32 / 33
第三十二章
しおりを挟む
コートニーはその後、旅に出たまま王都に戻ってくることはなかった。
漸く寄り添うことが叶えられた恋人と、港を見下ろす高台の邸宅にいて、広い海と空を眺めて暮らした。
ベネディクトとの離縁から、丁度半年が過ぎた冬の最中に、生涯想い続けると誓っていた恋人と再婚した。
二人とも元は貴族の血筋であるが、どちらもすでに籍を離れて、身分は平民となっていた。
だが、夫となったジョゼフが営む商会は、祖母の代から続く海運業で、交易を中心に手広く事業を行っていた。
祖母仕込みの経営手腕で、ジョゼフが会頭となってからも商会は潤っているようだった。
互いに貴族に生まれていたから、物事の決まり事や身分の垣根については十分すぎるほど理解していた。
だから尚のこと、陸地を離れてどこまでも広がる海を航るときには、心から自由を感じることができた。
コートニーは、ジョゼフとともに海を越えて旅に出るようになった。
商談で海外に赴くジョゼフに寄り添い、夫の目に映る風景を一緒に見つめて暮らした。
いつだか、ジェントルがあの古びた温室からいなくなって、彼の鳥籠を置いていたソファから見える風景を眺めたことがある。
あの時は、ジェントルがこんな景色を見ていたのだと、淋しさとともに思ったのだが、今はジョゼフと並んで同じ景色を見ていたいと、そう思っている。
ベネディクトとの離縁であらゆるものを失ったのに、今のコートニーは、これまでの人生で最も豊かであるように思う。
なにが幸福かは人それぞれだから、家や身分や土地や家族や、色々とあるだろう。
けれどコートニーにとっての幸福は、ジョゼフと見つめあって、抱きしめあって、互いの身体の熱を感じながら夜を越えて、新しい朝を迎えたら、大海原を吹き抜ける潮風に髪を靡かせ一緒に生きることだった。
令嬢時代に読んだ小説では、主人公は全てを捨てて街を出た。身分違いの恋人と新しい家族となって終わりを迎えた。
そんなのは小説だけの夢物語だと、あの頃は本心から思っていた。現実ではコートニーばかりでなくジョゼフもまた、与えられた人生の約束事を違えることはしなかったのである。
背負うものを背負ってから、思い掛けない出来事の後に、偶然得られた褒美のような幸福に巡り合えたのだった。
非力であるなら非力なりに、与えられた人生を懸命に泳ぐうちに、波間を漂うことが不幸ばかりではないことを知った。
ジョゼフはコートニーを妻に娶ると、学生時代の純情が幻であったように、コートニーを深く熱く執拗に愛した。
ベネディクトが貫いた女の通り道を、まるでその形を変えようとするように、コートニーに愛を注いだ。
ジョゼフに愛されるうちにコートニーの身体はまるみを帯びて、胸元はふっくらと盛り上がった。
愛する男に愛されることで、心ばかりか身体まで形を変えて、羽化した蝶が羽根を露わにするように、朝露を浴びた蕾がほころぶように、コートニーは甘やかに開花した。
緩くうねる焦げ茶の髪も、鈍色を帯びた青い瞳も、まるで蜜が滲むようで、女盛りとはこういうものかという姿を現した。
母は嘗て社交の華として名を馳せたが、コートニーの名もまた、遠い王都まで聞こえるようになっていく。
社交界には貴族ばかりでなく平民の経済人も多くいる。彼らが、王国の港湾都市にある海運商会の会頭を語るときに、その妻のことも噂するうち、いつしかそれは貴族の耳にも届くようになっていた。
その風の噂を、聞き漏らすまいとする人物が王都にいることを、彼らは知っているだろうか。
「コートニー。暫くは陸の暮らしを楽しもうよ」
コートニーが懐妊を告げると、ジョゼフはそう言ってコートニーを抱き寄せた。
この身に子を宿す日が来るなんて、そんなことは有り得ないことだと思っていた。
ベネディクトとの子をなかなか宿せずに、公爵家では幾人も高名な医師を呼んで診察を受けていた。
口にする物にも気を配り、生活の習慣を改めて、医師が処方する不味すぎる薬草茶も飲み続けた。
ベネディクトが、子種が着きやすい体位があると言い出して、閨で恥辱と思うことをしようとしたときばかりは猛烈に抗議した。
そんな努力を三年近く続けても、なんの甲斐も見られなかったところで離縁となった。
ジョゼフにも後を継ぐ子は必要で、けれども彼はそんなことは考えずに良いと言ってくれた。
公爵家の嫡男と商会の会頭とを横並びに比べるわけにはいかないが、後継とはどこの家にもなくてはならないものである。
そんなときに、コートニーは思い掛けず、寧ろ呆気ないほど容易く懐妊したのである。
真冬に夫婦となってから、早春の気配を感じるころに、悪阻を覚えて慌ててしまった。
「この子が生まれたら、家族で海に出よう。ジェントルも連れて」
そう言った言葉通りに、コートニーは夫とともに、一人娘と幸福の青い小鳥と一緒に、陸地と海を行き来する人生を送ることになる。
子を産んでからは、益々、母似の容貌はまろやかな色香を漂わせて、それは嘗て煤けた温室に足繁く通っていた、どこか淋しさを漂わせる令嬢からは想像できない姿であった。
その日、爽やかな海風が吹き抜ける邸宅に文が届けられた。
差し出し人の懐かしい名前に、コートニーは笑みを漏らした。
開封すると微かに王都の香りがするようで、そう言えば王都とはどんな香りがしただろうと思った。
手紙を広げれば、流麗な文字で「親愛なるコートニーへ」と記されていた。
コートニーは、懐かしい思いを噛みしめながら、義姉となったハリエットの文の、その先を読み進めた。
漸く寄り添うことが叶えられた恋人と、港を見下ろす高台の邸宅にいて、広い海と空を眺めて暮らした。
ベネディクトとの離縁から、丁度半年が過ぎた冬の最中に、生涯想い続けると誓っていた恋人と再婚した。
二人とも元は貴族の血筋であるが、どちらもすでに籍を離れて、身分は平民となっていた。
だが、夫となったジョゼフが営む商会は、祖母の代から続く海運業で、交易を中心に手広く事業を行っていた。
祖母仕込みの経営手腕で、ジョゼフが会頭となってからも商会は潤っているようだった。
互いに貴族に生まれていたから、物事の決まり事や身分の垣根については十分すぎるほど理解していた。
だから尚のこと、陸地を離れてどこまでも広がる海を航るときには、心から自由を感じることができた。
コートニーは、ジョゼフとともに海を越えて旅に出るようになった。
商談で海外に赴くジョゼフに寄り添い、夫の目に映る風景を一緒に見つめて暮らした。
いつだか、ジェントルがあの古びた温室からいなくなって、彼の鳥籠を置いていたソファから見える風景を眺めたことがある。
あの時は、ジェントルがこんな景色を見ていたのだと、淋しさとともに思ったのだが、今はジョゼフと並んで同じ景色を見ていたいと、そう思っている。
ベネディクトとの離縁であらゆるものを失ったのに、今のコートニーは、これまでの人生で最も豊かであるように思う。
なにが幸福かは人それぞれだから、家や身分や土地や家族や、色々とあるだろう。
けれどコートニーにとっての幸福は、ジョゼフと見つめあって、抱きしめあって、互いの身体の熱を感じながら夜を越えて、新しい朝を迎えたら、大海原を吹き抜ける潮風に髪を靡かせ一緒に生きることだった。
令嬢時代に読んだ小説では、主人公は全てを捨てて街を出た。身分違いの恋人と新しい家族となって終わりを迎えた。
そんなのは小説だけの夢物語だと、あの頃は本心から思っていた。現実ではコートニーばかりでなくジョゼフもまた、与えられた人生の約束事を違えることはしなかったのである。
背負うものを背負ってから、思い掛けない出来事の後に、偶然得られた褒美のような幸福に巡り合えたのだった。
非力であるなら非力なりに、与えられた人生を懸命に泳ぐうちに、波間を漂うことが不幸ばかりではないことを知った。
ジョゼフはコートニーを妻に娶ると、学生時代の純情が幻であったように、コートニーを深く熱く執拗に愛した。
ベネディクトが貫いた女の通り道を、まるでその形を変えようとするように、コートニーに愛を注いだ。
ジョゼフに愛されるうちにコートニーの身体はまるみを帯びて、胸元はふっくらと盛り上がった。
愛する男に愛されることで、心ばかりか身体まで形を変えて、羽化した蝶が羽根を露わにするように、朝露を浴びた蕾がほころぶように、コートニーは甘やかに開花した。
緩くうねる焦げ茶の髪も、鈍色を帯びた青い瞳も、まるで蜜が滲むようで、女盛りとはこういうものかという姿を現した。
母は嘗て社交の華として名を馳せたが、コートニーの名もまた、遠い王都まで聞こえるようになっていく。
社交界には貴族ばかりでなく平民の経済人も多くいる。彼らが、王国の港湾都市にある海運商会の会頭を語るときに、その妻のことも噂するうち、いつしかそれは貴族の耳にも届くようになっていた。
その風の噂を、聞き漏らすまいとする人物が王都にいることを、彼らは知っているだろうか。
「コートニー。暫くは陸の暮らしを楽しもうよ」
コートニーが懐妊を告げると、ジョゼフはそう言ってコートニーを抱き寄せた。
この身に子を宿す日が来るなんて、そんなことは有り得ないことだと思っていた。
ベネディクトとの子をなかなか宿せずに、公爵家では幾人も高名な医師を呼んで診察を受けていた。
口にする物にも気を配り、生活の習慣を改めて、医師が処方する不味すぎる薬草茶も飲み続けた。
ベネディクトが、子種が着きやすい体位があると言い出して、閨で恥辱と思うことをしようとしたときばかりは猛烈に抗議した。
そんな努力を三年近く続けても、なんの甲斐も見られなかったところで離縁となった。
ジョゼフにも後を継ぐ子は必要で、けれども彼はそんなことは考えずに良いと言ってくれた。
公爵家の嫡男と商会の会頭とを横並びに比べるわけにはいかないが、後継とはどこの家にもなくてはならないものである。
そんなときに、コートニーは思い掛けず、寧ろ呆気ないほど容易く懐妊したのである。
真冬に夫婦となってから、早春の気配を感じるころに、悪阻を覚えて慌ててしまった。
「この子が生まれたら、家族で海に出よう。ジェントルも連れて」
そう言った言葉通りに、コートニーは夫とともに、一人娘と幸福の青い小鳥と一緒に、陸地と海を行き来する人生を送ることになる。
子を産んでからは、益々、母似の容貌はまろやかな色香を漂わせて、それは嘗て煤けた温室に足繁く通っていた、どこか淋しさを漂わせる令嬢からは想像できない姿であった。
その日、爽やかな海風が吹き抜ける邸宅に文が届けられた。
差し出し人の懐かしい名前に、コートニーは笑みを漏らした。
開封すると微かに王都の香りがするようで、そう言えば王都とはどんな香りがしただろうと思った。
手紙を広げれば、流麗な文字で「親愛なるコートニーへ」と記されていた。
コートニーは、懐かしい思いを噛みしめながら、義姉となったハリエットの文の、その先を読み進めた。
4,964
あなたにおすすめの小説
私たちの離婚幸福論
桔梗
恋愛
ヴェルディア帝国の皇后として、順風満帆な人生を歩んでいたルシェル。
しかし、彼女の平穏な日々は、ノアの突然の記憶喪失によって崩れ去る。
彼はルシェルとの記憶だけを失い、代わりに”愛する女性”としてイザベルを迎え入れたのだった。
信じていた愛が消え、冷たく突き放されるルシェル。
だがそこに、隣国アンダルシア王国の皇太子ゼノンが現れ、驚くべき提案を持ちかける。
それは救済か、あるいは——
真実を覆う闇の中、ルシェルの新たな運命が幕を開ける。
皆様どうぞ私をお忘れください。-エリザベートが消した愛-
桃井すもも
恋愛
旧題:エリザベートが消した愛
手渡された小瓶を目の前に掲げれば、窓から差し込む午後の日射しに照らされて、琥珀色の液体が燦いて見えた。
「貴女様には何色に見えますか?」
「琥珀色ですわ」
「貴女の心が澄んでいらっしゃるからでしょう」
「司祭様には何色に見えまして?」
司祭はその問いには答えなかった。
祈りが捧げられた液体は、見る人により色を変えるのだろうか。
エリザベート・フィンチ・ストレンジはストレンジ伯爵家の息女である。
冬の終わりのある日、エリザベートは教会で小瓶に入った液体を呷った。琥珀色の液体は、エリザベートの心から一つだけを消してくれた。
誰も何も変わらない。ただ、エリザベートが心を一つ手放して、その分身体が軽くなった。そんなささやかな変化であった。
だから婚約者であるデマーリオのシトリンの瞳を思い浮かべても、エリザベートの心は騒がなかった。
◆この度、多くの読者様のご愛読を頂き『エリザベートが消した愛』が書籍化の運びとなりました。
【書籍名】皆様どうぞ私をお忘れください。
-エリザベートが消した愛-
【イラスト】もか先生
【出版社】アルファポリス
【レーベル】レジーナブックス
【刊行日】 2026年1月30日
◆皆様のご声援を賜り「第18回恋愛小説大賞」にて優秀賞を頂戴することが出来ました。誠に有難うございます。
この場をお借りして、読者の皆様方、アルファポリス編集部の皆様方に厚く御礼申し上げます。
◆Web限定の特別番外編SS
『ポーラの道標(みちしるべ)』
アルファポリスさん・レジーナブックスさんサイトにて公開されております。
エリザベートの娘であるポーラを中心に、登場人物のその後についてを描かせて頂きました。
《レジーナブックスさんリンク》
https://regina.alphapolis.co.jp/book/detail/13086
連載ページはこちら⇒鍵マーク
《レジーナブックスさん番外編リンク》
https://regina.alphapolis.co.jp/extra/search
[完結]いらない子と思われていた令嬢は・・・・・・
青空一夏
恋愛
私は両親の目には映らない。それは妹が生まれてから、ずっとだ。弟が生まれてからは、もう私は存在しない。
婚約者は妹を選び、両親は当然のようにそれを喜ぶ。
「取られる方が悪いんじゃないの? 魅力がないほうが負け」
妹の言葉を肯定する家族達。
そうですか・・・・・・私は邪魔者ですよね、だから私はいなくなります。
※以前投稿していたものを引き下げ、大幅に改稿したものになります。
竜王の花嫁は番じゃない。
豆狸
恋愛
「……だから申し上げましたのに。私は貴方の番(つがい)などではないと。私はなんの衝動も感じていないと。私には……愛する婚約者がいるのだと……」
シンシアの瞳に涙はない。もう涸れ果ててしまっているのだ。
──番じゃないと叫んでも聞いてもらえなかった花嫁の話です。
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
愛されない花嫁はいなくなりました。
豆狸
恋愛
私には以前の記憶がありません。
侍女のジータと川遊びに行ったとき、はしゃぎ過ぎて船から落ちてしまい、水に流されているうちに岩で頭を打って記憶を失ってしまったのです。
……間抜け過ぎて自分が恥ずかしいです。
婚約破棄のあと、あなたのことだけ思い出せない
柴田はつみ
恋愛
伯爵令嬢セシリアは、王宮の舞踏会で王太子レイヴンから公開の場で婚約破棄を言い渡され、その場で倒れた。
目覚めた彼女は、礼儀も常識も覚えているのに――ただ一つ、レイヴンだけを思い出せない。
「あなたは、どなたですか?」
その一言に、彼の瞳は壊れた。
けれどレイヴンは何も語らず、セシリアを遠ざける。彼女を守るために、あの日婚約を捨てたのだと告げられないまま。
セシリアは過去を断ち切り、王宮の侍女として新しい生活を始める。
優しく手を差し伸べる護衛騎士アデルと心を通わせていくほど、レイヴンの胸は嫉妬と後悔で焼けていった。
――守るために捨てたはずなのに。忘れられたまま、他の男に笑う彼女を見ていられない。
一方、王宮では“偽聖女”の陰謀と、セシリアの血に眠る秘密が動き出す。
記憶を取り戻せば、彼女は狙われる。取り戻さなければ、二人は永遠に届かない。
これは、忘れてしまった令嬢と、忘れられてなお愛を捨てられない王太子が、もう一度“選び直す”恋の物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる