26 / 38
第26話 アリカ、父将軍に腕相撲をもちかける
しおりを挟む
「久しぶりだな」
将軍はアリカに向かって静かな声で言った。
「はい、―――」
「いつもの様に父上と呼んではくれないのか」
「はい、父上」
そういうことにするんだな、と背後に控えるウリュンは唇を噛んだ。
「身体は大丈夫なのか」
「はい」
「気持ちは大丈夫か」
「少し混乱しておりますが大丈夫です」
「それでこそ我が家の娘だ」
違う。ウリュンは内心思う。アリカじゃないこの娘は。だがアリカだと、思わなくてはならない。
いや思ってもいい、が、口に出すな。絶対に。大きな背中がそう言っている。
「侍医の診断では、御子が出来ているかどうかはまだ判らないと言うことだが」
「はい。しかしそう感じるのです」
「感じるだけか」
「はい。すみません」
「それは仕方がない。女の身体に儂は疎い。ともかく今は身体を大事にするがいい。いずれにせよ、長い眠りから覚めたばかりなのだ」
「はい。父上、一つお願いがあります」
「何だ」
将軍は訝しげに「娘」を見た。彼女が自分に頼み事をするのは初めてだった。
「私と、今ここで、腕相撲をしてはいただけないでしょうか」
「腕相撲?」
ウリュンは思わず声を立てた。何故そんな。
「面白いことを言う」
「私は本気です」
「父上、望んでいるのですから」
「兄上」
アリカはそう言うと、ウリュンの方を向いた。そんな呼び方をするな、と彼は内心思う。だが将軍が「父上」ならば、自分は「兄上」だ。仕方がない。
仕方がないならば。
彼は卓を寝台の脇へ引き寄せる。
「父上は名うての豪傑。まずはこの兄が」
そう言うと、彼は右手を卓の上に乗せた。よろしいですか、とアリカは将軍に問い掛けた。将軍はうなづいた。
「では」
アリカは寝台から降りた。
袖を上げ、腕をむき出しにする。そこにはしなやかな白い腕があった。
思わずウリュンは目を細める。
賢いだけでなく、少女はいつの間に育っていたのだろうか。
「よし」
将軍はうなづいた。二人は手を組んだ。将軍はその上に大きな手を乗せると、両者を交互に見た。
「良いか」
「はい」
「はい」
はじめ、と将軍の声と同時に、うわ、とウリュンは自分の身体が右に傾くのを感じた。腕の付け根が痛んだ。
「な……」
「すみません兄上」
手を外した「妹」はあっさりとそう謝る。
「ウリュン、手を抜くのではない」
「いいえ俺は」
肩を押さえながら彼は首を横に振る。
「もう一度」
しなやかな手を掴む。今度は左で。左でも右でも、鍛えてはいる。多少の差こそあれ、少女に負ける気はなかった。
さっきのは気を抜いていただけだ。彼は思う。
しかし。
「うわぁっ!」
ウリュンは完全に倒されていた。力は入れた。入れたはずなのだ。
気を抜かなければ大丈夫のはずだった。はずだったのに。
「代わろう」
将軍はそう言うと、アリカの正面に屈んだ。
ウリュンは痛む肩を撫でつけると、大きさのまるで違う両手の上に手をかざした。
「はじめっ!」
今度はすぐに結果は出なかった。
―――動かない。
将軍の顔には、明らかに驚きの色が浮かんでいた。動かない? 動かないなんて!
サヘ将軍は根っからの武人である。その力は半端ではない。剣をふるい、槍を回し、強弓を弾く手だ。
敵の手を握ってそのまま骨折させたこともある。
なのに。
なのにアリカは、涼しい顔のままだった。
痛くも痒くも無いとばかりに、その華奢な手で、細い腕で、将軍の力をせき止めている。
将軍はむ、と口をつぐむと、握る手に力を込めた。
ぐ、と微かに左に傾ける。だがすぐに反対側からの力がかかる。
ウリュンは父の腕の筋肉が張りつめるのを見た。
「うぉぉぉう」
だん! 卓に音が響いた。
「申し訳ございません、父上」
涼しい顔のまま、アリカは手を軽くさすった。
将軍は、むむ、と低い声を立てた。
「成る程、先程サボンがお前の気が高ぶっている、と言っていたが――― 表に転がっていた椅子は」
「はい、私が投げたものです」
投げた! ウリュンはふと、昨夜の友人の姿を思い出した。
入り口に転がされていた椅子は、自宅のもの同様、結構な重量があるはずだ。
父との話が終わった後、部屋に戻った彼は、友人の姿を見て思わず固まった。椅子は訓練用の鉄錘ではない、と。
友人は練武場に用意されている最も重いものを、芸人のお手玉にも似た仕草で投げたことがある。皆それに仰天したものだ。
それを。
*
「では身体を大事にするのだぞ」
「はい」
声がする。サボンは慌てて厨房の外へと飛び出した。父と兄の姿がそこにはあった。
「掃除中であったのか?」
はっ、とサボンは自分の手の中の手巾に気付く。そうか、これが雑巾に見えるのか。サボンはすっ、と自分の背中が冷えるのを感じた。雑巾。自分の涙を拭ってくれたものなのに。
急に彼女は、自分が父とずいぶん離れた所に来てしまったことを感じた。
将軍は穏やかな声で言う。
「しっかり仕事に励む様に」
「はい、将軍様」
「お前も身体を大切にする様に」
サボンは顔を上げた。父の瞳が、ほんの少し和らいだ様な気がした。
「……はい」
そして兄は。―――何も言わず、その場から立ち去って行った。
怒っているのだ、とサボンは思った。自分のことを許せないくらいに。
そのまま彼女は「自分の主人」の元へと戻った。
将軍はアリカに向かって静かな声で言った。
「はい、―――」
「いつもの様に父上と呼んではくれないのか」
「はい、父上」
そういうことにするんだな、と背後に控えるウリュンは唇を噛んだ。
「身体は大丈夫なのか」
「はい」
「気持ちは大丈夫か」
「少し混乱しておりますが大丈夫です」
「それでこそ我が家の娘だ」
違う。ウリュンは内心思う。アリカじゃないこの娘は。だがアリカだと、思わなくてはならない。
いや思ってもいい、が、口に出すな。絶対に。大きな背中がそう言っている。
「侍医の診断では、御子が出来ているかどうかはまだ判らないと言うことだが」
「はい。しかしそう感じるのです」
「感じるだけか」
「はい。すみません」
「それは仕方がない。女の身体に儂は疎い。ともかく今は身体を大事にするがいい。いずれにせよ、長い眠りから覚めたばかりなのだ」
「はい。父上、一つお願いがあります」
「何だ」
将軍は訝しげに「娘」を見た。彼女が自分に頼み事をするのは初めてだった。
「私と、今ここで、腕相撲をしてはいただけないでしょうか」
「腕相撲?」
ウリュンは思わず声を立てた。何故そんな。
「面白いことを言う」
「私は本気です」
「父上、望んでいるのですから」
「兄上」
アリカはそう言うと、ウリュンの方を向いた。そんな呼び方をするな、と彼は内心思う。だが将軍が「父上」ならば、自分は「兄上」だ。仕方がない。
仕方がないならば。
彼は卓を寝台の脇へ引き寄せる。
「父上は名うての豪傑。まずはこの兄が」
そう言うと、彼は右手を卓の上に乗せた。よろしいですか、とアリカは将軍に問い掛けた。将軍はうなづいた。
「では」
アリカは寝台から降りた。
袖を上げ、腕をむき出しにする。そこにはしなやかな白い腕があった。
思わずウリュンは目を細める。
賢いだけでなく、少女はいつの間に育っていたのだろうか。
「よし」
将軍はうなづいた。二人は手を組んだ。将軍はその上に大きな手を乗せると、両者を交互に見た。
「良いか」
「はい」
「はい」
はじめ、と将軍の声と同時に、うわ、とウリュンは自分の身体が右に傾くのを感じた。腕の付け根が痛んだ。
「な……」
「すみません兄上」
手を外した「妹」はあっさりとそう謝る。
「ウリュン、手を抜くのではない」
「いいえ俺は」
肩を押さえながら彼は首を横に振る。
「もう一度」
しなやかな手を掴む。今度は左で。左でも右でも、鍛えてはいる。多少の差こそあれ、少女に負ける気はなかった。
さっきのは気を抜いていただけだ。彼は思う。
しかし。
「うわぁっ!」
ウリュンは完全に倒されていた。力は入れた。入れたはずなのだ。
気を抜かなければ大丈夫のはずだった。はずだったのに。
「代わろう」
将軍はそう言うと、アリカの正面に屈んだ。
ウリュンは痛む肩を撫でつけると、大きさのまるで違う両手の上に手をかざした。
「はじめっ!」
今度はすぐに結果は出なかった。
―――動かない。
将軍の顔には、明らかに驚きの色が浮かんでいた。動かない? 動かないなんて!
サヘ将軍は根っからの武人である。その力は半端ではない。剣をふるい、槍を回し、強弓を弾く手だ。
敵の手を握ってそのまま骨折させたこともある。
なのに。
なのにアリカは、涼しい顔のままだった。
痛くも痒くも無いとばかりに、その華奢な手で、細い腕で、将軍の力をせき止めている。
将軍はむ、と口をつぐむと、握る手に力を込めた。
ぐ、と微かに左に傾ける。だがすぐに反対側からの力がかかる。
ウリュンは父の腕の筋肉が張りつめるのを見た。
「うぉぉぉう」
だん! 卓に音が響いた。
「申し訳ございません、父上」
涼しい顔のまま、アリカは手を軽くさすった。
将軍は、むむ、と低い声を立てた。
「成る程、先程サボンがお前の気が高ぶっている、と言っていたが――― 表に転がっていた椅子は」
「はい、私が投げたものです」
投げた! ウリュンはふと、昨夜の友人の姿を思い出した。
入り口に転がされていた椅子は、自宅のもの同様、結構な重量があるはずだ。
父との話が終わった後、部屋に戻った彼は、友人の姿を見て思わず固まった。椅子は訓練用の鉄錘ではない、と。
友人は練武場に用意されている最も重いものを、芸人のお手玉にも似た仕草で投げたことがある。皆それに仰天したものだ。
それを。
*
「では身体を大事にするのだぞ」
「はい」
声がする。サボンは慌てて厨房の外へと飛び出した。父と兄の姿がそこにはあった。
「掃除中であったのか?」
はっ、とサボンは自分の手の中の手巾に気付く。そうか、これが雑巾に見えるのか。サボンはすっ、と自分の背中が冷えるのを感じた。雑巾。自分の涙を拭ってくれたものなのに。
急に彼女は、自分が父とずいぶん離れた所に来てしまったことを感じた。
将軍は穏やかな声で言う。
「しっかり仕事に励む様に」
「はい、将軍様」
「お前も身体を大切にする様に」
サボンは顔を上げた。父の瞳が、ほんの少し和らいだ様な気がした。
「……はい」
そして兄は。―――何も言わず、その場から立ち去って行った。
怒っているのだ、とサボンは思った。自分のことを許せないくらいに。
そのまま彼女は「自分の主人」の元へと戻った。
0
あなたにおすすめの小説
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結】
星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
王命により、辺境伯ロキアのもとへ嫁いだのは、金髪翠眼の美しき公爵令嬢スフィア。
だが、初夜に彼が告げたのは、愛も権限も与えないという冷酷な宣言だった。噂に踊らされ、彼女を「穢れた花嫁」と罵ったロキア。
しかし、わずか一日でスフィアは姿を消し、教会から届いたのは婚姻無効と慰謝料請求の書状──。
王と公爵の怒りを買ったロキアは、爵位も領地も名誉も奪われ、ただの補佐官として生きることに。
そして十年後、運命のいたずらか、彼は被災地で再びスフィアと出会う。
地位も捨て、娘を抱えて生きる彼女の姿に、ロキアの胸に去来するのは、悔恨と赦しを乞う想い──。
⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
おばさんは、ひっそり暮らしたい
蝋梅
恋愛
30歳村山直子は、いわゆる勝手に落ちてきた異世界人だった。
たまに物が落ちてくるが人は珍しいものの、牢屋行きにもならず基礎知識を教えてもらい居場所が分かるように、また定期的に国に報告する以外は自由と言われた。
さて、生きるには働かなければならない。
「仕方がない、ご飯屋にするか」
栄養士にはなったものの向いてないと思いながら働いていた私は、また生活のために今日もご飯を作る。
「地味にそこそこ人が入ればいいのに困るなぁ」
意欲が低い直子は、今日もまたテンション低く呟いた。
騎士サイド追加しました。2023/05/23
番外編を不定期ですが始めました。
断腸の思いで王家に差し出した孫娘が婚約破棄されて帰ってきた
兎屋亀吉
恋愛
ある日王家主催のパーティに行くといって出かけた孫娘のエリカが泣きながら帰ってきた。買ったばかりのドレスは真っ赤なワインで汚され、左頬は腫れていた。話を聞くと王子に婚約を破棄され、取り巻きたちに酷いことをされたという。許せん。戦じゃ。この命燃え尽きようとも、必ずや王家を滅ぼしてみせようぞ。
腹違いの妹にすべてを奪われた薄幸の令嬢が、義理の母に殴られた瞬間、前世のインテリヤクザなおっさんがぶちギレた場合。
灯乃
ファンタジー
十二歳のときに母が病で亡くなった途端、父は後妻と一歳年下の妹を新たな『家族』として迎え入れた。
彼らの築く『家族』の輪から弾き出されたアニエスは、ある日義母の私室に呼び出され――。
タイトル通りのおっさんコメディーです。
「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある
柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった
王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。
リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。
「わかりました。あなたには、がっかりです」
微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる