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第九章
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学園から侯爵邸に戻ってくると、珍しく義母とマシューの姿が見えなかった。
「マシューは長いお昼寝なのかしら?こんな時間に寝てしまっては、夜に眠れなくなっちゃうわね」
出迎えてくれた使用人の中から答えたのは、アルフレッドだった。
「マシュー様は、本日騎士の鍛錬をお受けになられましたので、お疲れになったのでしょう」
アルフレッドはエバース男爵家の次男であり、ジェマイマの護衛を務めている。彼の父親も元は近衛騎士だったが、今は当主として王都郊外に所有する牧草地帯を治めている。
「マシューに騎士の鍛錬?それって真剣を持たせたの?」
「ご安心ください。お持ちになったのは幼子が使う模擬剣です」
「模擬剣といってもマシューはまだ三歳だわ。重いと音を上げたのではなくて?」
「頑張って持ち上げておいででした。大きくなったらお嬢様の護衛騎士になってお護りするのだと仰って」
「まあ、大変。マシューが私の護衛になってしまったら、貴方は失業しちゃうわね」
クラスメイトには自分から話しかけられないくせに、侍女のジェーンやアルフレッドといった使用人には饒舌になる。ジェマイマだって冗談を言えるしユーモアだって持ち合わせている。
学園で表情筋を硬くして過ごしているジェマイマを見たなら、ジェーンはなんと言うだろう。彼女はジェマイマのことを、気さくなお嬢様だと思っている節がある。
学園から帰って玄関ホールに入ると、いつもなら、あの小さな弟が駆け寄ってくる。その姿を見ることが楽しみだったのに、今日はマシューがいなくて残念だった。
王太子の婚約で浮き足立つ学園の空気ばかりでなく、行き成り前触れもなくローレルと昼休みを過ごした「非日常」に、ジェマイマは少しばかり疲れていた。
マシューの小さな身体をぎゅううぅっと抱きしめたなら、そんな疲れも一瞬でぶっ飛んでしまうだろうに。
手持ち無沙汰になるあまり、ジェマイマは両手を腕に回して自分で自分をぎゅううぅと抱きしめた。それを後ろにいたジェーンが「どうしたのです?」と尋ねてきた。
「そうだわ」
そこでジェマイマは昼間のことを思い出し、くるりと後ろへ振り返った。急に立ち止まったものだから、間隔を詰めて背後にいたジェーンが、危うくぶつかりそうになった。
「王城で妃教育があるでしょう?その後に、殿下からお茶に誘われてしまったの」
語尾にどことなく嫌々な雰囲気が漂っていたが、ジェーンは気にすることはないようだった。アルフレッドは微かに眉を動かした。
「貴方たちも同舟よ」
まるで、泥舟に一緒に乗るのだというような言いざまである。
「承知いたしました」
「流石はアルフレッド。肝が据わっていて心強いわ。その調子で、王城の近衛騎士を威圧してちょうだいな」
まるで敵陣に乗り込もうとするような物言いであるが、アルフレッド本人が近衛騎士とは幼い頃から交流があり、そこはなんとも思わないようだった。
ジェーンを見れば、彼女は幾分、緊張を覚えたようだ。だが、その瞳の中に好奇心が覗いて見えた。さては間近に王族を目にすることに興奮を覚えたのだろう。
残念ながらその王族、見た目ほど華やかな人物ではないのだと、ジェーンに教えてあげたくなった。彼は傍から見るよりずっと思慮深く、狡猾さを持ち合わせている。
あの青い瞳の奥から、凍えるような冷たい視線を向けることだってできるのだ。
まるで自分がその視線を受けたような気持ちになって、そうではないと思い留まった。
今ではない。今ではない遠いいつかに、そんな目を向けられたような気がしたのだ。
案の定、夕刻まで昼寝をしていたマシューは大泣きに泣いた。目覚めると外はとっぷり日が暮れて、姉はすでに学園から帰っていた。
お出迎えのときに抱っこをせがむマシューである。姉の帰宅を寝過ごしたことに、彼は荒れた。
駄々っ子の三歳児とは暴力的である。
どこにそんな強力なバネが仕込まれているのかと思うほど、身を反らしてイヤイヤをする。
間もなく晩餐の時間ではあったが、マシューの侍女から助けを求められて、ジェマイマはいそいそとマシューの部屋を目指した。
求められるとは嬉しいことである。小さな異母弟は、こんな表情のない無愛想なジェマイマを唯一の姉と慕ってくれる。
「ふふ、護衛騎士になんて」
早足で歩きながら、ジェマイマは笑みが溢れた。
マシューのために後継から降ろされた。彼は生まれた瞬間に侯爵家の後継となり、ジェマイマはその一瞬で嫡女の立場を失った。
それなのに、マシューはそんなジェマイマのために騎士になりたいと言ってくれた。
「なんて可愛いのかしら」
幼子の戯言であるとわかっていても、疑うことなく愛されていると信じられて、ジェマイマは嬉しかった。
信じられるということは、それだけで心を強くさせる。
『あの時もっと貴方を信じられたなら、先は違っていたのかしら』
不可思議な思考が浮かんで、再びジェマイマの耳の奥に響いて聞こえた。
ジェマイマは、昼間に見たローレルの瞳を思い出した。ジェマイマを尊重すると言った彼の瞳は青かったが、まだ冷ややか色を滲ませてはいなかった。
「マシューは長いお昼寝なのかしら?こんな時間に寝てしまっては、夜に眠れなくなっちゃうわね」
出迎えてくれた使用人の中から答えたのは、アルフレッドだった。
「マシュー様は、本日騎士の鍛錬をお受けになられましたので、お疲れになったのでしょう」
アルフレッドはエバース男爵家の次男であり、ジェマイマの護衛を務めている。彼の父親も元は近衛騎士だったが、今は当主として王都郊外に所有する牧草地帯を治めている。
「マシューに騎士の鍛錬?それって真剣を持たせたの?」
「ご安心ください。お持ちになったのは幼子が使う模擬剣です」
「模擬剣といってもマシューはまだ三歳だわ。重いと音を上げたのではなくて?」
「頑張って持ち上げておいででした。大きくなったらお嬢様の護衛騎士になってお護りするのだと仰って」
「まあ、大変。マシューが私の護衛になってしまったら、貴方は失業しちゃうわね」
クラスメイトには自分から話しかけられないくせに、侍女のジェーンやアルフレッドといった使用人には饒舌になる。ジェマイマだって冗談を言えるしユーモアだって持ち合わせている。
学園で表情筋を硬くして過ごしているジェマイマを見たなら、ジェーンはなんと言うだろう。彼女はジェマイマのことを、気さくなお嬢様だと思っている節がある。
学園から帰って玄関ホールに入ると、いつもなら、あの小さな弟が駆け寄ってくる。その姿を見ることが楽しみだったのに、今日はマシューがいなくて残念だった。
王太子の婚約で浮き足立つ学園の空気ばかりでなく、行き成り前触れもなくローレルと昼休みを過ごした「非日常」に、ジェマイマは少しばかり疲れていた。
マシューの小さな身体をぎゅううぅっと抱きしめたなら、そんな疲れも一瞬でぶっ飛んでしまうだろうに。
手持ち無沙汰になるあまり、ジェマイマは両手を腕に回して自分で自分をぎゅううぅと抱きしめた。それを後ろにいたジェーンが「どうしたのです?」と尋ねてきた。
「そうだわ」
そこでジェマイマは昼間のことを思い出し、くるりと後ろへ振り返った。急に立ち止まったものだから、間隔を詰めて背後にいたジェーンが、危うくぶつかりそうになった。
「王城で妃教育があるでしょう?その後に、殿下からお茶に誘われてしまったの」
語尾にどことなく嫌々な雰囲気が漂っていたが、ジェーンは気にすることはないようだった。アルフレッドは微かに眉を動かした。
「貴方たちも同舟よ」
まるで、泥舟に一緒に乗るのだというような言いざまである。
「承知いたしました」
「流石はアルフレッド。肝が据わっていて心強いわ。その調子で、王城の近衛騎士を威圧してちょうだいな」
まるで敵陣に乗り込もうとするような物言いであるが、アルフレッド本人が近衛騎士とは幼い頃から交流があり、そこはなんとも思わないようだった。
ジェーンを見れば、彼女は幾分、緊張を覚えたようだ。だが、その瞳の中に好奇心が覗いて見えた。さては間近に王族を目にすることに興奮を覚えたのだろう。
残念ながらその王族、見た目ほど華やかな人物ではないのだと、ジェーンに教えてあげたくなった。彼は傍から見るよりずっと思慮深く、狡猾さを持ち合わせている。
あの青い瞳の奥から、凍えるような冷たい視線を向けることだってできるのだ。
まるで自分がその視線を受けたような気持ちになって、そうではないと思い留まった。
今ではない。今ではない遠いいつかに、そんな目を向けられたような気がしたのだ。
案の定、夕刻まで昼寝をしていたマシューは大泣きに泣いた。目覚めると外はとっぷり日が暮れて、姉はすでに学園から帰っていた。
お出迎えのときに抱っこをせがむマシューである。姉の帰宅を寝過ごしたことに、彼は荒れた。
駄々っ子の三歳児とは暴力的である。
どこにそんな強力なバネが仕込まれているのかと思うほど、身を反らしてイヤイヤをする。
間もなく晩餐の時間ではあったが、マシューの侍女から助けを求められて、ジェマイマはいそいそとマシューの部屋を目指した。
求められるとは嬉しいことである。小さな異母弟は、こんな表情のない無愛想なジェマイマを唯一の姉と慕ってくれる。
「ふふ、護衛騎士になんて」
早足で歩きながら、ジェマイマは笑みが溢れた。
マシューのために後継から降ろされた。彼は生まれた瞬間に侯爵家の後継となり、ジェマイマはその一瞬で嫡女の立場を失った。
それなのに、マシューはそんなジェマイマのために騎士になりたいと言ってくれた。
「なんて可愛いのかしら」
幼子の戯言であるとわかっていても、疑うことなく愛されていると信じられて、ジェマイマは嬉しかった。
信じられるということは、それだけで心を強くさせる。
『あの時もっと貴方を信じられたなら、先は違っていたのかしら』
不可思議な思考が浮かんで、再びジェマイマの耳の奥に響いて聞こえた。
ジェマイマは、昼間に見たローレルの瞳を思い出した。ジェマイマを尊重すると言った彼の瞳は青かったが、まだ冷ややか色を滲ませてはいなかった。
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