ジェマイマの憂鬱

桃井すもも

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第十五章

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 ローレルの字を見るのは、これが二度目のことだった。
 初めて目にしたのは婚約誓約書で、それは先にローレルが署名したあとにジェマイマが続いたからで、見たというのも名前だけだった。

 あんな華やかな見目をして、ローレルの文字は生真面目な学者のような、きっちりとしたものだった。学者がどんな字を書くのかは知らないが。

 昨日出した礼状のその返信には、マシューが喜んだなら良かったということと、ジェマイマがそのことを手紙で知らせてくれて嬉しかったということが記されていた。

「嬉しいなんて思うのかしら」

 思わず独り言を呟いて、それほど長くはない文面を冒頭から読み返す。
 男性からふみをもらうのは初めてで、いやいや、女性からもそう多くはもらっていないと思い出した。

 よその令嬢らしく社交的であるわけでもない自分にとって、「手紙」とは大変貴重なものだと改めて思ったところで、

「⋯⋯」

 ジェマイマは、どうしてそんなことをしてしまったのか、一瞬理解ができなかった。身体が勝手に動いたとしか思えなかった。

 ジェマイマは、ローレルからの手紙を胸に当てて手の平で抱き寄せていた。
 身体ばかりか心まで、まるでそうしたくてしたようで、胸の奥がざわざわと騒いだ。

 この気持ちはなんだろう。初めて抱いたものではなくて、もっとずっと前から知っている、そんな懐かしい感覚は、なぜなのか湧き出す甘やかな感情に痛みの入り混じるものだった。

 ジェマイマは、慌てて手紙を胸から離した。

「私、今なにをしたの?」

 この部屋にはジェマイマしかいないから、答えてくれる人はいない。けれど誰か教えてほしい。自分は今なにをしていたのか。

 胸に湧いた感情も、気がつけば消えていた。だが鼓動は尚も胸を叩いて、しんと静まり返った部屋に、とくとくと鼓動の音が聞こえてしまうと思うほどだった。

 動揺してしまったのは、今さっき抱いた感情がジェマイマに馴染みのないものだったからだろう。
 誰かのことを考えて、胸が痛むほど恋しく思う。

「恋しく?」

 それではまるで、ローレルに恋をしたようではないか。

 ジェマイマは、彼にそんな感情を抱いているわけではない。婚約が結ばれてそれほど日は経っておらず、そもそも自分で望んだ縁組でもない。
 なのに、恋心は記憶の奥に確かにあったものだとわかってしまった。

「いつから?」

 それは今ではないのだと、あの繰り返した夢の中の人生なのだと思ったときに、ジェマイマは無性に泣きたくなってしまった。
 過去の自分に寄り添って、どれほど辛かったのかと、自分自身を抱き締めてあげたくなった。


 一人きりでいてはいけない気がして、ジェマイマは部屋を出た。
 晩餐の前ではあるけれど、冬枯れの庭園を眺めようとティールームに入り、ジェーンに温かい飲み物を頼んだ。
 ジェーンが部屋を出て、結局また一人になってソファに沈むように背を預けた。

 外は日暮れを迎えて、すでに薄闇が見えはじめていた。
 マシューはもう戻っているだろうか。今頃は、あの子も温かい飲み物を飲んでいるのかもしれない。

 弟に授けられた剣を思い出せば、先ほどとは違う感情が湧いてくる。
 それは確かに憶えのある感謝や感激といったもので、間違いなくジェマイマが感じたものだった。記憶通りのことを思い出して安堵した。

 そこで扉からノックの音がして、ジェマイマははっと我に返った。

「よろしいでしょうか、お嬢様」

 扉の向こうから声がして、「いいわよ」と入室を許せば、入ってきたのはアルフレッドだった。

「マシューはどうしているかしら?」

 こちらに来るアルフレッドに尋ねれば、彼は珍しく苦笑いを浮かべた。

「ただいま夕刻のお昼寝をなさっておいでです」
「間もなく夜よ。それはもう就寝と言ってもよいのではないかしら」
「まあ、そうですね」

 案の定、マシューは興奮して、アルフレッドや義母がもう帰ろうと言っても聞かず、ローレルから貰い受けた剣を「僕のだ」と主張して手放そうとしなかったという。

「終いのほうでは、瞼が重くなられまして、剣ではなく睡魔と向かい合っておられたようです」
「でしょうね」

 アルフレッドはその後、最悪のことを告げた。

「将来は騎士になると仰って、奥様から、それは旦那様に言ってはならないとたしなめられておいででした」
「⋯⋯でしょうね」

 アルフレッドと話すうちに、ジェマイマは落ち着きを取り戻すことができた。マシューの姿を思い浮かべて、自分が確かに「今」にいると思う。

 あの不可解な夢を見てから、ジェマイマは自分の知らない感情が幾つもあるようで、少しばかり疲れていた。

「お疲れのご様子で」

 アルフレッドは空気を読むことに長けており、人の感情の動きにも直ぐに気がつく。

「そうね。ちょっと疲れているのかも」

 アルフレッドの前で、少しだけ愚痴を言ってみる。実際、疲れているのは確かだった。妃教育が始まって、それは自学も含まれるから、ジェマイマの私的な時間は極端に減っていた。

「そう仰ってみてはいかがですか?」
「え?」
「殿下に。疲れを感じているのだと、少しだけ愚痴を聞いていただいてはいかがでしょうか」
「殿下に愚痴を?」

 ローレルと愚痴という言葉が結びつかず、それから自分が誰かに愚痴を聞いてもらうという発想に思い当たらず、ジェマイマは隣に立っていたアルフレッドを見上げた。

「殿下は、それほどお心の狭いお方ではないようにお見受けしました。お嬢様がほんの少し素直になられたなら、きっと耳を傾けてくださるのではないかと」

 アルフレッドの言葉には、それが本当のことだと思わせる安心感がある。

「そうかも。そうかもしれないわね」

 ジェマイマはその言葉に、素直に頷いた。

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