侯爵夫人の手紙

桃井すもも

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【3】

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「ごめんなさいっ、私、どうしてこんな事を、」

「落ち着いて下さいませ、ルイーザ様、」

ジェイムズが声を掛けるも、家令も執事も厳しい表情のまま帳簿を見つめている。
誤記入は桁が一つ多かった。帳簿の誤記がどこへ影響し、どこから修正すべきかを確認しているのだと解った。

その時、

「ルイーザ様。私が修正致します。ご心配には及びません。」

執事が帳簿から顔を上げて言った。一瞬、思ったより大きな影響が出なかったのかも、そんな楽観的な方向へ考えたくなった。しかし、直ぐにそんな事は無いのだと解った。普段自分が数字を起こしている帳簿だ。そんな筈は無いことがよく解る。いつもは後から旦那様が確認して下さる。なのに、今日に限って、

「でも、これはもう小切手を切っているわ、」
「大丈夫です。」

今日に限って、旦那様から確認を頂く前に、小切手を切っていた。間違いに間違いを重ねるなんて。せめてジェイムズに確認してもらっていたならこんな事にはならなかった。

「そろそろ旦那様がお戻りです。少し早いですが食堂室でお待ちになって下さいませ。何かお飲み物をお持ち致しましょう。」
「でも、」
「大丈夫です、ルイーザ様。」
「本当に?」

執事が頷き笑みを見せた。家令もジェイムズも、頷く。
大丈夫なの?小切手を回収する術が?
私の知らない方法があるのかしら。皆が大丈夫だと言うのだから。


いつもは夫が帰宅する時にはルイーザも出迎えるのだが、食堂室で待てと言われたきり、何時になっても誰も呼びには来なかった。

「旦那様っ、」

そうして、いつもより一刻遅れで、いつもと変わらない様子で夫は食堂室に現れた。

「も、申し訳ございません!」
「ん?大丈夫だよ。」
「大丈夫?」
「ああ、全部終わったから。」
「でも、私、」
「君に任せ過ぎた。」
「え?」

その一言で、目の前が真っ暗になった。毎日励んで来たことが、一瞬のうちに崩れて全て無になってしまった。いや、そんな事はどうでもいい。旦那様に、失望されてしまった。

誰も責める人はいなかった。叱られる方が余程気が楽だった。お前の手は要らないと言われたようで、背中に冷たい汗が流れた。胸がずきずき痛むほど痺れた。

唇が震えて言葉が出ない。一言言葉を発したなら、きっと涙が溢れる。

そのまま席を立つしか方法は無かった。詫びは聞いてもらえない。誰も叱責してくれない。もうすぐ涙が溢れる。そんな顔を夫には見せられない。

足早に食堂を出る。誰も声を掛けては来なかった。きっと掛けられなかったのだ。涙はもう溢れていた。そんなルイーザを引き留めたなら、彼女を更に傷付ける。そんなふうに遠慮をしてくれたのだろう。夫の声は聞こえなかった。

間違いを起こしてしまった。それをせめて解決させて欲しかった。ルイーザの手に余る問題が起こっていたのは後から知った。一桁多い金額で振り出された小切手を、受取人から回収して正しいものと差し替えたのは執事だった。同時に、小切手の受取人が換金に来るのを想定して銀行に出向いたのは家令だった。
誤った帳簿から連動する貸借と損益の勘定を修正したのはジェイムズだった。先様にお詫びをしたのは夫だった。

解決には至ったが、貴族家当主の夫に詫びさせ恥をかかせた事がどうにも許せず辛かった。
ミスを自分の力で回収出来ない事と、執務に慣れて来たところで大きな過ちを重ねた事で、ルイーザの自信もプライドも矜持も全て、潰れた風船の様にぺしゃんこだった。誰もが笑みを浮かべて頷いた顔が、頭から離れない。


「ルイーザ様。少し、外へ出ましょうか。」

ジェイムズから声を掛けられて、はっと顔を上げた。いつの間に部屋にいたのか。

昨晩は、自室に籠もって夫妻の寝室へは行かなかった。今朝もそのまま呆然となって、ヘレンが心配するのでミルクを飲んだ。味は全くしなかった。
今も、自室の椅子に座ったまま、頭の中で昨日の光景を何度も何度も繰り返し思い出していた。既に解決されたのだと解っていても、ルイーザにとっては終わった事ではなかった。

帳簿のミスも当然だが、夫と使用人に、お前では信用ならないと、その事実を突きつけられた様で、それが辛かった。

忙しいとか疲れているとか、そんな事は言い訳にもならない。ルイーザが常に思っている事だ。
ルイーザは慎重であったから、こんな失敗をした事がない。失敗の経験が無いから、その回収方法も立ち直り方も、気持ちの切り替えにも長けていなかった。

「外って?」
「別荘にでも行きませんか。」
「別荘?」
「ええ。何もかも置いて。貴女様は十分お働きになっておられた。少しくらいお休みを頂戴しても宜しいでしょう。世のご婦人方は夏にはバカンスに出られるのですよ。働き詰めの新妻など、どこにもいらっしゃいません。」

働き詰めという言葉が、すとんと胸に落ちた。
髪に香油を塗ることも、ゆっくりお化粧をする事も、もうずっと御座なりであった。誰もそんなことを頼んでいない。ルイーザが自分で決めてそうしていた。誰かの為にと、頼まれてもいないのに、勝手に自分をすり減らしていた。

「別荘は森の側で湖があるのです。湖畔を散策なさった事は?」
「いいえ。無いわ。」
「邸の事なら心配は無用です。偶にはほっぽり出してやりましょう。」
「ほっぽり出す?」
「ええ、そうです。」
「だ、旦那様も?」
「勿論です。」

「お供を致します。ヘレンも一緒に。」

こうしてルイーザは、家政も執務も社交も投げ出して、王都の暮らしから飛び出した。
そうして夫からも、逃げ出した。



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