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第十五章
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「あのぅ」
磨り硝子の向こう側にブルネットの髪が揺れて見えた。
また来た、あのぅ夫人。
教会の司祭フランシスは、きっちり昨日と同じ時間に現れた人物と、薄い硝子越しに向かい合っている。
彼女のことは知っている。なにせ彼女の婚姻式を執り行ったのは自分である。夫の長過ぎる誓いのキスを途中で止めに入ったのも自分である。
あのぅ夫人、もとい、伯爵夫人サフィリアが何をそれほど悩み抜いて、この部屋を訪れるのか理解ができない。
言ってることも理解に苦しむ。どうすればこんな元気に後ろ向きになれるのか不思議でならない。
「というわけで、私は大変罪深き妻なのです」
「……」
サフィリアの長い告解を、戸惑いと呆れと困惑と共に無言で受け止める。司祭は彼女の専属アドバイザーではないから、黙って耳を傾けることしか出来ない。
何となく、もう帰ってくれないかなという無言の気配を感じない訳ではないが、何も言われないからサフィリアは語り続ける。
「それで私、考えましたの」
「……」
「やはり夫と距離をおくべきではないかと」
「!」
どうしてそうなる。司祭は驚いた。
今までの話の脈絡から、行き成り導き出された結論に、いくら考えてもその結論が思い浮かばない。
「行き先ならございますのよ。こう見えて私、姉に大変愛されておりますの。なんだか姉の執務も上手く手伝えますし、意外と重宝されておりますの。ですから実家はいつでもウェルカムですわ」
磨り硝子の向こうにいる司祭には、こう見えてというサフィリアの姿は見えない。
「もう二年も夫を縛り付けてしまいました。私を妻に娶らなければ、夫は今ごろきっと、多分絶対、薔薇色の人生を過ごしていた筈ですわ」
あれだけ連チャンで城に詰めて、その上彼女が居ない人生なんて、全然薔薇色ではない。寧ろお先真っ暗だろう。
「あのぅ」
司祭は最近、この「あのぅ」が苦手になった。
この夫人、「あのぅ」の次には必ず面倒くさいことを言う。面倒事には巻き込まれたくない。それが司祭の本心だ。
「ワタクシ、夫と離縁しようかと思います」
ガタガタガタンと磨り硝子の向こう側から音がした。
「まあ、大丈夫?司祭様」
サフィリアはそう声を掛けたが答えはなかった。磨り硝子の向こう側は薄暗闇で人の気配も無い。
まあ。司祭様、お忙しいのね。お話の途中だったのに、どこかに行っちゃったわ。仕方がない、帰るか。
漸く離縁の意志を口に出せた。言葉とは、発した直後にカタチを生む。それで自分の語った決意についても、何れ何某か具現化を見るのではないか。それはなんて幸先の良いことだろう。
そんなことを考えながら、サフィリアは勝手に持ち出した椅子を片付ける。重い椅子をギギィギギィと引き摺って、部屋の隅に寄せた。
それから、ぱんぱんと手の平の埃をはたき落として、
「御免遊ばせ」
サフィリアは帰っていった。
後に残ったのは静寂、ではなかった。
司祭は椅子からひっくり返っていたのを、どうにか起き上がった。
サフィリアの「離縁」というパワーワードに彼は椅子からひっくり返っていた。ちゃんと床に転がっていたのだが、サフィリアはそれには気が付かなかった。
「不味いことになったな」
司祭はやれやれと面倒に思った。あの夫婦、ほんと面倒くさいな。そう思いながら頭を掻いた。
「お前、奥方、誤解してるぞ。黙って聞いていれば気が済むのかと思っていたが、あれは不味い。不味いぞルクス」
思う存分、胸の内をすっかりすっきり打ち明けたサフィリアが漸く帰って、誰もいなくなった礼拝堂で司祭は不器用な男の顔を思い浮かべた。
「今日は何をしていたんだ?」
共に並び座る晩餐の席で、ルクスがサフィリアへ向き直って尋ねてきた。至近距離で真横から覗き込まれて、サフィリアは少しだけ身を反らした。
ここのところ、夫は奇跡のように定時で帰ってくる。
「こっ」
告解ですわと言いかけて、ぎりぎりセーフでその先を飲み込んだ。危ない危ない。
「こ?」
夫が不審な顔をする。更に横からサフィリアを覗き込んでくる。
「ええーと、散策しておりました」礼拝堂を。
サフィリアの返答に夫は不審を解いて頷いた。
「そうか、散策をしていたのか。そうかそうか、そうだ、今度街へ出よう」
何のため?夫の言葉にサフィリアは訝しむ眼差しを向けた。タバサがお願いします、そんな顔で旦那様を見ないであげて下さいまし、と心の中で祈ったが、残念ながら通じなかった。
訝しむサフィリアには気づかぬまま、ルクスはどこが良い?と聞いてくる。
「何か旨いものでも食べに行こうか。それとも足を伸ばして郊外に出るか。そうだ、王立の植物公園も良いな。ワゴンで売っているアイスクリンが旨いのだと同僚から聞いたんだ。彼も細君を連れて先日行ったばかりらしい。全く余暇とは素晴らしいな。余暇あっての人生だ。こんな時間を我が人生で得られることを得難い幸福だと思うよ。こんな時間を今まで得られずにいたとは、生きる屍であった。それは不幸と言って正しい。なあサフィリア。君もそう思わないか」
無口な夫が饒舌だ。よほど機嫌が良いのだろう。
なんでも最近、王太子が風邪を拗らせ寝込んでいるしい。悪寒と怖気が治まらない。もう数日寝込んでいるのだとは、妃のクラウディアからも聞いていた。
菌を移されるのは嫌だから寝室を別にしたら安眠できて最高だと、彼女はそう言っていた。
ルクスの部署でも、王太子からの職務の無茶振りが激減して、今日も5時の鐘の音とともに全員定時に上がったという。
この分では更なる余暇を楽しめそうだ。ずっと寝込んでろと言う夫に、タバサが(やった!呪詛効いた!)と歓喜したのは内緒である。
磨り硝子の向こう側にブルネットの髪が揺れて見えた。
また来た、あのぅ夫人。
教会の司祭フランシスは、きっちり昨日と同じ時間に現れた人物と、薄い硝子越しに向かい合っている。
彼女のことは知っている。なにせ彼女の婚姻式を執り行ったのは自分である。夫の長過ぎる誓いのキスを途中で止めに入ったのも自分である。
あのぅ夫人、もとい、伯爵夫人サフィリアが何をそれほど悩み抜いて、この部屋を訪れるのか理解ができない。
言ってることも理解に苦しむ。どうすればこんな元気に後ろ向きになれるのか不思議でならない。
「というわけで、私は大変罪深き妻なのです」
「……」
サフィリアの長い告解を、戸惑いと呆れと困惑と共に無言で受け止める。司祭は彼女の専属アドバイザーではないから、黙って耳を傾けることしか出来ない。
何となく、もう帰ってくれないかなという無言の気配を感じない訳ではないが、何も言われないからサフィリアは語り続ける。
「それで私、考えましたの」
「……」
「やはり夫と距離をおくべきではないかと」
「!」
どうしてそうなる。司祭は驚いた。
今までの話の脈絡から、行き成り導き出された結論に、いくら考えてもその結論が思い浮かばない。
「行き先ならございますのよ。こう見えて私、姉に大変愛されておりますの。なんだか姉の執務も上手く手伝えますし、意外と重宝されておりますの。ですから実家はいつでもウェルカムですわ」
磨り硝子の向こうにいる司祭には、こう見えてというサフィリアの姿は見えない。
「もう二年も夫を縛り付けてしまいました。私を妻に娶らなければ、夫は今ごろきっと、多分絶対、薔薇色の人生を過ごしていた筈ですわ」
あれだけ連チャンで城に詰めて、その上彼女が居ない人生なんて、全然薔薇色ではない。寧ろお先真っ暗だろう。
「あのぅ」
司祭は最近、この「あのぅ」が苦手になった。
この夫人、「あのぅ」の次には必ず面倒くさいことを言う。面倒事には巻き込まれたくない。それが司祭の本心だ。
「ワタクシ、夫と離縁しようかと思います」
ガタガタガタンと磨り硝子の向こう側から音がした。
「まあ、大丈夫?司祭様」
サフィリアはそう声を掛けたが答えはなかった。磨り硝子の向こう側は薄暗闇で人の気配も無い。
まあ。司祭様、お忙しいのね。お話の途中だったのに、どこかに行っちゃったわ。仕方がない、帰るか。
漸く離縁の意志を口に出せた。言葉とは、発した直後にカタチを生む。それで自分の語った決意についても、何れ何某か具現化を見るのではないか。それはなんて幸先の良いことだろう。
そんなことを考えながら、サフィリアは勝手に持ち出した椅子を片付ける。重い椅子をギギィギギィと引き摺って、部屋の隅に寄せた。
それから、ぱんぱんと手の平の埃をはたき落として、
「御免遊ばせ」
サフィリアは帰っていった。
後に残ったのは静寂、ではなかった。
司祭は椅子からひっくり返っていたのを、どうにか起き上がった。
サフィリアの「離縁」というパワーワードに彼は椅子からひっくり返っていた。ちゃんと床に転がっていたのだが、サフィリアはそれには気が付かなかった。
「不味いことになったな」
司祭はやれやれと面倒に思った。あの夫婦、ほんと面倒くさいな。そう思いながら頭を掻いた。
「お前、奥方、誤解してるぞ。黙って聞いていれば気が済むのかと思っていたが、あれは不味い。不味いぞルクス」
思う存分、胸の内をすっかりすっきり打ち明けたサフィリアが漸く帰って、誰もいなくなった礼拝堂で司祭は不器用な男の顔を思い浮かべた。
「今日は何をしていたんだ?」
共に並び座る晩餐の席で、ルクスがサフィリアへ向き直って尋ねてきた。至近距離で真横から覗き込まれて、サフィリアは少しだけ身を反らした。
ここのところ、夫は奇跡のように定時で帰ってくる。
「こっ」
告解ですわと言いかけて、ぎりぎりセーフでその先を飲み込んだ。危ない危ない。
「こ?」
夫が不審な顔をする。更に横からサフィリアを覗き込んでくる。
「ええーと、散策しておりました」礼拝堂を。
サフィリアの返答に夫は不審を解いて頷いた。
「そうか、散策をしていたのか。そうかそうか、そうだ、今度街へ出よう」
何のため?夫の言葉にサフィリアは訝しむ眼差しを向けた。タバサがお願いします、そんな顔で旦那様を見ないであげて下さいまし、と心の中で祈ったが、残念ながら通じなかった。
訝しむサフィリアには気づかぬまま、ルクスはどこが良い?と聞いてくる。
「何か旨いものでも食べに行こうか。それとも足を伸ばして郊外に出るか。そうだ、王立の植物公園も良いな。ワゴンで売っているアイスクリンが旨いのだと同僚から聞いたんだ。彼も細君を連れて先日行ったばかりらしい。全く余暇とは素晴らしいな。余暇あっての人生だ。こんな時間を我が人生で得られることを得難い幸福だと思うよ。こんな時間を今まで得られずにいたとは、生きる屍であった。それは不幸と言って正しい。なあサフィリア。君もそう思わないか」
無口な夫が饒舌だ。よほど機嫌が良いのだろう。
なんでも最近、王太子が風邪を拗らせ寝込んでいるしい。悪寒と怖気が治まらない。もう数日寝込んでいるのだとは、妃のクラウディアからも聞いていた。
菌を移されるのは嫌だから寝室を別にしたら安眠できて最高だと、彼女はそう言っていた。
ルクスの部署でも、王太子からの職務の無茶振りが激減して、今日も5時の鐘の音とともに全員定時に上がったという。
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