キャスリン・アダムス・スペンサーの忘却

桃井すもも

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第四章

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 助祭との「語らいの時間」は、毎朝設けられた。

 早朝に目覚めてから、司祭とともに朝の礼拝をして、それから皆で質素な朝餉を済ませたあとに助祭と語り合う。

 その時間ばかりは、侍女のアネットも護衛のイザークも伴なわず、二人きりでの会合となる。
 それは、時には応接室であったり、時には朝もやの晴れたばかりの庭を歩きながらであったりした。ほんの時折、裏山の小径を歩きながら語らう日もある。

 今日は丁度そんな日で、司祭に誘われ裏手にある森の小径を散策していた。

「それでは、婚約者様のお姿は、もう思い出せるのですね」
「はい。こちらに来てから少しずつ、薄っすらと思い出して⋯⋯。この小径のように、朝もやが晴れて木立に日が差すように、思い出の片鱗が頭に浮かぶのです」

 我ながら、とんだ嘘つきだと思う。
 キャスリンは、いつまでもここにはいられない。いずれは王都へ帰らねばならない。その時に、ある程度の記憶を思い出したていにしておかねばならない。

 王都に戻るとするなら秋が深まる前だろう。そうなれば⋯⋯、と日数を逆算して、思い出す事項についての計画を立てていた。

 今日は、ヘンドリックのことを少しずつ思い出していると装っている。
 助祭はそれを疑う様子はなく、キャスリンは気まずく思わないわけではないが、嘘をつくなら徹底せねばならないと思い直した。

 足を踏み出す度に、カサカサと枯れ葉を踏む音がする。
 領地の秋は王都よりも早くて、あちらこちら木々の葉が赤や黄色に染まりはじめていた。まだ緑が残っているのが夏の名残のように、季節が移ろう狭間の美しい風景を見せてくれる。

「とても綺麗。渓谷の直ぐ向こうに王都があるなんて思えないくらい」
「本当だね。美しい風景は、人の心を優しく癒やす。貴女の記憶が僅かでも蘇っているのも、自然の治癒力なのかもしれない」

 助祭は上手いことを言うと思った。キャスリンはその言葉に頷きながら、そうだ、自然に癒やされて記憶が蘇ってきたことにしようと目論んだ。

「貴女の婚約者様のことを伺っても?」

 キャスリンは、そこでなにを答えようかと考えた。それで結局、キャスリンが知るヘンドリックについてを素直に話した。

「ヘンドリック様は、私の憧れですわ」
「憧れ?」

「ええ。王家の血を引く金の髪も青い瞳も、宰相でいらっしゃる公爵閣下のご子息らしく英明でいらっしゃるところも全て、私には持ち得ないものですわ」

 キャスリンも曾祖母が当時の王妹であるのだが、ヘンドリックは母親が現国王の王妹である。王家との血の近さが違う。

「彼の容姿や才に惹かれていらっしゃるのですか?」

「勿論、そればかりではございません。公爵家のご嫡男でいらっしゃいながら勤勉で、宰相閣下の下で学ぶ姿勢も素晴らしいと思います」

 ヘンドリックの生家である公爵家は、代々王家の参謀を担う家柄で、領地を持たない宮廷貴族である。現公爵は宰相を務めている。
 ヘンドリックも学園を卒業した後には、父公爵のもとで政務を担うこととなっていた。

 領地を持たない家に生まれた彼が、学園では「領地経営科」で学んでいるのは、一つには仕える主が同じ科に学んでいるのと、もう一つは、将来政務に携わる際に、領地の運営についてを知らずして貴族の動向を把握できないからという、彼なりの考えがあってのことだった。

 そんなことをキャスリンに語ってくれたヘンドリックは、とても眩しく見えた。眩しいまま、後ろ暗さなど感じさせずにいてほしかったと思うのは、キャスリンの勝手な発想なのだろうか。

「この先に湖があるのはご存知で?」
「ええ。幼い頃に一度だけ来たことがございます」

 記憶の忘却設定をうっかり忘れて、キャスリンは助祭に聞かれるまま、するりと答えてしまった。
 まあ、幼い頃のことは憶えている設定であるから大丈夫だろう、大丈夫か?と隣を歩く助祭を横目でちらりと覗き見た。

 そこで思わず助祭と目が合って、慌てて目を逸らしたから、キャスリンは怪しさ満点に見えただろう。
 助祭は如在のない人物である。気をつけなければと気を引き締めた。


 湖へ向かう小径は、誰かが度々歩くのか、小径の幅だけ踏みならされていた。両脇には夏草が半ば枯れかけており、それがキャスリンのほうへしなだれるように見えて、少しばかり怖かった。

 パキリパキリと小枝を踏む音に混じって、鳥の声が聞こえる。
 聞き慣れないその声は、遠くに聞こえたかと思うと直ぐ近くから聞こえたりで、目に見えない妖精に揶揄からかわれているようで、鬱蒼と続く森の小径は、キャスリンを別世界に誘うように思えた。

 道の向こう側がキラリと瞬いたと思ったところで、助祭がこちらへ振り向いた。

「湖だよ」

 キャスリンは、その言葉に勇気を得て、心做し早歩きになった。

「急いでは危ない、蔓草に足元を取られないように気をつけて」
「はい、わっ」

 言われた先から木の根につまずきよろめいた。助祭がかさず手を差し伸べて、前のめりになったキャスリンの肩を支えた。

「痛っ」
「あ、ああ、すまない!大丈夫!?」

 転落した時の痣も痛みも随分和らいでいたのだが、力が掛かるとまだ痛む。助祭が咄嗟に掴んだところが鈍く痛んで、思わず声をあげてしまった。助祭も慌ててしまったのか、敬語が外れていた。

「大丈夫です、騒いでしまってごめんなさい。お気になさらないでください。支えて頂かなかったら、きっと転んでおりました」

 キャスリンがそう言えば、助祭は眉を下げたまま、不安そうな顔をした。

「まだ痛むのですか?」
「随分良くなりました」
「どれほどの衝撃を受けたんだ⋯⋯」

 実のところキャスリンは、その辺りの記憶がはっきりしない。視界も身体もぐるぐる回って、なのに頭の中にいたのはヘンドリックだった。

 あんな死にかけても可怪しくない場面で、ヘンドリックに迷惑をかけて、それで嫌われてしまうのだろうかと、そんなことを考えた。

 転がり落ちたキャスリンを、ヘンドリックはどう見ていたのだろう。
 踊り場に伏して倒れたキャスリンに、彼は近寄ることはしなかったという。


 木立の向こうのそこだけがぽっかり空いて、燦めく水面が現れた。考え込むうちに小径を抜けて、キャスリンは湖畔の手前に出ていた。

 途端に水面を渡る風が吹き抜けて、キャスリンの髪が空に向かって舞い上がった。
 日の光を浴びて、栗色の髪が艶やかに浮かんで見えた。

 ヘンドリックが知らない場所で、キャスリンは、自分が燦めきをほんの少し取り戻したような、そんな気持ちになった。



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