10 / 44
第十章
しおりを挟む
エデンは東、天竺は西。
サフィリアは、あれからずっと天竺についてを考えている。
今も殿下の苺ハンカチ三枚目を刺繍しながら、頭の中は天竺だった。
天竺とは、一体どんな国なのだろう。
御仏とは、一体どんな存在なのだろう。
サフィリアはルクスに対して悔やんでも悔やみきれない悔恨の思いを抱いている。
酒は飲んでも飲まれるな。飲んだら(一杯目)飲むな(二杯目)、飲むなら飲むな。
前後不覚になっただけでも貴族令嬢としてアウトなのに、それに夫を巻き込んでしまった。
あの夜会の出来事がなかったら、ルクスはサフィリアという枷を嵌められることなく、今頃は思いっきり王城で職務に邁進出来ていた筈だ。
毎日毎日帰って来る度「遅くなってすまなかった」だなんて、律儀に謝罪なんかしなくても、王城にゆっくり泊まりまくって仕事に没頭出来た筈だ。
サフィリアは以前、働くルクスの姿をチラ見したことがある。
ほんのちょっとした届け物だった。面会室で待つまでもなく、そのまま直接夫の部署に行ったほうが早いと受付で言われて、それで内心興味深く思いながら出向いたのだ。
「旦那様のお仕事姿」
そう小さく呟くだけで、胸が温かくなった。
ルクスはあんなシャープな顔立ちをして、その実とても優しい夫だ。サフィリアに厳しい物言いなんて一度もしたことはない。寧ろ王太子相手のほうが不敬極まりないと誰かが言っていた。
ベッドの中でもとてもお優しいわ。ちょっとねちっこいのは頑張りやさんの証拠だわ。
うっかり夜の営みを思い出してしまった。
夫の仕事場は王太子の執務室なのだが、執務室には国への嘆願書や申請書などといった各種提出窓口が併設されている。
まだ婚姻する前、姉のお使いでほんの数回出向いたことがあった。当時はそこに夫がいるだなんて知らなかったのだけれど。
存在自体が迷惑を掛けているのに、これ以上夫の邪魔はしたくはない。だから届け物は窓口の文官に預けて、そっと帰るつもりだった。
ちょっとだけ。ちょっと見るだけよ。
ちらりとでも構わない。夫の姿を見たかった。それで窓口の奥を覗き見たのである。
窓口の向こうには、ちらっと夫の姿が見えた。覗き見た夫の横顔は輝いていた。王太子を見下ろしてなにか話す様子が素敵だった。
夫は城でこんなに輝いている。夫の輝く場所は城なのだ。夫には、是非ともいつまでも城で輝いていてほしいものだ。
未来明るいサフィリアの夫。あの夜の事故さえなければ、彼の未来はもっともっと明るかった。
そんな光り輝く夫を縛りつけ、働き者の夫を帰宅させてしまうサフィリアは、ゴミだクズだ塵屑だ。
この世界はサフィリアに優しいから、ルクスも義両親も使用人たちも、だれもそんなことはおくびにも出さない。
だから尚のこと、サフィリアはルクスに嫁いでからの二年間、贖罪の機会を窺っていたのである。そこでタイムリーに耳にした天竺情報。
サフィリアは、なんとかしてルクスを自由にしたいと考えた。ルクスを縛り付ける原因となった己の罪を懺悔したい。懺悔するなら天竺だろう。
天竺へ行くしかない。御仏の国、天竺で贖罪の祈りを捧げるべし。
だがしかし、大陸は広い。西にある国は遠い。サフィリアの細い足ではとてもではないが辿り着けない。まあ兎に角調べてみよう。
天竺について知るなら図書館だろう。図書館は調べ物の宝庫なのだから。
図書館で天竺についてを調べたなら、サフィリアは天竺に行って、夫と義両親への懺悔の祈りに生涯を捧げてしまいたいと思っているのだった。
その日サフィリアは、王立の図書館へ出向いた。天竺について、情報収集しようと考えた。
御仏と言ったら神の教え。分類は哲学思想宗教だろう。
「えーと、宗教宗教っと……」
哲学書が並ぶ書架を彷徨い、思想の棚をさすらい宗教の棚を放浪した。ひっそりとした書架から書架へと渡り歩き、まる一日かけてサフィリアが知り得た結果とは、他国の宗教とはさっぱりわからないということだった。
とんだ無駄足だった。だが、地図で見た西国は物凄く遠かった。それが分かった事だけが収穫だった。
サフィリアの悩みは深い。
「サフィリア、すっかり淋しい思いをさせてしまった。すまない」
その夜、夫は三日連続の激務を終えて、漸く邸に戻って来た。
前述の通り、夫は大変律儀な人物だ。事故的に同じベッドにいたサフィリアに、開口一番フルネームで自己紹介したツワモノだ。
律儀な上にツワモノだから、夜もきっちり手を抜かない。城では三徹だったと聞いていたのに、律儀な夫はサフィリアを寝台でも律儀にねちっこく愛する。
お願いです、もう寝て下さい、寝かして下さい旦那様、とサフィリアがどれほど懇願しても、まだだまだだまだまだだと謎の返答をして、夫は二回戦、三回戦へと持ち込んで行く。
空が白む頃になって、夫は漸く浅い眠りについた。サフィリアをぎゅーっと抱き締め微睡みに沈む。
夫の胸に抱かれて、サフィリアは考える。
天竺へは、徒歩なら何日掛かるのだろう。
窓から見える白む朝の空を眺めて、サフィリアは、ひい、ふう、みいと指を折りながら数えるのだった。
サフィリアは、あれからずっと天竺についてを考えている。
今も殿下の苺ハンカチ三枚目を刺繍しながら、頭の中は天竺だった。
天竺とは、一体どんな国なのだろう。
御仏とは、一体どんな存在なのだろう。
サフィリアはルクスに対して悔やんでも悔やみきれない悔恨の思いを抱いている。
酒は飲んでも飲まれるな。飲んだら(一杯目)飲むな(二杯目)、飲むなら飲むな。
前後不覚になっただけでも貴族令嬢としてアウトなのに、それに夫を巻き込んでしまった。
あの夜会の出来事がなかったら、ルクスはサフィリアという枷を嵌められることなく、今頃は思いっきり王城で職務に邁進出来ていた筈だ。
毎日毎日帰って来る度「遅くなってすまなかった」だなんて、律儀に謝罪なんかしなくても、王城にゆっくり泊まりまくって仕事に没頭出来た筈だ。
サフィリアは以前、働くルクスの姿をチラ見したことがある。
ほんのちょっとした届け物だった。面会室で待つまでもなく、そのまま直接夫の部署に行ったほうが早いと受付で言われて、それで内心興味深く思いながら出向いたのだ。
「旦那様のお仕事姿」
そう小さく呟くだけで、胸が温かくなった。
ルクスはあんなシャープな顔立ちをして、その実とても優しい夫だ。サフィリアに厳しい物言いなんて一度もしたことはない。寧ろ王太子相手のほうが不敬極まりないと誰かが言っていた。
ベッドの中でもとてもお優しいわ。ちょっとねちっこいのは頑張りやさんの証拠だわ。
うっかり夜の営みを思い出してしまった。
夫の仕事場は王太子の執務室なのだが、執務室には国への嘆願書や申請書などといった各種提出窓口が併設されている。
まだ婚姻する前、姉のお使いでほんの数回出向いたことがあった。当時はそこに夫がいるだなんて知らなかったのだけれど。
存在自体が迷惑を掛けているのに、これ以上夫の邪魔はしたくはない。だから届け物は窓口の文官に預けて、そっと帰るつもりだった。
ちょっとだけ。ちょっと見るだけよ。
ちらりとでも構わない。夫の姿を見たかった。それで窓口の奥を覗き見たのである。
窓口の向こうには、ちらっと夫の姿が見えた。覗き見た夫の横顔は輝いていた。王太子を見下ろしてなにか話す様子が素敵だった。
夫は城でこんなに輝いている。夫の輝く場所は城なのだ。夫には、是非ともいつまでも城で輝いていてほしいものだ。
未来明るいサフィリアの夫。あの夜の事故さえなければ、彼の未来はもっともっと明るかった。
そんな光り輝く夫を縛りつけ、働き者の夫を帰宅させてしまうサフィリアは、ゴミだクズだ塵屑だ。
この世界はサフィリアに優しいから、ルクスも義両親も使用人たちも、だれもそんなことはおくびにも出さない。
だから尚のこと、サフィリアはルクスに嫁いでからの二年間、贖罪の機会を窺っていたのである。そこでタイムリーに耳にした天竺情報。
サフィリアは、なんとかしてルクスを自由にしたいと考えた。ルクスを縛り付ける原因となった己の罪を懺悔したい。懺悔するなら天竺だろう。
天竺へ行くしかない。御仏の国、天竺で贖罪の祈りを捧げるべし。
だがしかし、大陸は広い。西にある国は遠い。サフィリアの細い足ではとてもではないが辿り着けない。まあ兎に角調べてみよう。
天竺について知るなら図書館だろう。図書館は調べ物の宝庫なのだから。
図書館で天竺についてを調べたなら、サフィリアは天竺に行って、夫と義両親への懺悔の祈りに生涯を捧げてしまいたいと思っているのだった。
その日サフィリアは、王立の図書館へ出向いた。天竺について、情報収集しようと考えた。
御仏と言ったら神の教え。分類は哲学思想宗教だろう。
「えーと、宗教宗教っと……」
哲学書が並ぶ書架を彷徨い、思想の棚をさすらい宗教の棚を放浪した。ひっそりとした書架から書架へと渡り歩き、まる一日かけてサフィリアが知り得た結果とは、他国の宗教とはさっぱりわからないということだった。
とんだ無駄足だった。だが、地図で見た西国は物凄く遠かった。それが分かった事だけが収穫だった。
サフィリアの悩みは深い。
「サフィリア、すっかり淋しい思いをさせてしまった。すまない」
その夜、夫は三日連続の激務を終えて、漸く邸に戻って来た。
前述の通り、夫は大変律儀な人物だ。事故的に同じベッドにいたサフィリアに、開口一番フルネームで自己紹介したツワモノだ。
律儀な上にツワモノだから、夜もきっちり手を抜かない。城では三徹だったと聞いていたのに、律儀な夫はサフィリアを寝台でも律儀にねちっこく愛する。
お願いです、もう寝て下さい、寝かして下さい旦那様、とサフィリアがどれほど懇願しても、まだだまだだまだまだだと謎の返答をして、夫は二回戦、三回戦へと持ち込んで行く。
空が白む頃になって、夫は漸く浅い眠りについた。サフィリアをぎゅーっと抱き締め微睡みに沈む。
夫の胸に抱かれて、サフィリアは考える。
天竺へは、徒歩なら何日掛かるのだろう。
窓から見える白む朝の空を眺めて、サフィリアは、ひい、ふう、みいと指を折りながら数えるのだった。
3,532
あなたにおすすめの小説
ご安心を、2度とその手を求める事はありません
ポチ
恋愛
大好きな婚約者様。 ‘’愛してる‘’ その言葉私の宝物だった。例え貴方の気持ちが私から離れたとしても。お飾りの妻になるかもしれないとしても・・・
それでも、私は貴方を想っていたい。 独り過ごす刻もそれだけで幸せを感じられた。たった一つの希望
完結 この手からこぼれ落ちるもの
ポチ
恋愛
やっと、本当のことが言えるよ。。。
長かった。。
君は、この家の第一夫人として
最高の女性だよ
全て君に任せるよ
僕は、ベリンダの事で忙しいからね?
全て君の思う通りやってくれれば良いからね?頼んだよ
僕が君に触れる事は無いけれど
この家の跡継ぎは、心配要らないよ?
君の父上の姪であるベリンダが
産んでくれるから
心配しないでね
そう、優しく微笑んだオリバー様
今まで優しかったのは?
聖女に負けた侯爵令嬢 (よくある婚約解消もののおはなし)
蒼あかり
恋愛
ティアナは女王主催の茶会で、婚約者である王子クリストファーから婚約解消を告げられる。そして、彼の隣には聖女であるローズの姿が。
聖女として国民に、そしてクリストファーから愛されるローズ。クリストファーとともに並ぶ聖女ローズは美しく眩しいほどだ。そんな二人を見せつけられ、いつしかティアナの中に諦めにも似た思いが込み上げる。
愛する人のために王子妃として支える覚悟を持ってきたのに、それが叶わぬのならその立場を辞したいと願うのに、それが叶う事はない。
いつしか公爵家のアシュトンをも巻き込み、泥沼の様相に……。
ラストは賛否両論あると思います。納得できない方もいらっしゃると思います。
それでも最後まで読んでいただけるとありがたいです。
心より感謝いたします。愛を込めて、ありがとうございました。
亡き姉を演じ初恋の人の妻となった私は、その日、“私”を捨てた
榛乃
恋愛
伯爵家の令嬢・リシェルは、侯爵家のアルベルトに密かに想いを寄せていた。
けれど彼が選んだのはリシェルではなく、双子の姉・オリヴィアだった。
二人は夫婦となり、誰もが羨むような幸福な日々を過ごしていたが――それは五年ももたず、儚く終わりを迎えてしまう。
オリヴィアが心臓の病でこの世を去ったのだ。
その日を堺にアルベルトの心は壊れ、最愛の妻の幻を追い続けるようになる。
そんな彼を守るために。
そして侯爵家の未来と、両親の願いのために。
リシェルは自分を捨て、“姉のふり”をして生きる道を選ぶ。
けれど、どれほど傍にいても、どれほど尽くしても、彼の瞳に映るのはいつだって“オリヴィア”だった。
その現実が、彼女の心を静かに蝕んでゆく。
遂に限界を越えたリシェルは、自ら命を絶つことに決める。
短剣を手に、過去を振り返るリシェル。
そしていよいよ切っ先を突き刺そうとした、その瞬間――。
その結婚は、白紙にしましょう
香月まと
恋愛
リュミエール王国が姫、ミレナシア。
彼女はずっとずっと、王国騎士団の若き団長、カインのことを想っていた。
念願叶って結婚の話が決定した、その夕方のこと。
浮かれる姫を前にして、カインの口から出た言葉は「白い結婚にとさせて頂きたい」
身分とか立場とか何とか話しているが、姫は急速にその声が遠くなっていくのを感じる。
けれど、他でもない憧れの人からの嘆願だ。姫はにっこりと笑った。
「分かりました。その提案を、受け入れ──」
全然受け入れられませんけど!?
形だけの結婚を了承しつつも、心で号泣してる姫。
武骨で不器用な王国騎士団長。
二人を中心に巻き起こった、割と短い期間のお話。
伯爵令嬢の婚約解消理由
七宮 ゆえ
恋愛
私には、小さい頃から親に決められていた婚約者がいます。
婚約者は容姿端麗、文武両道、金枝玉葉という世のご令嬢方が黄色い悲鳴をあげること間違い無しなお方です。
そんな彼と私の関係は、婚約者としても友人としても比較的良好でありました。
しかしある日、彼から婚約を解消しようという提案を受けました。勿論私達の仲が不仲になったとか、そういう話ではありません。それにはやむを得ない事情があったのです。主に、国とか国とか国とか。
一体何があったのかというと、それは……
これは、そんな私たちの少しだけ複雑な婚約についてのお話。
*本編は8話+番外編を載せる予定です。
*小説家になろうに同時掲載しております。
*なろうの方でも、アルファポリスの方でも色んな方に続編を読みたいとのお言葉を貰ったので、続きを只今執筆しております。
【完結】仲の良かったはずの婚約者に一年無視され続け、婚約解消を決意しましたが
ゆらゆらぎ
恋愛
エルヴィラ・ランヴァルドは第二王子アランの幼い頃からの婚約者である。仲睦まじいと評判だったふたりは、今では社交界でも有名な冷えきった仲となっていた。
定例であるはずの茶会もなく、婚約者の義務であるはずのファーストダンスも踊らない
そんな日々が一年と続いたエルヴィラは遂に解消を決意するが──
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる