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最終章 新たな天井
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そして四ヶ月後。私は感無量の思いで、赤絨毯が敷かれた階段の上に立っていた。無事三期目の当選を果たした私は、三十八歳で、女性初の農水大臣に就任したのだ。白いスーツに身を包んだ私は、激しくたかれるフラッシュを、心地良く感じていた。周囲には、他に四人の女性議員がいる。下田は、計五名の女性を入閣させたのだ。堀は、外務大臣を留任している。
とはいえ、今回の組閣で、最も注目されたのは私だった。年齢的には、それほど意外な人事ではない。やはり農水大臣というポストに、皆驚愕したのである。
やがて、撮影終了の合図が出ると、皆は解散し始めた。私は、転ばないよう慎重に階段を降りたが、気持ちはまだ高揚していた。その原因は、人事だけではなかった。
その日の職務を終えると、私は早川に、宿舎では無く自宅へ送るよう指示した。結婚にあたり、京亮が購入したマンションである。
「今日は、ご主人とお二人で祝われるのですね。……ああいえ、三人でしたか」
早川は、納得したように頷いた。
「ええ。何事も無く選挙を終えられて、よかったわ。早川さんのおかげね」
選挙と組閣が終わるまで、妊娠の件は伏せていたのだ。選挙期間中、早川は周囲にバレないよう、細やかにサポートしてくれた。
「とんでもない。では、ごゆっくりお過ごしください」
マンションに到着すると、京亮は一階のエントランスまで迎えに来ていた。
「今日は疲れただろう」
顔を合わせるなり、彼は労ってくれた。
「記念撮影の時、階段から落ちたりしやしないかと、ヒヤヒヤしていたんだ。無事でよかった」
「心配しすぎだって。ちゃんとローヒールで臨みましたし?」
京亮に手を取られて、私はエレベーターまで歩いた。乗り込むと、彼はすまなさそうに言った。
「お祝いに、ご馳走を用意できればよかったんだけど。すまない。時間が無くて、デリバリーに」
「京亮だって忙しいんだから、気にしないでよ」
京亮は、新しい次官・高橋の下で、実力を存分に発揮しているのだ。その結果、農産局課長となった彼は、以前にも増して多忙な様子である。これは、技官としては異例の速さの昇進だった。
「ところで、妊娠はいつ発表するの?」
「そろそろかな」
どっちみち、お腹も膨らんでくる頃だ。
「無理はしないで……と言いたいけれど。言っても君は、聞かないんだろうなあ」
京亮が苦笑する。そうね、と私は言った。
「どうせ、差別的な発言をする男が出て来るだろうから。頑張って両立させるわよ」
「でもって、その発言を吊し上げるんだろう? 怖いなあ」
そんなことを言っているうちに、目的の階に着いた。またもや京亮に手を取られて、部屋へと向かう。玄関を開けると、そこには箱が山と積まれていた。
「当選祝いね?」
選挙区を移ったというのに、静岡の知人たちからも大量に届いていて、私は思わず顔をほころばせた。
「君の人気はすごいよね。選挙運動中も、皆親身に応援してくれたそうじゃないか? ……僕は何もできなくて、悔しかったよ。夫なのにね」
「公務員だから、しょうがない」
心底残念そうな京亮を、私は笑って慰めた。
「その代わりあなたは、最高の贈り物をくれたじゃない。ずっと欲しかったもの」
皆まで言わなくても、京亮はその意味を悟ったようだった。腹に負担をかけないように、ふわりと抱きしめてくる。
「ずっとこうしていたいけど……。早く座った方がいいね。食事は、取れそう?」
うん、と私は頷いた。ダイニングに移動すると、食卓には弁当が用意されていた。野菜や魚中心の、健康的なメニューだ。京亮が補足する。
「同じデリバリーでも、妊婦向け。栄養士監修で、消化に良いらしいよ」
「そんなのがあるの? ありがとう」
京亮の心遣いに感謝しながら、私は席に着いた。京亮が、炭酸水を注いでくれる。私に気を遣ってか、彼も同じものだ。
「じゃあ改めて、初入閣おめでとう」
「ありがとう。乾杯」
カチンと、グラスを合わせる。気分が高揚しているせいか、今日は食欲が進んだ。柔らかめのご飯を口に運びながら、私はこう切り出した。
「ねえ。今度の休み、一緒に愛媛へ帰らない? 父の墓前に、報告したいのよね」
結婚した時、京亮は連れて行った。選挙戦の最中も、時間を作って妊娠の報告をした。だがやはり、農水大臣となったことを知らせたかったのだ。
「そりゃ、気持ちはわかるけど。長距離移動は良くないんじゃないか?」
京亮は案の定心配したが、私は行くと言い張った。
「この子なら、頑張ってくれるはずよ。だって、私とあなたの子だもん」
頑強に言い張れば、京亮はついに降参したのだった。
とはいえ、今回の組閣で、最も注目されたのは私だった。年齢的には、それほど意外な人事ではない。やはり農水大臣というポストに、皆驚愕したのである。
やがて、撮影終了の合図が出ると、皆は解散し始めた。私は、転ばないよう慎重に階段を降りたが、気持ちはまだ高揚していた。その原因は、人事だけではなかった。
その日の職務を終えると、私は早川に、宿舎では無く自宅へ送るよう指示した。結婚にあたり、京亮が購入したマンションである。
「今日は、ご主人とお二人で祝われるのですね。……ああいえ、三人でしたか」
早川は、納得したように頷いた。
「ええ。何事も無く選挙を終えられて、よかったわ。早川さんのおかげね」
選挙と組閣が終わるまで、妊娠の件は伏せていたのだ。選挙期間中、早川は周囲にバレないよう、細やかにサポートしてくれた。
「とんでもない。では、ごゆっくりお過ごしください」
マンションに到着すると、京亮は一階のエントランスまで迎えに来ていた。
「今日は疲れただろう」
顔を合わせるなり、彼は労ってくれた。
「記念撮影の時、階段から落ちたりしやしないかと、ヒヤヒヤしていたんだ。無事でよかった」
「心配しすぎだって。ちゃんとローヒールで臨みましたし?」
京亮に手を取られて、私はエレベーターまで歩いた。乗り込むと、彼はすまなさそうに言った。
「お祝いに、ご馳走を用意できればよかったんだけど。すまない。時間が無くて、デリバリーに」
「京亮だって忙しいんだから、気にしないでよ」
京亮は、新しい次官・高橋の下で、実力を存分に発揮しているのだ。その結果、農産局課長となった彼は、以前にも増して多忙な様子である。これは、技官としては異例の速さの昇進だった。
「ところで、妊娠はいつ発表するの?」
「そろそろかな」
どっちみち、お腹も膨らんでくる頃だ。
「無理はしないで……と言いたいけれど。言っても君は、聞かないんだろうなあ」
京亮が苦笑する。そうね、と私は言った。
「どうせ、差別的な発言をする男が出て来るだろうから。頑張って両立させるわよ」
「でもって、その発言を吊し上げるんだろう? 怖いなあ」
そんなことを言っているうちに、目的の階に着いた。またもや京亮に手を取られて、部屋へと向かう。玄関を開けると、そこには箱が山と積まれていた。
「当選祝いね?」
選挙区を移ったというのに、静岡の知人たちからも大量に届いていて、私は思わず顔をほころばせた。
「君の人気はすごいよね。選挙運動中も、皆親身に応援してくれたそうじゃないか? ……僕は何もできなくて、悔しかったよ。夫なのにね」
「公務員だから、しょうがない」
心底残念そうな京亮を、私は笑って慰めた。
「その代わりあなたは、最高の贈り物をくれたじゃない。ずっと欲しかったもの」
皆まで言わなくても、京亮はその意味を悟ったようだった。腹に負担をかけないように、ふわりと抱きしめてくる。
「ずっとこうしていたいけど……。早く座った方がいいね。食事は、取れそう?」
うん、と私は頷いた。ダイニングに移動すると、食卓には弁当が用意されていた。野菜や魚中心の、健康的なメニューだ。京亮が補足する。
「同じデリバリーでも、妊婦向け。栄養士監修で、消化に良いらしいよ」
「そんなのがあるの? ありがとう」
京亮の心遣いに感謝しながら、私は席に着いた。京亮が、炭酸水を注いでくれる。私に気を遣ってか、彼も同じものだ。
「じゃあ改めて、初入閣おめでとう」
「ありがとう。乾杯」
カチンと、グラスを合わせる。気分が高揚しているせいか、今日は食欲が進んだ。柔らかめのご飯を口に運びながら、私はこう切り出した。
「ねえ。今度の休み、一緒に愛媛へ帰らない? 父の墓前に、報告したいのよね」
結婚した時、京亮は連れて行った。選挙戦の最中も、時間を作って妊娠の報告をした。だがやはり、農水大臣となったことを知らせたかったのだ。
「そりゃ、気持ちはわかるけど。長距離移動は良くないんじゃないか?」
京亮は案の定心配したが、私は行くと言い張った。
「この子なら、頑張ってくれるはずよ。だって、私とあなたの子だもん」
頑強に言い張れば、京亮はついに降参したのだった。
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