或る伯爵夫人が一人思い悩んだ末の事の顛末

桃井すもも

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第四十章

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「オーディン……」

 若草色より深みのある翠色。張りのある織りの生地には控えめな光沢があり、光の加減でほんの少しのダークな色に見えた。
 艶のある墨色の糸は黒色よりも柔らかで、ドレスの裾には繊細な花弁模様が刺繍されていた。

 消炭の右目に翠の左目。貴方の綺麗な瞳そのもののようなドレスだった。

「貴方が……貴方が贈ってくれたの?」

 目の前にいるのに、マルガレーテにはオーディンがよく見えない。嬉しいのに溢れ出る涙に曇って潤んで歪んで見えていた。

 オーディンは立ち上がり、こちらへ来ると、マルガレーテの座るソファの側に跪いた。

「受け取って下さいますね?」

 そんな優しい声で言わないで。涙が止まらなくなるじゃない。

「貴女に着て欲しいと。貴女だけに贈りたいと。他の誰でもない、貴女しかいない」
「ふぅっ……」

 オーディンがハンカチでマルガレーテの頬を拭う。優しい手つきに、他の令嬢にもこんなことをするのかしらと考える。

「貴女を生涯独占できる許しを得たい。マルガレーテ王女、よろしいか?」

 オーディンは狡い。マルガレーテの気持ちに気づかない筈がないのに、こんな風にマルガレーテを追い詰める。
 甘い罠を仕掛けるように、追い込んで追い詰めて、貴方しか見えないようにしてしまう。

「オーディン、狡いわ、知ってるくせに」
「うん」
「貴方って、意地悪だわ」
「うん」
「私、貴方しか見えないのよ?」
「うん。知ってる」

 もう涙の堰は壊れてしまった。嬉しくて嬉しくて涙が溢れて止まらない。

「おじいちゃんに、」
「おじいちゃん?」

 尚もオーディンに涙を拭われながら、マルガレーテは告白した。

「おじいちゃんに嫁ぐのだと思っていたの」
「は?」
「今、滞在している隣国の大使よ」
「ああ……」
「あの御方が夫なのだと思って、私」

 一度は受け入れた。納得するとかしないとか、そんなことなど考えなかった。これが自身に課せられた務めなのだと心に命じて、オーディンのいるこの国を離れておじいちゃん隣国大使に嫁ぐものだと覚悟をしたのだ。

「そんなことが本当にあったなら、私は全力で貴女を追い掛け必ず阻止した」
「だって、おじいちゃん、重鎮よ?」
「我がコットナー侯爵家一丸となって、貴女を取り戻しただろう」
「侯爵家?」

 マルガレーテはそこで涙が止まった。

「侯爵家って、オーディン、真逆」
「陞爵が決まった」

 マルガレーテは知らなかった。そんな話、両親からもヘンリーからも聞いていない。

「貴女を、漸く求めるに値する家格を得られた。これほど父と母に感謝したことはない」
「ほ、本当に?」

 第一王女が降嫁するのに、伯爵家には些か無理がある。全く出来ない訳ではないが、王国に一人きりの王女の嫁ぎ先としては家格が弱い。
 だが、侯爵家となれば話は違う。現当主も次期当主も、共に国王の側近となれば、尚の事である。

「ううぅ~」

 マルガレーテはもう顔面のあらゆる所から涙とか鼻水だとか溢れてきちゃって酷い有り様となった。ここはせめて乙女らしく、さめざめと涙したいところなのに。

「ううぅ~~」

 まるで幼子が堪えきれずに泣き出すようであった。

「あまりお泣きにならないで下さい。貴女には笑っていて欲しいんだ」

 こくこく頷きながら、再びオーディンに涙を拭かれ、マルガレーテは為すがままにされていた。

 涙は強張った身体から抵抗を奪う。身も心も幼子のように素直にさせる。マルガレーテは元より素直な気質であるが、もう今は幼女そのものだった。とても婚姻の申し込みを受けた姫君と思えない。

「仕方のない御方だ」

 オーディンの声が耳元で聞こえたその瞬間、閉じた瞼に柔らかなものが触れた。
 それは温かで、マルガレーテが知っているような、知らないような、そんな懐かしい温もりを与えるものだった。
 それがオーディンから初めて与えられたキスだと気づいて、マルガレーテは途端に涙も鼻水も引っ込み瞳を開いた。

「お、オーディン」

 見開いた瞳のすぐ側にオーディンがいた。マルガレーテの大好きな瞳がこちらを見ている。

「貴女の返事は?」

 もう~!たった今、瞼にキスまでしたくせに、今それを聞く?
 マルガレーテはお手上げだと思う。こんなオーディンと、これからの人生を生きる喜びに、胸がいっぱいになった。

 ごめんなさい、おじいちゃん隣国大使。貴方の妻にはなれません。私、好きなひとがいるの。小さな頃から彼だけが私の心を捉えるの。初恋なのよ?おじいちゃん。だからごめんなさいね、許してね。

 隣国大使とは、婚姻の話なんて一つもないのに、何より大使には幼い頃から婚約をして娶った妻がいるというのに、なんならマルガレーテと同じ年頃の孫娘だっているのに、何もかもマルガレーテの思い込みだった。

 お陰で、オーディンが内心で「ジジイ。どこにいる、許すまじ」と敵意を抱いたことなんて、当のおじいちゃんは全然知らないのであった。


「あのぅ、姉上?」

 ヘンリーは、なかなか応接室から出てこない姉とオーディンが気になって気になって仕方がなかった。母が執務室を出てからも、部屋に残ってマルガレーテが出てくるのを待っていた。

 なにせ応接室に二人きり。母が人払いをしてしまったから、年頃の乙女と野獣オーディンが二人っきりでいるのだ。

 ヘンリーは、居ても立ってもいられずに、キィと小さな音を立てて扉をそっと開いた。

 一応、姉に呼び掛けてみた。イケナイ最中なんてことになっていたら、そんな姉の姿を見たくはなかった。何よりイケナイことはまだ駄目だと言いたかった。

「姉上……」

 開いた扉の先、応接室のソファに座って、マルガレーテは茹でダコみたいに真っ赤になってオーディンに抱き締められていた。

 ああ、姉上。

 ヘンリーは、そっと扉を締めた。
 それから執務室を一人出た。部屋にはまだ文官が残っているから、二人を置いていっても問題なかろう。

 姉上。良かったね。姉上の思いが通じて心が繋がって……。

 姉に独り立ちされてしまった淋しさ。今日はやけに夕日が目に沁みる。けれども、あんな幸せそうな茹でダコは海にはいないと思いながら、暮れなずむ夕暮れの回廊を一人トボトボ歩くのだった。


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