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第四章
19.覚えのない記憶(side:公爵令嬢)
しおりを挟むラミレス公爵令嬢フォルトゥーナ・クルスはいま羞恥に身悶えている。
ルーカス少年に案内された部屋にはたしかに彼女の乳母であるクラシオン夫人がいて、彼女が正気に返ったことをとても喜んでくれた。
このとき、乳母の口から自分が子ども返りしていた事実を初めて知り驚愕した。
そしてなぜ彼女たちがこの地に来るに至ったのか、ひととおりの説明を受けたのだ。
あの夜会での婚約破棄騒動は傷害事件に発展し、彼女の父ラミレス公爵と騎士団長が怒髪天を突いて国王陛下たちを震え上がらせた一連の流れを聞き、なるほどそのせいか致し方ないと思った。
婚約破棄を貴族たちの前で叫ばれたうえに、幼児返りし役立たずになったフォルトゥーナを、父は厄介払いしたのだと納得したのだが。
「厄介払いなんかじゃございません! 旦那さまはお嬢さまのことをよくよくお考えなさって、辺境伯閣下の許に寄越してくださったのですよ!」
と、乳母はぷんぷん怒りながらフォルトゥーナの認識違いだと訂正を要求した。
なんでも当時のフォルトゥーナは、お世話になっていた王妃陛下の姿にさえ悲鳴をあげて逃げ惑うほどおかしくなっていたらしいのだ。
(覚えてないわ……)
女性にすら怯えるフォルトゥーナのそばにいられたのは、いま目の前にいる乳母ソンリッサ・クラシオン夫人とクエレブレ辺境伯閣下だけだったらしい。そんな状態で修道院へ入れても修道女たちにも怯えてしまうだろうと考えたラミレス公爵がクエレブレ辺境伯閣下へフォルトゥーナを後添えとして引き取ってくれと依頼したのだとか。
結婚間際で婚約破棄された貴族の娘の行く先などたかが知れてる。
父の選択はまちがいではなかったのだろう。こうして回復しているのだからそれは証明されたといえる。
(それにしても、おかしくなっていたころのわたくしは王妃陛下にも怯えたの? ……あー、王妃陛下の王子妃教育は厳しかったから、かしら……)
たしかに厳しい人だと認識していたが、幼児返りした彼女自身が泣いて逃げようとするほどの恐怖を抱いていたのだろうか。疑問であったが、子どもになってしまったからこそ、自分に正直だったともいえるかもしれない。
いかんせん、今現在のフォルトゥーナにはその当時の記憶が曖昧なのである。
戸惑う彼女にクラシオン夫人はなおも語る。
フォルトゥーナが怯えない人物として、ほかに王宮典医と神官長さまで、彼らの診察はおとなしく受けていたらしい。なので、白衣を着た小柄な人間ならだいじょうぶだろうと思っていたと告げられ頭を抱えたフォルトゥーナである。
(お父さまにも怯えたって、どういうことなのわたくしったら……そういえば……微かに覚えている夢の中で“白い小人”が出てきたわ……かれらが逃げろって言ってたような……怖い場所にいて、逃げ惑ったような……)
おかしくなっていたときの記憶は曖昧である。どこか霞がかかっていて朧気なのだ。
急に怖い場所にいた……ような気がする。
その後、お気に入りの寝具に包まって眠ってしまったような気もするのだが。
(白く輝くなにか……なにかを見つけて……だめね、思い出せないわ)
王都にいらっしゃる国王陛下や王妃陛下、そして父になんといって無礼を詫びればいいのだろうか。
正気に返ったからといって、謝罪巡りをするわけにもいかない。
父の内心はどうであれ、いまのフォルトゥーナはすでに「傷物令嬢」として辺境に来た身なのだから。
とりあえずできるのは手紙を書くことだろうかと思ったとき、ふとこの地はクエレブレだと言ったルーカス少年のことばが浮かんだ。推測したとおり、彼は辺境伯のご子息だとさきほど聞いたばかりだ。
「ところで、ここは本当に“クエレブレ”なの?」
「さようでございます」
「いつのまにここは不毛な砂漠地帯から脱却したの?」
「さあ? わたくしにはなんとも。この地の詳細は辺境伯閣下へお尋ねくださいませ」
首を傾げた乳母の姿に、なるほど確かにと納得したフォルトゥーナであったが。
問題はその後の話であった。
彼女がこの四ヵ月間、どのようにこの地で暮らしていたのかを聞き、羞恥に身悶えるはめになったのだ。
なんと、正気を失っていた間のフォルトゥーナはさきほどまで一緒にいた少年、ルーカスに散々お世話になっていたらしいのだ!
(恥ずかしい! あんな年若い方にそんなみっともない姿をさらしたなんて!)
羞恥のせいで顔が火を噴いているかのように熱い。
「いえいえ。おふたりとも、とても愛らしかったですよ。お口をおおきく開けてお菓子をねだるお嬢さまなんて、何年ぶりに拝見したことでしょうか」
「く、口をおおきく開けて、ですってぇ?⁈ ばあやならいいけど、ルーカスさま相手に? きっと呆れていらっしゃるわ、軽蔑されたかもしれないわ」
妙齢の淑女が人まえでそんなはしたないことするなんて!
幼いころからの彼女を知っている乳母が相手ならば、人まえでないことを確認してからするかもしれないが。
なんたることだと頭を抱えるが、乳母はのんびりとした口調で話を続ける。
「ほほほ。ルーカス坊ちゃまに限ってそのようなこと。お嬢さまはルーカス坊ちゃまの頭や頬を撫でていらしたし……お膝のうえに乗せて抱き締めて……」
「は? なん、ですってぇ……?」
あの小さな騎士としてきちんと矜持を持っているだろう少年相手に、犬猫を相手にするような態度を取っていたと?
あの礼儀正しい少年相手に、そんな無礼をはたらいていたのか?
自分のしでかした失態に眩暈を覚えた。
「あら、これも覚えていらっしゃらないのですか? ルーカス坊ちゃまの頭を撫でて、頬を撫でて、耳の後ろを撫でて、頸筋を撫でて、お膝の上に坊ちゃまをお乗せして。お気に入りのぬいぐるみを抱えるかのごとく、ぎゅーーっと抱き締めて離さなかったではありませんか」
フォルトゥーナがすでに涙目になっているというのに、乳母の口撃は止まらない。
「おぼえてないわよっそんなこと!」
信頼している乳母の話であっても、さすがに嘘ではないかと疑ってしまう……というか疑いたかった。
「“るぅ”“るぅ”とお名前をお呼びして、城のあちこちを追いかけ回して、少しでもお姿が見えないと泣いてしまわれて」
「わたくしが……? 泣いて駄々をこねたの?」
泣いたのか! フォルトゥーナが!
たとえどんなに厳しい王子妃教育であろうと音を上げなかったフォルトゥーナが!
学業と王子妃教育と王子の公務を肩代わりする日々の中でも泣いたりしなかったフォルトゥーナが!
聞けば聞くほどあり得ないと愕然としてしまい、フォルトゥーナの心理的余裕がゼロになりつつある。
「えぇ。ルーカス坊ちゃまの寝台へも上がり込んだではありませんか」
寝台へ上がり込んだ、と……⁈ 年若いとはいえ、男の子の寝台へ⁈
彼女の見かけが中身と同じ二、三歳ならば微笑ましいで済んだであろうが、あいにく今のフォルトゥーナは学園も卒業した成人なのだ。そんな自分が男の子の寝台に上がり込むなんて、痴女以外の何者でもない‼
失態にもほどがあるではないか!!!!
極めつけの失態に青くなって乳母に尋ねる。
「……そ、れはさすがに止めてくれたわよね⁈ ばあや!」
「あー……どうでしたかねぇ」
頬に手を当てて小首を傾げるさまを見ると、止めなかったのだろうと推測できるから眩暈がさらに酷くなる。
信じられない信じたくない信じちゃだめだ!!!
まさか、自分がそこまでの醜態を晒していたのかと気が遠くなった。
(わ、たくしが……痴女……)
あの澄んだ瞳をした小さな騎士に対して、なんという無礼と失礼と醜態の数々を披露してしまったのか!
今まで生きてきてこんなに羞恥を感じたことはなかった。
フォルトゥーナは幼いころから自身の賢さとうつくしさを持て囃された。
周囲は彼女に大きな期待をかけ、彼女はそれに応えてきた。
王子の不備を補完できる才媛だと。
彼女ほど完璧な令嬢はいないと。
周囲だけではなく、彼女自身もそう自覚していたのに。
(口を開けてお菓子を強請った、ですってぇ? 泣きながら駄々をこねた、ですってぇ? そして男の子の寝台へも上がり込んだ、ですってぇ……?)
ちゃんとした淑女はそんなことしない。
さらに、フォルトゥーナは王家の傍系ラミレス公爵家の娘だ。才媛だと謳われていたのだ! それなのに!
「ほほほ。良いではありませんか。相手はルーカス坊ちゃまですもの。辺境伯閣下のご子息と仲良くなるのは大切なことですよ」
乳母はまったく動じていない。頭を抱え長椅子に伏せってしまったフォルトゥーナを前に、いまも笑顔で控えている。
乳母は平然と構えているがフォルトゥーナにとっては大問題である。誇り高きラミレス公爵家の娘としての矜持が、現状を甘んじて受け入れるなと囁き続ける。
(“良いではありませんか”じゃないわよ! ……とはいえ……そうね、辺境伯閣下にご挨拶しないわけにはいかないわよね)
フォルトゥーナにとっては初対面の挨拶をしなければならない。すでに四ヵ月もお世話になっているにも関わらず初めての挨拶を!
(あぁああぁぁああ! ご当主さまにちゃんとしたご挨拶もせずに、ただただ恥を晒し続けた四ヵ月なんてっ……なんたる屈辱。なんたる失態!)
辺境伯閣下へご挨拶とともに、自分の意識が正常化したことを報告しなければならない。
しかし、フォルトゥーナが自分の中の矜持と折り合いがつくまで、いましばらくの時間が必要だった。
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