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第十六章
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告解で司祭に告げた言葉は本心だった。
心が決まるのに二年も掛かってしまった。
サフィリアは、漸く決心がついた。もう夫を自由にしてやって良いだろう。
初めからわかっていたのだ。こうするべきだと。夫の手を離さねばならない。あの大きくて温かで、毎夜サフィリアを甘く翻弄する愛しい手を、今こそ離してやらねばならない。
本心なら、サフィリアは夫を愛している。
ルクスとの出会い、ルクスとの日々。
あんな事故のような出会いでさえ、たとえ「不幸な夜」だとしても、サフィリアにとってのあの夜は、生涯胸の奥深くに仕舞い込んでおきたい大切な思い出なのだ。
ルクスと離縁した後には、サフィリアは独り身になる。こんな不甲斐ない自分には、二度目の婚姻は望めないだろう。
サフィリアは、寧ろそのほうが良いとさえ思っている。
夫に与えてもらった幸福な日々の思い出を、孤独な余生で時折胸の奥から取り出して、懐かしく愛しく思い出す。それだけで幸せな人生となるだろう。
だから旦那様。貴方の大きくて温かくて甘いその手を、私のほうから離して差し上げますわ。
「二枚頂けます?」
「え?二枚ですか?」
「ええ、そう。書き損じちゃったらいけないから」
この日、最寄りの役場を訪れたサフィリアは、離縁誓約書を二部求めた。
こんな大切な書類、うっかり書き損じなどしては堪らない。念には念を入れて二枚必要だろう。
もしかしたら、ルクスとの離縁後に二度目の婚姻に縁付いて、もしかしたら二度目も夫に不幸を強いる婚姻で、二度目の離縁となるかもしれない。
予備にもう一枚あったなら、速やかに二度目の離縁もできるだろう。
後ろ向きな思考は裾野を広げて、危うくもう一枚、三枚目の離縁届をもらうところだった。
役場からもらった離縁誓約書を、サフィリアは夫人の部屋にある寝台のヘッドボードの引き出しにそっと仕舞った。
その日は朝から雨が降っていた。だからサフィリアは毎日欠かさず通っていた教会へは行かなかった。何故なら先日、夫が靴をプレゼントしてくれた。
「赤が君に似合うと思って」
そんなこと、この地味な人生で初めて言われた。地味地味サフィリアの地味っぷりは貴族界隈では有名なのに。
夫が地味地味妻に買ってくれた赤い靴。それを雨で濡らしたくはなかった。
苺のような真っ赤な靴。苺、苺、いちご……。
そこでサフィリアは苺大好き人間を一人思い出した。サフィリアの周囲にいる苺大好き人間とは、今や原因不明の不調に伏せる王太子殿下だ。
クラウディアは彼を「枕の住人」と呼んでいた。
そうだわ、苺好きの枕の住人に、苺のピローケースを贈ろう。真っ白なピローケースに真っ赤な苺を刺繍して、これぞまさしく苺ミルク。原因不明の不調な日々に真っ赤な苺で元気になって頂きたい。
だって、赤い靴を履くだけでこんなに心が躍るのですもの。これはきっと赤の奇跡ね。
東方の格言『思い立ったが吉日』を実行すべく、サフィリアは早速ピローケースに刺繍を始めた。
絵柄は先日ハンカチに刺したのを巨大化しよう。頭が乗る場所一面巨大苺だ。
真っ白なピローケースがどんどん真っ赤になっていくも、サフィリアは気にすることなく針を刺していった。
「まあ、それは本当なの?」
「ええ、奥様。我が家はその『聖女』の末裔なのです」
雨の日の刺繍は心地よい。
サフィリアは向かいにタバサを座らせて、窓辺で二人揃って針仕事をしていた。
「それで、私のご先祖様、『聖女』なんですけれど……」
タバサが言うには、その昔。
幼い頃に神聖に目覚めたご先祖様は、当時『聖女』と呼ばれていた。だが、彼女は母を亡くしていた。哀しみも癒えないうちに父が迎え入れた後妻とその連れ子の義妹。
あろうことか、聖女は父と義母と義妹に虐げられていたという。
「お義姉様はズルい」「お義姉様はヒドい」
それが義妹の口癖で、彼女は口癖も悪ければ手癖も悪かった。
聖女の持ち物をことごとく奪い、聖女の婚約者であった当時の王太子殿下をヒドいズルい方式で騙くらかして奪った。
学園の卒業式という晴れの日に、馬鹿な王太子と義妹の二人は、有りもしない冤罪を擦り付けた挙句に婚約を破棄。
聖女は国から追放されてしまったのだという。
「なんだかそのお話、最近劇場の看板に似たような演目を観た気がするわ」
「ああ、それは多分、気の所為ですね」
話には続きがある。
義妹に冤罪を掛けられ婚約者を奪われ、「ニセ聖女」の汚名を浴びせられて、国を追われた聖女が命からがら辿り着いたのがこの王国だった。
そこでボロボロの彼女を助けた男爵家の嫡男と聖女は心を通わせ合う。そうして二人は結ばれる。
「その二人が私のご先祖様です」
タバサは男爵家の三女である。この伯爵邸では行儀見習いの為に侍女を務めている。
「物凄い壮大な物語だわ。ちょっとベタなストーリーではあるけれど、貴女のお話を聞いただけで暫く観劇には行かずとも済みそうだわ」
「ですからストーリーではありませんって。本当の我が家の話です」
ふうん、と流したサフィリアに、タバサは続けた。
「ですからね、ほんのちょっぴりですけど、私にも聖女の力が残っております」
「え!タバサそれは本当なの?」
「ええ。得意技は『呪詛』ですかね」
サフィリアは、それ以上は聞かないことにした。因みに、聖女を追い出した国は、今は大陸中探しても何処にも無い。彼の国は疾うの昔に滅亡していた。
「ところでタバサ、貴女は何を刺繍しているの?」
サフィリアと向かい合って刺繍をしていたタバサの手元を覗いて尋ねれば、
「髑髏ですかね」
サフィリアは、それを見なかったことにした。
心が決まるのに二年も掛かってしまった。
サフィリアは、漸く決心がついた。もう夫を自由にしてやって良いだろう。
初めからわかっていたのだ。こうするべきだと。夫の手を離さねばならない。あの大きくて温かで、毎夜サフィリアを甘く翻弄する愛しい手を、今こそ離してやらねばならない。
本心なら、サフィリアは夫を愛している。
ルクスとの出会い、ルクスとの日々。
あんな事故のような出会いでさえ、たとえ「不幸な夜」だとしても、サフィリアにとってのあの夜は、生涯胸の奥深くに仕舞い込んでおきたい大切な思い出なのだ。
ルクスと離縁した後には、サフィリアは独り身になる。こんな不甲斐ない自分には、二度目の婚姻は望めないだろう。
サフィリアは、寧ろそのほうが良いとさえ思っている。
夫に与えてもらった幸福な日々の思い出を、孤独な余生で時折胸の奥から取り出して、懐かしく愛しく思い出す。それだけで幸せな人生となるだろう。
だから旦那様。貴方の大きくて温かくて甘いその手を、私のほうから離して差し上げますわ。
「二枚頂けます?」
「え?二枚ですか?」
「ええ、そう。書き損じちゃったらいけないから」
この日、最寄りの役場を訪れたサフィリアは、離縁誓約書を二部求めた。
こんな大切な書類、うっかり書き損じなどしては堪らない。念には念を入れて二枚必要だろう。
もしかしたら、ルクスとの離縁後に二度目の婚姻に縁付いて、もしかしたら二度目も夫に不幸を強いる婚姻で、二度目の離縁となるかもしれない。
予備にもう一枚あったなら、速やかに二度目の離縁もできるだろう。
後ろ向きな思考は裾野を広げて、危うくもう一枚、三枚目の離縁届をもらうところだった。
役場からもらった離縁誓約書を、サフィリアは夫人の部屋にある寝台のヘッドボードの引き出しにそっと仕舞った。
その日は朝から雨が降っていた。だからサフィリアは毎日欠かさず通っていた教会へは行かなかった。何故なら先日、夫が靴をプレゼントしてくれた。
「赤が君に似合うと思って」
そんなこと、この地味な人生で初めて言われた。地味地味サフィリアの地味っぷりは貴族界隈では有名なのに。
夫が地味地味妻に買ってくれた赤い靴。それを雨で濡らしたくはなかった。
苺のような真っ赤な靴。苺、苺、いちご……。
そこでサフィリアは苺大好き人間を一人思い出した。サフィリアの周囲にいる苺大好き人間とは、今や原因不明の不調に伏せる王太子殿下だ。
クラウディアは彼を「枕の住人」と呼んでいた。
そうだわ、苺好きの枕の住人に、苺のピローケースを贈ろう。真っ白なピローケースに真っ赤な苺を刺繍して、これぞまさしく苺ミルク。原因不明の不調な日々に真っ赤な苺で元気になって頂きたい。
だって、赤い靴を履くだけでこんなに心が躍るのですもの。これはきっと赤の奇跡ね。
東方の格言『思い立ったが吉日』を実行すべく、サフィリアは早速ピローケースに刺繍を始めた。
絵柄は先日ハンカチに刺したのを巨大化しよう。頭が乗る場所一面巨大苺だ。
真っ白なピローケースがどんどん真っ赤になっていくも、サフィリアは気にすることなく針を刺していった。
「まあ、それは本当なの?」
「ええ、奥様。我が家はその『聖女』の末裔なのです」
雨の日の刺繍は心地よい。
サフィリアは向かいにタバサを座らせて、窓辺で二人揃って針仕事をしていた。
「それで、私のご先祖様、『聖女』なんですけれど……」
タバサが言うには、その昔。
幼い頃に神聖に目覚めたご先祖様は、当時『聖女』と呼ばれていた。だが、彼女は母を亡くしていた。哀しみも癒えないうちに父が迎え入れた後妻とその連れ子の義妹。
あろうことか、聖女は父と義母と義妹に虐げられていたという。
「お義姉様はズルい」「お義姉様はヒドい」
それが義妹の口癖で、彼女は口癖も悪ければ手癖も悪かった。
聖女の持ち物をことごとく奪い、聖女の婚約者であった当時の王太子殿下をヒドいズルい方式で騙くらかして奪った。
学園の卒業式という晴れの日に、馬鹿な王太子と義妹の二人は、有りもしない冤罪を擦り付けた挙句に婚約を破棄。
聖女は国から追放されてしまったのだという。
「なんだかそのお話、最近劇場の看板に似たような演目を観た気がするわ」
「ああ、それは多分、気の所為ですね」
話には続きがある。
義妹に冤罪を掛けられ婚約者を奪われ、「ニセ聖女」の汚名を浴びせられて、国を追われた聖女が命からがら辿り着いたのがこの王国だった。
そこでボロボロの彼女を助けた男爵家の嫡男と聖女は心を通わせ合う。そうして二人は結ばれる。
「その二人が私のご先祖様です」
タバサは男爵家の三女である。この伯爵邸では行儀見習いの為に侍女を務めている。
「物凄い壮大な物語だわ。ちょっとベタなストーリーではあるけれど、貴女のお話を聞いただけで暫く観劇には行かずとも済みそうだわ」
「ですからストーリーではありませんって。本当の我が家の話です」
ふうん、と流したサフィリアに、タバサは続けた。
「ですからね、ほんのちょっぴりですけど、私にも聖女の力が残っております」
「え!タバサそれは本当なの?」
「ええ。得意技は『呪詛』ですかね」
サフィリアは、それ以上は聞かないことにした。因みに、聖女を追い出した国は、今は大陸中探しても何処にも無い。彼の国は疾うの昔に滅亡していた。
「ところでタバサ、貴女は何を刺繍しているの?」
サフィリアと向かい合って刺繍をしていたタバサの手元を覗いて尋ねれば、
「髑髏ですかね」
サフィリアは、それを見なかったことにした。
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