反帝国組織MM⑤オ・ルヴォワ~次に会うのは誰にも判らない時と場所で

江戸川ばた散歩

文字の大きさ
15 / 24

第15話 「あなたの声が耳に入ると、僕は何やら訳が判らなくなる」

しおりを挟む
 一応ノックはしたつもりだった。だいたいノックというものは、どれだけ小さかったとしても、何となし耳に響く音ではあるから、気付くはずだろう、と彼も思っていた。
 だがどうやら例外も居たらしい。ノックをしたにも関わらず、足音もちゃんとさせて歩いていったにも関わらず、その黒い長い髪を後ろでくくった下級生は、彼が近づくのにまるで気付かないらしい。
 何だかなあ、と彼は思いつつも、ピアノを一心不乱に弾いている下級生に近づいていった。手慣れた指づかいは、ここにくる前の経歴を何となしうかがわせる。
 面白く、なっていた。
 彼はそのまま声をかけることもなく、ピアノを弾く下級生の右横に立った。さすがにそこまで近づけば、気がつくだろう、と考えたのだ。だがそれでも気付くまでには数秒かかった。
 気配に気付いた様子はなかった。ちらり、と高音の鍵盤に目をやった時に視界の端に映ったのだろう、彼の大きな手に視線を走らせた時、初めてその下級生は気がついたようだった。
 弾かれたように下級生は顔を上げた。だがその目線はまだやや焦点があっていないように感じられた。
 集中しすぎで心が飛んでいるな、と彼は気付いた。芸術分野に足を踏み入れている者には、時々そういう者がいるのだ。集中力が凄まじいが、そこから現実の世界に立ち返るのにやや時間が必要な者が。
 しばらくして、ようやくその下級生はぶっきらぼうに彼に訊ねた。まだ表情は堅いままだった。
 端正な顔だ、と彼はまじまじと観察しながら思った。そして好みの顔だ、と自分自身に付け加えた。

「何か用ですか?」

 彼はちら、とアプライトのピアノの上にあった譜面に目をやる。ああそうか、こいつが合唱の伴奏をやるんだな。
 無論彼は、合唱の曲は知っていた。ちょうどこの時下級生が弾いていたのは、この士官学校で毎年必ず「合唱」をやる際には歌われるものだったのだ。だが、下級生がその事情を全て知っているとは限らなかった。彼はややかまをかけてみた。

「実は先日、俺は用事があって……」

 ふうん、と不思議そうな顔で下級生は次第に表情を緩ませた。微かに傾げた首筋に、長い髪がぱらりとかかる。何だろう、と彼は思った。妙に、目が離せない。

「一応読めるけど、ちゃんと覚えたいから……」

 すると下級生は、ああそうか、という表情になった。彼はこの下級生は事情を知らないな、とその時知った。無論彼は、既にその曲は暗譜している。簡単に歌えるのだ。
 そして下級生はそんな彼の思惑など知らずに、素直に指を動かし始めた。なめらかに指が鍵盤の上を走る。
 ところが数小節ばかり行ったところで、突然下級生はその指を止めた。
 歌を急に止められるのは、さすがに彼も好きではない。
 怒ってやってもよかったのだが、そう思って下級生を見たら、何やら様子がおかしい。
 彼は軽く姿勢を落とし、下級生の顔をのぞきこむようにして訊ねた。
 するといきなり、下級生は飛び跳ねるようにして、椅子から立ち上がった。勢いに、彼は相手の腕をあごにぶつけてしまった。
 その痛みも手伝って、さすがに彼もやや不機嫌な顔になった。

「何か俺が悪いことをしたのか?」

 すると下級生は、慌てて首を横に振った。そんなことはない、と必死で抗弁しているようにも見えた。その必死さが演技である訳はない。だがその必死さゆえに、それは彼のカンにやや障った。
 そんな風に、拒絶されたことは今までなかったのだ。
 下級生はゆっくりと近づいてくる彼から逃げるように後ずさりしていく。馬鹿だなあ、と思いながら、彼は下級生を壁際まで追いつめた。逃げる所なんかないのに。

「一体俺が何をしたっていうの?」

 下級生は首を横に振る。

「じゃ何で君は逃げるんだ?」

 再び下級生は首を横に振る。他の動作を忘れてしまったかのように。
 いくつかの問いを彼は発した。複雑なことは聞いてはいない。同じ問いのヴァリエーションを変えただけだ、と彼自身、気付いていた。だが相手があまりにも何も答えようとしないから、つい彼も意地になってしまう。
 何度も何度も横に振った首には、うっすらと汗が浮いて、長い髪を絡み付かせて、それが奇妙になまめかしい。頬は上気しているし、目も潤んでいる。
 そんなになるまで、俺が一体何をしたっていうの。
 何となく彼は自分が理不尽に扱われているような気がしていた。
 だが何度目かの詰問の末、下級生は、とうとう口を開いた。そして消えいりそうな声で、彼に向かってこう言った。

「……あなたの声が悪いんだ」

 俺の声が? 彼は思いも寄らない答えに目を丸くする。冗談じゃないか、と手を伸ばし、下級生の顔を持ち上げる。視線が合う。そしてその瞬間、ぞくりとした。

「……俺の声が?」    

 彼はたずねる。下級生は大人しくうなづいた。うなづこうとしていた。

「……あなたの声が耳に入ると、僕は何やら訳が判らなくなるんだ……」

 声が?
 何のことだか訳が判らなかった。もしかしたら、この下級生が、自分をまくために何やら浮かんだことを言っているだけかもしれない、とも思った。
 だから、もう一度同じ問いを発した。

「俺の声が?」

 すると掴んだ所から、微かな震えが伝わってきた。なるほど、確かに声に反応しているんだな、と彼は思った。感じやすい奴だ。
 何となく面白くなっていた。
 彼は相手を掴んだ指の力を少し抜くと、そのままつ、と耳の方へと移動させた。下級生の喉から細い声が漏れる。思った通り、感じやすい。
 彼は口元を軽く上げる。面白い。
 そのまま彼は下級生の首筋に指をすべらせ、鎖骨のあたりまで走らせた。さてその先に行くべきかどうか。一瞬迷ったが、何も急ぐことはないだろう、と思った。

「じゃあ仕方ないね」

 そして自分と相手の間を留めていた手を、壁から離した。
 下級生は心底安堵したような表情で、大きく息をついている。ずるずると壁に背をついたまま、その場に座り込んでいる。
 何だかひどくその様子が可愛らしく見えて、彼は思わずあはは、と声を立てて笑っていた。
 また翌日も来てやろう、と内心思ったのである。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

主人公の恋敵として夫に処刑される王妃として転生した私は夫になる男との結婚を阻止します

白雪の雫
ファンタジー
突然ですが質問です。 あなたは【真実の愛】を信じますか? そう聞かれたら私は『いいえ!』『No!』と答える。 だって・・・そうでしょ? ジュリアーノ王太子の(名目上の)父親である若かりし頃の陛下曰く「私と彼女は真実の愛で結ばれている」という何が何だか訳の分からない理屈で、婚約者だった大臣の姫ではなく平民の女を妃にしたのよ!? それだけではない。 何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!! 私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。 それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。 しかも! ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!! マジかーーーっ!!! 前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!! 思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。 世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。

三十年後に届いた白い手紙

RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。 彼は最後まで、何も語らなかった。 その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。 戴冠舞踏会の夜。 公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。 それは復讐でも、告発でもない。 三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、 「渡されなかった約束」のための手紙だった。 沈黙のまま命を捨てた男と、 三十年、ただ待ち続けた女。 そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。 これは、 遅れて届いた手紙が、 人生と運命を静かに書き換えていく物語。

二重のカーテン (スカートの下の黒い意志)

MisakiNonagase
青春
洗濯物の隙間に隠したのは、母としての祈りと、娘のプライド。 かつて、女子高生という生き物はもっと無防備で、自由だった。 44歳の主婦、愛子が朝のベランダで手にするのは、娘たちが毎日履き替える漆黒のオーバーパンツ、通称「黒パン」。それは、令和を生きる娘たちが自らの尊厳を守るために身に着ける、鉄壁の「鎧」だった。 小学校時代のママ友たちとのランチ会。そこで語られるのは、ブルセラショップに下着を売っていた奔放な50代、無防備なまま凛と歩くしかなかった40代、そして「見せないこと」に命を懸ける10代の、あまりに深い断絶。さらには、階段で石像のように固まる父、生徒の背後に立たないよう神経を削る教師……。 一枚の黒い布を通して浮き彫りになる、現代社会の歪さと、その根底にある不器用なまでの「優しさ」。 ベランダに干された黒いカーテンの向こう側に、あなたは何を見ますか?

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。 嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。 「居なくていいなら、出ていこう」 この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし

父が再婚しました

Ruhuna
ファンタジー
母が亡くなって1ヶ月後に 父が再婚しました

(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」

音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。 本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。 しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。 *6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。

つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。 舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。 さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。 リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。 ――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。

処理中です...