コートニーの箱庭

桃井すもも

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第三十章

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 コートニーは、彼女にだけ秘するように動き始めた公爵邸にいて、なにも考えていないわけではなかった。

 離縁の予感はあったし、人生の思い掛けない出来事に動揺しなかったわけではない。
 自由を求める小鳥にしても、行き成り空に放たれては直ぐに烏に襲われるだろう。

 どうせ放逐されるなら、好きに生きてみようか。
 ジェントルと二人で旅をしようか。烏に襲われない心構えと準備をしたなら、未来は少しずつ開けてくるように思えた。

 ジョゼフにはなにも伝えていなかったのに、彼からは旅のお誘いのような手紙が届けられていた。

 初夏の海は気持ちが良いとか、湾を囲む山並みが秋が来て紅葉を迎えると見事な景観となるのだとか、心をくすぐる文言が並んでいた。

 コートニーが平民になるのは二度目のことだった。
 父が亡くなったときにほんの僅かな間、貴族の身分を失った。だがそれも、父の庇護下にあったというだけで、本来の貴族籍とは爵位のある直系にしか与えられるものではない。

 思えばコートニーは、いつだって誰かの付随物だったのだ。そうであれば簡単に切り離されるのは仕方のないことで、それを自由の身というのなら、なんとも心許ない自由である。

 コートニーはあの応接室で、ベネディクトの面前で離縁誓約書に署名を記した。

 一瞬、ベネディクトが息を呑んだのが気配でわかったが、その時にはすでに署名を終えていた。

 その日のうちに、コートニーはジョゼフに文を書いた。

『初夏の海を見てみようと思う』

 離縁のことには触れぬまま、そう記した。


 離縁したからと、公爵家は非情なことはせずに、支度を整える日数を与えてくれた。
 その間に、兄からもハリエットからも、まさかの義父からも、伯爵家に戻るようにと文が届けられたが、それは後にすると丁寧に断った。

『旅に出たい。王都から外に出たことがなかったから』

 そう返信をすれば、家族は誰もなにも言ってくることはなくなった。

 コートニー付きの侍女が、公爵家での職を辞めると言い出して、それなら私が雇うから一緒に旅をしないかと誘えば、彼女は笑みを浮かべて頷いた。

 支度に与えられたのは一週間だったが、それほど日数は掛からなかった。ベネディクトから与えられた衣装や宝石は、これから平民になるコートニーが身につけられるものではない。
 かと言って、嫁いでくる王女に残すのは不敬というものだろう。

「換金いたしましょう」

 侍女がそう言って、コートニーは彼女の逞しさに驚いた。

 そうだ、こうやって逞しく生きていけば良いのだわ。

 コートニーはなんだか嬉しくなった。限られた自由の中にも、生き方は幾つもあるのだと気がついた。

「ありがとう、ヨハンナ」

 そう言うとヨハンナは、なにに礼を言われたのかわからないというような顔をした。

「夫を連れて行ってはくださいませんか。女二人旅は危険です」

 ヨハンナの夫は、兄の護衛騎士である。
 勝手はできないからと、兄に文で確かめると、その日のうちに返信が届けられた。

『好きに使え。夫婦は一緒のほうが良いだろう。旅を終えたらそのまま三人とも伯爵家に戻るとよい』

 こうしてコートニーが私的に雇った護衛騎士に、ベネディクトはなにかを言いかけて、だが言い淀んだまま口を噤んだ。
 コートニーが公爵邸を出る支度をするのを、彼はどこか呆然となって見つめていた。

 四日もすれば、出立の支度はすっかり終わっていた。明日には公爵邸を出るという、その夕方に、私室を公爵夫人が訪れた。

 コートニーは離縁誓約書に署名してから、公爵家の人々とは顔を合わせてはいなかった。家政からも離れて、食事も自室で済ませていた。もうすでに、公爵家にとってコートニーは過去の人物だった。

「ジェントルまで連れていくの?」

 夫人は青い小鳥を思いのほか気に入って、これまでも時折コートニーの私室を訪ねては、ジェントルを手の平で遊ばせては可愛がっていた。

「貴女にこれを。間違えても換金しては駄目よ」

 夫人はそう言って、コートニーに大粒のサファイアの指輪を差し出した。それにコートニーは見覚えがあった。宝物庫の金庫の中に、大切に保管されている先代夫人の遺品であった。

「貴女が真実の、公爵家に嫁いだ夫人であったのだと、その証になさい」
「お義母様⋯⋯」

 うっかり呼び慣れた言葉が漏れて、コートニーは口を閉じた。

「ごめんなさいね。貴女を長く縛っていながら、身勝手なことだと思うわ」
「いいえ、そうではございませんわ。それが私たち貴族に生まれた者の務めですから」
「その矜持を裏切った私たちこそ、どんな矜持を持っていたのでしょうね」

 王家の命を受けざるを得なかった公爵家こそ、揺るがない矜持があったのだと思う。愛とか情とかを求められない非情さがある。王女は堂々と愛を求めたというのに。

「明日からどうなってしまうのかしら」
「公爵家は変わらぬ栄華を誇ることと存じます」

 夫人はコートニーの言葉に、微かに眉を寄せたあとに、

「そうね」
と言って部屋を出た。


 翌日はよく晴れて、気持ちのよい青空が広がっていた。

 馬車に積める程度にと纏めた荷物は、トランクに三つほどにしかならなかった。

 ドレスも靴も宝飾品も、かつてベネディクトから贈られたものは全て換金して銀行に預けた。身辺整理をするうちに、それまでのしんみりした気持ちは薄らいで、コートニーは自分のほうこそ現金な人間だと思った。

 前もって見送りはいらないと言ったのに、使用人たちは玄関ホールで待っていてくれた。
 世話になった家令や執事、侍女頭たちに別れの挨拶をすれば、彼らはすでに身分を失ったコートニーに深く頭を下げてくれた。

 玄関ホールには公爵家の人々の姿はなかった。
 間もなく王女を迎えるのに、先妻に情けをかける姿を見せることは許されなかったのだろう。

 貴族とは、まったくもって窮屈な生き物だ。放逐された自分のほうが、よほど自由な身分に思えた。

 外に出れば青い空は清々しくて、青空を飛んだことなど一度もないジェントルがピッピと鳴いた。

「ジェントルも嬉しいの?私たち、すっかり根無し草になったのよ?」

 そう話しかけても、ジェントルは空に気を取られてこちらに耳を貸してはくれなかった。

 馬車はすでに用意していた。平民が長旅に使うものだから、公爵家のそれには遠く及ばない。だが、設えは十分であったし、護衛のニクスがいてくれるから心配はなかった。

 馬車に近づいて、コートニーはふと違和感を覚えた。こんなに立派な馬車を頼んでいただろうか。

 訝しむコートニーをよそに、御者が扉を開けて、ステップに足をかけたコートニーに手を差し伸べた。
 足元に気を取られていたコートニーは、気がつかなかった。車内に乗り込もうとドレスの裾から視線を上げたそのときに、ふと潮風が漂うような錯覚を覚えた。

「久しぶり。コートニー嬢」

 目の前に、コートニーの青い世界が広がっていた。



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