズモンドにこんな風にエスコートを受けた事は無かった。
何処か気楽な学生同士という気持ちが互いにあって、確かに気安い会話を出来てはいたが、レディとしての扱いを受けた事は無かった様に思う。
二年近くも婚約関係であったから、正式な場所でのエスコートを受けていても良い筈であったが、残念ながらデビュタント前のアナベルは夜会に出る事は無かったし、成人してからはお誘いを受けない内に破談となってしまった。
歩みをアナベルに合わせてくれるデイビッドは落ち着いており、熟れた仕草からこういう事に慣れているのだと思った。初めて会って焼き餅など無いのだが、男の影に女の存在を感じるのはもう御免であった。
一層の事、御婦人方の目にも止まらない醜男な殿方であった方が余程安心出来る気がした。
残念な事に、デイビッドはすっきりとした面立ちの見目の良い紳士である。
チョコーレート色の髪に薄めの青い瞳は、金髪碧眼の貴族令嬢に好まれる華やかな風貌では無いが、大人の落ち着きに品性が感じられて、そんなところも美徳の一つに思われた。
「初めて会って何だが、私はこの婚約を好ましく思っているよ。貴女もそう思ってくれたら嬉しい。」
「私も嬉しく思っております。」
それ以外、何を言えば良いというのだろう。
あれは彼処はと、一通り庭園を案内して戻る頃には、漸く緊張が解れて来た。
邸へ戻るデイビッドを見送る時に、指先に触れる真似だけの口付けを落とすのにも、もう大人って敵わないとすっかりお手上げであった。
「良い方じゃない。」
心配していたらしい長姉にそう言われて、そうね、非の打ち所が無いとはああ云う方を指して言うのだわ、と思った。
社交に慣れた紳士であったデイビッドから、翌日には白紫陽花(アナベル)の花束が届けられて、髪の毛一本抜かることの無い紳士っぷりに、アナベルばかりでなく姉も妹も母までも「素敵ね!」と姦しかった。
伯爵である父にそんな気遣いを見たことが無かったので、世の紳士とは皆こうなのかしら、ではデズモンドは一体どうだったのかしらと、終わった関係に未だ引き摺られながら、デイビッドにはどうかどうか女性関係は清算していて欲しいと、ついそんな事を心の内で願うのであった。
「初めまして、アンドーヴァー子爵様。アナベル・ウェストン・アビンドンと申します。」
アナベルはアビンドン伯爵家の令嬢であるが、爵位は父のものであり、アナベル自身は無位の令嬢である。
子爵家当主のデイビッドに、カーテシーの姿勢で正式な礼をした。
「はは、そう硬くならずに。婚約者殿。」
デイビッドの声は低いというわけではないのに、耳朶に響いて残った。
婚約に纏わる諸々の手続きは、やはり大人達の内々で成されて、アナベルが触れたのは、婚約誓約書のサインのみであった。誓約書の内容についても、アナベルへの説明は無かった。前の婚約の際もそうであったから、アナベルもそう云うものだと承知していた。
長姉の婚約の際は、婿入りをする令息には婚姻に纏わる詳細な説明が成されていたが、それは姉の配偶者として当家へ迎える令息へ対するものであったから、アナベルと立場が違う。
向かい合って座っても、アナベルは未だ緊張が解れずにいた。
デズモンドの時は、幼い頃に顔を合わせた同年代であった為、照れる気持ちはあれど、これ程の緊張は感じずに済んだ。
大人の紳士を前に、アナベルはガチガチに固まっていた。
そんなアナベルに気付いていたのだろう。お茶を飲み終えた頃に、
「少し外を案内頂いても宜しいだろうか?」
そんな風にデイビッドが誘ってくれたのは、アナベルも肩の力が抜けて助かった。
両親は殊更庭園に拘りは無い人達で、母が嫁いで来てからも大きく手を掛ける事は無かった。先代から腕の良い庭師を雇っていた為に、変わることのない美しい庭園を保っているのは幸運な事であった。四姉妹で庭で遊んだり度々お茶会をしていたので、庭園の案内ならば熟せそうで、小さくなっていた背筋を伸ばしデイビッドの案内に努めた。
差し出された右腕に半歩下がってそっと手を添える。緊張を解す為の散策が、余計に緊張を誘われてしまう。
そう言えば、デズモンドにこんな風にエスコートを受けた事は無かった。
何処か気楽な学生同士という気持ちが互いにあって、確かに気安い会話を出来てはいたが、レディとしての扱いを受けた事は無かった様に思う。
二年近くも婚約関係であったから、正式な場所でのエスコートを受けていても良い筈であったが、残念ながらデビュタント前のアナベルは夜会に出る事は無かったし、成人してからはお誘いを受けない内に破談となってしまった。
歩みをアナベルに合わせてくれるデイビッドは落ち着いており、熟れた仕草からこういう事に慣れているのだと思った。初めて会って焼き餅など無いのだが、男の影に女の存在を感じるのはもう御免であった。
一層の事、御婦人方の目にも止まらない醜男な殿方であった方が余程安心出来る気がした。
残念な事に、デイビッドはすっきりとした面立ちの見目の良い紳士である。
チョコーレート色の髪に薄めの青い瞳は、金髪碧眼の貴族令嬢に好まれる華やかな風貌では無いが、大人の落ち着きに品性が感じられて、そんなところも美徳の一つに思われた。
「初めて会って何だが、私はこの婚約を好ましく思っているよ。貴女もそう思ってくれたら嬉しい。」
「私も嬉しく思っております。」
それ以外、何を言えば良いというのだろう。
あれは彼処はと、一通り庭園を案内して戻る頃には、漸く緊張が解れて来た。
邸へ戻るデイビッドを見送る時に、指先に触れる真似だけの口付けを落とすのにも、もう大人って敵わないとすっかりお手上げであった。
「良い方じゃない。」
心配していたらしい長姉にそう言われて、そうね、非の打ち所が無いとはああ云う方を指して言うのだわ、と思った。
社交に慣れた紳士であったデイビッドから、翌日には白紫陽花(アナベル)の花束が届けられて、髪の毛一本抜かることの無い紳士っぷりに、アナベルばかりでなく姉も妹も母までも「素敵ね!」と姦しかった。
伯爵である父にそんな気遣いを見たことが無かったので、世の紳士とは皆こうなのかしら、ではデズモンドは一体どうだったのかしらと、終わった関係に未だ引き摺られながら、デイビッドにはどうかどうか女性関係は清算していて欲しいと、ついそんな事を心の内で願うのであった。
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