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第二十四章
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「さあ、行こうか。白鳥の鳴き声が聞こえるだろう?」
ローレルを見上げていたジェマイマは、その言葉に、そうだ白鳥だわと本日の目的を思い出した。
辺りは遮る木々もなく、向こうに湖らしきものがあるのがわかった。水面が冬の陽光を浴びて、ここからも明るく見えた。
「あっ」
思わず声が漏れ出たのは、遠目にもわかる白鳥の姿を見つけたからだった。
幼子のような反応をしてしまったことで、ジェマイマは逸る気持ちをなんとか落ち着かせた。
「行こうか」
ローレルの声に、ジェマイマは彼の一歩後ろに従った。
「違うだろう」
そう言ってこちらに振り向いたローレルは、後ろ手のままジェマイマの手を取った。驚いたジェマイマに気づいているだろうに、彼はやんわりジェマイマを引き寄せて、隣に並ぶと再び歩き出した。
いくらも歩かぬうちに湖畔に出た。
ジェマイマはもう白鳥にしか目が行っておらず、繋ぐ手の温もりも、周囲を取り囲む護衛たちにも気が回らなかった。
白鳥は美しい姿で水面に浮かんでいた。実際は、水面下では必死に泳いでいるのだが、それを悟らせない優美な姿は、まるで貴婦人の姿に重なった。
貴族ばかりではない。ローレルの妃となった自分こそ、腹の中も胸の内も隠し通して、優美な姿で表舞台に立たなければならない。
そんなことがちらりと思い浮かんだが、それ以上は考えないことにした。
今日は、この白鳥の様子をマシューに教えてあげたいと思っていた。ジェーンにもアルフレッドにも話していたから、三人の記憶を合体させたなら壮大な「白鳥見聞録」となるのではなかろうか。
そんなことを思ううちに、ジェマイマは水際近くまで辿り着いていた。
湖畔の水は澄んでいた。
冬には凍ってしまうのだろか。凍ってしまったなら、あの水鳥たちはどうなってしまうのだろう。
湖には、真鴨以外はジェマイマでは名前のわからない鳥たちが多くいた。その中でも白鳥はとりわけ大きくて、真っ白な姿に目を奪われた。
「綺麗⋯⋯」
思わず呟いたジェマイマに、ローレルは鳥たちの名前を教えてくれた。そんなことまで知っている彼は物知りだと、ジェマイマは尊敬の眼差しを向けたのである。
「ほら、見てごらん。あの灰色の子は雛だよ」
「ええ、雛なのに大きいのですね」
雛は、横にいる真鴨よりも大きく見えた。
「春を迎える頃には、あの雛の首がどんどん延びて身体が大きくなる。まだ灰色ではあるけれど、親鳥と体格は近くなっていくんだ。そうしたら、一緒に国に帰っていける」
ジェマイマは自分が小柄であるからか、もし雛鳥が小柄なあまり置いて行かれてしまったらどうなるのか心配になった。
そのことをローレルに素直に話せば、彼は「大丈夫だろう」と言った。
「駄目なら次の冬を待てばよい。仲間が来たら一緒に帰るか、それともここに生涯留まるか、どちらかを選ぶだろう。鳥は自由だからね」
鳥を自由と言ったローレルには、きっとそれほど自由はない。彼の身体も心も命も全て、この国のためにあるようなものなのだ。
それからも、ローレルは湖の周辺のことや、風のない日に鏡のようになった水面に空が映るのだということを教えてくれた。
そんな時には、周りを取り囲む木々も湖に反射して、水面を境に上下二幅の絵画が向かい合わせになったように見えるのだという。
日射しを受けてキラキラと燦めく湖面を風が吹き抜けると、たちまち美しい波紋が生まれた。その中を、純白の白鳥が悠々と泳ぐ。
耳を澄ませば、岸を打つ波の音が寄せては返しを繰り返している。白鳥の鳴き声に混じって、色々な鳥たちの囀りが聞こえて、ジェマイマはそちらのほうへ顔を向けた。
ちょっとだけ、あちらに歩いてみたい。
そう思ったときに、ローレルが侍従に声を掛けられた。なにか連絡でもあるのだろう。
ジェマイマから手を離したローレルが、侍従の話に耳を傾けているその間、ジェマイマはほんの少し歩いてみたいと思った。
すぐそこの路面は濡れていたが、ドレスの裾は、散策に合わせて踝までの短いものであったから汚してしまうことはないと思った。
だから、踵から一歩足を踏み出した。
それがいけなかったのだろう。濡れていると思った路は凍結していた。黒々と濡れて見えたのは凍った氷と同じだった。そこへ踵から体重をかけてしまったから、ジェマイマは思いっきり滑ってよろけてしまった。
「お嬢様!」
すぐ後ろにアルフレッドの声がした。同時に、ジェマイマは大きく身体が傾いて、もう自力ではどうしようもできなかった。
せめて反対側であったなら、転倒してコートを泥で汚したくらいで済んだのだろう。
だが、ジェマイマがよろけて傾いたのは、湖の方だった。
「あ」
自分の声を聞いた後に聞こえたのは、水音だった。
パシャンと音がしたあとに、ズブズブと沈んでいく。初めは顔と手に痛みを感じた。それは身を切るような冬の水の冷たさだった。
着膨れたコートとドレスがどんどん凍えた水を吸って、ジェマイマは藻掻くことも身を捩ることもできず、なすがままになっていた。
岸辺であったから溺れるような深さはなかった。ただ、全身が一瞬で凍ってしまうかと思った。
ザブザブと音がして、ジェマイマは引き上げられた。
水に浸かっていたのはほんの僅かな時間のようだった。
「ジェマイマ、しっかりしろ、ジェマイマ!」
ジェマイマを抱き締める手に憶えがあった。それはさっきまで手を繋いでいたローレルのものだとわかった。
「誰かコートをくれ!ジェマイマ、しっかりするんだ、ジェマイマっ!」
ローレルの声は、終いには悲鳴のように聞こえた。
「大丈夫。凍えて口が動かないの」そう教えてあげたかったが、カクカクと小刻みに震えるばかりでなにも言えなかった。
ああ、これでは風邪を引いちゃうわ。凍えるあまり呑気なことを考えた。その瞬間、これではあの夢に見た人生と同じじゃない。
そんなふうに、流行病で命を落とした、夢の中での二度目の死を思い出した。
ローレルを見上げていたジェマイマは、その言葉に、そうだ白鳥だわと本日の目的を思い出した。
辺りは遮る木々もなく、向こうに湖らしきものがあるのがわかった。水面が冬の陽光を浴びて、ここからも明るく見えた。
「あっ」
思わず声が漏れ出たのは、遠目にもわかる白鳥の姿を見つけたからだった。
幼子のような反応をしてしまったことで、ジェマイマは逸る気持ちをなんとか落ち着かせた。
「行こうか」
ローレルの声に、ジェマイマは彼の一歩後ろに従った。
「違うだろう」
そう言ってこちらに振り向いたローレルは、後ろ手のままジェマイマの手を取った。驚いたジェマイマに気づいているだろうに、彼はやんわりジェマイマを引き寄せて、隣に並ぶと再び歩き出した。
いくらも歩かぬうちに湖畔に出た。
ジェマイマはもう白鳥にしか目が行っておらず、繋ぐ手の温もりも、周囲を取り囲む護衛たちにも気が回らなかった。
白鳥は美しい姿で水面に浮かんでいた。実際は、水面下では必死に泳いでいるのだが、それを悟らせない優美な姿は、まるで貴婦人の姿に重なった。
貴族ばかりではない。ローレルの妃となった自分こそ、腹の中も胸の内も隠し通して、優美な姿で表舞台に立たなければならない。
そんなことがちらりと思い浮かんだが、それ以上は考えないことにした。
今日は、この白鳥の様子をマシューに教えてあげたいと思っていた。ジェーンにもアルフレッドにも話していたから、三人の記憶を合体させたなら壮大な「白鳥見聞録」となるのではなかろうか。
そんなことを思ううちに、ジェマイマは水際近くまで辿り着いていた。
湖畔の水は澄んでいた。
冬には凍ってしまうのだろか。凍ってしまったなら、あの水鳥たちはどうなってしまうのだろう。
湖には、真鴨以外はジェマイマでは名前のわからない鳥たちが多くいた。その中でも白鳥はとりわけ大きくて、真っ白な姿に目を奪われた。
「綺麗⋯⋯」
思わず呟いたジェマイマに、ローレルは鳥たちの名前を教えてくれた。そんなことまで知っている彼は物知りだと、ジェマイマは尊敬の眼差しを向けたのである。
「ほら、見てごらん。あの灰色の子は雛だよ」
「ええ、雛なのに大きいのですね」
雛は、横にいる真鴨よりも大きく見えた。
「春を迎える頃には、あの雛の首がどんどん延びて身体が大きくなる。まだ灰色ではあるけれど、親鳥と体格は近くなっていくんだ。そうしたら、一緒に国に帰っていける」
ジェマイマは自分が小柄であるからか、もし雛鳥が小柄なあまり置いて行かれてしまったらどうなるのか心配になった。
そのことをローレルに素直に話せば、彼は「大丈夫だろう」と言った。
「駄目なら次の冬を待てばよい。仲間が来たら一緒に帰るか、それともここに生涯留まるか、どちらかを選ぶだろう。鳥は自由だからね」
鳥を自由と言ったローレルには、きっとそれほど自由はない。彼の身体も心も命も全て、この国のためにあるようなものなのだ。
それからも、ローレルは湖の周辺のことや、風のない日に鏡のようになった水面に空が映るのだということを教えてくれた。
そんな時には、周りを取り囲む木々も湖に反射して、水面を境に上下二幅の絵画が向かい合わせになったように見えるのだという。
日射しを受けてキラキラと燦めく湖面を風が吹き抜けると、たちまち美しい波紋が生まれた。その中を、純白の白鳥が悠々と泳ぐ。
耳を澄ませば、岸を打つ波の音が寄せては返しを繰り返している。白鳥の鳴き声に混じって、色々な鳥たちの囀りが聞こえて、ジェマイマはそちらのほうへ顔を向けた。
ちょっとだけ、あちらに歩いてみたい。
そう思ったときに、ローレルが侍従に声を掛けられた。なにか連絡でもあるのだろう。
ジェマイマから手を離したローレルが、侍従の話に耳を傾けているその間、ジェマイマはほんの少し歩いてみたいと思った。
すぐそこの路面は濡れていたが、ドレスの裾は、散策に合わせて踝までの短いものであったから汚してしまうことはないと思った。
だから、踵から一歩足を踏み出した。
それがいけなかったのだろう。濡れていると思った路は凍結していた。黒々と濡れて見えたのは凍った氷と同じだった。そこへ踵から体重をかけてしまったから、ジェマイマは思いっきり滑ってよろけてしまった。
「お嬢様!」
すぐ後ろにアルフレッドの声がした。同時に、ジェマイマは大きく身体が傾いて、もう自力ではどうしようもできなかった。
せめて反対側であったなら、転倒してコートを泥で汚したくらいで済んだのだろう。
だが、ジェマイマがよろけて傾いたのは、湖の方だった。
「あ」
自分の声を聞いた後に聞こえたのは、水音だった。
パシャンと音がしたあとに、ズブズブと沈んでいく。初めは顔と手に痛みを感じた。それは身を切るような冬の水の冷たさだった。
着膨れたコートとドレスがどんどん凍えた水を吸って、ジェマイマは藻掻くことも身を捩ることもできず、なすがままになっていた。
岸辺であったから溺れるような深さはなかった。ただ、全身が一瞬で凍ってしまうかと思った。
ザブザブと音がして、ジェマイマは引き上げられた。
水に浸かっていたのはほんの僅かな時間のようだった。
「ジェマイマ、しっかりしろ、ジェマイマ!」
ジェマイマを抱き締める手に憶えがあった。それはさっきまで手を繋いでいたローレルのものだとわかった。
「誰かコートをくれ!ジェマイマ、しっかりするんだ、ジェマイマっ!」
ローレルの声は、終いには悲鳴のように聞こえた。
「大丈夫。凍えて口が動かないの」そう教えてあげたかったが、カクカクと小刻みに震えるばかりでなにも言えなかった。
ああ、これでは風邪を引いちゃうわ。凍えるあまり呑気なことを考えた。その瞬間、これではあの夢に見た人生と同じじゃない。
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