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1、最悪の日
しおりを挟む「中村さん、書類の確認お願いします」
「ああ、頼んでおいた書類だね。ありがとう。確認しておくよ」
「中村さん、澤田プロダクションから次の打ち合わせの件でお電話いただきました。先方から打ち合わせは来週の火曜日にして欲しいとのことですが、中村さんはご都合よろしいですか?」
「火曜日ね……。俺は大丈夫。じゃあ打ち合わせは来週の火曜で。ありがとう」
颯爽と現れたのは中村智紀だ。性格は超がつくほど優しい上司。部下がミスしても一度も怒っているところをみた事がない。
そして物腰柔らかい雰囲気が相まってか、みんなから仏と崇められている。おまけに顔がイケメンで、会社内に彼のファンは多い。
「中村さんってかっこいいよねえ……て顔してるよ」
笑い混じりに冗談言ってくる彼女は同じデザイナーの河口菜津子だ。ここは広告代理店のR&D社。さまざまな企業からの依頼を受けて広告を打つ。
私、須藤敦美は内心を見透かされた気がして、ははは、と誤魔化すように笑った。
うん。確かにイケメン。彼氏がいなければ、狙ったかも。なんて(笑)
彼はもともとはデザイナーだったが、仕事が出来るため今は総括をしている。プロデューサーみたいなもので、部署間を移動し、全ての案件に目を通す。多忙極まりない人なのだ。だから一緒に仕事をしたとしても、一言二言ぐらいの会話しかしたことがない。
会話というかそれはむしろ業務連絡だよね。それに、あの人って上司というか……雲の上にいるような人なんだよね。
でもこの代理店に入ったきっかけがまさに彼。彼の作った広告に心惹かれたからなのだ。
真っ白な背景に箱から飛び出したかのように配置された一足の赤い靴。その横には『今、会いに行きます』という一言を添えられていた。
女の子がその靴を履いてこれから好きな人に会いに行く、という物語が脳裏を駆け抜けて、私は鳥肌が立った。一枚の写真だけでこんなにも表現できるとは。感動した私は、気づけば衝動でその靴を買ってしまっていた。でも、未だにその靴は履いていない。
彼のように人の心に残る広告を私も作りたいと強く思った。これは誰にも言ってない私の目標。だから必死に腕を磨いているところなのだ。
ピロン。
スマホが鳴る。誰だろ。
敦美はこっそりスマホを出して確認する。綱島宏だ。私の彼氏。
『今日、仕事終わったら会える?』
会える会える会える!! 今日こそは会える!! まさに『今、会いに行きます』!って今は仕事中だから無理だけど。
鬼のスピードで返事を送って、返信を待つ。
『じゃあ、19時にドゥ・カレで待ってる』
最近お互いに仕事が忙しくてなかなか会えていなかった。久しぶりに会えるからか、わくわくが止まらない。仕事が終わるまで、嬉しい気持ちを抑えていられるだろうか。
「彼氏からのラインか~?」
菜津子に即バレる。
「なんでわかるの」
「決まってんじゃん。顔、ニヤケすぎ」
「ニヤけてないし」
「またまた~。嘘ついたってあんたは顔に出るんだから。ほらほら今は彼氏よりも仕事仕事」
「うん、そうよね」
ニヤついている場合じゃないよね。仕事に集中集中。
そこから敦美は鬼の集中力で仕事を片付け、流れ星の如く退社した。
***
「ということだから、俺ら別れよ。じゃ」
「え?」
そう言って、彼氏だった男――綱島宏はレストランから出て行こうとするのを、敦美は逃すまいと腕を掴んだ。
「ちょちょちょちょちょ、待ってよ!」
「なんだよ」
「いや、なんだよ、じゃないでしょ。せっかく会えたのに、どうして??」
はあ、と深いため息を吐かれる。ずきんと胸が痛んだ。でもその痛みに目を伏せて、真っ直ぐに宏を見つめた。
「ねえ、もう一度やり直さない?」
「やり直さない。……だから、お前以外に好きな奴が出来たって言ってるだろ。こんなところで騒ごうとするなよ」
思いっきり腕を振り解いた宏はレストランから出て行ってしまった。振り解かれた手が力なく垂れ下がり、敦美は脱力したように椅子に腰掛ける。
え……。
「……なんで、こうなるの」
嘘でしょ? 嘘よね? 誰か嘘だって言って……。あ、もしかしてこれってドッキリ? そうかもしれない。もしかしたら、レストランにまた戻ってくるかもしれない。
そう期待してしばらく待ってみても、彼は戻ってこなかった。やはり嘘でも何でもない、現実だった。
「なんで……」
フラれたというその事実が、私の頭を真っ白にする。何も考えられなかった。彼とは別れたくなかったから、すごく悲しかった。
宏のこと、すごく好きだったのになあ……。どうしてダメになっちゃったんだろ……。
そうは思ったけれど、原因の思い当たる節があったので、私が悪かったのだろう。忙しさを理由に会う時間をなかなか作れなかった。それでも私は彼のことが好きだったし、彼も私を好きでいてくれると思っていた。でも、それは間違いだった。
自分が思っていても相手も同じように思ってくれているとは限らないのだ。だから、頭のどこか片隅でこうなるのは仕方ない、と認めている自分もいて、なぜか涙は出てこなかった。
ぼんやりとグラスに入っている氷を眺めていたが、他の客の視線も気になったので、ゆっくりと腰を上げる。
「ここにいても仕方ないよね……」
敦美はとぼとぼとレストランから出た。レストランから出た途端、ひんやりした風が頬を撫でる。春先で、まだ寒いのだ。
うう、私の心も寒い……。
会社終わりに化粧をし直して、急いで向かったレストランは、初めて彼とデートに行った思い出の場所だった。久しぶりに会えるのを楽しみにしていたのに。
「三か月ぶりに会えたのに、会ってすぐに別れ話とか……」
はあ、とため息交じりに呟く。
「そろそろ結婚も考えてたのになあ……」
27歳で6年間も付き合っていた彼氏を失うという重い現実に、ため息が止まらない。街灯の明かりに照らされて、自分の影がより濃く見えた。その影に「自分ダッサ」と笑われているような気がして、敦美は頭を振って歩調を速めた。
繁華街から逸れ、いつもの帰宅の道を歩く。すると、いつもこの時間帯は人があまり歩いていないのに、なぜか多くの人が慌てた様子で走ってゆくではないか。一体どうかしたのか。危機感もなしにぼんやりと歩いていけば。
「うわ、嘘でしょ!?」
自分の住んでいるアパートが燃えているではないか!
「ちょちょちょ、何で!?」
「危ないですから下がってください!!」
消防士に離れるように指示され、一旦距離を取ったものの、重大な事に気がついた敦美は突然火の海に身を投げ出すかのように走り出す。
「こら! やめなさい! 入ってはいけない!」
「あ!!」
敦美の奇行に気がついた消防士が敦美を捕らえる。
「離して! 私の全財産が!! 通帳!! 燃えるぅ――――!!」
しかし鍛えられた消防士に勝てるはずもなく。敦美はただただ燃え盛るアパートを眺めるしか出来なかった。
嘘でしょ……。
2時間かかった消火活動も終わり、骨組みだけになったアパート。もはや通帳など発掘できないだろう。燃えカスになって消えてしまったに違いない。
「終わった……」
野次馬の人曰く、火事の原因は下の階の人の火の不始末らしい。火ぐらいちゃんと始末してよ……。なんなの、何か私、やらかしたの? これは一体何の罰……。
敦美はただただ呆然とアパートを眺めていた。
どのくらい経っただろう。さすがにずっと立っているのがしんどくなったので、近くの公園で心を休めることに。
「あー……月が綺麗……」
きい、きい、とブランコをこぐ。
傍から見ればかなり病んでいる人に見えるだろう。だが、ここに人はいない。傷心した自分を癒すにはぴったりな場所だった。
本当ならば寝れる場所を確保しなければならないのだが、あまりにもショックが大きすぎて行動を起こす気になれない。幸いにも今日は金曜日で、明日は仕事がないのが今の敦美にとっては救いだった。
敦美はしばらく空を見つめて時間が過ぎていくのを感じていた。
「はあ……」
きい、きい、とブランコが軋む。
「これから私はどうしたらいいんだろう……」
誰もいない公園はただそこに静けさがあるだけで、答えなんて返ってこない。
彼にフラれ、おまけにアパートが燃えるだなんて。そんなことってある?
「もう、本当にどうしよう……」
びゅっと冷たい風が首元を通り過ぎた。
「ああ寒い……。ここにいたら死ぬ」
死にはしないだろうが、風邪は引くだろう。そうは思っていてもなかなか動けない敦美は、それからしばらくブランコに座っていた。
「……そろそろホテル探さないとな……」
ため息をついてやっとブランコから降りて、敦美はスマホの画面を見た。時間は夜の11時だ。
「だいぶ時間過ぎてるな……。どこか……あるかなあ……」
一番初めに思いついたのは菜津子に助けを求めようかと思ったが、彼女は確か彼氏と同棲している。
ダメだ。さすがに急には頼めない。
思いとどまった敦美は、とにかく格安のホテルでもどこでもいいから見つからないかと探し始めた。どこか空きがあればいいけど……と思いサイトを見ていれば。
なにやらザリ、ザリ、と砂を踏みしめるような足音が近づいてくるではないか。
「……」
え、何。
不意に心臓の拍動が早くなる。そういえば、今は夜の11時。公園に女が1人。不審者が現れても不思議じゃない。急に自身の身の危険を感じた。
スマホの画面を滑る指が小刻みに震え、徐々に体の血の気が引いてゆく。怖い。でも、もしかしたら野良犬とかかもしれない。確認しなきゃ。でも見るのも怖い。
足音は未だにこちらに近づいてくる。
どうか犬であってくれ!
敦美は思い切って近づいてくる人物へ視線を向けた。
すると目線の先にはコートを羽織った中年の男が立っていた。立っているそこは丁度公園を照らす街灯の下。何故か2人の間に緊張が走った。
男はコートに手をかける。一体何だろうと、敦美は見てしまう。男はゆっくりとコートの前を開く。敦美は金縛りにあったかのように、なぜか目が離せなかった。
男が開いたそのコートの下は――裸だった。
「!!」
その男のイチモツが、こちらに向かっていきり立っている。街灯に照らされたそれを、敦美はガッツリ見てしまった。敦美は反射的に一歩後ろに下がる。
や、やばい。変態だ……。
「はあ、はあ……。お姉さん……はあ、はあ……1人?」
やばいやばいやばい。逃げないと。こういうのって刺激しない方がいいんだっけ?
敦美は何も見なかったかのようにくるりと背を向けて走り出す。すると男はコートを脱ぎ捨て、全裸で追いかけて来た。
怖い怖い怖い!! 追いかけて来るなあああああ!! どう考えても向こうの方が足が速いに決まってる!! こっちはスカートにヒールよ!? パンツにすればよかった!!
後ろからいきり立ったイチモツが脅威のスピードで迫って来る。敦美は恐怖を振り払うように全力で走った。公園の地面が砂だから余計走りにくい。
それでももう少しで公園を出れる。公園を出て住宅のある方へ行ければ、なんとか逃げ切れる気がしたのだ。
そんな希望の見えた矢先、無情にもヒールが折れて敦美は転けてしまった。
うっそおおおおおおおおおおおお!! こんな時に!
それでも立ち上がって走り出そうとした時、がしっと足首を掴まれてしまった。ゴツゴツした手は汗ばんでいて気持ち悪い。
「ひい!!」
「はあ、はあ……捕まえた」
男はニヤっと笑った。その笑みが気持ち悪くて、ゾワっと鳥肌が立つ。逃げようとしても掴まれた力は思った以上に強い。
ど、どうしたら……。
「さあ……気持ちいいこと、しようか……」
ぐいっと足を引っ張られて、体が引きずられる。咄嗟に何かにしがみつこうとしても、近くには砂しかない。パニックになった敦美は何も思い浮かばない。
どどどどうしよう!
「いやあああああ! 誰か!! 誰か、助けてええ!!」
腹の底から思いっきり叫んだ。でも、こんな真夜中に誰も歩いていない。だから誰にも届かない声は闇に消えてゆく。
「いやあああああ!!!」
公衆トイレへ連れ込まれそうになった、その時。
「がふっ」
真横にいきなり裸の男が倒れ込んできた。
「ぎゃああああああああああ!!」
「大丈夫か!?」
安心できるような優しい声が降ってきたと思って振り向けば、そこには1人の男が息を切らして立っていた。手には重そうな鞄。どうやらそれで殴ったらしい。
「な、中村さん……」
現れた上司――中村智紀が、本当に仏に見えた瞬間だった。
応援ありがとうございます!
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