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第二十五章
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あろうことかローレルは、自身が濡れるのも厭わずに湖にジャブジャブ入ってきて、ひっくり返ったジェマイマを抱き起こした。
短い付き合いではあるが、こんな慌てた彼は初めてだった。ローレルはいつもどこか斜に構えて、この王子には動揺するということがないのだとジェマイマは思っていた。
抱き起こして反応を確かめても、なにも言葉を返せないジェマイマに、彼は終いには悲鳴にも似た声でジェマイマの名を呼んだ。
ローレルは自分もずぶ濡れになりながら、ジェマイマを抱き上げると岸に上がった。
二人とも身を切るような湖水に浸ってしまった。衣服は冷水をたっぷり含んで、濡れた分だけ重くなっている。
それなのにローレルは、馬鹿力とでも言えるほどの力を発揮してジェマイマを持ち上げて運んでくれた。
防寒のために着込んだコートもドレスも身を切るような湖水を吸い込んでいたから、湖から上がってもまだ水中にいるようだった。
「ジェマイマ、気をしっかり持つんだ」
ローレルは、ジェマイマを地面に下ろすと、水浸しになったぐるぐる巻きのマフラーを引っ剥がした。
それからダブダブと水を含んだコートを脱がしながら、
「誰か、ジャケットを!」そう声を張り上げた。
その瞬間に、ジェマイマの視界が暗くなった。誰かがジャケットを脱いでジェマイマの頭から被せてくれた。
仄かに香った匂いで、ジャケットがアルフレッドのものだとわかった。それは間違いなかったようで、「お嬢様」とアルフレッドの声が聞こえた。
大丈夫よ、心配しないで。そんな大したことではないの。うっかり滑って転んで浅瀬に落ちちゃったの。
そう言いたいのに、まだ歯の根がカチカチ震えて上手く話すことができなかった。視線すら動かせずに、そのまま瞳を閉じた。
マフラーもコートも脱がされて、濡れた衣服はあればあったで冷たいが、なければ寒風に直接肌が晒されて、それはそれで凍えることだった。
流石にドレスは脱げなかったが、近衛騎士たちまでもジャケットを脱いで、あっという間にジェマイマは彼らの上着で着膨れになるほど包まれた。
水浸しのドレスが、騎士たちのジャケットをじっとりと濡らしていく。
それが申し訳なくて、上着を脱いだ彼らはさぞかし寒かろうと、ぼおっとする頭で考えた。
「ジェマイマ、大丈夫か」
ローレルの声が耳元に聞こえて、ジェマイマは小さく頷いた。
大きな掌に両頬を包まれて、吐息が顔にかかった。どうにか瞼が動いてくれて、目を開ければ青い瞳がこちらを覗き込んでいた。
「ジェマイマ⋯⋯」
そう呟いたローレルは、それから徐ろに立ち上がると、ジェマイマを抱えて走り出した。
ドレスは変わらず水浸しであったし、何枚ものジャケットに包まれている。それだけで重いはずなのに、痩身のローレルのどこにそんな力があるのかと、彼の肩に頬を預けてジェマイマはうつらうつらとなりながら考えていた。
ジェマイマは、ローレルに抱えられて馬車まで運ばれた。そのまま馬車に乗せられ、侯爵邸へと向かった。
馬車の中でローレルは、まるで互いの体温を分かち合うようにジェマイマを膝の上に抱きかかえて、きつく抱き寄せると、なるべく空気に触れないようにするようだった。
「すまない、ジェマイマ。君から目を離してしまった」
そんなことはないと言いたかった。
ジェマイマが勝手に歩き出さなければ良かったのだ。
こんな軽率な自分では、あの夢のように愛されなくても頷けるような気がした。
夢の中でもジェマイマは、こんなことを引き起こしてはローレルに負担をかけていたのだろうか。
「ごめんなさい」
ようやく絞り出した声は掠れていたが、ローレルはしっかり聞き取ってくれた。
「君はなにも悪くない。あんなところに連れ出して、君から目を離してしまった私が悪かった」
「そんなこと⋯⋯ないわ⋯⋯」
久しぶりに植物園の中に入って、懐かしい母との記憶が蘇った。冬枯れの園内も綺麗だと思ったし、湖は燦めく水面が美しかった。
ローレルは、空を映す湖の風景を教えてくれたし、なにより白鳥は優美そのものだった。
「ありがとう⋯⋯とても、楽しかった」
「ジェマイマっ」
ローレルは、思わずというふうにジェマイマの頭を抱えて抱き締めた。
「置いていかないでくれ」
まるで、ジェマイマがこのままあの世に旅立つようなことを言った。
ローレル様、私は今世では死なないことを心に誓ったんです。死んでなるものかと、無駄死にも犬死にもしないと心に決めたんです。
だから、貴方は悪くない。どうか泣かないでほしいの。
実際には、ローレルは泣いてはいなかった。だが、どうしてかジェマイマには、泣き崩れて嗚咽を漏らすローレルが思い浮かんだ。
そんなこと、あるわけないのに。
彼は私を愛してなんかいなかったのに。
そうでなければ、あんなことをするはずがないのだから。
ローレルに抱きかかえられた身体が少しずつ体温を取り戻していく。次第に身体が温まり、ジェマイマは眠気をもよおし夢うつつとなっていた。
だからだろう、自分ではない自分の心の声が聞こえたような、そんな気がしたのである。
短い付き合いではあるが、こんな慌てた彼は初めてだった。ローレルはいつもどこか斜に構えて、この王子には動揺するということがないのだとジェマイマは思っていた。
抱き起こして反応を確かめても、なにも言葉を返せないジェマイマに、彼は終いには悲鳴にも似た声でジェマイマの名を呼んだ。
ローレルは自分もずぶ濡れになりながら、ジェマイマを抱き上げると岸に上がった。
二人とも身を切るような湖水に浸ってしまった。衣服は冷水をたっぷり含んで、濡れた分だけ重くなっている。
それなのにローレルは、馬鹿力とでも言えるほどの力を発揮してジェマイマを持ち上げて運んでくれた。
防寒のために着込んだコートもドレスも身を切るような湖水を吸い込んでいたから、湖から上がってもまだ水中にいるようだった。
「ジェマイマ、気をしっかり持つんだ」
ローレルは、ジェマイマを地面に下ろすと、水浸しになったぐるぐる巻きのマフラーを引っ剥がした。
それからダブダブと水を含んだコートを脱がしながら、
「誰か、ジャケットを!」そう声を張り上げた。
その瞬間に、ジェマイマの視界が暗くなった。誰かがジャケットを脱いでジェマイマの頭から被せてくれた。
仄かに香った匂いで、ジャケットがアルフレッドのものだとわかった。それは間違いなかったようで、「お嬢様」とアルフレッドの声が聞こえた。
大丈夫よ、心配しないで。そんな大したことではないの。うっかり滑って転んで浅瀬に落ちちゃったの。
そう言いたいのに、まだ歯の根がカチカチ震えて上手く話すことができなかった。視線すら動かせずに、そのまま瞳を閉じた。
マフラーもコートも脱がされて、濡れた衣服はあればあったで冷たいが、なければ寒風に直接肌が晒されて、それはそれで凍えることだった。
流石にドレスは脱げなかったが、近衛騎士たちまでもジャケットを脱いで、あっという間にジェマイマは彼らの上着で着膨れになるほど包まれた。
水浸しのドレスが、騎士たちのジャケットをじっとりと濡らしていく。
それが申し訳なくて、上着を脱いだ彼らはさぞかし寒かろうと、ぼおっとする頭で考えた。
「ジェマイマ、大丈夫か」
ローレルの声が耳元に聞こえて、ジェマイマは小さく頷いた。
大きな掌に両頬を包まれて、吐息が顔にかかった。どうにか瞼が動いてくれて、目を開ければ青い瞳がこちらを覗き込んでいた。
「ジェマイマ⋯⋯」
そう呟いたローレルは、それから徐ろに立ち上がると、ジェマイマを抱えて走り出した。
ドレスは変わらず水浸しであったし、何枚ものジャケットに包まれている。それだけで重いはずなのに、痩身のローレルのどこにそんな力があるのかと、彼の肩に頬を預けてジェマイマはうつらうつらとなりながら考えていた。
ジェマイマは、ローレルに抱えられて馬車まで運ばれた。そのまま馬車に乗せられ、侯爵邸へと向かった。
馬車の中でローレルは、まるで互いの体温を分かち合うようにジェマイマを膝の上に抱きかかえて、きつく抱き寄せると、なるべく空気に触れないようにするようだった。
「すまない、ジェマイマ。君から目を離してしまった」
そんなことはないと言いたかった。
ジェマイマが勝手に歩き出さなければ良かったのだ。
こんな軽率な自分では、あの夢のように愛されなくても頷けるような気がした。
夢の中でもジェマイマは、こんなことを引き起こしてはローレルに負担をかけていたのだろうか。
「ごめんなさい」
ようやく絞り出した声は掠れていたが、ローレルはしっかり聞き取ってくれた。
「君はなにも悪くない。あんなところに連れ出して、君から目を離してしまった私が悪かった」
「そんなこと⋯⋯ないわ⋯⋯」
久しぶりに植物園の中に入って、懐かしい母との記憶が蘇った。冬枯れの園内も綺麗だと思ったし、湖は燦めく水面が美しかった。
ローレルは、空を映す湖の風景を教えてくれたし、なにより白鳥は優美そのものだった。
「ありがとう⋯⋯とても、楽しかった」
「ジェマイマっ」
ローレルは、思わずというふうにジェマイマの頭を抱えて抱き締めた。
「置いていかないでくれ」
まるで、ジェマイマがこのままあの世に旅立つようなことを言った。
ローレル様、私は今世では死なないことを心に誓ったんです。死んでなるものかと、無駄死にも犬死にもしないと心に決めたんです。
だから、貴方は悪くない。どうか泣かないでほしいの。
実際には、ローレルは泣いてはいなかった。だが、どうしてかジェマイマには、泣き崩れて嗚咽を漏らすローレルが思い浮かんだ。
そんなこと、あるわけないのに。
彼は私を愛してなんかいなかったのに。
そうでなければ、あんなことをするはずがないのだから。
ローレルに抱きかかえられた身体が少しずつ体温を取り戻していく。次第に身体が温まり、ジェマイマは眠気をもよおし夢うつつとなっていた。
だからだろう、自分ではない自分の心の声が聞こえたような、そんな気がしたのである。
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