或る伯爵夫人が一人思い悩んだ末の事の顛末

桃井すもも

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第九章

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 嫁いで初めてわかることがある。

 同じ伯爵家といっても仕来しきたりも常識も異なることを、サフィリアは嫁いで初めて知った。

「行ってくる」
「行ってらっしゃいませ、旦那様」

 ルクスがサフィリアを見下ろす。からの、じっと見つめる。

 ん?なにか言い忘れた言葉があるのかしら。合言葉?えっと、それってどんな?

 山?川?と頭の中でぐるぐる考えるサフィリアに、

「では、行ってくる」

 もう一度そう言って、ルクスは長ーいキスをする。

 それがコットナー伯爵家流のお見送りなのかと侍女頭のサマンサに尋ねたら、なんだかあまりはっきり答えてくれなかった。

 じゃあ、この薄っすい夜着は?
 そう侍女のタバサに尋ねたら、それはルクスの好みなのだと教えてくれた。

 それから、食卓の席の並びだとか。

 乙女喪失問題にこだわる間もなく夜通し愛され、目出度く乙女を完全喪失した初夜が明けて、朝餉の席でサフィリアはルクスが隣に座って驚いた。

 てっきり向かい合わせに座るものだと思っていた。仮に三人以上の席なら並ぶこともあるだろう。
 だが、二人きりの食卓で夫と妻が並んで座るなんて。広い食卓の隅っこにぽつんと並ぶ二人。

 それがコットナー伯爵家の流儀なのかを執事のダンヒルに尋ねたが、彼は視線を逸らすだけでなにも答えてはくれなかった。

 後はなんだ、家の中でもエスコート必須だとか、入浴は必ず二人一組だとか、耳掃除は妻の役目でその際は膝の上に寝転ぶのだとか、そうそう、馬車でも並んで座るとか。因みに馬車は揺れて危ないので手を繋ぐとか。 

 仕来りは多岐に渡って、数えだしたらきりがない。それでサフィリアは一つ一つメモをとって、『コットナー伯爵家夫人の心得』なる一覧に纏めた。

 困るのは、いざ読み返してみるとなんだかどれもこれも恥ずかしくなることばかりで、これって果して後世に残してよいものだろうか迷ってしまう。

 万が一、嫡男を得てその妻を迎える時に、

「これは、お嫁さんには読ませられないわ」

 サフィリアは、『コットナー伯爵家夫人の心得』をそっとクローゼットの奥深くに仕舞い込んだ。


 ルクスは王城に勤める文官である。
 それはあの夜のあの場の寝台の上で聞いたことだった。

「私は怪しい者ではない。この城に勤める文官だ」

 寝台に二人並んだまま、ルクスはサフィリアに教えてくれた。
 王太子付きだなんてことは後から知って、それについてルクスは「別に大したことではない」と至極当たり前の顔で言った。

 コットナー伯爵家には小さな領地があり、そこには今は義父母が住んでいる。

 ルクスは伯爵家のたった一人きりの男児に生まれた。
 元々嫡男であったのに文官として城に勤めを得たのは、全ては彼が優秀で、学友であった王太子だとか、学友であった宰相子息だとか、学友であった財務大臣子息だとかに目をつけられたからだという。

 義父も似たり寄ったりで、国王陛下の側で長く文官として仕えていた。
 それがサフィリアとルクスが婚姻するとなった途端、まるで駆け落ちでもするかのように、妻の手を取り勤めを辞して小さな領地に逃げ込んだ。 

 義父母曰く、最初からこうする筈だったのに、学友であった国王陛下とか宰相とか財務大臣に巻き込まれて、逃げるに逃れられず長く文官として仕えていたのだという。

 あれ?それってどこかで聞いたような話だと思ったが、突然の婚姻に混乱していたサフィリアには突っ込みどころを指摘することはできなかった。

 現在、義父母は自然豊かな領地にいて、第二の新婚時代を謳歌している。
 三日と置かず届く文には、サフィリアへの感謝の言葉が羅列している。サフィリアを宝のような嫁だと言って、年に数度王都に来る彼らは会うたびに「ありがとう、君のお陰だ」と言ってサフィリアの手を握り、時には涙を浮かべて感謝される。

 義父母がそうなのだから、家令を始めとする使用人たちにもサフィリアは「宝のような奥様」だとされて、こんな平凡な路傍の草のような夫人であるのに、下にも置かない好待遇を受けている。死にたい。

 自分は本来、そんな大層な人間ではない。
 かつて姉は、未来の伴侶を選ぶべき大量の釣書でトランプゲームをしていたが、もしルクスの人生にトランプゲームがあるのなら、彼はサフィリアというババを引いてしまったことになる。夫は賭け事に弱いのだろう。

 残念な旦那様。
 サフィリアは、そんな夫に死んで詫びたいと常々思っているのに、なにかを察した使用人たちに手厚く世話を焼かれて死ぬにも死ねない。
 なんなら唯一の自慢である艶髪ばかりでなく、お肌も爪も隅々まで磨かれて、今では全身ぴかぴかの艶々だ。こんなことでは当分死ねそうにない。

 そんなサフィリアを夫は妻として尊重してくれる。どうしてそれほど人間が出来ているのか、夫とは仏のような人である。


 大陸の西には天竺という名の国があるという。そこは仏を崇める信仰の国だという。

「それはまことのことなのですか?」
「ええ、殿下から聞いたの。あの方、ああ見えて結構博識なのよ」

 それは王太子妃クラウディアから聞いたことだった。

 クラウディアは姉の親友で、サフィリアがルクスに嫁いでからは、ちょくちょくお茶に誘ってくれる。

「エデンが東なら天竺は西なのですね」

 この日も王太子妃の私室に招かれていたサフィリアは、エデンは東、天竺は西、と覚えたての知識を復唱していた。

「やあ、サフィリア夫人」

 そこへ現れたのは、夫の上司、王太子ネロだった。

「先日は苺をありがとう」

 クラウディアに会いにきたらしい王太子に、苺のお礼を言われた。

「いえ、お礼には及びません。山ほど頂戴したものですから」
「山ほど……」

 なんだか腑に落ちない顔をした王太子に、クラウディアが尋ねた。

「なんの用?」

 そこで王太子は用件を思い出したらしく、内ポケットからなにやら取り出した。

「これ」
「なに?」
「ん?ハンカチだよ」

 王太子がクラウディアに差し出したハンカチに、サフィリアは見覚えがあった。

「あら?殿下、失礼致します。もしやそれは……」
「ああ、夫人。そうそう君の夫のだ」

 そうだろう。その真っ赤な苺の刺繍はサフィリアが先日刺したハンカチだ。

「苺、好きなんだ」
「まあ」

 どうやら王太子は、ルクスに苺ハンカチを見せびらかされたらしい。それで自分も妃に刺繍してもらおうと、仕事中に頼みにきた。

「ええ?嫌よ。私、刺繍苦手ですの」
「そこをなんとか」
「ええぇ」

 頼む王太子。
 渋る王太子妃。

 サフィリアはどちらも気の毒に思えて、

「あのぅ」
「ん?なんだい?夫人」
「私でよろしければ一枚「是非、お頼いするわ!」

 クラウディアに被せられた。
 だが王太子は複雑な顔をした。
 ははぁ、これは多分、クラウディアにおねだりしたかったのだな。

 そうサフィリアは気づいたが時既に遅し。クラウディアからハンカチ五枚押し付けられた。

「夫人に頼むのはありがたいんだ。だが、それだとルクスとお揃いじゃないか」

 王太子はそう言ったが、

「仲良しでいいじゃない」
 とクラウディアに押し切られた。

 こうしてサフィリアは、天竺情報のお礼のつもりで苺ハンカチを請け負った。


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