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第二章
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キャスリンの計画は、概ね良好だった。
「キャスリン、私がわかるかい?」
「ご機嫌よう。申し訳ございません、よく思い出せないのです」
父にそう答えた途端、母が「ああ」と泣き出した。
ごめんなさい、お母様。少しだけ、少しの間だけ許してね?
キャスリンは胸が痛んだが、そのまま「忘却」を続行する。
兄はそんなキャスリンを、色を失った顔で見つめた。
「父上、これは⋯⋯」
「うむ、医師の言うことには、自然と思い出すのに任せるほうが良いのだとか」
「それでは、キャスリンは一体どうなってしまうのでしょう」
兄は、キャスリンのこの後の婚姻を案じている。
キャスリンは既に学園の三年生で、半年後には、共に卒業を迎えるヘンドリックとの婚姻を控えていた。
「公爵家では、キャスリンの回復を待つと言っている」
「当然です。元はと言えば全て、」
「フランシス、それ以上は言ってはならない」
「ですが、父上」
キャスリンは、なんだか泣きたくなってしまった。
ヘンドリックにシンシアとの間に噂があることは両親も兄も知っており、それでキャスリンが密かに気に病んでいると心配しているのをキャスリンも気がついていた。
キャスリンがすっかり記憶を失ってしまったと思っている家族は、ヘンドリックへぶつけることの叶わない、やり場のない思いに苦悩している。
だが、ここでキャスリンが全て思い出したと打ち明けたとして、それでなにも変わらないのである。
ヘンドリックとシンシアの噂が、本当に噂であるのか。それは両親にも知り得ないことだった。
ヘンドリックの本心はヘンドリックにしかわからない。キャスリンには、彼の気持ちが見えなかった。
「あのぅ」「なんだ、どうした、キャスリン」
恐る恐る声を出したキャスリンに、兄が食いつくように反応した。
キャスリンは、慎重に言葉を選んだ。
ヘンドリックを責めたいわけではなかった。シンシアにしても、キャスリンは彼女から直接迷惑を被ったわけではない。
だが、誰かを巻き込むつもりはなくとも、キャスリンの行動は必ず周囲に影響する。
だからこそ、キャスリンは慎重には慎重を期した。
「お父様⋯⋯とお呼びしても?」
父はそこで、ぐっとなにかを堪えてから、
「ああ、そうだよキャスリン。お前は私の娘だ」と言った。
ごめんなさい、お父様。
自分の演技が思いのほか上手かったことに驚きながら、キャスリンは心の中で父に詫びた。
「お父様。お願いがございます」
「なんだい?キャスリン」
「私を静かな場所に移しては頂けないでしょうか。静謐の中で記憶が戻るのを待ちたいと思いますの。修道院でも構わ「駄目だ駄目だ」
キャスリンの言葉を遮ったのは、兄だった。
「修道院だなんて、なぜキャスリンが蟄居めいたことをしなければならないんだ。父上、修道院など有り得ません。キャスリンに療養が必要なら、領地の教会に預けましょう。彼処なら傘下貴族の屋敷が周囲にありますし、なにより静かな環境です」
兄の言葉は、それこそキャスリンが望んだことだった。
領地は王都近郊にある。馬車で一日足らずで行けてしまう。王都を出て直ぐの渓谷を挟んだ向こう側にある領地は、自然豊かな牧草地帯で、穏やかなのんびりした土地柄である。
兄の言う教会とは、キャスリンも幼い頃から馴染みがあった。キャスリンの洗礼式は、その教会で執り行なっていた。今は、老齢となった司祭が一人いる。
「教会ですか?素敵」
教会のなにが素敵かは置いておいて、キャスリンは幸運の前髪も後ろ髪も同時に掴む気持ちで、兄の提案に乗っかった。
「素敵」ワードの威力は絶大で、母がキャスリンが素敵と言うなら素敵に決まっていると言い出した。その結果、なし崩し的にキャスリンの教会行きが決まったから「素敵」ワードとは素敵である。
両親と兄が部屋を出て、キャスリンは侍女に横になるからと言って退室してもらった。
一人になって鏡に向かう。寝台から鏡の前まで歩くのにも痛みがあり、少しばかり目眩を覚えた。
たった五日間寝込んだだけで、身体は急激に衰えていた。
「痣はないようね」
後頭部には大きなタンコブができていたが、顔面に傷や痣は見当たらなかった。肩や腕や足が衝撃を吸収したのか、寝間着の襟から覗く肩は青く色を変えていた。
栗毛色の髪は、心做し艶を失って見える。王妹だった曾祖母譲りの鮮やかな青い瞳は、キャスリンの数少ない自慢であったのに、今は霞を帯びたように精彩を欠いて見えた。
「キャスリン。くよくよしても始まらないわ」
自分で自分を励ましてみる。
「ヘンドリック様のお気持ちを確かめもせず逃げ出しちゃうわね」
眉が下がって、笑い顔は今にも泣き出しそうに見えた。
「だって、相手が悪いもの」
シンシアを思い浮かべて、キャスリンの心は再び沈んだ。
細く開けた窓から、爽やかな秋風が入り込む。
転落したあの日は、朝からしとしと雨が降って、髪はうねるし制服はよれてしまうし、なんとなく調子が出なかった。
思えばあれは予感だったのだろうか。
だって、あの階段を通ることは、キャスリンにはそれほど多いことではなかった。
あそこはヘンドリックが学ぶ「領地経営科」の教室に近く、科の違うキャスリンは滅多に通ることのない場所だった。
偶々友人から借りた本を返しに行こうと向かったのである。友人はヘンドリックと同じ「領地経営科」であったから。
あの本、どうなってしまったのかしら。
友人はきっと、怪我をしたキャスリンに遠慮して、本を催促することはしないだろう。
「買ってお返ししなければならないわね」
だがそれも、記憶を失ったことになっているキャスリンには、今すぐできないことだった。
「それに、私を運んでくれた騎士科の方にも、いつかお礼をしたいわ」
鏡を相手に一人語りながら、キャスリンはもうこのまま、自分の人生は変わってしまうのかもしれないと思う。
王都に帰ってきた時には、もしかしたらヘンドリックとの婚約は破談となっているかもしれない。
もしそうなったなら、いっそのこと領地に移り住もうか。
あの長閑な大地は、栗毛色の髪を持つキャスリンには、とても馴染むように思えた。
「キャスリン、私がわかるかい?」
「ご機嫌よう。申し訳ございません、よく思い出せないのです」
父にそう答えた途端、母が「ああ」と泣き出した。
ごめんなさい、お母様。少しだけ、少しの間だけ許してね?
キャスリンは胸が痛んだが、そのまま「忘却」を続行する。
兄はそんなキャスリンを、色を失った顔で見つめた。
「父上、これは⋯⋯」
「うむ、医師の言うことには、自然と思い出すのに任せるほうが良いのだとか」
「それでは、キャスリンは一体どうなってしまうのでしょう」
兄は、キャスリンのこの後の婚姻を案じている。
キャスリンは既に学園の三年生で、半年後には、共に卒業を迎えるヘンドリックとの婚姻を控えていた。
「公爵家では、キャスリンの回復を待つと言っている」
「当然です。元はと言えば全て、」
「フランシス、それ以上は言ってはならない」
「ですが、父上」
キャスリンは、なんだか泣きたくなってしまった。
ヘンドリックにシンシアとの間に噂があることは両親も兄も知っており、それでキャスリンが密かに気に病んでいると心配しているのをキャスリンも気がついていた。
キャスリンがすっかり記憶を失ってしまったと思っている家族は、ヘンドリックへぶつけることの叶わない、やり場のない思いに苦悩している。
だが、ここでキャスリンが全て思い出したと打ち明けたとして、それでなにも変わらないのである。
ヘンドリックとシンシアの噂が、本当に噂であるのか。それは両親にも知り得ないことだった。
ヘンドリックの本心はヘンドリックにしかわからない。キャスリンには、彼の気持ちが見えなかった。
「あのぅ」「なんだ、どうした、キャスリン」
恐る恐る声を出したキャスリンに、兄が食いつくように反応した。
キャスリンは、慎重に言葉を選んだ。
ヘンドリックを責めたいわけではなかった。シンシアにしても、キャスリンは彼女から直接迷惑を被ったわけではない。
だが、誰かを巻き込むつもりはなくとも、キャスリンの行動は必ず周囲に影響する。
だからこそ、キャスリンは慎重には慎重を期した。
「お父様⋯⋯とお呼びしても?」
父はそこで、ぐっとなにかを堪えてから、
「ああ、そうだよキャスリン。お前は私の娘だ」と言った。
ごめんなさい、お父様。
自分の演技が思いのほか上手かったことに驚きながら、キャスリンは心の中で父に詫びた。
「お父様。お願いがございます」
「なんだい?キャスリン」
「私を静かな場所に移しては頂けないでしょうか。静謐の中で記憶が戻るのを待ちたいと思いますの。修道院でも構わ「駄目だ駄目だ」
キャスリンの言葉を遮ったのは、兄だった。
「修道院だなんて、なぜキャスリンが蟄居めいたことをしなければならないんだ。父上、修道院など有り得ません。キャスリンに療養が必要なら、領地の教会に預けましょう。彼処なら傘下貴族の屋敷が周囲にありますし、なにより静かな環境です」
兄の言葉は、それこそキャスリンが望んだことだった。
領地は王都近郊にある。馬車で一日足らずで行けてしまう。王都を出て直ぐの渓谷を挟んだ向こう側にある領地は、自然豊かな牧草地帯で、穏やかなのんびりした土地柄である。
兄の言う教会とは、キャスリンも幼い頃から馴染みがあった。キャスリンの洗礼式は、その教会で執り行なっていた。今は、老齢となった司祭が一人いる。
「教会ですか?素敵」
教会のなにが素敵かは置いておいて、キャスリンは幸運の前髪も後ろ髪も同時に掴む気持ちで、兄の提案に乗っかった。
「素敵」ワードの威力は絶大で、母がキャスリンが素敵と言うなら素敵に決まっていると言い出した。その結果、なし崩し的にキャスリンの教会行きが決まったから「素敵」ワードとは素敵である。
両親と兄が部屋を出て、キャスリンは侍女に横になるからと言って退室してもらった。
一人になって鏡に向かう。寝台から鏡の前まで歩くのにも痛みがあり、少しばかり目眩を覚えた。
たった五日間寝込んだだけで、身体は急激に衰えていた。
「痣はないようね」
後頭部には大きなタンコブができていたが、顔面に傷や痣は見当たらなかった。肩や腕や足が衝撃を吸収したのか、寝間着の襟から覗く肩は青く色を変えていた。
栗毛色の髪は、心做し艶を失って見える。王妹だった曾祖母譲りの鮮やかな青い瞳は、キャスリンの数少ない自慢であったのに、今は霞を帯びたように精彩を欠いて見えた。
「キャスリン。くよくよしても始まらないわ」
自分で自分を励ましてみる。
「ヘンドリック様のお気持ちを確かめもせず逃げ出しちゃうわね」
眉が下がって、笑い顔は今にも泣き出しそうに見えた。
「だって、相手が悪いもの」
シンシアを思い浮かべて、キャスリンの心は再び沈んだ。
細く開けた窓から、爽やかな秋風が入り込む。
転落したあの日は、朝からしとしと雨が降って、髪はうねるし制服はよれてしまうし、なんとなく調子が出なかった。
思えばあれは予感だったのだろうか。
だって、あの階段を通ることは、キャスリンにはそれほど多いことではなかった。
あそこはヘンドリックが学ぶ「領地経営科」の教室に近く、科の違うキャスリンは滅多に通ることのない場所だった。
偶々友人から借りた本を返しに行こうと向かったのである。友人はヘンドリックと同じ「領地経営科」であったから。
あの本、どうなってしまったのかしら。
友人はきっと、怪我をしたキャスリンに遠慮して、本を催促することはしないだろう。
「買ってお返ししなければならないわね」
だがそれも、記憶を失ったことになっているキャスリンには、今すぐできないことだった。
「それに、私を運んでくれた騎士科の方にも、いつかお礼をしたいわ」
鏡を相手に一人語りながら、キャスリンはもうこのまま、自分の人生は変わってしまうのかもしれないと思う。
王都に帰ってきた時には、もしかしたらヘンドリックとの婚約は破談となっているかもしれない。
もしそうなったなら、いっそのこと領地に移り住もうか。
あの長閑な大地は、栗毛色の髪を持つキャスリンには、とても馴染むように思えた。
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