コートニーの箱庭

桃井すもも

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第三十二章

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 コートニーはその後、旅に出たまま王都に戻ってくることはなかった。
 ようやく寄り添うことが叶えられた恋人と、港を見下ろす高台の邸宅にいて、広い海と空を眺めて暮らした。

 ベネディクトとの離縁から、丁度半年が過ぎた冬の最中に、生涯想い続けると誓っていた恋人と再婚した。

 二人とも元は貴族の血筋であるが、どちらもすでに籍を離れて、身分は平民となっていた。

 だが、夫となったジョゼフが営む商会は、祖母の代から続く海運業で、交易を中心に手広く事業を行っていた。
 祖母仕込みの経営手腕で、ジョゼフが会頭となってからも商会は潤っているようだった。

 互いに貴族に生まれていたから、物事の決まり事や身分の垣根については十分すぎるほど理解していた。
 だから尚のこと、陸地を離れてどこまでも広がる海を航るときには、心から自由を感じることができた。

 コートニーは、ジョゼフとともに海を越えて旅に出るようになった。
 商談で海外に赴くジョゼフに寄り添い、夫の目に映る風景を一緒に見つめて暮らした。

 いつだか、ジェントルがあの古びた温室からいなくなって、彼の鳥籠を置いていたソファから見える風景を眺めたことがある。

 あの時は、ジェントルがこんな景色を見ていたのだと、淋しさとともに思ったのだが、今はジョゼフと並んで同じ景色を見ていたいと、そう思っている。

 ベネディクトとの離縁であらゆるものを失ったのに、今のコートニーは、これまでの人生で最も豊かであるように思う。

 なにが幸福かは人それぞれだから、家や身分や土地や家族や、色々とあるだろう。
 けれどコートニーにとっての幸福は、ジョゼフと見つめあって、抱きしめあって、互いの身体の熱を感じながら夜を越えて、新しい朝を迎えたら、大海原を吹き抜ける潮風に髪を靡かせ一緒に生きることだった。

 令嬢時代に読んだ小説では、主人公は全てを捨てて街を出た。身分違いの恋人と新しい家族となって終わりを迎えた。

 そんなのは小説だけの夢物語だと、あの頃は本心から思っていた。現実ではコートニーばかりでなくジョゼフもまた、与えられた人生の約束事を違えることはしなかったのである。

 背負うものを背負ってから、思い掛けない出来事の後に、偶然得られた褒美のような幸福に巡り合えたのだった。

 非力であるなら非力なりに、与えられた人生を懸命に泳ぐうちに、波間を漂うことが不幸ばかりではないことを知った。


 ジョゼフはコートニーを妻に娶ると、学生時代の純情が幻であったように、コートニーを深く熱く執拗に愛した。
 ベネディクトが貫いた女の通り道を、まるでその形を変えようとするように、コートニーに愛を注いだ。

 ジョゼフに愛されるうちにコートニーの身体はまるみを帯びて、胸元はふっくらと盛り上がった。
 愛する男に愛されることで、心ばかりか身体まで形を変えて、羽化した蝶が羽根を露わにするように、朝露を浴びた蕾がほころぶように、コートニーは甘やかに開花した。

 緩くうねる焦げ茶の髪も、鈍色を帯びた青い瞳も、まるで蜜が滲むようで、女盛りとはこういうものかという姿を現した。

 母はかつて社交の華として名を馳せたが、コートニーの名もまた、遠い王都まで聞こえるようになっていく。

 社交界には貴族ばかりでなく平民の経済人も多くいる。彼らが、王国の港湾都市にある海運商会の会頭を語るときに、その妻のことも噂するうち、いつしかそれは貴族の耳にも届くようになっていた。

 その風の噂を、聞き漏らすまいとする人物が王都にいることを、彼らは知っているだろうか。


「コートニー。暫くは陸の暮らしを楽しもうよ」

 コートニーが懐妊を告げると、ジョゼフはそう言ってコートニーを抱き寄せた。

 この身に子を宿す日が来るなんて、そんなことは有り得ないことだと思っていた。

 ベネディクトとの子をなかなか宿せずに、公爵家では幾人も高名な医師を呼んで診察を受けていた。
 口にする物にも気を配り、生活の習慣を改めて、医師が処方する不味すぎる薬草茶も飲み続けた。
 ベネディクトが、子種が着きやすい体位があると言い出して、閨で恥辱と思うことをしようとしたときばかりは猛烈に抗議した。

 そんな努力を三年近く続けても、なんの甲斐も見られなかったところで離縁となった。

 ジョゼフにも後を継ぐ子は必要で、けれども彼はそんなことは考えずに良いと言ってくれた。

 公爵家の嫡男と商会の会頭とを横並びに比べるわけにはいかないが、後継とはどこの家にもなくてはならないものである。

 そんなときに、コートニーは思い掛けず、寧ろ呆気ないほど容易く懐妊したのである。
 真冬に夫婦となってから、早春の気配を感じるころに、悪阻を覚えて慌ててしまった。

「この子が生まれたら、家族で海に出よう。ジェントルも連れて」

 そう言った言葉通りに、コートニーは夫とともに、一人娘と幸福の青い小鳥と一緒に、陸地と海を行き来する人生を送ることになる。

 子を産んでからは、益々、母似の容貌はまろやかな色香を漂わせて、それはかつて煤けた温室に足繁く通っていた、どこか淋しさを漂わせる令嬢からは想像できない姿であった。


 その日、爽やかな海風が吹き抜ける邸宅に文が届けられた。

 差し出し人の懐かしい名前に、コートニーは笑みを漏らした。

 開封すると微かに王都の香りがするようで、そう言えば王都とはどんな香りがしただろうと思った。

 手紙を広げれば、流麗な文字で「親愛なるコートニーへ」と記されていた。
 コートニーは、懐かしい思いを噛みしめながら、義姉となったハリエットの文の、その先を読み進めた。



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