2 / 44
第二章
しおりを挟む
「こんなのは嫌だ」
彼はロザリンドを見て、開口一番そう言った。
「僕はこんなのは好きじゃない!妹のほうがいい」
少年の暴言に、辺りは水を打ったように静まり返った。
少年の名は、ジェームズ・ウェルズリー・オーフォード。オーフォード侯爵家の嫡男である。
ロザリンドは十歳の誕生日を迎えたばかりだった。ジェームズとは同い年で、幼子の茶会で見掛けた彼のことは知っていた。
漆黒の髪に榛の瞳。彼はロザリンドと同じ瞳の色なのに、真っ青な瞳の妹を欲しがった。
三歳下の妹ナタリーは確かに可愛い。大きな瞳はこぼれ落ちそうに見えるし、長い睫毛は頬に影ができるほどだ。
兄も真っ青な瞳の色で、三人兄妹の中でロザリンドだけが榛色の瞳であった。
それも後に鬼籍に入る祖母と同じ瞳で、家族は祖母譲りの瞳を持つロザリンドを愛してくれる。
榛色のどこが悪い。榛に謝ってほしい。
目の前の無礼千万な少年を、ロザリンドはこの日、朝から支度をして待っていたのだ。
彼とは本来なら、今日婚約を結ぶ筈だった。嫡男であるジェームズにロザリンドが嫁ぐための婚約だった。
だがそれは、扉が開いてオーフォード侯爵一家が席に着き、互いを紹介する時になって水泡に帰した。
ロザリンドは、闊達な少年ジェームズに好感を持っていた。彼の黒髪は艷やかで綺麗だと思ったし、同じ榛色の瞳には親近感を抱いていた。
家格ならロザリンドのほうが上であったが、彼は嫡男で令嬢とは立場が違う。そして彼の母は王妹で、家格だけでは越えられない身分があった。
あろうことかジェームズは、ロザリンドの見目が地味だと嫌がった。その上、ロザリンドの隣に座っていた妹のナタリーを願った。
前者も後者も失礼極まりない。
侯爵は、行き成りジェームズに拳でげんこつを食らわせ頭を押さえた。
「何を言っている!謝罪するんだ、ジェームズ!」
他家の面前で親から叱責されて、無理やり頭を下げさせられて、ジェームズは「素直」という文字を失ったように、歯を食いしばって無言を貫いた。
そんなに私が嫌なのか。
ジェームズに少なからず好感を抱いていたロザリンドは、婚約を結ぶ意味も貴族の約束事の重みも、幼いながら理解していた。
こんな貴族が本当にいるのかと、正直失望した。こんなオツムの彼が未来の侯爵家を担うのか。この少年の下に嫁ぐところだったのか。ならばこの縁なくてもよい。
そのくらいには吹っ切れた。
だが、ロザリンドよりも先に吹っ切ったのは父だった。
「残念ですな。この縁は無かったことになりますな。ああ、ジェームズ殿。君にナタリーを嫁がせることはできないよ、諦めてくれるね」
父は晴れやかな笑みを浮かべながら、目は全く笑わずにジェームズに告げた。
婚約話は当然、御破算である。元より無かったことになった。
侯爵夫妻は平謝りだった。王妹である夫人も、息子の無礼に頭を下げた。再教育をするからと二人は誠心誠意の謝罪した。
互いの両親が共に礼節を持っていたから、幼い子の愚行は脇に置いて、破談になっても絶縁にならず済んだのである。
涙目のまま上着の首を持ち上げられて、引きずられるようにしてジェームズは帰っていった。
最後の最後に蚊の鳴く声で漸く「すみません」と言っていたが、「聞こえません」と言ってやりたいのをロザリンドは堪えた。
ナタリーは、あんな乱暴な人は嫌だと言った。このとき既に学園生であった兄は、静かに怒りを腹に収めた。
ジェームズとはそれきりになった。
同じ茶会に居合わせても互いの親が上手く避け合って、顔を合わせることはしなかった。
だが問題が浮上したのは十六歳になってからで、ロザリンドは学園入学を控えていた。
ロザリンドとジェームズは同い年である。
彼とは学園で一緒になる。また彼と顔を合わせるなんて御免だった。そもそも見目だけで人を判断するなど愚の骨頂。挨拶だってしたくない。
王都には貴族学園のほかには淑女学院があり、ロザリンドがそちらに入ることができれば問題なかった。問題ないのに問題なのは、ロザリンドにはそこまでは学力が及ばなかった。
淑女学院は入学に際して試験があり、それは狭き門で有名だった。
受ける前に諦めるのは悔しいことであったが、ダメ元もなにも元々ダメだとわかっていたから大人しく諦めた。
「お父様、私、お兄様の家名を名乗ってはダメかしら」
「ん?それは何故かな?」
「彼と一緒なんですよ?顔を合わせたくないのは勿論ですけど、私だと知られたくもないのです」
「名を変えても顔は変わらないではないか」
「鬘を被ります。地味がお嫌いなようですから、そうですわね、茶系に致します」
ロザリンドは、父に掛け合った。
兄は父の後継として爵位を継ぐまでの間、形式的な爵位である「クラーレン伯爵位」を有していた。
だが、社交界では公爵令息で知られていたから、兄がクラーレン伯爵を名乗っても、周囲はアーリントン小公爵と呼んでいた。
であれば、ロザリンドがクラーレンを名乗っても学園ならばバレないだろう。青少年はその辺りが疎い。高位の貴族か王族であれば、ロザリンドとクラーレンの名から容易く身分を理解しても、あの空け者のジェームズにはわかりようもないだろう。
「名前はどうする。ロザリンドという名だけで彼だってわかるだろう」
それは尤もなことだと思えた。普通なら。
だが、あの時の彼は普通なんてものは持ち合わせていなかった。
「彼、私が名乗る前に愚行に走ったのですよ。私の名なんて初めから憶えているわけがありません。彼が憶えて帰ったのはナタリーの名ですわ」
それには父も呆れた顔をした
「一層のこと、どこぞの田舎から出てきた伯爵令嬢として、学生寮に入ろうかしら」
いくら髪と名前を偽っても、送り迎えの馬車には公爵家の紋が入っている。通学するだけでバレバレだ。
「お父様。私を寮に入れて下さいませ」
こうして目出度く伯爵令嬢ロザリンドが誕生したのである。
彼はロザリンドを見て、開口一番そう言った。
「僕はこんなのは好きじゃない!妹のほうがいい」
少年の暴言に、辺りは水を打ったように静まり返った。
少年の名は、ジェームズ・ウェルズリー・オーフォード。オーフォード侯爵家の嫡男である。
ロザリンドは十歳の誕生日を迎えたばかりだった。ジェームズとは同い年で、幼子の茶会で見掛けた彼のことは知っていた。
漆黒の髪に榛の瞳。彼はロザリンドと同じ瞳の色なのに、真っ青な瞳の妹を欲しがった。
三歳下の妹ナタリーは確かに可愛い。大きな瞳はこぼれ落ちそうに見えるし、長い睫毛は頬に影ができるほどだ。
兄も真っ青な瞳の色で、三人兄妹の中でロザリンドだけが榛色の瞳であった。
それも後に鬼籍に入る祖母と同じ瞳で、家族は祖母譲りの瞳を持つロザリンドを愛してくれる。
榛色のどこが悪い。榛に謝ってほしい。
目の前の無礼千万な少年を、ロザリンドはこの日、朝から支度をして待っていたのだ。
彼とは本来なら、今日婚約を結ぶ筈だった。嫡男であるジェームズにロザリンドが嫁ぐための婚約だった。
だがそれは、扉が開いてオーフォード侯爵一家が席に着き、互いを紹介する時になって水泡に帰した。
ロザリンドは、闊達な少年ジェームズに好感を持っていた。彼の黒髪は艷やかで綺麗だと思ったし、同じ榛色の瞳には親近感を抱いていた。
家格ならロザリンドのほうが上であったが、彼は嫡男で令嬢とは立場が違う。そして彼の母は王妹で、家格だけでは越えられない身分があった。
あろうことかジェームズは、ロザリンドの見目が地味だと嫌がった。その上、ロザリンドの隣に座っていた妹のナタリーを願った。
前者も後者も失礼極まりない。
侯爵は、行き成りジェームズに拳でげんこつを食らわせ頭を押さえた。
「何を言っている!謝罪するんだ、ジェームズ!」
他家の面前で親から叱責されて、無理やり頭を下げさせられて、ジェームズは「素直」という文字を失ったように、歯を食いしばって無言を貫いた。
そんなに私が嫌なのか。
ジェームズに少なからず好感を抱いていたロザリンドは、婚約を結ぶ意味も貴族の約束事の重みも、幼いながら理解していた。
こんな貴族が本当にいるのかと、正直失望した。こんなオツムの彼が未来の侯爵家を担うのか。この少年の下に嫁ぐところだったのか。ならばこの縁なくてもよい。
そのくらいには吹っ切れた。
だが、ロザリンドよりも先に吹っ切ったのは父だった。
「残念ですな。この縁は無かったことになりますな。ああ、ジェームズ殿。君にナタリーを嫁がせることはできないよ、諦めてくれるね」
父は晴れやかな笑みを浮かべながら、目は全く笑わずにジェームズに告げた。
婚約話は当然、御破算である。元より無かったことになった。
侯爵夫妻は平謝りだった。王妹である夫人も、息子の無礼に頭を下げた。再教育をするからと二人は誠心誠意の謝罪した。
互いの両親が共に礼節を持っていたから、幼い子の愚行は脇に置いて、破談になっても絶縁にならず済んだのである。
涙目のまま上着の首を持ち上げられて、引きずられるようにしてジェームズは帰っていった。
最後の最後に蚊の鳴く声で漸く「すみません」と言っていたが、「聞こえません」と言ってやりたいのをロザリンドは堪えた。
ナタリーは、あんな乱暴な人は嫌だと言った。このとき既に学園生であった兄は、静かに怒りを腹に収めた。
ジェームズとはそれきりになった。
同じ茶会に居合わせても互いの親が上手く避け合って、顔を合わせることはしなかった。
だが問題が浮上したのは十六歳になってからで、ロザリンドは学園入学を控えていた。
ロザリンドとジェームズは同い年である。
彼とは学園で一緒になる。また彼と顔を合わせるなんて御免だった。そもそも見目だけで人を判断するなど愚の骨頂。挨拶だってしたくない。
王都には貴族学園のほかには淑女学院があり、ロザリンドがそちらに入ることができれば問題なかった。問題ないのに問題なのは、ロザリンドにはそこまでは学力が及ばなかった。
淑女学院は入学に際して試験があり、それは狭き門で有名だった。
受ける前に諦めるのは悔しいことであったが、ダメ元もなにも元々ダメだとわかっていたから大人しく諦めた。
「お父様、私、お兄様の家名を名乗ってはダメかしら」
「ん?それは何故かな?」
「彼と一緒なんですよ?顔を合わせたくないのは勿論ですけど、私だと知られたくもないのです」
「名を変えても顔は変わらないではないか」
「鬘を被ります。地味がお嫌いなようですから、そうですわね、茶系に致します」
ロザリンドは、父に掛け合った。
兄は父の後継として爵位を継ぐまでの間、形式的な爵位である「クラーレン伯爵位」を有していた。
だが、社交界では公爵令息で知られていたから、兄がクラーレン伯爵を名乗っても、周囲はアーリントン小公爵と呼んでいた。
であれば、ロザリンドがクラーレンを名乗っても学園ならばバレないだろう。青少年はその辺りが疎い。高位の貴族か王族であれば、ロザリンドとクラーレンの名から容易く身分を理解しても、あの空け者のジェームズにはわかりようもないだろう。
「名前はどうする。ロザリンドという名だけで彼だってわかるだろう」
それは尤もなことだと思えた。普通なら。
だが、あの時の彼は普通なんてものは持ち合わせていなかった。
「彼、私が名乗る前に愚行に走ったのですよ。私の名なんて初めから憶えているわけがありません。彼が憶えて帰ったのはナタリーの名ですわ」
それには父も呆れた顔をした
「一層のこと、どこぞの田舎から出てきた伯爵令嬢として、学生寮に入ろうかしら」
いくら髪と名前を偽っても、送り迎えの馬車には公爵家の紋が入っている。通学するだけでバレバレだ。
「お父様。私を寮に入れて下さいませ」
こうして目出度く伯爵令嬢ロザリンドが誕生したのである。
3,698
あなたにおすすめの小説
ご安心を、2度とその手を求める事はありません
ポチ
恋愛
大好きな婚約者様。 ‘’愛してる‘’ その言葉私の宝物だった。例え貴方の気持ちが私から離れたとしても。お飾りの妻になるかもしれないとしても・・・
それでも、私は貴方を想っていたい。 独り過ごす刻もそれだけで幸せを感じられた。たった一つの希望
僕は君を思うと吐き気がする
月山 歩
恋愛
貧乏侯爵家だった私は、お金持ちの夫が亡くなると、次はその弟をあてがわれた。私は、母の生活の支援もしてもらいたいから、拒否できない。今度こそ、新しい夫に愛されてみたいけど、彼は、私を思うと吐き気がするそうです。再び白い結婚が始まった。
踏み台(王女)にも事情はある
mios
恋愛
戒律の厳しい修道院に王女が送られた。
聖女ビアンカに魔物をけしかけた罪で投獄され、処刑を免れた結果のことだ。
王女が居なくなって平和になった筈、なのだがそれから何故か原因不明の不調が蔓延し始めて……原因究明の為、王女の元婚約者が調査に乗り出した。
いつか彼女を手に入れる日まで
月山 歩
恋愛
伯爵令嬢の私は、婚約者の邸に馬車で向かっている途中で、馬車が転倒する事故に遭い、治療院に運ばれる。医師に良くなったとしても、足を引きずるようになると言われてしまい、傷物になったからと、格下の私は一方的に婚約破棄される。私はこの先誰かと結婚できるのだろうか?
もう、愛はいりませんから
さくたろう
恋愛
ローザリア王国公爵令嬢ルクレティア・フォルセティに、ある日突然、未来の記憶が蘇った。
王子リーヴァイの愛する人を殺害しようとした罪により投獄され、兄に差し出された毒を煽り死んだ記憶だ。それが未来の出来事だと確信したルクレティアは、そんな未来に怯えるが、その記憶のおかしさに気がつき、謎を探ることにする。そうしてやがて、ある人のひたむきな愛を知ることになる。
三年の想いは小瓶の中に
月山 歩
恋愛
結婚三周年の記念日だと、邸の者達がお膳立てしてくれた二人だけのお祝いなのに、その中心で一人夫が帰らない現実を受け入れる。もう彼を諦める潮時かもしれない。だったらこれからは自分の人生を大切にしよう。アレシアは離縁も覚悟し、邸を出る。
※こちらの作品は契約上、内容の変更は不可であることを、ご理解ください。
君は妾の子だから、次男がちょうどいい〜long version
月山 歩
恋愛
侯爵家のマリアは婚約中だが、彼は王都に住み、彼女は片田舎で遠いため会ったことはなかった。でもある時、マリアは妾の子であると知られる。そんな娘は大事な子息とは結婚させられないと、病気療養中の次男との婚約に一方的に変えさせられる。そして次の日には、迎えの馬車がやって来た。
*こちらは元の小説の途中に、エピソードを追加したものです。
文字数が倍になっています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる