キャスリン・アダムス・スペンサーの忘却

桃井すもも

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第九章

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 ヘンドリックは、アルベールとは友人である前に従兄弟である。
 彼の母は王妹で、彼自身もまた、王子が二人しかいない王家にとって、数少ない王位継承権を有する男子である。

 金色の髪と澄んだ青い瞳は、アルベールもヘンドリックも王家の血が濃いことを表していた。
 だが顔立ちは、側妃によく似て童顔なために中性的に見えるアルベールと違って、ヘンドリックは怜悧な面立ちをしている。

 するりと癖のない長髪は、彼の真っ直ぐな気質そのもののようで、それを背中でひとつに纏めて青いリボンで結っていた。

 リボンはキャスリンが贈ったもので、彼はリボンに限らずキャスリンが贈った物を大切にしてくれた。
 だから、決してキャスリンを疎んじていたわけでも、軽んじていたわけでもなかったと思う。

『初めまして、ではないかな。これから宜しく、と言ったほうがよいね』

 婚約を結ぶ顔合わせの席で、青い瞳を細めて、ヘンドリックは珍しく笑みを浮かべてそう言った。

 その様子を、互いの両親もじーっと見つめていたから、キャスリンはすっかり照れてしまった。けれどもとても嬉しかったのだ。

 彼とは既に顔見知りであったし、キャスリンは母に伴われて王城に出向くことが多く、宰相の子息であるヘンドリックとは、城でも顔を合わせていた。

 良縁だと、どちらの両親も思ったようだった。キャスリンだって、彼ほど高貴な青年はアルベール以外には知らなかったから、自分は恵まれているのだと信じて疑うことはなかった。


 キャスリンには、婚約者への恥じらいも遠慮もあった。出来過ぎな婚約者に負い目とまでは言わずとも、彼に恥ずかしくない婚約者でいたいと常から思っていた。

 燃えるような恋心とは違ったかもしれない。だが、将来を共に生きる伴侶として、大切に大切に思っていた。そこには確かな恋心があった。

 寡黙な質であるヘンドリックに比べて、キャスリンは割合、陽気なほうだと思う。だが、二人きりでいるときに、キャスリンはその陽気具合を少しばかり抑えていた。
 ヘンドリックに好いてほしい、そんな恥じらいが、彼女を何事においても控えめにさせていた。

 だからこそ、シンシアと親密であるという噂が聞こえ始めたときに、キャスリンは悋気なんてものは起こらなかった。

 噂に衝撃を受けた直後に思ったのはアルベールのことで、どうしようと困惑した。自身の婚約者がアルベールの婚約者と噂を起こしてしまった。

 ヘンドリックと、もっと仲良くなれていたら良かったのだろうか。

 初恋を抱いたまま別の伴侶を得る貴族は少なくない。それでもみんな、恋は恋、現実は現実と区切りをつける。学生であるなら、僅かに残された猶予として学園生活を過ごす。

 ヘンドリックにしても、シンシアの立場を考慮して、秘めた想いにも彼なりの踏ん切りをつけたのだろう。学園に入ってからも、キャスリンとは穏やかな交流を重ねていたのだから。

 真逆、卒業まであと半年というところで、こんなことになるとは思わなかった。
 真逆、シンシアまでヘンドリックを慕っているなんて、そんなことは思わなかったのである。


「シンシア様が、」

 彼女の名を口にすれば、助祭は些か緊張するような顔をした。奥歯を噛み締めるのは、彼が気を張る時の癖である。

「シンシア様が、ヘンドリック様をお慕いになるお心は、私にはどうすることもできません」

 シンシアに関することを、キャスリンは慎重に話す。

「彼女は間もなく王子妃になられるお方です。アルベール殿下がいずれは臣下に下るとも、一旦は王家に嫁がれる御身です。エドワード殿下が学園をご卒業なさるまで、あと十年あるのですから」

 助祭に向かって、キャスリンはとても繊細な話題を口にしている。そればかりか、両親にも言えずにいたことを、目の前の青年には隠さず明かしている。

 キャスリンにとって、助祭は誰よりも信頼できる人物だった。彼だから、口に出してはならないことも胸を開いて打ち明けられる。
 助祭もまた、そんなキャスリンの心中を誰よりも、多分ヘンドリックよりも理解しているだろう。

「学園でヘンドリック様とシンシア様の噂が立って、だからといって私には、なにもすることができませんでした」

「貴女が確かめる前に、婚約者様が貴女の心に寄り添うべきことだったと思います」

 キャスリンは、彼らしい言葉だと思った。自分に軸を置いて過失を探すキャスリンに、助祭は別の見方を示してくれる。そんな助祭の言葉に、つい絆されそうになってしまう。

「貴女が繊細な気質であることを、婚約者様はお知りになるべきだ。いえ、きっと聡明な彼ならおわかりだったでしょう。そうであれば、彼は一番初めに貴女の不安を解消すべきだった。貴女が言った通り、英明で聡明で努力家なのであれば、貴女へ配慮する努力を僅かにも怠るべきではなかったと思います」

「努力。そのお言葉が全てなのですわ。私との関係とは、努力して配慮しなければ繋げられないものなのだと。そういうことです」

「なにをお考えなのですか」

 助祭はキャスリンの言葉に、眉を寄せて訝しむような表情を浮かべた。

「今後のことを。いいえ、そうではありません、今現在のことを考えております」
「今のこと?」

「ヘンドリック様とシンシア様は、今も王都にいらっしゃる。私がこんなことになってしまって、噂は事実とされて騒ぎはますます大きくなっているでしょう。その渦中で今度こそ、お二人が互いに想い合う心を固めているのだとしたら」

「それ以上をお考えになってはならない」
「どうして?わかりきったことですわ」
「貴女は婚約者様を大切になさっていたではありませんか」

 司祭は声音を強くして、キャスリンに諦めるなと言っているように見えた。

「今頃は、私たちの婚約は解かれておりますわ。彼の本意や噂の真相や、彼女との関係もシンシア様のお気持ちも、そんなことは、周囲にとってはどうでもよいことなのです」

「キャスリン様⋯⋯」

「王子の婚約者と側近が騒ぎを起こして、その上、片方の婚約者が二人の関係に悩まされて負傷した。もう片方の婚約者といえば、渦中の二人も学業も執務も立場まで放り出して、傷を負った友人の後を追って王都を出てしまった」

 助祭の青い瞳を見つめて、キャスリンは言った。

「駄目じゃない、こんなところで私に付き合っていては。貴方様、王都を出てしまって、陛下にはなんと仰ったの?溜まった執務はどうなさるの?学園だって今頃は試験中でしょう?アルベール殿下」

 生まれたときからの友人と思う青年に、キャスリンは、眉を下げて呆れたような笑みを浮かべて見せた。


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