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1巻
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しおりを挟む「なんだ。君のことだから、そんなのはとっくに理解していると思っていたよ」
「いやいや、買いかぶりすぎです」
「簡単な話さ。君がサイコパスを視る。そして私にその光景を伝える。何回も何回もそれを繰り返して、君の『共感覚』の観点からサイコパスの特徴をあぶり出す」
「それって……意味があるんでしょうか。さっき先輩が言ってましたよね。共感覚は主観的だって」
僕がサイコパスを識別できるようになったとして、そこに意味はあるのだろうか。
「だってそれは――」
「客観性に欠ける、科学でない。そういうことだね」
「はい」
科学は、研究は、常に客観的でなければならないはずだ。誰が見ても、誰が聞いても、ああそうだね、と頷ける事象。そういった解明でなければ、それは独善的で自慰的な自由研究に成り下がる。これまでの話を踏まえると、共感覚を用いた研究は後者に偏りやすいだろう。
「その点は私に任せてくれ。必ず一般化してみせる。君はただ、君の視た世界を私に伝えてくれればいい」
先輩は僕の心配なぞ問題ない、と言わんばかりにあっけらかんと言ってのけた。
「サイコパスと共感覚者は、ある種、似ていると思うんだ。どちらも、私たちとは違う階層に生きている。サイコパスを理解するためには、私たちは私たちが生きている階層を超えなくてはならない。ゲーデルの不完全性定理のようなものさ」
「……ある次元における問いは、同次元においては証明できない」
「よく知っているね、その通り。正直……私のサイコパスの研究は行き詰まっていた。一般化するにはキーが一つ足りなかった。そこに現れたのが君だ、北條君」
先輩の奥に、例の炎がゆらりと現れた。赤と橙色の火柱が、ぬらぬらとトグロを巻いて火花を散らしている。
「君がいれば、私の研究は躍進する。私の欲望は満たされる。君しかいないんだよ、北條君。……なあ、どうか私に君を――」
轟々と燃ゆる炎が、僕を包み込む。
「研究させてくれ」
「え、お断りします」
僕の両手を包んだ先輩の手をそっと外し、僕は答えた。
「――!? な、なぜだ!」
「だってめんどくさ……あんまり共感覚で視る光景、好きじゃないんです。たまにすごく気持ち悪いモノを視ることもあるし」
サイコパスと呼ばれる人たちを視たとき、どのような光景が浮かび上がるのかは想像もつかないが、危ない橋は渡らないに限るだろう。
「そこまでするメリットが、僕にはないかなって思いました。すみません、ここまで色々とお話をしてもらったのに」
「いや……君の言うことはもっともだ。君の気持ちをまったく考えず、突っ走ってしまった。こちらこそ、申し訳ない」
先輩は見るからにしょんぼりとしていた。こんなに意気消沈するほど僕に期待していた、もとい、僕をあてにしていたという事実に、少し心を動かされないでもないが……やりたくないものは仕方がない。さっさとこの場を離れようと帰り支度をはじめたところで、研究室の扉が静かに開いた。
「おや、君は……北條君、だね。そうかそうか、もう話を進めていたのか。研究は、明日から始めるのかい?」
この研究室のボスである木之瀬准教授は、人当たりのいい笑みを浮かべながらそう言った。
いつも笑っているからか、細長い印象を受ける目、柔らかく諭すような口調。歳は四十前後という噂だが、僕はどうしても近所の優しいおじいちゃんを思い浮かべてしまう。
「いえ、その話は今、お断りしたところで……」
「え!? 断っちゃったのかい? どうして? かなりいい話だと思うんだけど……あ、もしかして他のバイトとか忙しい?」
「バイト……ですか? いえ、今はしていませんけど、それが何か関係が……?」
なんだか話がうまく噛み合っていない気がする。木之瀬准教授が続ける。
「あー。もしかして月澪さん、ペイの話してないの?」
「ああ、そんな話もありましたね。すっかり忘れていました。けれどそんなもので彼の心が動くとは思えませんよ」
「いやいや、お金は大事だよ! というか、事務手続き的にもちゃんと伝えておかなくちゃいけないんだから。もー、月澪さんはその辺、本当に適当なんだから……」
すっかり置いてきぼりを食らってしまった僕は、木之瀬准教授に問いかける。
「あの、話が見えないんですけど……?」
「あのね、北條君。研究のお手伝いをしてもらうってことは、研究室で君を雇用するってことなの」
「はい」
「つまり、お金が出るの」
「誰にですか?」
「君に」
「僕に!?」
てっきりただ働きだと思っていた僕は、俄然興味がわいた。
「そ、その。おいくらくらい……?」
「そうだねー。学部生は雇える限度時間が決まってるから、一週間あたりで……これくらいかな。で、これを一か月すると……これくらい?」
スマートフォンの電卓をぽちぽちと押して算出された額は、その辺の居酒屋やファミレスでバイトするよりはるかに高い金額だった。
「……なるほど」
「それにね、北條君。君自身、共感覚とは一度ちゃんと向き合った方がいいと思うよ。それは君だけに与えられた素晴らしい個性だ。できれば怖がらず、受け入れてあげて欲しいな……だからどうだろう? これは生活面でも精神面でも、君にとって決して悪い話ではないと思うんだけど……」
「先生」
「ん?」
「ぜひやらせてください」
お金が出るなら話は別だ。僕は手首がひきちぎれんばかりに手のひら返しをして、木之瀬准教授の目を見据えて、しっかりとそう答えていた。
幕間1 月澪彩葉
「まったく、なんて現金な男なんだ」
「まあまぁ、落ち着いて月澪さん。どちらかといえば彼の反応が普通だよ」
「私があんなに熱心に誘ったというのに……三十分ですよ? 私が三十分も話をして首を縦に振らなかったのに、先生がたった三分話しただけで承諾するなんて、こんなバカな話がありますか!?」
「ちゃんとお給料の話を伝えていたら、君の説得でも彼はオッケーしてくれたと思うけどねえ……」
北條君が帰った後、私と准教授はお茶をしながら北條君の話をしていた。
「そんなにお金が大事なのか? 研究より? 私より!?」
「え、うん、お金は大事だよ。なにより君は彼ときちんと知り合って一日も経っていないじゃないか。君のために彼が動くとはとても思えないよ」
「経験上、大半の男は私が手を握ったら首を縦に振ってくれましたよ?」
「君はそういうところを直した方がいいと思うなあ……」
やれやれ、と首を振りながら、准教授はズズッと熱いお茶を啜った。
その様は親戚のおじいちゃんそのもので、私は少し笑ってしまいそうになる。見た目はそこそこ若いのに、表情や所作がいちいち年寄りじみている。
「私が問題のある人間だとでも言うんですか?」
「いやいや、月澪さんは飛び抜けた研究の才能があるから大丈夫、生きていけるよ」
「話がすり替わっている上にフォローしていないし、なんなら慰めてすらいませんよね、それ」
だが、抜けているように見えて、要所要所で毒を吐くから、この准教授は侮れない。
「とりあえず研究は進みそうでよかったじゃない。進捗があったら話を聞かせて欲しいって先生、多いよ?」
「学会か論文で発表するまで、誰にも話さない方がいいでしょう。今回の実験は特に慎重に事を運びたいですし」
「そうした方がいいかもねえ。独創的すぎるし。それに――」
机に湯呑を置いた固い音が、他に誰もいない静かな部屋に響いた。
「――君の本当の目的も、早く達成したいだろうし、ね」
「……先生はそういうところを直した方がいいですよ」
「何の話かな?」
相変わらず人当たりのいい笑みを張りつけた准教授から目を逸らし、私は灰色のファイルに目を向けた。そこには、私が集めたサイコパスによる事件に関する資料が、びっしりと詰まっている。
「人間ジュース事件」――人の顔の皮を剥いで細切れにし、野菜と一緒にミキサーにかけてジュースにして売っていた喫茶店オーナーの話。
「狂気のぬいぐるみ事件」――ニワトリや犬や猫の死体と人体の一部を縫合し、部屋に飾っていた会社員の話。
「指切りげんまん事件」――毎日毎日針を食べ続けた女性の話。
「絶対王政事件」――自分のクラスの生徒に順番に動物を殺させるルールを半年間強要させた教師の話。
ああ、なんて……なんて普通な事件。
どの事件も、新聞や週刊誌が大げさな見出しと飾り文字で異常な犯罪だと煽り、騒ぎ立てていた。
「心の闇」「異常な心境」「サイコパス」「狂人」「狂気」「理解できない行動」……
異常? 理解できない? 違うだろう?
分からないということにしたいんだろう?
「私は……異常なのだろうか」
「んー、正常とか異常とか、無意味な線引きだよねえ」
「……違いない」
思わずこぼれた自嘲的な笑いとともにファイルを閉じ、パソコンを立ち上げる。北條正人という新しい研究材料の顔を思い浮かべながら。
「ああ、そう言えば明日、明日葉君が来るよ。自分の研究室で仕事をしてから来るらしいから、着くのは夜の十時以降って言ってたけど、いいよね?」
「あ、分かりました。資料まとめておきます。それくらいの時間なら、私も先生もエンジンがかかってきた頃でしょうし」
明日葉昴。主に人の感情や行動を、脳科学と心理学の手法を用いて解明する、秦野研の修士一年生だ。非常に親しみやすい好青年で、笑顔は爽やかで口調は柔らかく、嫌味がない。おまけに頭も切れる。
彼とは前々から共同研究の話を進めていたから、そのミーティングをすることになるだろう。彼の所属する大学からここまでは片道一時間以上かかるのに、ご苦労なことだ。
北條正人に明日葉昴。明日は忙しくなりそうだ。
4
【この事件は一体どうして起こってしまったのか、またなぜ、未然に防げなかったのか。専門家の秦野正晃さんにお伺いしたいと思います】
【そうですねー、やはり周りが彼の異常性に気付かなかった、というのが一番大きいでしょう。加害者の言動や犯行動機を見る限り、彼は「相手の気持ちを理解できない」可能性がありますね】
テレビをつけると、アナウンサーとコメンテーターが訳の分からないことを言っていた。もう少し簡単に説明してくれればいいのに、と熱を帯びてきた頭を振りながら思った。
【「しない」ではなく、「できない」ですか】
【そうです。そこが非常に重要です。分かるけれどあえて無視することと、根本的にその発想がないこと。ここが違うだけでも、世間の認識とのズレ方に大きな違いがあります。ずれは歪みを生み、歪みはやがて大きな負のエネルギーに変わるのです。かの有名な哲学者である――】
いつもの通り思考を放棄した僕は、テレビの電源を消す。毎朝大学に行く前に、朝ご飯を食べつつニュースを見るのが僕の日課だった。難解な単語とともに意見を述べられると疲れてしまうけれど、ただ事実だけを淡々と流してくれるニュースは結構好きだった。
「さて、行くか」
講義資料や教科書、さっき作ったお弁当が入ったリュックをよいしょと背負い、家から徒歩十分程度の大学へと向かう。今日もいつも通り、平穏な一日が始まる。
「なんだよ、その刺激的な日常のはじまりは! うらやましすぎる!」
「浩太、やっかましい。声のボリューム落として」
「これが黙っていられるか! なんでお前だけ、そんなおいしいバイトにありついてるんだよ!」
やっぱり言わなきゃよかったかな、と若干後悔しつつお弁当をつつく。
午前の講義をつつがなく終え、僕と浩太は構内の芝生の上に座って昼食を取っていた。
「さあ、なんでだろうね……」
「なに、お前なんか特殊な能力でも持ってるの?」
共感覚の話は浩太には伝えていない。これまでも自分から人に話したのは、幼い頃、親とお医者さんに相談したときくらいだ。
「そんなわけないじゃん。なんか、レポートがよく書けていたかららしいよ」
だからとっても適当な、それでいてもっともらしい理由をでっちあげる。
「あぁああああそうかあああああ……俺もまじめにレポートを提出してれば今頃、月澪先輩ときゃっきゃうふふなバイト生活が幕を開けていたのか……」
「何を想像してるのか知らないけど、絶対そんな楽しい感じじゃないよ」
「『月澪先輩! 言われていた資料のまとめ、できましたよ!』『さすが浩太君、仕事が早いね。少し時間も空いたし、何か食べようか』『いいですね、じゃあお言葉に甘えて』『きゃっ、こ、浩太君いったい何をするんだい?』『何って……分かるでしょう? 食べるんですよ、先輩を』『こ、浩太君ったら、大……胆……』『先輩』『浩太君』みたいなさぁああああああ!」
「聞けよ」
一人で悶える浩太はどうしようもなく気色が悪かったので、たっぷり距離を取った。
「前々から思ってたけど、マサトは月澪先輩に全然興味ないよな」
「まあ綺麗だとは思うよ」
けれど、それを補って余りあるくらい関わりたくない。あの手のタイプは巻き込まれたら最後、永遠に引っ張りまわされるだろう。……もう遅い気もするけど。
「そっかー、マサトは明乃麗奈派だったもんな」
「そんな派閥に入った覚えはない」
「え、でも好きって言ってたじゃん」
とんでもないことを言い出した浩太に、僕はすかさず訂正を入れる。
「い、言ってない! ただ額縁に入れて飾って永遠に眺めていたいって言っただけだ!」
「やっぱ表現が独特だよなー。つまり、どういうことよ」
「どういうことって……明乃さんは、こう、綺麗なんだよ。美しいんだよ。全体的に」
共感覚を通して彼女を初めて視たとき、僕は衝撃を受けた。心を奪われる、なんて表現、大げさだってずっと思ってきたけれど、そのときばかりは大いに賛同せざるを得なかった。
「んー、まだふわっとしてんだよなー。もーっと詳しく」
「なんか今日はぐいぐい来るな……言葉通りの意味だよ。存在そのものが綺麗なんだ。静謐で、どこまでも透き通っていて、それでいて輝いていて……」
見えたものは、夜空と湖だった。
ダイヤの上に漆を流しこんで細かな傷をつけたような、たっぷりとした黒い夜空と、ちりばめられた星々。中心には、青白く輝く満月が浮かんでいた。
それら全てを映し出す湖は鏡のようで、それでいて物悲しげに揺蕩っていた。夜空と湖の境目は曖昧で、月だけが二つの世界を認識している。
もし叶うならば、マーブルであしらえた額縁に入れて飾りたいような、全ての音が吸い込まれ、優しく消えてしまう。そんな光景。
「とにかく、永遠に眺めていたいと思ったんだ。ただ、それだけ」
「ふーん」
さっきから何なんだ。やけに具体的に聞いてくるかと思えば、目線は僕に合わせないし、やたらとにやにやしてるし。というか、本当にどこを見てるんだ? まるで僕の後ろに誰かいるような……
「あ」
「え、と」
気付くのが遅すぎた。あろうことか僕は、明乃麗奈本人の前で、堂々と綺麗だの美しいだのと褒めちぎっていたらしい。簡単に言えば、とても痛いやつだ。
綺麗なブラウンの瞳を右往左往させながら硬直する彼女を見上げて、僕は問いかけた。
「どこから、聞いてた?」
「『前々から思ってたけど』から?」
「想像してたより序盤だね!」
てっきり、「明乃さんは、こう、綺麗なんだよ」あたりからだと思ってたよ。そのときからいたなら早く声をかけてくれればいいのに……
「ご、ごめんね。話しかけるタイミングをどんどん逸しちゃって……」
「あー、気にしないで。この浩太が悪いんだし。後、僕が言ってたことも全部忘れてくれると助かるかな……」
恥ずかしくて身が縮みあがりそうになるセリフの数々を思い出しつつ、僕は言った。
「え、え? 忘れなきゃだめ?」
「はい? いや、だめ……ではないけど、恥ずかしいし……」
「でもねでもね! ……私、綺麗とか輝いてるとか、そんなことを言われたの初めてだから、できれば覚えていたいんだけど……」
だめ? と眉をハの字にし、小首をかしげる彼女を見て、思わずため息をつく。
そういう反応はずるいと思う。もし素でやってるんだとしたら、とんでもない男殺しだし、演じているのだとしても、それはそれで男殺しだし、どちらにしても免疫のない僕には刺激が強すぎた。
「明乃さんが、嫌じゃないのなら……」
「嫌じゃないよ! すっごく嬉しかったもん! えへへ、ありがとね北條くん」
「めっそうもないです……」
おい、そろそろ限界だぞと、この状況に追いやった張本人を睨みつけると、そいつはにやにやと締まりのない顔を晒しながら言った。
「よかったな、マサト」
「よくない」
「よかったね、明乃さん」
「うん!」
「ああもう……」
だめだこの子。僕の手には負えない。理屈で考えれば、簡単なことだ。
明乃さんのことは容姿も含め、綺麗ではなくて可愛いと表現するのがふさわしい。
くりくりとした目はいつも元気よく動いているし、桃色の唇はどんなときでも楽しそうに形を変える。肩あたりで揃えた髪は彼女の動きに合わせてご機嫌に跳ね回り、よく通る快活な声はいつでも華やかな色を添える。
どんな場所にもすぐさま馴染み、愛され、必要とされる。そんな彼女はきっと、綺麗とか美しいとか、そういう賛美の言葉からは対極のところにいて、だから僕の賛辞が珍しくて嬉しいのだろう。「僕」の言葉ではなく、僕の「言葉」に喜んだのだろう。分かる。分かっている。だから早く話題を変えよう。
「そ、それで明乃さん、僕たちに何か用?」
「ん? あ、そうそう! 二人とも海行こうよ、海!」
「また唐突だね……」
「唐突じゃないよー! もうすぐ八月でしょ? そしたら夏休みは目の前でしょ? 夏休みは暑いでしょ? 暑いといったら海! はいっ、海行きましょー!」
ほらね? と無邪気な笑顔を向けられて、僕は色々と言いたいことを呑み込んでしまう。彼女の後ろに視える光景はこんなに美しく静かなのに、どうしてこの子はこんなに明るく、可愛いのだろうか。まあ、共感覚の光景が現物と一致しないことなんてよくある話なんだけど。
「いいねー、海! 人総のメンバー他にも誘ってるの?」
あ、人間総合ユニーク学部って、人総って略すんだ……
「うん! 今のところ男女合わせて十人くらいかなあ。男女比半々くらいで」
「学部の三分の一くらい集まってるじゃん! こりゃ行くっきゃないな、マサト!」
「いや、僕は――」
何が行くっきゃないだ。行くわけがない。
二桁の人数でわざわざ人ごみの中に遊びに行くなんて、想像しただけで精神的に辛い。ただ、断る理由としては刺々しいから、ちょうどいい持ち駒を引っ張り出す。
「――バイトがあるから」
「お前……バイトなんて、そんな毎日あるわけないだろ」
「いや、昨日の話だと、あながちあり得なくもないんだ」
というのは嘘だけど、実際、月澪先輩の研究を手伝うのは、そんなに楽な仕事ではないと思う。木之瀬准教授が提示した給料も、週三、四回は働く計算になっていたし。
「北條くん、バイトやってるんだー! なんのバイト?」
「研究の手伝いをすることになったんだ」
「月澪先輩の直属なんだってさ。うらやましいよなー」
こいつ……わざと僕がぼかした部分を言ったな。あんまり広めたくないのに。
「え、そうなんだ! 私もね、月澪先輩のところでバイトするよ! 明後日!」
「え?」
それは初耳だった。月澪先輩からそんな話、聞いていなかった。僕とは別の仕事が彼女にもあるのだろうか。
「あー、でも単発のバイトって聞いてるし、北條くんのとはちょっと違うのかも……? でも、バイト中に会えるかもしれないね! 楽しみー!」
「そ、そうだね」
「うん! じゃあさ、北條くん。夏休み中、バイトお休みもらえるか聞いておいて! で、空いてる日があったら、私に教えて欲しいな。スケジュールきつい人に合わせて日程組むからー!」
「え、あ。でも僕は……」
「んー? どしたの?」
僕が少し難色を示すと、怒涛のようにしゃべっていたはずの彼女はぴたりと口を閉じ、僕の言葉を待った。ちゃんと話を聞いてくれるあたりが、やっぱりずるい。
「……いや、聞いておくよ。また連絡する」
「おっけー! ありがとう! 有園くんも、何かあったらいつでも言ってね!」
「了解、楽しみにしてる!」
「私もー!」
彼女が去っていった後、脱力する僕の肩にぽんと手を置き、浩太が言った。
「お前はあれだな、明乃さんと付き合ったら間違いなく尻に敷かれる」
「付き合わないし、敷かれないから」
5
本日最後の講義が終わり、浩太と別れた後、僕はいつもなら家に向かう足を木之瀬研に向けた。バイト初日だし、遅れるなんてもってのほかだ。
しかし、一体何をやらされるんだろう? サイコパスをたくさん視てもらうとは言われたけれど、どんな方法なんだろう。その他は何もしなくてもいいんだろうか。共感覚が珍しいからって、変な人体実験とかされないよね? そんなことを悶々と考えながら、木之瀬研の扉を開ける。
「おお、来たか北條君。では早速服を脱いでくれ」
「あ、すみません。部屋を間違えました」
危ない危ない。まさかこの大学に脱衣サークルがあったとは。文化部連合の人はしっかり管理をした方がいいと思う。さて、急いで木之瀬研に行かなくちゃ。
「いや、間違ってないぞ北條君。さあさあ中へ!」
「現実から目を背けたかったんですよ、察してください」
「なんだ、外で脱ぎたいのか? 私は人の性癖に文句を言うつもりはないが、敵は多いと思うぞ。主に国家権力とか」
先輩って口を開くと割とどうしようもないですよね、と言いかけて、すんでのところで口をつぐむ。そんなことを言えば、後々面倒くさいことになるのは間違いない。
「そういう意味じゃありません。というか、どうしたんですか急に」
扉を閉め、相変わらず古本屋を彷彿させる研究室の奥へと歩きながら問いかける。
「いやなに、脱ぐのは君でなくてもいいんだ」
「はい?」
「そうだな、君がどうしても嫌だというのであれば」
「ちょっと待ってください」
不穏なセリフとともに、後ろから衣擦れの音がした。非常に遺憾ながら、先輩が躊躇なく服を脱ぎ捨てているのが、その音だけで分かってしまった。
「私が脱ごう」
「ご冗談でしょう!?」
振り返ったときにはもう遅かった。ジーンズ生地のタイトスカートとグレーのシャツを羽織っていたはずの先輩は、一瞬にして豊かな胸元と臀部をわずかばかりの布で隠しただけの、あられもない姿になっていた。
「ちょちょちょ、ちょっと! 服! 服、着てください!」
「何を慌てているんだ北條君? これは水着だ。そう恥ずかしがることはないだろう」
いやいや、いきなり部屋の中で脱がれたら慌てるでしょう! とか、色々と言いたいことはあった。あったのだが、先輩の肢体に目が釘付けになってしまい、僕の口から飛び出すことはなかった。
「どうだ? どう見える?」
「そ、そうですね……」
先輩の水着姿は確かに魅力的で、本当は美しいと表現したかった。しかし非常に残念なことに、短絡的で本能的、そして情欲的な感想が真っ先に口をついて出てしまう。
「なんていうか、エロいです。とんでもなく」
「ん? あ、いや違う、そうじゃない。そっちじゃないんだ」
「え?」
「共感覚で視える光景は、どうなっている? いつもと何か変わらないか?」
そうだ、僕はここにバイトをしに来たんだ。
どういう理由なのかは分からないが、これも僕の共感覚を捉えるために必要な実験なのだろう。とっさのこととはいえ、色欲にまみれた言葉を吐き出してしまった自分を恥じる。
「ええっと……そうですね……いつもと変わらず、大変立派な炎です」
相も変わらず轟々と勢いよく燃え盛る炎を確認し、報告する。
「普段とはまったく変わらず?」
「少なくとも昨日と一緒であるのは間違いないかと」
「なるほど、ありがとう。……ということは、北條君の感情の揺らぎに、共感覚は呼応しないということか? いや、まだ断定はできないが……しかしそうなると、北條君が視ている光景は――しかし――うーむ……」
ぶつぶつと考察に入り、すっかり自分の世界に入り込んでしまった月澪先輩は、完全に研究者の顔をしていた。が、残念なことに身につけている衣服が水着なので、まったく恰好よくない。
「とりあえず、服を着たらどうですか?」
「ん? ああ、そうだな。着替えてくる、少し待っていてくれ」
「ここで着たらいいじゃないですか」
「何を言っているんだ。下着に付け替えるんだから、ここでは無理だ。水着の上から衣服を羽織るなんて、動きにくくてたまらない。ついでに資料を取ってくるから、少し待っていてくれ」
じゃあ、さっきまではどうしてたんだよと突っ込む気力もなく、僕は奥の部屋に入る先輩を見送った。本当に何を考えているのか分からない人だ。
「月澪さんは自由だねえ」
「うわ、いたんですか准教授」
気付くと横に、黒い筒状の機械と何かの袋を持った木之瀬准教授が立っていた。なんだかほろ苦くて香ばしい、良い香りがする。これはコーヒーの匂い、かな? いつも通り、目元に滲んだ優しさが、僕をほっこりさせてくれる。
「最初からいたよ? そんなに存在感ないかなあ、僕……」
「い、いや。本棚に隠れて見えなかっただけだと思います」
失言だったと若干後悔しつつフォローを入れると、木之瀬准教授は静かに笑いながら言った。
「ふふ、冗談冗談。実はさっきまで向こうの部屋でコーヒーミルを動かしてたんだよ。だから気付かなくて当然」
「コーヒーミル、ですか?」
「うん、使ったことある?」
そう言って木之瀬准教授は、僕に右手に持った黒い筒状の機械を渡してくれた。赤いスイッチが一つついただけのシンプルな造り。これがコーヒーミルか。名前だけは聞いたことあったけど、実際に使ったことはないなあと、僕は首を横に振った。
「えーっとすみません、そもそもあんまり知識がないんですけど……コーヒー豆を砕く機械、なんですよね?」
「その通り。手動と電動のものがあるんだけど、手動の方は結構力がいるから、電動の方を使ってるんだ」
「なるほど。でもどうしてわざわざ別の部屋で?」
この研究室には部屋が三つある。一つは今僕たちがいる、一番大きな部屋。もう一つは今、月澪先輩が着替えている部屋。そして最後の一つが、准教授がコーヒーミルを作動させていたという小さな部屋だ。そう聞くと、木之瀬准教授は眉を八の字に下げて、苦笑いしながら言った。
「いやあ、最初はこの部屋でやっていたんだけどね。月澪さんに『うるさいからせめて奥の部屋でやってください』って言われちゃって……」
「ああ……それはそれは……」
月澪先輩らしいばっさりした物言いだ。セリフを聞いただけで、彼女の凛とした声が脳内で綺麗に再生された。
「最初は『気が散るから市販のコーヒーで我慢してください』とまで言われてたんだけどね。せめて飲んでから判断して! って言って飲ませたら、別部屋でやることは許してもらえたんだよ」
「そんなに違うものなんですか」
僕もコーヒーは飲むけど、大体は缶コーヒーで済ませてしまう。わざわざ粉を買って淹れようとは思わないし、ましてや豆を買おうとも思わない。
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