或る伯爵夫人が一人思い悩んだ末の事の顛末

桃井すもも

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第十章

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 エデンは東、天竺は西。

 サフィリアは、あれからずっと天竺についてを考えている。

 今も殿下の苺ハンカチ三枚目を刺繍しながら、頭の中は天竺だった。

 天竺とは、一体どんな国なのだろう。
 御仏とは、一体どんな存在なのだろう。

 サフィリアはルクスに対して悔やんでも悔やみきれない悔恨の思いを抱いている。
 酒は飲んでも飲まれるな。飲んだら(一杯目)飲むな(二杯目)、飲むなら飲むな。

 前後不覚になっただけでも貴族令嬢としてアウトなのに、それに夫を巻き込んでしまった。

 あの夜会の出来事がなかったら、ルクスはサフィリアというかせはめめられることなく、今頃は思いっきり王城で職務に邁進出来ていた筈だ。
 毎日毎日帰って来る度「遅くなってすまなかった」だなんて、律儀に謝罪なんかしなくても、王城にゆっくり泊まりまくって仕事に没頭出来た筈だ。 

 サフィリアは以前、働くルクスの姿をチラ見したことがある。
 ほんのちょっとした届け物だった。面会室で待つまでもなく、そのまま直接夫の部署に行ったほうが早いと受付で言われて、それで内心興味深く思いながら出向いたのだ。

「旦那様のお仕事姿」

 そう小さく呟くだけで、胸が温かくなった。
 ルクスはあんなシャープな顔立ちをして、その実とても優しい夫だ。サフィリアに厳しい物言いなんて一度もしたことはない。寧ろ王太子相手のほうが不敬極まりないと誰かが言っていた。

 ベッドの中でもとてもお優しいわ。ちょっとねちっこいのは頑張りやさんの証拠だわ。
 うっかり夜の営みを思い出してしまった。

 夫の仕事場は王太子の執務室なのだが、執務室には国への嘆願書や申請書などといった各種提出窓口が併設されている。  
 まだ婚姻する前、姉のお使いでほんの数回出向いたことがあった。当時はそこに夫がいるだなんて知らなかったのだけれど。

 存在自体が迷惑を掛けているのに、これ以上夫の邪魔はしたくはない。だから届け物は窓口の文官に預けて、そっと帰るつもりだった。

 ちょっとだけ。ちょっと見るだけよ。
 ちらりとでも構わない。夫の姿を見たかった。それで窓口の奥を覗き見たのである。

 窓口の向こうには、ちらっと夫の姿が見えた。覗き見た夫の横顔は輝いていた。王太子を見下ろしてなにか話す様子が素敵だった。

 夫は城でこんなに輝いている。夫の輝く場所は城なのだ。夫には、是非ともいつまでも城で輝いていてほしいものだ。

 未来明るいサフィリアの夫。あの夜の事故さえなければ、彼の未来はもっともっと明るかった。

 そんな光り輝く夫を縛りつけ、働き者の夫を帰宅させてしまうサフィリアは、ゴミだクズだ塵屑ゴミクズだ。

 この世界はサフィリアに優しいから、ルクスも義両親も使用人たちも、だれもそんなことはおくびにも出さない。

 だから尚のこと、サフィリアはルクスに嫁いでからの二年間、贖罪の機会を窺っていたのである。そこでタイムリーに耳にした天竺情報。

 サフィリアは、なんとかしてルクスを自由にしたいと考えた。ルクスを縛り付ける原因となった己の罪を懺悔したい。懺悔するなら天竺だろう。

 天竺へ行くしかない。御仏の国、天竺で贖罪の祈りを捧げるべし。

 だがしかし、大陸は広い。西にある国は遠い。サフィリアの細い足ではとてもではないが辿り着けない。まあ兎に角調べてみよう。
 天竺について知るなら図書館だろう。図書館は調べ物の宝庫なのだから。

 図書館で天竺についてを調べたなら、サフィリアは天竺に行って、夫と義両親への懺悔の祈りに生涯を捧げてしまいたいと思っているのだった。


 その日サフィリアは、王立の図書館へ出向いた。天竺について、情報収集しようと考えた。
 御仏と言ったら神の教え。分類は哲学思想宗教だろう。

「えーと、宗教宗教っと……」

 哲学書が並ぶ書架を彷徨い、思想の棚をさすらい宗教の棚を放浪した。ひっそりとした書架から書架へと渡り歩き、まる一日かけてサフィリアが知り得た結果とは、他国の宗教とはさっぱりわからないということだった。

 とんだ無駄足だった。だが、地図で見た西国は物凄く遠かった。それが分かった事だけが収穫だった。
 サフィリアの悩みは深い。


「サフィリア、すっかり淋しい思いをさせてしまった。すまない」

 その夜、夫は三日連続の激務を終えて、ようやく邸に戻って来た。
 前述の通り、夫は大変律儀な人物だ。事故的に同じベッドにいたサフィリアに、開口一番フルネームで自己紹介したツワモノだ。

 律儀な上にツワモノだから、夜もきっちり手を抜かない。城では三徹だったと聞いていたのに、律儀な夫はサフィリアを寝台でも律儀にねちっこく愛する。

 お願いです、もう寝て下さい、寝かして下さい旦那様、とサフィリアがどれほど懇願しても、まだだまだだまだまだだと謎の返答をして、夫は二回戦、三回戦へと持ち込んで行く。

 空が白む頃になって、夫はようやく浅い眠りについた。サフィリアをぎゅーっと抱き締め微睡みに沈む。

 夫の胸に抱かれて、サフィリアは考える。
 天竺へは、徒歩なら何日掛かるのだろう。

 窓から見える白む朝の空を眺めて、サフィリアは、ひい、ふう、みいと指を折りながら数えるのだった。


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