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第三十一章
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コートニーは、自分のどこにそんな瞬発力があったのだろうと思った。
気がついたときには、馬車の中に飛び込んでいた。
コートニーよりも淡く澄んだ青い瞳に向かって、大海原にダイブするようにステップから中に飛び乗った。
ジョゼフはそんなコートニーを、両手を広げて受けとめた。コートニーの記憶よりも、その手は逞しく熱く感じた。
「僕の大切な女性は、とんだじゃじゃ馬だね」
ジョゼフの首に腕を回りして、コートニーはその肩に顔を埋めた。
再び、自分のどこにそんな力があったのかと思ったところで、そうだジョゼフとは、こんなふうにいつだって、自分でも知らないコートニーを引き出してくれるのだと思い出した。
「ジョゼフ様、ジョゼフ様なのね?」
ジョゼフの肩に頬を預けたまま、コートニーが呟けば、
「僕でなければ困るよ。君を抱きしめるのがほかの男だなんて許せないからね」
ジョゼフはそう言って、コートニーに頬を寄せた。
四年ぶりに会う想い人からは、コートニーの知らない香りがした。それは髪につけた香油なのか、彼が暮らす港街の香りなのかはわからなかった。
ただ、もうすぐ自分からも、同じ香りが漂うようになるのだと、そんな予感がした。
「出していいよ」
それは扉の横にいた御者にかけた声だった。
「待って、ジェントルと侍女を、護衛も頼んでいるの、荷物だってまだ⋯⋯」
コートニーは慌てて身体を離してジョゼフに言った。
「彼らは君が用意していた馬車に乗るよ。後ろからついてくる」
君と久しぶりに会うのに邪魔をされたくないからね。ジョゼフはそう言って、離れてしまったコートニーを、再びそっと抱き寄せた。
四年前はお互いに、なにもできない学生だった。
ジョゼフは生まれたときの約束に従って祖母の元に移ったし、コートニーには定められた縁組があった。
最後に交わした口づけは、互いの柔らかな唇にそっと触れるだけのものだった。
それなのに、二人を隔てた時間も距離も、あっという間になくなって、気がつけば、コートニーはジョゼフの膝の上に乗っていた。
こんなはしたないことは、前夫にもしたことはなかった。
脳裏にベネディクトが思い浮かんで、だがそれも、間もなく掻き消えてしまった。
馬車がゆっくり動き出す。
三年過ごした公爵邸を、コートニーが振り返ることはなかった。
積み重ねた日々も、身分も、全てを失ってしまったはずなのに、惜しいと思うものはなかった。
コートニーは、目の前の淡く青い瞳を覗いていた。
コートニーにとってジョゼフは、生涯一人きりの恋人だった。
もう会えないかもしれないと、心の奥で少しずつ薄らいでしまう記憶を忘れまいと、大切に憶えていた恋人だった。
夫がいる身で恋人なんて、そんな世の中の決め事に縛られるつもりはなかった。
心だけはコートニーに自由を許す、コートニーだけの世界だった。
「ジョゼフ様⋯⋯お久しぶりでございます」
膝に乗り上げた姿で、今更な挨拶を言ったコートニーに、ジョゼフは思わずというように破顔した。
ああ、記憶のジョゼフより肌が浅く焼けている。潮風が色白だった彼を逞しく鍛えたのだろうか、海の日射しは陸より強くて、海辺に住まう人々は肌が浅黒く焼けるのだと聞いたことがある。
絵画に描かれた海の風景を思い浮かべて、ジョゼフを見つめた。
窓の外の風景が、どんどん移り変わっていく。
コートニーが生涯住まうはずだった邸宅はすでに後ろになっていた。
見慣れた庭園の脇を通り抜けても、コートニーはジョゼフを見つめるばかりで、一度も車窓に視線を向けることはなかった。
馬車が速度を緩めて、それが門扉を出るためだとわかった。
さようなら。
心の中で呟いたのは、長い間コートニーを愛してくれたベネディクトへ向けたものだったのか、抗うことができないまま、与えられた人生を懸命に生きていた昨日までの自分へなのか。
コートニーは一度も振り返ることのないまま、住み慣れた箱庭をあとにした。
「どうしてここへいらしたの?」
「随分な言いようだね。君が旅に出たいと言ったから、道案内をしようと思ったのに」
「だって手紙を出したのは四日前のことよ?」
「受け取ったその日に馬車に乗った」
「え?」
「君を迎えに来たんだよ」
二人は並び座ってから、今頃になって答え合わせを始めた。
なぜなのか、どうしてなのか、理由なんてなにもわからなかったのに、身分も居場所も失ったコートニーは心まで解放されて、思いっきりジョゼフに飛び込んでいた。
火事場では、人は常では思いも寄らない力を発揮するというが、それなら今がその火事場だったのだろうか。
「火事場なんて⋯⋯」
そんな言葉は、自分の人生で関わることはないと思っていたから、コートニーは思わず呟いてしまった。
膝の上に揃えた手に、ジョゼフかそっと触れた。
「手を繋いでも?」
「もう、そのおつもりなのでしょう?」
「僕の知っているコートニー嬢は、こんなときには俯いて頬を染めるご令嬢だった」
三年の間、公爵家で若夫人として過ごすうちに、気位の高い女になってしまったのかと、コートニーは思わず自分を恥じた。
ジョゼフには、失望されたくないと思った。
そんなコートニーの心中をわかってか、ジョゼフが言った。
「違うよ、コートニー嬢。僕の知らない君のことが知りたいんだ。知らない君のことを、もっと教えてほしいんだ」
そう言って、ジョゼフはコートニーの手を握った。
「嬢なんて⋯⋯。もう令嬢ではないわ」
「呼び捨てを許してくれるの?」
「呼んでくださる?」
ジョゼフはそこで、コートニーの覗き込んだ。
「コートニー」
俯くコートニーの横顔に呼びかけた。
「コートニー」
親しく名呼びを許されて、その名を口の中で馴染ませるように、コートニー、コートニーと繰り返す。
名前なら何度も呼ばれていたというのに、敬称が外れただけでそれは特別な音を滲ませて、ジョゼフの声で呼ばれる名前をこのままずっと聞いていたいと思った。
寄せては返す波のように、コートニー、コートニーと、ジョゼフは優しく呼んでくれた。
気がついたときには、馬車の中に飛び込んでいた。
コートニーよりも淡く澄んだ青い瞳に向かって、大海原にダイブするようにステップから中に飛び乗った。
ジョゼフはそんなコートニーを、両手を広げて受けとめた。コートニーの記憶よりも、その手は逞しく熱く感じた。
「僕の大切な女性は、とんだじゃじゃ馬だね」
ジョゼフの首に腕を回りして、コートニーはその肩に顔を埋めた。
再び、自分のどこにそんな力があったのかと思ったところで、そうだジョゼフとは、こんなふうにいつだって、自分でも知らないコートニーを引き出してくれるのだと思い出した。
「ジョゼフ様、ジョゼフ様なのね?」
ジョゼフの肩に頬を預けたまま、コートニーが呟けば、
「僕でなければ困るよ。君を抱きしめるのがほかの男だなんて許せないからね」
ジョゼフはそう言って、コートニーに頬を寄せた。
四年ぶりに会う想い人からは、コートニーの知らない香りがした。それは髪につけた香油なのか、彼が暮らす港街の香りなのかはわからなかった。
ただ、もうすぐ自分からも、同じ香りが漂うようになるのだと、そんな予感がした。
「出していいよ」
それは扉の横にいた御者にかけた声だった。
「待って、ジェントルと侍女を、護衛も頼んでいるの、荷物だってまだ⋯⋯」
コートニーは慌てて身体を離してジョゼフに言った。
「彼らは君が用意していた馬車に乗るよ。後ろからついてくる」
君と久しぶりに会うのに邪魔をされたくないからね。ジョゼフはそう言って、離れてしまったコートニーを、再びそっと抱き寄せた。
四年前はお互いに、なにもできない学生だった。
ジョゼフは生まれたときの約束に従って祖母の元に移ったし、コートニーには定められた縁組があった。
最後に交わした口づけは、互いの柔らかな唇にそっと触れるだけのものだった。
それなのに、二人を隔てた時間も距離も、あっという間になくなって、気がつけば、コートニーはジョゼフの膝の上に乗っていた。
こんなはしたないことは、前夫にもしたことはなかった。
脳裏にベネディクトが思い浮かんで、だがそれも、間もなく掻き消えてしまった。
馬車がゆっくり動き出す。
三年過ごした公爵邸を、コートニーが振り返ることはなかった。
積み重ねた日々も、身分も、全てを失ってしまったはずなのに、惜しいと思うものはなかった。
コートニーは、目の前の淡く青い瞳を覗いていた。
コートニーにとってジョゼフは、生涯一人きりの恋人だった。
もう会えないかもしれないと、心の奥で少しずつ薄らいでしまう記憶を忘れまいと、大切に憶えていた恋人だった。
夫がいる身で恋人なんて、そんな世の中の決め事に縛られるつもりはなかった。
心だけはコートニーに自由を許す、コートニーだけの世界だった。
「ジョゼフ様⋯⋯お久しぶりでございます」
膝に乗り上げた姿で、今更な挨拶を言ったコートニーに、ジョゼフは思わずというように破顔した。
ああ、記憶のジョゼフより肌が浅く焼けている。潮風が色白だった彼を逞しく鍛えたのだろうか、海の日射しは陸より強くて、海辺に住まう人々は肌が浅黒く焼けるのだと聞いたことがある。
絵画に描かれた海の風景を思い浮かべて、ジョゼフを見つめた。
窓の外の風景が、どんどん移り変わっていく。
コートニーが生涯住まうはずだった邸宅はすでに後ろになっていた。
見慣れた庭園の脇を通り抜けても、コートニーはジョゼフを見つめるばかりで、一度も車窓に視線を向けることはなかった。
馬車が速度を緩めて、それが門扉を出るためだとわかった。
さようなら。
心の中で呟いたのは、長い間コートニーを愛してくれたベネディクトへ向けたものだったのか、抗うことができないまま、与えられた人生を懸命に生きていた昨日までの自分へなのか。
コートニーは一度も振り返ることのないまま、住み慣れた箱庭をあとにした。
「どうしてここへいらしたの?」
「随分な言いようだね。君が旅に出たいと言ったから、道案内をしようと思ったのに」
「だって手紙を出したのは四日前のことよ?」
「受け取ったその日に馬車に乗った」
「え?」
「君を迎えに来たんだよ」
二人は並び座ってから、今頃になって答え合わせを始めた。
なぜなのか、どうしてなのか、理由なんてなにもわからなかったのに、身分も居場所も失ったコートニーは心まで解放されて、思いっきりジョゼフに飛び込んでいた。
火事場では、人は常では思いも寄らない力を発揮するというが、それなら今がその火事場だったのだろうか。
「火事場なんて⋯⋯」
そんな言葉は、自分の人生で関わることはないと思っていたから、コートニーは思わず呟いてしまった。
膝の上に揃えた手に、ジョゼフかそっと触れた。
「手を繋いでも?」
「もう、そのおつもりなのでしょう?」
「僕の知っているコートニー嬢は、こんなときには俯いて頬を染めるご令嬢だった」
三年の間、公爵家で若夫人として過ごすうちに、気位の高い女になってしまったのかと、コートニーは思わず自分を恥じた。
ジョゼフには、失望されたくないと思った。
そんなコートニーの心中をわかってか、ジョゼフが言った。
「違うよ、コートニー嬢。僕の知らない君のことが知りたいんだ。知らない君のことを、もっと教えてほしいんだ」
そう言って、ジョゼフはコートニーの手を握った。
「嬢なんて⋯⋯。もう令嬢ではないわ」
「呼び捨てを許してくれるの?」
「呼んでくださる?」
ジョゼフはそこで、コートニーの覗き込んだ。
「コートニー」
俯くコートニーの横顔に呼びかけた。
「コートニー」
親しく名呼びを許されて、その名を口の中で馴染ませるように、コートニー、コートニーと繰り返す。
名前なら何度も呼ばれていたというのに、敬称が外れただけでそれは特別な音を滲ませて、ジョゼフの声で呼ばれる名前をこのままずっと聞いていたいと思った。
寄せては返す波のように、コートニー、コートニーと、ジョゼフは優しく呼んでくれた。
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