キャスリン・アダムス・スペンサーの忘却

桃井すもも

文字の大きさ
10 / 27

第十章

しおりを挟む
「残念。助祭ごっこもここで終わりか」

 アルベールは、ふうと息を吐いて、それからちっとも残念そうではない顔で笑みを浮かべた。

「とっても似合っていたわ」
「お褒め頂きありがとう」

 淹れっぱなしの紅茶は既に冷たくなっていた。二人の間の空気が和らぎ、キャスリンはアルベールに声をかけた。

「お茶のお代わりはいかが?」
「君が淹れてくれるなら」

 ぴっちり着込んだキャソックの襟のホックをひとつ外して、アルベールは言葉も姿勢も緩めてソファに背をもたれた。

 そこに頃合いを読むのが上手いアネットが扉をノックし、新しい紅茶の支度をしてから、お茶を淹れるところでキャスリンと替わって再び部屋を出た。

「良い侍女を側に置いているね」 
「ご存知のくせに。アネットとイザークはいつも私と一緒ですもの」
「彼女に叱られてグッときた。あれって癖になるね」
「年上の女性がお好みなの?」

 片方は記憶を無くし、片方は聖職者の姿でやり通して、最後は互いをわかりながら心のうちを語った。

「申し訳ございませんでした。殿下」
「ええ?急にしおらしく距離をとるのはやめてくれないかな」
「貴方様、王子なのに試験まですっぽかしたのよ?それより、王城は大丈夫なの?」

 自分と同じ澄んだ青い瞳を見つめて、キャスリンはずっと気になっていたことを尋ねた。

「婚約者と側近の不手際で、王家の重鎮でもある侯爵家の令嬢が静養することとなった。十分な一大事だよ」

 一大事という言葉にキャスリンが息を呑めば、付け足すようにアルベールは言った。

「騒ぎの収拾をつけることが私の務めだ。ここにいるのは立派な公務だよ。それに君が怪我をして、母が陛下の前で泣いてしまったからね」
「え?側妃様が!?」
「それはそうだろう、母は君を可愛がっている。陛下もそれをご存知だ」

 アルベールはそこで、青い瞳に悪戯な色を滲ませた。

「知ってる?キャスリン。滅多に我が儘を言わない人がたまに言う我が儘とは、九分九厘、通じるものだよ」

 側妃は身の在り方を弁えて、平素から逸脱するような行動を慎んでいる。その側妃に泣き付かれて、陛下もアルベールが王都を出ることを許したのだろう。

「護衛は?貴方様、単独行動ではないでしょう?」
「その辺の草むらにいるんじゃないかな」

 そう言ってアルベールは、窓の外を眺めながらお茶をすすった。

「心配かけちゃってごめんなさい」

 キャスリンも、すっかり口調が解けてしまって、幼い頃からのものに戻ってしまう。

「なぜ君が謝るの?あんなに悩んでいたのに」
「貴方は?貴方は辛くなかったの?」

 キャスリンにとっては、ヘンドリックの行動が悩みであった。アルベールに至っては、シンシアとヘンドリックに悩まされたことになるだろう。

「別に」

 童顔なアルベールではあるが、高貴な生まれがそうさせるのか、彼は甘やかな顔ばかりをしているわけではない。
 瞳の青を深く濃くして、心の底まで冷えるような、そんな眼差しをすることがある。

 彼を知る人なら誰でもわかる。アルベールを軽んじたり侮ることは、愚かしい以外のなにものでもないのだと。

 今も彼は、そんな冷えた眼差しをした。だがそれは、キャスリンに向けられたものではない。間違ってもアルベールは、キャスリンをそんな目で見ることはしないだろう。

「殿下、試験は?」
「君だって受けてないだろう?」
「ええ?私はきっと後から追試だわ」
「なら、私も一緒だよ」

 一度は立太子を目されていた王子が、追試だなんて。
 だが、それもアルベールらしいと思う。
 アルベールは、いつだってそうだ。今しなければならないことと、後から取り返しがつくことの判断を誤らない。

 そんな彼は臣籍降下した後も、陰の王家の一つ、公爵家当主として国政に影響を及ぼすだろう。

「記憶が戻って良かった。君が何を忘れても、私は君を忘れない。けれどやっぱり憶えていてほしいことはあったから、君が言った言葉に救われた」
「私の言葉?」
「時間をくれと言ったよね」

 やはりアルベールは、キャスリンの言葉に記憶があると確証を得ていたようだ。

「それでも貴方、私に最後まで付き合ってくださったわ。私と貴方の始まりからヘンドリック様との終わりに至るまで」

「それ、本気なの?」

 アルベールが尋ねたのは、キャスリンがヘンドリックとの関係に終わりを迎える認識をしていることだろう。
 キャスリンはそれには答えず、ほかに気になっていたことを尋ねた。

「王都は、学園はどうなっているの?」
「そのうち市井で小説にでもなるのではないかな?」
「ええっ、そんな騒ぎに!?」
「君、すっかり悲劇のヒロインだよ」
「ええっ、私が!?」

 そこでアルベールは、キャスリンを見つめて含み笑いをした。これは彼が悪戯心を起こしたときの笑みである。

「だって君、本を抱えて転がったんだよ。あの本、私に返すつもりだったんだろう?アレが周りにいた生徒たちの目に入らないわけがないだろう?」

「ああ!!」

 キャスリンは、一瞬のうちに赤面して両手で顔を覆って俯いた。

 恥ずかしい、恥ずかしくて死ねる。折角、階段落ちでも助かったのに、あの本を見られた恥ずかしさであと二回は死ねる。

 どうして今の今まで気づかなかったのか。本を返さなければと思っていたのに、タイトルを見られることには思い至らなかった。

 あの時も誰にも見られないように、両手で胸元に本を抱えていた。そのままアルベールに返すつもりだった。なぜ何かに包むという発想がなかったのだ。時間を巻き戻すことができるなら、あの雨の朝、裸のままの本を鞄に入れたところへ戻りたい。

「『恋人の心を取り戻す方法100選』」
「きゃー、言わないで、そのタイトル言わないで!」
「拾った令嬢が、その場で泣き出してね」
「ええ!?なんで?」
「哀れを誘ったらしい。恋人の噂に心を痛めて、どうしたら心を取り戻すことができるか100回は試す覚悟をしていた君に、すっかり同情したらしい」

 そんな馬鹿な。そもそも、あの本はアルベールが貸してくれたのだ。
 ん?あの時、アルベールはなんて言った?確か⋯⋯。

『今の君を笑わせてくれると思うよ。あんまり馬鹿馬鹿しくて。100も試す必要ある?』

 アルベールは、恥ずかしさから涙目になって絶望的な顔を向けるキャスリンに、堪らないというように笑みを深めた。

「あの本、増刷されるらしい。売れ行きが良くて」
「ああ!!」

 キャスリンは、今度こそ頭を抱えてしまった。

「だからキャスリン。なにも心配いらないよ。君は君のまま王都に戻っておいで」

 なんにも解決していないのに、アルベールはそんなことを言ってキャスリンの心を軽くした。



しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】20年後の真実

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。 マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。 それから20年。 マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。 そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。 おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。 全4話書き上げ済み。

【完結】捨てたものに用なんかないでしょう?

風見ゆうみ
恋愛
血の繋がらない姉の代わりに嫁がされたリミアリアは、伯爵の爵位を持つ夫とは一度しか顔を合わせたことがない。 戦地に赴いている彼に代わって仕事をし、使用人や領民から信頼を得た頃、夫のエマオが愛人を連れて帰ってきた。 愛人はリミアリアの姉のフラワ。 フラワは昔から妹のリミアリアに嫌がらせをして楽しんでいた。 「俺にはフラワがいる。お前などいらん」 フラワに騙されたエマオは、リミアリアの話など一切聞かず、彼女を捨てフラワとの生活を始める。 捨てられる形となったリミアリアだが、こうなることは予想しており――。

記憶を失くした悪役令嬢~私に婚約者なんておりましたでしょうか~

Blue
恋愛
マッツォレーラ侯爵の娘、エレオノーラ・マッツォレーラは、第一王子の婚約者。しかし、その婚約者を奪った男爵令嬢を助けようとして今正に、階段から二人まとめて落ちようとしていた。 走馬灯のように、第一王子との思い出を思い出す彼女は、強い衝撃と共に意識を失ったのだった。

冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない

くろねこ
恋愛
名門伯爵家に政略結婚で嫁いだ、正妻エレノア・リーヴェルト。夫である伯爵ディートリヒ・フォン・アイゼンヴァルトは、 軍務と義務を最優先し、彼女に関心を向けることはなかった。 言葉も、視線も、愛情も与えられない日々。それでも伯爵夫人として尽くし続けたエレノアは、ある一言をきっかけに、静かに伯爵家を去る決意をする。 ――そして初めて、夫は気づく。 自分がどれほど多くのものを、彼女から与えられていたのかを。 一方、エレノアは新たな地でその才覚と人柄を評価され、 「必要とされる存在」として歩き始めていた。 去った妻を想い、今さら後悔する冷酷伯爵。前を向いて生きる正妻令嬢。 これは、失ってから愛に気づいた男と、 二度と戻らないかもしれない夫婦の物語。 ――今さら、遅いのです。

行ってらっしゃい旦那様、たくさんの幸せをもらった私は今度はあなたの幸せを願います

木蓮
恋愛
サティアは夫ルースと家族として穏やかに愛を育んでいたが彼は事故にあい行方不明になる。半年後帰って来たルースはすべての記憶を失っていた。 サティアは新しい記憶を得て変わったルースに愛する家族がいることを知り、愛しい夫との大切な思い出を抱えて彼を送り出す。 記憶を失くしたことで生きる道が変わった夫婦の別れと旅立ちのお話。

記憶を失くした彼女の手紙 消えてしまった完璧な令嬢と、王子の遅すぎた後悔の話

甘糖むい
恋愛
婚約者であるシェルニア公爵令嬢が記憶喪失となった。 王子はひっそりと喜んだ。これで愛するクロエ男爵令嬢と堂々と結婚できると。 その時、王子の元に一通の手紙が届いた。 そこに書かれていたのは3つの願いと1つの真実。 王子は絶望感に苛まれ後悔をする。

【完結】留学先から戻って来た婚約者に存在を忘れられていました

山葵
恋愛
国王陛下の命により帝国に留学していた王太子に付いて行っていた婚約者のレイモンド様が帰国された。 王家主催で王太子達の帰国パーティーが執り行われる事が決まる。 レイモンド様の婚約者の私も勿論、従兄にエスコートされ出席させて頂きますわ。 3年ぶりに見るレイモンド様は、幼さもすっかり消え、美丈夫になっておりました。 将来の宰相の座も約束されており、婚約者の私も鼻高々ですわ! 「レイモンド様、お帰りなさいませ。留学中は、1度もお戻りにならず、便りも来ずで心配しておりましたのよ。元気そうで何よりで御座います」 ん?誰だっけ?みたいな顔をレイモンド様がされている? 婚約し顔を合わせでしか会っていませんけれど、まさか私を忘れているとかでは無いですよね!?

〈完結〉【書籍化&コミカライズ・取り下げ予定】記憶を失ったらあなたへの恋心も消えました。

ごろごろみかん。
恋愛
婚約者には、何よりも大切にしている義妹がいる、らしい。 ある日、私は階段から転がり落ち、目が覚めた時には全てを忘れていた。 対面した婚約者は、 「お前がどうしても、というからこの婚約を結んだ。そんなことも覚えていないのか」 ……とても偉そう。日記を見るに、以前の私は彼を慕っていたらしいけれど。 「階段から転げ落ちた衝撃であなたへの恋心もなくなったみたいです。ですから婚約は解消していただいて構いません。今まで無理を言って申し訳ありませんでした」 今の私はあなたを愛していません。 気弱令嬢(だった)シャーロットの逆襲が始まる。 ☆タイトルコロコロ変えてすみません、これで決定、のはず。 ☆商業化が決定したため取り下げ予定です(完結まで更新します)

処理中です...