26 / 44
第二十五章
しおりを挟む
あろうことかローレルは、自身が濡れるのも厭わずに湖にジャブジャブ入ってきて、ひっくり返ったジェマイマを抱き起こした。
短い付き合いではあるが、こんな慌てた彼は初めてだった。ローレルはいつもどこか斜に構えて、この王子には動揺するということがないのだとジェマイマは思っていた。
抱き起こして反応を確かめても、なにも言葉を返せないジェマイマに、彼は終いには悲鳴にも似た声でジェマイマの名を呼んだ。
ローレルは自分もずぶ濡れになりながら、ジェマイマを抱き上げると岸に上がった。
二人とも身を切るような湖水に浸ってしまった。衣服は冷水をたっぷり含んで、濡れた分だけ重くなっている。
それなのにローレルは、馬鹿力とでも言えるほどの力を発揮してジェマイマを持ち上げて運んでくれた。
防寒のために着込んだコートもドレスも身を切るような湖水を吸い込んでいたから、湖から上がってもまだ水中にいるようだった。
「ジェマイマ、気をしっかり持つんだ」
ローレルは、ジェマイマを地面に下ろすと、水浸しになったぐるぐる巻きのマフラーを引っ剥がした。
それからダブダブと水を含んだコートを脱がしながら、
「誰か、ジャケットを!」そう声を張り上げた。
その瞬間に、ジェマイマの視界が暗くなった。誰かがジャケットを脱いでジェマイマの頭から被せてくれた。
仄かに香った匂いで、ジャケットがアルフレッドのものだとわかった。それは間違いなかったようで、「お嬢様」とアルフレッドの声が聞こえた。
大丈夫よ、心配しないで。そんな大したことではないの。うっかり滑って転んで浅瀬に落ちちゃったの。
そう言いたいのに、まだ歯の根がカチカチ震えて上手く話すことができなかった。視線すら動かせずに、そのまま瞳を閉じた。
マフラーもコートも脱がされて、濡れた衣服はあればあったで冷たいが、なければ寒風に直接肌が晒されて、それはそれで凍えることだった。
流石にドレスは脱げなかったが、近衛騎士たちまでもジャケットを脱いで、あっという間にジェマイマは彼らの上着で着膨れになるほど包まれた。
水浸しのドレスが、騎士たちのジャケットをじっとりと濡らしていく。
それが申し訳なくて、上着を脱いだ彼らはさぞかし寒かろうと、ぼおっとする頭で考えた。
「ジェマイマ、大丈夫か」
ローレルの声が耳元に聞こえて、ジェマイマは小さく頷いた。
大きな掌に両頬を包まれて、吐息が顔にかかった。どうにか瞼が動いてくれて、目を開ければ青い瞳がこちらを覗き込んでいた。
「ジェマイマ⋯⋯」
そう呟いたローレルは、それから徐ろに立ち上がると、ジェマイマを抱えて走り出した。
ドレスは変わらず水浸しであったし、何枚ものジャケットに包まれている。それだけで重いはずなのに、痩身のローレルのどこにそんな力があるのかと、彼の肩に頬を預けてジェマイマはうつらうつらとなりながら考えていた。
ジェマイマは、ローレルに抱えられて馬車まで運ばれた。そのまま馬車に乗せられ、侯爵邸へと向かった。
馬車の中でローレルは、まるで互いの体温を分かち合うようにジェマイマを膝の上に抱きかかえて、きつく抱き寄せると、なるべく空気に触れないようにするようだった。
「すまない、ジェマイマ。君から目を離してしまった」
そんなことはないと言いたかった。
ジェマイマが勝手に歩き出さなければ良かったのだ。
こんな軽率な自分では、あの夢のように愛されなくても頷けるような気がした。
夢の中でもジェマイマは、こんなことを引き起こしてはローレルに負担をかけていたのだろうか。
「ごめんなさい」
ようやく絞り出した声は掠れていたが、ローレルはしっかり聞き取ってくれた。
「君はなにも悪くない。あんなところに連れ出して、君から目を離してしまった私が悪かった」
「そんなこと⋯⋯ないわ⋯⋯」
久しぶりに植物園の中に入って、懐かしい母との記憶が蘇った。冬枯れの園内も綺麗だと思ったし、湖は燦めく水面が美しかった。
ローレルは、空を映す湖の風景を教えてくれたし、なにより白鳥は優美そのものだった。
「ありがとう⋯⋯とても、楽しかった」
「ジェマイマっ」
ローレルは、思わずというふうにジェマイマの頭を抱えて抱き締めた。
「置いていかないでくれ」
まるで、ジェマイマがこのままあの世に旅立つようなことを言った。
ローレル様、私は今世では死なないことを心に誓ったんです。死んでなるものかと、無駄死にも犬死にもしないと心に決めたんです。
だから、貴方は悪くない。どうか泣かないでほしいの。
実際には、ローレルは泣いてはいなかった。だが、どうしてかジェマイマには、泣き崩れて嗚咽を漏らすローレルが思い浮かんだ。
そんなこと、あるわけないのに。
彼は私を愛してなんかいなかったのに。
そうでなければ、あんなことをするはずがないのだから。
ローレルに抱きかかえられた身体が少しずつ体温を取り戻していく。次第に身体が温まり、ジェマイマは眠気をもよおし夢うつつとなっていた。
だからだろう、自分ではない自分の心の声が聞こえたような、そんな気がしたのである。
短い付き合いではあるが、こんな慌てた彼は初めてだった。ローレルはいつもどこか斜に構えて、この王子には動揺するということがないのだとジェマイマは思っていた。
抱き起こして反応を確かめても、なにも言葉を返せないジェマイマに、彼は終いには悲鳴にも似た声でジェマイマの名を呼んだ。
ローレルは自分もずぶ濡れになりながら、ジェマイマを抱き上げると岸に上がった。
二人とも身を切るような湖水に浸ってしまった。衣服は冷水をたっぷり含んで、濡れた分だけ重くなっている。
それなのにローレルは、馬鹿力とでも言えるほどの力を発揮してジェマイマを持ち上げて運んでくれた。
防寒のために着込んだコートもドレスも身を切るような湖水を吸い込んでいたから、湖から上がってもまだ水中にいるようだった。
「ジェマイマ、気をしっかり持つんだ」
ローレルは、ジェマイマを地面に下ろすと、水浸しになったぐるぐる巻きのマフラーを引っ剥がした。
それからダブダブと水を含んだコートを脱がしながら、
「誰か、ジャケットを!」そう声を張り上げた。
その瞬間に、ジェマイマの視界が暗くなった。誰かがジャケットを脱いでジェマイマの頭から被せてくれた。
仄かに香った匂いで、ジャケットがアルフレッドのものだとわかった。それは間違いなかったようで、「お嬢様」とアルフレッドの声が聞こえた。
大丈夫よ、心配しないで。そんな大したことではないの。うっかり滑って転んで浅瀬に落ちちゃったの。
そう言いたいのに、まだ歯の根がカチカチ震えて上手く話すことができなかった。視線すら動かせずに、そのまま瞳を閉じた。
マフラーもコートも脱がされて、濡れた衣服はあればあったで冷たいが、なければ寒風に直接肌が晒されて、それはそれで凍えることだった。
流石にドレスは脱げなかったが、近衛騎士たちまでもジャケットを脱いで、あっという間にジェマイマは彼らの上着で着膨れになるほど包まれた。
水浸しのドレスが、騎士たちのジャケットをじっとりと濡らしていく。
それが申し訳なくて、上着を脱いだ彼らはさぞかし寒かろうと、ぼおっとする頭で考えた。
「ジェマイマ、大丈夫か」
ローレルの声が耳元に聞こえて、ジェマイマは小さく頷いた。
大きな掌に両頬を包まれて、吐息が顔にかかった。どうにか瞼が動いてくれて、目を開ければ青い瞳がこちらを覗き込んでいた。
「ジェマイマ⋯⋯」
そう呟いたローレルは、それから徐ろに立ち上がると、ジェマイマを抱えて走り出した。
ドレスは変わらず水浸しであったし、何枚ものジャケットに包まれている。それだけで重いはずなのに、痩身のローレルのどこにそんな力があるのかと、彼の肩に頬を預けてジェマイマはうつらうつらとなりながら考えていた。
ジェマイマは、ローレルに抱えられて馬車まで運ばれた。そのまま馬車に乗せられ、侯爵邸へと向かった。
馬車の中でローレルは、まるで互いの体温を分かち合うようにジェマイマを膝の上に抱きかかえて、きつく抱き寄せると、なるべく空気に触れないようにするようだった。
「すまない、ジェマイマ。君から目を離してしまった」
そんなことはないと言いたかった。
ジェマイマが勝手に歩き出さなければ良かったのだ。
こんな軽率な自分では、あの夢のように愛されなくても頷けるような気がした。
夢の中でもジェマイマは、こんなことを引き起こしてはローレルに負担をかけていたのだろうか。
「ごめんなさい」
ようやく絞り出した声は掠れていたが、ローレルはしっかり聞き取ってくれた。
「君はなにも悪くない。あんなところに連れ出して、君から目を離してしまった私が悪かった」
「そんなこと⋯⋯ないわ⋯⋯」
久しぶりに植物園の中に入って、懐かしい母との記憶が蘇った。冬枯れの園内も綺麗だと思ったし、湖は燦めく水面が美しかった。
ローレルは、空を映す湖の風景を教えてくれたし、なにより白鳥は優美そのものだった。
「ありがとう⋯⋯とても、楽しかった」
「ジェマイマっ」
ローレルは、思わずというふうにジェマイマの頭を抱えて抱き締めた。
「置いていかないでくれ」
まるで、ジェマイマがこのままあの世に旅立つようなことを言った。
ローレル様、私は今世では死なないことを心に誓ったんです。死んでなるものかと、無駄死にも犬死にもしないと心に決めたんです。
だから、貴方は悪くない。どうか泣かないでほしいの。
実際には、ローレルは泣いてはいなかった。だが、どうしてかジェマイマには、泣き崩れて嗚咽を漏らすローレルが思い浮かんだ。
そんなこと、あるわけないのに。
彼は私を愛してなんかいなかったのに。
そうでなければ、あんなことをするはずがないのだから。
ローレルに抱きかかえられた身体が少しずつ体温を取り戻していく。次第に身体が温まり、ジェマイマは眠気をもよおし夢うつつとなっていた。
だからだろう、自分ではない自分の心の声が聞こえたような、そんな気がしたのである。
3,916
あなたにおすすめの小説
あなたの妻にはなりません
風見ゆうみ
恋愛
幼い頃から大好きだった婚約者のレイズ。
彼が伯爵位を継いだと同時に、わたしと彼は結婚した。
幸せな日々が始まるのだと思っていたのに、夫は仕事で戦場近くの街に行くことになった。
彼が旅立った数日後、わたしの元に届いたのは夫の訃報だった。
悲しみに暮れているわたしに近づいてきたのは、夫の親友のディール様。
彼は夫から自分の身に何かあった時にはわたしのことを頼むと言われていたのだと言う。
あっという間に日にちが過ぎ、ディール様から求婚される。
悩みに悩んだ末に、ディール様と婚約したわたしに、友人と街に出た時にすれ違った男が言った。
「あの男と結婚するのはやめなさい。彼は君の夫の殺害を依頼した男だ」
婚約破棄の代償
nanahi
恋愛
「あの子を放って置けないんだ。ごめん。婚約はなかったことにしてほしい」
ある日突然、侯爵令嬢エバンジェリンは婚約者アダムスに一方的に婚約破棄される。破局に追い込んだのは婚約者の幼馴染メアリという平民の儚げな娘だった。
エバンジェリンを差し置いてアダムスとメアリはひと時の幸せに酔うが、婚約破棄の代償は想像以上に大きかった。
私が愛する王子様は、幼馴染を側妃に迎えるそうです
こことっと
恋愛
それは奇跡のような告白でした。
まさか王子様が、社交会から逃げ出した私を探しだし妃に選んでくれたのです。
幸せな結婚生活を迎え3年、私は幸せなのに不安から逃れられずにいました。
「子供が欲しいの」
「ごめんね。 もう少しだけ待って。 今は仕事が凄く楽しいんだ」
それから間もなく……彼は、彼の幼馴染を側妃に迎えると告げたのです。
【完結】愛していないと王子が言った
miniko
恋愛
王子の婚約者であるリリアナは、大好きな彼が「リリアナの事など愛していない」と言っているのを、偶然立ち聞きしてしまう。
「こんな気持ちになるならば、恋など知りたくはなかったのに・・・」
ショックを受けたリリアナは、王子と距離を置こうとするのだが、なかなか上手くいかず・・・。
※合わない場合はそっ閉じお願いします。
※感想欄、ネタバレ有りの振り分けをしていないので、本編未読の方は自己責任で閲覧お願いします。
【完結】私の婚約者はもう死んだので
miniko
恋愛
「私の事は死んだものと思ってくれ」
結婚式が約一ヵ月後に迫った、ある日の事。
そう書き置きを残して、幼い頃からの婚約者は私の前から姿を消した。
彼の弟の婚約者を連れて・・・・・・。
これは、身勝手な駆け落ちに振り回されて婚姻を結ばざるを得なかった男女が、すれ違いながらも心を繋いでいく物語。
※感想欄はネタバレ有り/無しの振り分けをしていません。本編より先に読む場合はご注意下さい。
挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました
結城芙由奈@コミカライズ3巻7/30発売
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】
今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。
「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」
そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。
そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。
けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。
その真意を知った時、私は―。
※暫く鬱展開が続きます
※他サイトでも投稿中
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる