ノーマス

碧 春海

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二日

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 昨夜は、バスタオルを身体から外してベットに入り布団を掛け、暫くは朝比奈の存在もあり気になって眠りには付けなかったが、体も温まり次第に睡魔が真由美にも訪れた。それから何時間たっただろう。忌まわしい夜も空け、目が覚めると勿論全裸のまま、足の方の布団は少し剥がされていた。
「目覚めましたか、朝ごはんの準備出来ていますよ」
 キッチンの方で朝比奈の声がして驚いてベットの上に起き上がった。
「流石に我慢出来なくて、真由美さんが寝ている間に頂いてしまいました」
 朝比奈の言葉に神経を張り巡らせると、下腹部に違和感を感じた。初めての時は痛いものだと友人に聞いたり知識としては知っていたが、考えて悩み抜いて思い切って決断した結果が、寝ている間に済んでしまうそんなものだったのかと、その行為に対して何か惨めな感情が湧いて来て相当落ち込んだ。
「そっ、そうですか。朝比奈さんは満足出来ましたか」
 声のする方へ向けて返事をすると、下着を付けていつものパジャマに着替えると、朝比奈に顔を合わさないように姿を見せた。
「残念ながら、僕にはちょっと・・・・・・」
 真由美が起きて来たのを確認し、食事の準備を始めた。
「寝ている間ですから、物足りなかったんでしょうね。すみませんでした」
 溜息を吐いて、肩を落としテーブルに着いた。自分が言った言葉を思い出したら朝比奈と顔を合わせる勇気がなかった。
「いえ、反対に味がちょっと濃いって感じですね。香りが強すぎるのかな、もっとぐいぐいと飲める方がいいですね。やっぱり千駄ヶ谷さんの『青汁』が一番だと思います」
 自分と真由美の味噌汁を注いで其々のテーブルの前に置いた。
「あっ、そうですか・・・・・」
 何の話なのか頭が混乱して言葉が見つからなかった。
「真由美さんも野菜不足を感じるのはよく分かりますが、何でもいいという訳ではありませんよ。ちゃんと含まれる成分とかカロリーを確認してバランスよく取るようにして下さいね。それに簡単だから、朝はパンなんて決め付けているでしょう。だと思って、今朝は和食にしてみました。冷蔵庫の余り物で作りましたので、豪華ではないですが出汁巻き卵と余った野菜の味噌汁に、千切りにしたキャベツとゆで卵のサラダにしてみました。我が家の味付けですので口に合えばいいのですが、それでは頂きましょう」
 顔の前で手を合わせた。
「あの、えっ、まさか、朝比奈さん何の為に昨夜からずっといるのですか」
 もう一度自分の体を確認しながらも、今あるこの風景が信じられなかった。
「いや、約束通り、真由美さんが眠ったら家に帰ろうと思いましたが、変なこと言い出すし、昨夜の真由美さんの精神状態がちょっと心配だったので、朝までいさせてもらいました。部屋の鍵も掛けて出られませんからね。お蔭で、姉にはこっぴどく叱られました。真由美さん、これ貸しですからね」
 右の人差し指を立てて見せた。
「あの、いつも朝ごはんを作っているのですか」
 真由美も手を合わせてから味噌汁の器を手に取った。
「はい、毎日作らせてもらっています。家政婦のゆ・う・さ・くと呼ばれています。でも、姉は朝ギリギリまで寝ていますので、どうしてもパンの日が多いですね。こうして、ゆっくり二人でご飯を食べるのは殆んどないですから」
 味噌汁をすする真由美の姿を気にしながら答えた。
「あっ、出汁が効いてて、とても美味しいです。それに、野菜がたくさん入っているし、とてもヘルシーですね」
 一人暮らしになって、こんな朝ごはんを食べたことがなかったので感動的だった。
「多めに作ってありますので、お替りも出来ますよ」
 真由美の笑顔をおかずに箸を進めた。
「このご飯、うちにあった米で炊いたのですよね。何時もより、ツヤツヤしてるしとても美味しいです」
 ご飯をゆっくり噛み締めながら尋ねた。
「はい、夜の分もと多めに炊いたからだと思いますが、ご飯を炊く直前にサラダ油を大さじ一杯入れると、ツヤツヤのご飯になるのです」
 朝比奈も満足げにご飯を頬張った。食事を終え後片付けが済むと、リビングで二人が向き合うことになった。
「あっ、真由美さん、今日は大学の講義大丈夫なのですか」
 時計の針を気にしながら朝比奈が話を切り出した。
「今日はいいです・・・・もう、退学しようと思っています。今更勉強する意味はないのですから」
 両手の肘を其々の膝に当てて下を向いた。
「意味がない・・・・そうですか。人間の生きる意味、生きがいとは何でしょう。反対に、生きたいと思っていても命を失う人は沢山いますよ」
 優しく語り掛けるように答えた。
「それは綺麗事ですよ。朝比奈さんには何も分かっていないのです」
 悔しそうに両手を握った。
「そうですね。真由美さんは生きている自分の価値を無くしたから死を選ぼうとした。でも、さっきの真由美さんを見て僕はとっても幸せな気分になりました。ほんの一瞬だったかも知れませんが、真由美さんは僕に幸せな気分を与えてくれたのです。それに、何も分からないと言われましたが、つい最近ですが僕はあるヤクザグループの一員に拳銃で狙われました。おそらく九十九%の確率で死んでいたでしょう。でも、ある刑事の勇気ある行動で僕は命を落とすことはありませんでした。死というものを目の当たりにして、恐怖心がなかったかと聞かれれば、本当に恐ろしかったです。この世に自分がいなくなるという恐怖心です。でも、もしあの時、亡くなっていても、僕は後悔していないと思います。その時は精一杯生きていたからです。人間、生まれたからには必ず死にます。悔いを残す惨めな死に方はしたくない。多勢の人に惜しまれて、格好良く死にたいですからね」
 真面目な表情で答えた。
「本当に悔いはなかったのですか」
 溜息を吐いてから尋ねた。
「まぁ、それは嘘かな。やりたいことはまだ一杯ありますからね。でも、与えられた人生、その時その時を精一杯生きたいからね」
 今度は頭を掻きながら答えた。
「あっ、朝比奈さんこそ仕事大丈夫なんですか」
 真由美が時計の時間を気にして尋ねた。
「会社にはしばらく休むと連絡しておきました」
 右の親指を立てて答えた。
「本当に大丈夫なんですか」
 心配そうに真由美が言った。
「仕事といってもアルバイトですから、真由美さんと天秤に掛ければ、真由美さんの方がずーとずーと重いですから」
 右手と左手で表現して見せた。
「何でそんなに私のことを・・・・・・」
朝比奈の私を想う言葉に不安になった。
「だって、彼女だからね。ハイ、よく文面をご確認の上。署名と捺印をお願いします」
 朝比奈は『恋人契約書』と書かれた手書きの書類を真由美の目の前に差し出した。
「えっ、本当に恋人になってくれるのですか」
 その書類を手に取り目を通しながらも手が小刻みに震えていた。
「ご不満な点がございましたら、後日修正して契約させて頂きますのでよろしくお願いします」
 朝比奈は軽く頭を下げた。
「あっ、これで結構です」
 最後まで丁寧に書かれた文章を見て答え、居間の棚に仕舞ってあった小さなバックの中から印鑑を取り出して来ると、署名捺印を終えた。
「ありがとうございます。今をもちまして契約が結ばれました、よろしくお願い致します」
 もう一度丁寧に頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 つられて真由美が頭を下げた。
「おい、真由美、なんて格好してるんだ。早く着替えて、ちゃんと大学の講義受けろよ。車で送ってやるから」
 急に砕けて朝比奈が言った。
「えっ、呼び捨て・・・・・」
 急な態度の変化に言葉を詰まらせた。
「恋人なんだから当たり前だろ。お前も、『優作』って呼び捨てでいいぞ。今日の予定は、どうなってるんだ。早く帰れそうか」
 次々と話が飛び出して、真由美は慌ててスマホを手にした。
「今日は午前の講義が一つと午後から二つ、四時には終わるから五時には帰れると思う」
 スマホで確認しながら真由美が答えた。
「じゃあ、この部屋で待ってるから、帰って来たら一緒に買い物に行こうか。冷蔵庫には何もなかったから、沢山買わなきゃな。それから、午前中の講義にはまだ間に合うんだろ、昨日彼女が持って来たケーキがあるから一緒に食べよう。用意しておくから、着替えて来いよ」
 椅子から立ち上がるとキッチンに向かった。
「あっ、ハイ、準備してきます」
 パジャマ姿の真由美も寝室へと向かった。
「すまないけど、スマホに真由美の電話番号を入れといてくれないか」
 アパートを出て直ぐに朝比奈はスマホを取り出して真由美に手渡した。
「はい、分かりました」
 真由美は朝比奈のスマホから受け取り、自分の番号を入力すると、『い』の欄を確認した。
「ありがとう」
 走り出した車の助手席からスマホを受け取ってポケットに戻した。
「あの、優作さん、あっ、優作は、昨夜二人のあの姿を見られた女性を知ってるよね」
 真由美は申し訳なさそうに尋ねた。
「うん、知ってるよ。同じ大学に在学していて、以前真由美と同じアパートに住んでいた女性だよね」
 大学に向けて車を走らせる朝比奈が答えた。
「いつか、優作には分かってしまうだろうから、私の口から話しておきたいの。聞いてくれるかな」
 真由美は覚悟を決めて話し始めた。
「話して真由美の気持ちが晴れるのなら聞くけど、無理して話さなくてもいいよ」
 朝比奈は表情を変えないまま答えた。
「うーん・・・・・・・やっぱり話さなきゃいけないと思う。多分その話を聞いたら、優作はきっと恋人を解消すると思うけど、でも、隠している方が辛いから聞いて下さい」
 少し考えてから答えた。
「分かった。それが真由美の決断だとすれば、僕はそれを尊重するよ」
 これまでの色々な情報を集めて、左の顳かみを叩いて答えた。
「あっ、あの、糸川美紀さんは学部は違うけれど、同じ大学に在籍する先輩です。偶然アパートで出会って、同じような環境で同じ大学だったこともあって親しくなり、二人だけで食事もする機会が増えました。つい最近までは先輩はひどく落ち込む姿が多くなり、ある意味では先輩に対して優越感を感じて、私が慰める方が多かったのです。でも、父の事件が起こり、母は気丈に振舞っていましたが、その心はボロボロだったと思います。勿論私も落ち込んでしまったのですが、その反対にあれ程落ち込んでいて、夢だった法律の世界も諦めると言い出した先輩が、最近夢を取り戻し急に明るくなったのです。そして、その夢を与えてくれた、男性の話を何度もするようになったのです。その男性は、直ぐに優作のことだと分かりました。同情仕合、慰めあって来た友人の一人が幸せそうに話をするたびに、今まで慰めて来た私が反対に慰められている。本当に惨めになりました。苦しいことが続くたびにどんどん、先輩が幸せな話をするたびに強く強く心を傷つけました。自殺を思い立ったのも、それが原因だったのかも知れません。だから、死ぬ前に、先輩から幸せを奪ってやろう、そして自分が少しの間でも優越感を感じ幸せになりたい。最後に、最後に、一つ位わがままを起こしてもいいんじゃないかって思ってしまって・・・・・・・」
 最後の方は涙が溢れ、途切れ途切れで言葉にならないくらいだった。
「真由美、誰の、どんな曲をよく聴くんだっけ、出来ればちょっと古目がいいんだけど」
 朝比奈は塞ぎ込む真由美に向かって尋ねた。
「古目の歌手っていうのか、嵐とかTOKIOのジャニーズ系のグループが好きです」
 突然の問いにそれくらいしか思い浮かばないし、本当に自分の告白を真剣に聞いていてくれたのかという思いの方が強かった。
「そうだね。本当に素晴らしい曲も多いんだけれど、なにか心に響いてこない感じかするんだよね。最近のテレビコマーシャルに使われている曲は、昭和の後半や平成の前半のものが多くて、僕も気になって調べてみたけど、ドリカムの『LOVE・LOVE・LOVE』なんか本当に心に染みるよね」
 曲の一部を口ずさみながら言った。
「あの、さっきの私の話聞いていましたか」
 信じられない態度に真由美が言い返した。
「僕の答えはこの曲かな。聞いたことあるかも知れないけど、じっくりと歌詞を感じ取ってくれないかな」
 朝比奈は車にあった小田和正のCDに入れ替えて、十六番目の『君住む街』を選択したが、前奏を耳にしても一度も聞いたことがない曲だった。
『そんなに自分を責めないで、過去はいつでも鮮やかなもの、死にたいくらい辛くても、都会の闇へ消えそうな時でも、激しくうねる海のようにやがて君は乗り越えてゆくはず、その手で望みを捨てないで、すべてのことが終わるまで、君住む街まで飛んでゆくよ、ひとりと思わないでいつでも。君の弱さを恥じないで、皆んな何度もつまづいている、今の君もあの頃に負けないくらい僕は好きだから、歌い続ける繰り返し君がまたその顔を上げるまで。あの日の勇気を忘れないですべてのことが終わるまで、雲の切れ間につき抜ける青い空、皆んな待ってるまた走り始めるまで。その手で心を閉じないでその生命が尽きるまで、かすかな望みがまだその手に暖かく残っているなら・・・・・・』
「過去には誰も戻れない。未来は誰にも分からない。こんな言葉は余り好きじぁないけど、今さえよければいいんじゃないかな。今、この一瞬を生きることが大切だと思う。それでいいと思うし、その積み重ねが素晴らしい思い出になれば最高だよね。それに、僕が『恋人』の契約をしているのは貴方だけです。書面にも書いてありますが、重複契約は違反行為ですので念の為に・・・・・・・」
 軽く頭を下げた。
「恋人の契約書・・・・・でも、本当にそれでいいの、後悔しない」
 手書きの書類の入った鞄をギュと両手で握り締めた。
「後悔・・・・字のごとく、後で悔やむってことですよね。それは分かりません。でも、真由美が今の僕を選び恋人の契約をしてくれたことは本当に嬉しく思うし、僕も恋人として解約されないように尽くしたいと思っています。なんてね。でも、あのタイミングはまずかったよね。もし、立場が違っていたら、相手の男をボコボコにしていたかも」
 拳をボクシングのパンチのように何度も突き出した。
「マジ」
 その仕草を見て声を発した。
「マジですよ。勿論、真由美にもね。十分に気をつけなさいよ」
 ドラマの刑事のようにねちっこい言葉で返した。
「優作程の『変人』ではないのでご心配なく」
 そう言って笑いあった。
「『変人』と呼ばれたついでにもう一つ、真由美『笑う門には福きたる』って言葉知ってる」
 真由美の笑顔を見ながら尋ねた。
「しっ、知っているわよ。いつも笑っていれば、いつか幸せが訪れるってことでしょ」
 余りにもの笑い顔に呆れているのだと思い、真面目な顔に戻して答えた。
「笑いは、医療でも使われるモルヒネに似た鎮静作用を持つエンドルフィンの分泌を促進し、呼吸による酸素と二酸化炭素の交換を四倍にするんだ。それに、消化管を攪拌して便秘に効果があると同時に、肝機能不全を補う作用も果たしている。悲しいことがあっても、辛いことがあったとしても、一人ふさぎこまないで明るく笑っていた方が、身体にもいいってことだよ」
 前を向いて語った。
「それって、優作のくだらないオヤジギャグやうんちくを笑えってことなの」
 顔をゆっくり上下に動かした。
「違うよ、くよくよしている時のより、笑っている時の真由美の方がずっと素敵だから」
 頭を掻きながら、後の方は声が小さくなった。
「分かりました。優作の前では笑顔の素敵な真由美でいます」
 
 真由美を大学の近くで降ろすと、朝比奈は東区にある愛知県警東丘署に向かった。
「あの、ちょっと事件のことで話をお聞きしたいのですが、お取次ぎ頂けないでしょうか」
 朝比奈は、受付の女性に声を掛けた。
「どのような事件に関してでしょう。まず、こちらに記入して頂けますか」
 女性は受付用紙を差し出した。
「今月の初めに碧さんという人物が亡くなった件なのですが、どちらへ伺えばよろしいでしょうか」
 朝比奈は必要事項を記入し終えると、奥の方を覗いて尋ねた。
「ちょっ、ちょっとお待ち下さい」
 女性は内線で刑事課へ連絡を取った。
「碧さんの自殺について聞きたいとのことですが、ご遺族の方ですか」
 少し腹の膨らんだ年配の男性が奥から出て来て朝比奈に尋ねた。
「いえ、遺族ではありませんが、事件の内容を少しお聞きしたいと思いまして、よろしくお願いします」
 その男性に軽く頭を下げた。
「碧さんの件に関しては、既に処理された案件ですので、残念ながらご遺族以外には対応出来ません。申し訳ありませんがお帰り下さい」
 言葉は丁寧ではあったが、この忙しい時にと言う思いがヒシヒシと感じられた。
「そうですか、遺族以外は無理、仕方がないですね・・・・・・私は、週間パトスの朝比奈と言います。しかし、事件ではなく、自殺と言うことであれば内容を教えて頂いてもよろしいのではないですか」
 ポケットの手帳から名刺を取り出して尋ねた。
「そう言われてもね・・・・・」
 週刊誌にあまり冷たい態度を取っても不味いと考えていると、奥から出てくるスーツ姿の一人の女性が目に止まった。
「あっ、松原さんちょっとお願い出来るかな」
 その女性に声を掛けて呼び止めた。
「あっ、はい、なんでしょうか」
 その松原と呼ばれた女性が振り返って答えた。
「この人が碧さんの自殺について聞きたいと来られたのだけど、今ちょっと人手不足で申し訳ないが、応対してもらえないかな」
 男性刑事は右掌でこちらに来てと呼び寄せた。
「でも、課長、その事件は私には・・・・・」
 松原はそのまま立ち止まっていた。
「いいじゃないか、松原さんはこの署は今日までなんだろ。最後のお勤めと思って、応対してくれないかな」
 今度は男性刑事の方から近づいてお願いした。
「わっ、分かりました。こちらへどうぞ」
 課長は松原の耳元で『適当にあしらっておけ』と言われ、渋々朝比奈の前に立って応接室へと案内した。
「それで、碧さんの事件の何をお答えすればよいのでしょう」
 テーブルを挟んで対面すると、松原の方から話を切り出した。
「松原さんとおっしゃるのですか、僕の名前は朝比奈優作、よろしくお願いします。それでは先ず、下のお名前とご出身地をお願いします」
 朝比奈は小さなノートを出してボールペンの青のボタンを押した。
「えっ、出身地もですか」
 変な質問に戸惑った。
「出来れば、どこで育ったのかも教えて頂ければ助かります」
 ノートを開いて用意を整えた。
「松原和子、出身地は尾張旭市でずっとこの地方に住んでいます」
 呆れながらも仕方なく答えた。
「えっ、尾張旭市ですか、野球のドラフト会議で地元ドラゴンズが一位指名した高校生のピッチャーも尾張旭市の出身でしたね。ぜひ頑張って一軍で活躍して欲しいですね。中日ドラゴンズが高校生ピッチャーを一位指名するのは五年前の小笠原慎之介以来だから期待度も高い。高校生で一位指名され、一年目に十勝以上勝って直ぐに活躍したのは、阪神の藤波晋太郎、楽天の田中将大、西武の松阪大輔くらいですから、本当に楽しみですよね」
 指を折って数え始めた。
「あの、野球の話をしに来られたのですか」
 呆れ顔で尋ねた。
「あっ、すみません。事件に関してなのですが、蒼さんの死に事件性がないと判断された理由はなんだったのでしょう。確か、警察は自殺、それも溺死として処理されていますよね」
 名前を記入してから改めて尋ねた。
「そっ、それは、現場には争った形跡が無く自殺の動機もあり、自殺をほのめかす文章が家族に残されていたことが重視されて、最終的に自殺と判断されました」
 検視報告書や遺書と思われる文字の一つ一つを思い出しながら答えた。
「河での自殺とすれば、体内からアルコールや薬物など検出はされなかったのですね。しかし、現場となった屋那瀬橋の柵の高さは男性の腰の辺りですので、不意を突けば争った形跡を残さずに河へ投げ込むことは不可能ではないでしょう」
 書き込みながら尋ねた。
「それでも、警察としてはあらゆる事実を集約し、尚且つ総合的に判断して自殺と判断したのです」
 両手を膝の上で握り締めて答えた。
「その言葉って、首相が日本学術会議の推薦名簿削除の時にも言っていたようですがね。テレビの刑事ドラマでは、警察のお偉い方が証拠は根刮ぎ拾えと各刑事に言葉を掛けいますが、本当に実施されているのでしょうか。確かに僕が思っている以上に、地を這うような捜査は大変で時間も掛かるのでしょう。でもね、その判断が正しければいいですが、もし間違っていたら大変ですよ」
 今度は真剣な眼差しで松原を見た。
「テレビドラマでは視聴者に喜んで貰う為に面白おかしく描いていますが、実際の現場では他にも色々と描ききれない泥臭いことがあるのです。一時間や二時間で解決出来る程単純なものではありません」
 睨み返して自信と誇りを込めて答えた。
「松原さんは『暗数』という言葉を勿論知ってますよね。実際の数値と統計結果との差で、なんらかの原因により統計に現れなかった数字の事です。主に警察などの公的機関が認知している犯罪の件数と実際に起きている件数との差を指すんですよね。つまり、本当は殺人に因って亡くなったのに、自殺や事故として処理されているということです。確かに、事件となれば捜査本部が立ち、大勢の刑事に因って捜査することになります。殺害を表す証拠が残っていなければ、自殺や事故として処理したいという気持ちも理解できます。しかし、管轄内では多くの事件の一件かも知れませんが、残された家族にとっては全てなのです。勿論簡単に処理しているとは思いませんが、事件が発生してから自殺と判断されるのが、あまりにも早すぎます。それに、家族に残されたと言われた遺書にしても、直前に書いたものではなく、亡くなった為にそう思えるだけで文面的に言えば不自然ですね。付け加えれば、どうして東京ではなく名古屋だったのでしょう。家族に会いたかったのならば、なぜその前に自殺しなければならなかったのか不可思議な点が多すぎます」
 左の顳かみを叩きながら尋ねた。
「私も、その事件に関してはもう少し調べるべきだと上司に訴えたのですが、聞き入れてはもらえませんでした。でも、他殺を疑う決定的な物証も見つからないまま自殺として処理されたのです。えっ、あっ、どうしてあなたがそんなことまで知っているのですか」
 少し冷静になると、朝比奈の言葉に疑問が湧いて来た。
「昔から、『壁に耳あり、障子に目あり』と言われていますし、今はインターネットなど情報が飛び交う時代ですからね。ご丁寧な対応ありがとうございました」
 朝比奈は立ち上がって松原に頭を下げて部屋を出た。その時、先程課長と呼ばれていた男性と顔が合って、軽く頭を下げて出口へと向かった。それから一時間程東へ車を走らせて、名古屋科学研究所の駐車場に車を止めた。
「こんにちわー」
 朝比奈は大島教授と書かれた扉を開けて部屋に入った。
「今日は何の用なんだ。お前と違って俺は忙しいんだ。それに、お前と関わって何一ついいことはない。反対に面倒なことばかり起こしてくれるよな」
 不機嫌そうに朝比奈を見た。
「まぁ、まぁ、そんなこと言わずに、先輩のだーい好きなマスタードーナッツのプレーンシュガーを五つも買ってきましたから」
 ドーナッツの箱を頭に抱えながら言った。
「こんなことで誤魔化せると思ってるのか」
 そう言いながら嬉しそうに箱を受け取った。
「そう言いながらいつも協力してくれるじゃないですか。それに、今回は取材ということで、先輩にはご迷惑をお掛け致しませんのでご安心下さい」
 早速テーブルを前にしたソファに腰掛けた。
「お前の常識は一般市民の非常識だからな。それで、何が聞きたいんだ」
 テーブルにドーナッツの入った箱を置き大島も腰を降ろした。
「日本学術会議の推薦名簿に先輩の名前が書かれていたのに、見事に黒く塗り潰されていたようですね。もっと落ち込んでいると思いました」
 大島の顔の動きを確かめて言った。
「ああー、そのことか。全然気にしてないといえば嘘になるけど、俺が望んで会員になれる訳ではないからな。反対に、俺は他の先生方に評価され、名簿に載せてもらったことだけで十分だと思っているよ。でも、国の中心である内閣に嫌われ、名簿から削除されるのはお前にも原因があるかもな」
 大島は反対に睨み返して言った。
「えっ、俺がですか」
 意外な言葉に朝比奈は目を丸くした。
「今問題になっている『夜桜を見る会』では、六千万円もの税金を掛けて皇族、元皇族、各国の大使、衆議院参議院の議長副議長、最高裁判長、長官、国務大臣、副大臣、大臣政務官、国会議員、認証官、事務次官、局長、都道府県の知事、その他各界の代表者が招待されるのだが、年々その人数は増え、参加人数は今年は一万八千人を超えた。税金を投じるのだから知事まではいいとしても、各界の招待者の基準が不透明でありその招待者は与党民自党に協力的な人物が選考されていると思える。これは、公職選挙法や政治資金規正法に触れるのではないかと思われても仕方ない。それに、日本の人口ひとり当たり二百五十円を乗じた金額の政党助成金約三百二十億円と政党交付金の使い道についてもよく調べて欲しいね。先回の選挙でも、愛知五区の衆議院選挙では、現職の坂本武士議員には選挙に対して党から二千万円の配布だったのに対して、新人の上野さくら議員にはその十倍の二億円が投じられている。何か裏があると思われても仕方ない。また、それで当選した国会議員が公職選挙法違反で調べを受け起訴にもなった。それらの事件の陣頭指揮を取っているのは、最高検察庁の朝比奈次席検事であり、その息子と親しくしていては、総理大臣には嫌われて任命はされませんってね。まぁ、そこまで調べてるとは思わないけど、美濃部幹事長は斬れ者だと言われているからな。そんなことはどうでもいいや、それで今日はどんな御用でしょうか」
 もじゃもじゃの頭を掻いて言った。
「あっ、はい、政治には全く関係ないことなのでその点は安心して下さい。実は、今度週刊誌で最新のがん治療について特集記事を書く事になって、がんの治療についてもですが、基礎知識からしっかりとお聞きしたいと思いまして時間を取ってもらいました」
 ポケットからノートを取り出して、ボールペンの青のボタンを押して準備を始めた。
「残念ながら俺はがんについての専門家ではないから、基礎知識程度しかご伝授できませんがそれでよろしいですか」
 歌舞伎役者のようにゆっくりとねちっこく答えた。
「はい、勿論結構です」
 あっさりと答えた。
「まず、がんは誰でも掛かる可能性がある病気。現在日本人は、一生のうちに二人に一人は何らかのがんに掛かると言われている。男性では六十五%、女性では五十%で、がんで死亡する確率は男性で二十四%、女性で十五%だ」
 ソファーにもたれかかって大島が話し始めた。
「防ぐことは難しいのでしょうか」
 朝比奈はノートに書かれた速記の文字のペン先を止めて尋ねた。
「ある程度の予防は出来るけれど、完全には防げないな。がんは、禁煙や食生活の見直し、運動不足の解消に因って『なりにくくする』ことは出来ると言われてる。根本的に、がんは感染る病気ではなく、遺伝子が傷つくことに因って起こる病気だから、移すことも移ることもない」
 立ち上がってコーヒーをカップに注ぎながら話を続けた。
「どういった原因で遺伝子が傷つくのですか」
 コーヒーカップを受け取って尋ねた。
「一部のがんではウイルス感染が背景にある場合があるが、がんになるまでにはストレスなどの様々な要因が長い年月に渡って掛かったことが原因していると考えられている。正常な状態の遺伝子に傷が付き、異常な細胞が出来て増殖し固まりとなって周囲に広がり易くなると、血管に入り込んで全身にも広がって各臓器に付着するという訳だ。ただ、付着しがん化した臓器によっては、勿論症状も違い酷い場合もあるが、微熱や倦怠感とか風邪などの症状に似ている場合もあり、発見が遅れて健診を受けた時には、手遅れになっていたって事もある。特に若い人程進行は早いからね」
 大島はそう言い終えるとコーヒーカップを口に近づけた。
「そうですか・・・・・・それで、がんの治療についてはどうでしょう」
 朝比奈はページを捲ってボールペンの赤のボタンを押した。
「技術の進歩や医学研究の成果と共に変化しているが、現時点で効果があること、安全であること科学的な根拠に基づいて証明されている治療のことを『標準治療』と言われ、殆どの種類のがんにおいては手術、薬物治療、放射線治療を単独や或いはいくつかを組み合わせた方法で行われている」
 目を瞑って考えを整理しながら答えた。
「薬物、免疫療法について詳しく教えて頂けませんか」
 ある思いを頭に浮かべて尋ねた。
「俺たち人間の体は免疫本来の力に因って、ウイルスやがん細胞などを排除してる。代表されるものは、B細胞・キラーT細胞・NK細胞・NKT細胞なんだが、免疫細胞のうち『キラーT細胞』にはがん細胞を攻撃する性質がある。しかし、この『キラーT細胞』が弱まったり、がん細胞が『キラーT細胞』にブレーキを掛けたりすると免疫ががん細胞を排除しきれなくなりがんが進行することになる。免疫療法は免疫の力を利用してがんを攻撃する力を保ち、または攻撃する力を強めることに因ってがん細胞を排除する方法だ」
 席を立ってデスクに戻り資料を探し始めた。
「実際にはどんな方法があるのですか」
 ノートには朝比奈でしか読み取れない文字が並んでいた。
「最近の治療法としては『エフェクターT細胞療法』と言って、がん細胞への攻撃力を強める為に患者自身の『キラーT細胞』を一旦体の外に取り出して、『キラーT細胞』にがん細胞の目印を見分ける遺伝子を組み入れてから増やして再び体に戻すんだ」
 棚から資料を探し出して朝比奈の前に置いた。
「攻撃力が強まった『キラーT細胞』を使うので『エフェクターT細胞療法』と呼ばれるのですね」
 朝比奈は置かれた資料を手にして答えた。
「ただ現在、国内で保険診療として受けられる『エフェクターT細胞療法』はがん細胞の目印を見分ける遺伝子としてキメラ高原受容遺伝子を用いる『CAR-T療法』のみで、一部の血液がん治療で使うことは出来るが、血圧や酸素濃度の低下、心臓、肺、肝臓など様々な臓器に障害が起こる『サイトカイン放出症候群』や意識障害など強い副作用が起きやすいから、利用する頻度は極めて稀だ。しかし最近、日本国立がん研究所で血液中のNKT細胞を採取し培養して本人の体に戻すことに成功して、がん細胞を短期間で輩出して副作用も殆んど見られないことも認められたと発表したので、これが早く認証されれば画期的ながん治療対策になるんだが、まだまだ先の話だろうな」
 政府の医療に対する姿勢を考えて残念そうに答えた。
「大変参考になりました。これからは、ご迷惑をお掛けしないように気をつけますので又よろしくお願いします」
 朝比奈はノートとボールペンをポケットに戻して深く頭を下げた。
「出来れば、関わりたくないけどね」
 顔を左右に振って答えた。
 
「今日は早く帰らなきゃ」
 午後の講義を終え大学を後にした真由美は自分に言い聞かせて地下鉄の駅へと向かっていた。いつもの平日とは違い何かワクワクする気持ちを感じていた。しかし、それに反して、大学の構内から自分の後を付けてくる嫌な気配も感じていた。それもあり、次第に歩みを早めたその時に、後ろから両肩を掴まれた。
「いやー」
 大きな声を出したが、直ぐに大きな手で口を塞がれた。
「へっ、変態」
 その手が離れた瞬間に振り向いてもう一度叫んだが、そこには見慣れた顔があった。
「変人って言われたことはあるけど変態なんて酷いな」
 辺を気にして朝比奈が言った。
「どっ、どうして、どうしてここにいるの」
 真由美は落ち着かせようと大きく息を吸ってから言い返した。
「兎に角、車まで戻ろう」
 朝比奈は真由美の手を取って大学の駐車場へと向かった。
「先に部屋で待ってるって言ったけど、鍵がなきゃ部屋には入れないし、部屋の外で待つのもそれこそ変態だよね。だから、時間もあったから、驚かせようとここまで迎えに来たんだけど、大学内で見つけることが出来なくてさ」
 腕を組んで来た真由美を気にしながら言った。
「驚きすぎちゃったよ。途中で声を掛けてくれればいいのに」
 朝比奈の肩に顔を寄せて耳元で笑いながら答えた。
「そうだ、帰り道で、合鍵を作ろうか」
 車に乗り込むと、真由美の部屋の近くにあるホームセンターを思い出そうとしていた。
「いいよ、鍵は一つあればいいから」
 真由美は自分にも納得させるように助手席で頷いた。
「だって、不便だよ。今日みたいに先に家にいる場合もあるから」
 車を発進させながら朝比奈が言った。
「あのさ、優作さん・・・・あっ、優作は私の恋人なんだよね。だったら、明日から、いえ、今からずっと一緒にいて下さい」
 一言一言考えながら伝えた。
「あっ、いや、それは、そうだけど・・・・・大学の講義もあるから、それは無理かな」
 戸惑いながら答えた。
「今日一日、優作に言われたから一応講義は受けたけど、内容なんて全然頭に入ってこなかった。昼食の時、友達と話していても、会話になっていないし楽しくもなかった。それは、優作のことばかり考えていたからなの。ずっと、ずっと、優作のことばかり・・・・・考えても、優作のこと何も知らない自分に気がついたの。糸川先輩からは自慢話ばかりだったから、だから、講義を受けるよりも優作のことを知る方が今は大切。それに、ずっと、ずっと、そばにいてくれれば、考えなくても、思わなくても、何をしているんだろうと心配しなくても済むし、少しでも優作のことを知ることが出来るかも知れないから。優作、言ったよね。今、この一瞬を生きることが大切だって、だから大学の講義を受けるよりも、朝から夜まで二十四時間優作といる方が私には大切なの」
 真剣な眼差しで横を向いた。
「それについて説明させて頂きます。今日の大学の講義の穴埋めだと思って聞いて下さい。それは、『確証バイアス』と『ルーティングワーク』ですね。確証バイアスと言うのは、自分に都合のいいことばかり集めること。糸川先輩は真由美に自慢し、優越感を持って話す為に、僕のいいところばかりを話したのでしょうから。真由美だって、自分が選んだ彼氏を友人に話す時は余程親しくなければ、悪いところは言わないよね。それから、ルーティングワークは、日本語に訳すと先入観と言えばいいのでしょうか、真由美は彼女からの僕のいいところばかりの情報で、勝手に素晴らしい人間を作り上げてしまう。真由美がどんな人間を形成したのか分からないけど、ピンクレデーの『SOS』って知ってる。羊の顔していても心の中は狼が牙を剥くそういうものよ。この人だけは大丈夫だとうっかり信じていたら、ダメダメ、ダメダメよと、歌ってるくらいだからね」
 怖い表情で真由美を見た。
「えっー、そうなの」
 左側に身を引いて答えた。
「恋人契約書の四項目に『互の過去には触れない聞かない』って記入されていますよね。それに、僕の過去や家族のことを知ったら、直ぐに解約することになるよ」
 今度はまるでテレビドラマの悪役の表情で凄んで見せた。
「・・・・・・・」
 固まってしまった。
「今、二人が幸せならいいんじゃないかな。よし、取り敢えず、夕食の材料を買いに仲良く行こうか。今なら、カワナカスーパーマーケットの五時からセールに間に合うかも」
 それでも、ドキドキしながらアクセルを踏み込んだ。
「あのさ、今日の朝は驚いちゃった。だってさ、優作が朝まで部屋にいるなんて思ってもいなかったから」
 しばらく沈黙が続いた後、真由美が口を開いた。
「僕だってびっくりですよ。まだ、あの時点では、僕は真由美と恋人の契約は結んでいなかったし、真由美に恋人がいて彼女でなく彼氏だったら、きっと僕がボコボコにされていただろうからね。こんなにガタイはいいけど、見た目よりずーと弱いですからね」
 さらりと返答した。
「そんな弱い彼氏に守ってもらえるかなー」
 笑いながら返した。
「ずっと一緒にいてくれるなら、明日朝からデートしようか」
 急に話を変えて尋ねた。
「いいけど、一緒にいるのにデートって言うのもおかしいね」
 そう言うと、朝比奈がカワナカの駐車場に車を止めた。
「今日は七七セールでしかも、夕方の五時からセールが重なってとてもお得なんだ。馬鈴薯が小ぶりだけど四個入って七七円、人参も大きいのが二本で七七円だよ。二人分のおでんセットが百七十七円だから、おでんかシチュー、麺類がよければ野菜スープのスパゲッティーなんかもいいね」
 野菜売り場から順に見て朝比奈が言った。
「えー、もっとガツンとしたものが食べたいな。昼食は何だか食べた気がしないもの。ねえ、お肉にしようよ、お・に・く」
 腕を組んだ真由美が急いでお肉のコーナーへと連れて行った。
「おー、豚肉の薄切りが百グラムで七十七円か、それでは今夜は豚肉の生姜焼きでガツンと食べようか」
 五百グラム入りのパックを取り上げた朝比奈の横腹を、真由美は肘で突っついて牛肉の棚を見た。
「えっ、牛肉ですか。切り落とし肉で、百グラム百七十七円、うーんお値打ちですげどね。よし、奮発しましょうか」
 同じ五百グラムパックに手を伸ばそうとした時、又真由美の右肘が左の横腹を捉えた。
「えっ、えっ、えっ、まさか、サーロインですか。分かりました、今夜は特別、特別にサーロインステーキにしましょうか」
 朝比奈が二枚入りのサーロイン肉を取り上げるその前に、真由美の手が松阪牛の綺麗にサシが入ったサーロイン、百グラム二千七百円の肉を二枚手に取った。
「マジですか」
 朝比奈は驚き横を向いて真由美の顔を見た。
「マジです」
 ゆっくり頷いて微笑んだ。
「仕方ないですね。今回だけですよ」
 朝比奈は微笑んで真由美から受け取った牛サーロイン肉を籠に入れ、真由美は『やったー』とばかりに右手でVサインを作った。それから、二人で店内を見て回り会計を済まして車でアパートに向かった。
「真由美は料理得意なんですか」
 ハンドルを握りながら朝比奈が尋ねた。
「アパートに引っ越して独り住まいをするまでは母に作ってもらってたけど、仕事が遅くなることが多かったから、自分で適当に・・・・・だから、カップラーメンとかスーパーの弁当が多かったな。今朝、優作が作ってくれた朝ごはんなんて何年ぶりだろう」
 今朝のご飯の味を思い出して答えた。
「僕も姉さんが居るから作ろうと思うけど、一人だったらそうなるかもな。やはり喜んでもらいたいからね。それでは今夜は、誰が作りましょうか」
 横を向いて真由美に尋ねた。
「にっ、肉を焼くくらいは出来ますよ」
 顔を外らして真由美が答えた。
「腕前を拝見させて頂きましょうか。よろしくお願いします」
 朝比奈はアパートに車を止めて、真由美と一緒に部屋へと向かった。
「準備をしておくから先に着替えてね」
 朝比奈は食材などを冷蔵庫に収めながら真由美に言った。
「分かった」
 真由美は朝比奈の言葉に従って寝室へ入っていった。
「それでは始めますか」
 パジャマに着替えた真由美が、袖を捲くってキッチンに戻って来たが、朝比奈は先程のスーパーで購入した家庭用の砥石で包丁を砥いでいた。
「朝、野菜や出汁巻き卵を切った時に感じてね。切れ味が悪い包丁を使うと力を入れ過ぎて、大怪我をすることが多いんだ。特に肉を着る時はね」
 磨ぎ終えた包丁をみながら言った。
「それはありがとうございました。後は、私一人でできますので、席で待っていて下さい」
 キッチンに入り朝比奈を押し出し、仕方なく砥石を片付けてテーブルへと向かった。
「ご飯は温めてあるから、後はサーロイン肉を焼くだけだよね」
 真由美は自分に言い聞かせるように呟いて、あらかじめ準備されていた肉をトングで掴んでフライパンに乗せようとした。
「軽く塩コショウは振らないのですか」
 朝比奈が覗き込んで言った。
「まっ、松阪牛ですので、本来の美味さを味わった方がいいと思うけど」
 慌てて真由美が弁解した。
「やっぱり、ちょっと手伝いましょうかね。二人で仲良くした方が早いですから、真由美は肉を焼いて下さいね」
 朝比奈はキッチンに入り、真由美の横で冷蔵庫から素早く野菜類を取り出して、先程砥いだ包丁でキャベツは千切りレタスはザク切り、トマトは縦に切り込みを次々とリズムを取るように刻み終えて、最後に茹で玉子をスライスして二つの器にそれぞれ盛り付けた後、フライパンに目を移した。
「真由美、焼き過ぎ、早く肉をひっくり返して」
 朝比奈は真由美の手を取ってトングで其々のステーキ肉を裏返した。
「こんな上等な肉なんだから、旨みを逃がさない程度に表面を炙るくらいの方がいいんだ。片面も同じようにね」
 そう言うと、真由美の手を離して素早くにんにくと生姜を微塵切りにして小皿に入れた。
「後は家政婦のゆ・う・さ・く・がやりますので、あちらのテーブル席でお待ち下さい」
 右手の平でテーブルを示した後、フライパンから牛サーロインステーキを取り出し、食べやすいように一口大に切って手際よく皿に盛り付け、ご飯とコンソメスープ、盛り付けてあったサラダを持ってテーブルに置いた。
「こんな贅沢な家庭料理を食べるのは久しぶりです。それでは頂きましょうか」
 朝比奈は席に着き顔の前で両手を合わせた。
「私もです。頂きまーす」
 真由美も早速ステーキに箸を伸ばした。
「先ずは、何も付けずに肉本来の美味しさを味わって下さい」
 真由美の箸先を見て忠告した。
「私の自由に食べさせて下さい」
 そう言いながらも朝比奈の言葉に従ってステーキを味わっていた。
「うーん、流石松阪牛ですね。とても柔らかくて芳醇で、鼻に抜ける香りも抜群です。ただ、ちょっと火を通し過ぎたのが残念です」
 よく噛み締めて牛肉の美味さを味わっていた。
「それはすみませんでした」
 意地になって反論した。
「この松阪牛はセールでも百グラム二千七百円する肉なんですよ。美味く食べてあげないと、牛に申し訳ないですよ。次は、ステーキソースを付けて頂きますが、市販のソースだけでは少し物足りないと思いまして、生のにんにくと生姜を加えてみました。二人だけだからにんにくの匂いがしてもいいよね」
 ソースに付けるように指差した。
「サッパリしてて美味しい」
 テレビのコメンテータのように目を閉じ、少し上を向いた顔を左右にゆっくり振った。
「コンソメスープにも入れてみましたので味わってみてね」
 朝比奈はコンソメスープに手を伸ばして言った。
「優作は味にうるさいんだよ。お嫁さんになる人は可哀想・・・・・」
 真由美もコンソメスープのカップを口に付けた。
「うるさい訳じゃない。ただ、精魂込めて育ててもらったものを、一番美味しく頂くことが大切だってことだよ。例えば、この部屋の広さで育てたお米は、今二人が食べているくらいしか出来ない。冷蔵庫にあった小さなハチミツ一瓶の蜜を集めるのにはどれくらいのミツバチが必要か知ってる」
 ご飯を頬張って朝比奈が尋ねた。
「二十・・・・・多目に言って、五十匹。でも、そんな質問をするってことは、百匹だ」
 サラダの器を手にして答えた。
「ぶっ、ぶー、残念でした。答えは約四百匹です。だから、どんなものにも感謝して頂かなければね」
 朝比奈もサラダの中のトマトを口に入れて答えた。
「感謝はしてますよ」
 サラダの器を手にした。
「それでは、もう一つ。街中を歩いていると、飲食店には白地に赤いロゴもあれば、赤字に黄色。パッケージには赤色を使った店が多いけど、どうしてだと思う。」
 真由美が手にしているサラダのトマトを示して尋ねた。
「それは・・・・・目立たせるという目的じゃないの」
 箸を止め、サラダを見詰めて答えた。
「まぁ、それも要因の一つだけど、赤という色にはもう一つ心理的効果がある。商売上手な人なら誰でも知っていることだけど、赤という色は食欲を誘う色なんだ。それだけでなく、感情を高ぶらせたり、活動的、積極的にさせる、男性ホルモンの分泌を促すなどの作用もあるけど、どれも食欲に結びつきそうな作用ばかり。食欲を誘うのは黄色や緑も同じで、真由美が手にしているサラダにはトマトの赤、ゆで玉子の黄色、野菜の緑と三色揃ってとても美味しそうだろ」
 満足げにゆで玉子を口に運んだ。
「じゃ、昨夜のバスタオルの色が赤色だったら違っていたのかな」
 真由美は朝比奈の顔を見てトマトを口にした。
「それはどうかな・・・・・・あっ、それからもう一つ感謝と言えば、生活の中で当たり前だと感じている電気なんだけど、どうして作られているのか知ってる。七つあるんだけど、そうだね、六つ当てたら合格で明日の昼色も僕のおごりとしましょう」
 話を変えて、朝比奈が尋ねた。
「えーと、火力発電に、水力発電、原子力発電と風力発電・・・・・・あっ、太陽光発電だ。後一つ、明日のお昼ご飯が掛かってる・・・・・・」
 右手で数えてグーの形になったが、小指が立たなかった。
「残念、時間切れです。でも、もう一つ惜しかったね。日本では珍しいけど、地熱発電です。それともう一つ、ほとんどの日本人が知らない電気を作る方法です。それは、揚水発電と呼ばれるものです。普通の水力発電所では、使った水は川下の方へ流してしまうけど、揚水発電所では発電に使った水を下の貯水池に貯めておいて、またモーターで引き上げて使うというもので、電気を経済的に使う為に作られたんだよ」
 真由美の右手の握り締められたげんこつを見ながら答えた。
「ちょっと、ちょっと待って、せっかく水力で電気を作っても、そのエネルギーを水を引き上げる為に使ってしまっては意味ないと思うけど」
 右手を広げむきになって答えた。
「そうですね、エネルギー的にはブラスになるどころか、摩擦や熱でなくなる分だけ損をしているくらいです。それでは、どうしてこんなことをしているのでしょうか。知りたいですか」
 どうだという顔で朝比奈が見詰めると、真由美は仕方なく小さく頷いた。
「実は、夜間の過剰な発電で生じたエネルギーを、別な形にして蓄える為なんだ。夜は、昼間と違って電気の消費量が少なくなるのは分かるよね。だからと言って、火力発電所や原子力発電所では機械を止める訳にはいかない。いつも一定の速度で動かす方が効率がよく、機械にもあまり負担が掛からない。その為に、夜間でも一定量の発電を続けなければならないんだ。だから、なるべく夜間に使ってもらうようにと、電気会社は夜間使用料金を作って値下げもしているんだよ。しかし、今のところ電気は蓄えておけないので、使わなかった電気は無駄になってしまう。政府が電気自動車の普及に力を入れているのは、出来るだけ夜間電を使って充電して蓄えることを考えているんだ。そこで、揚水発電では、使わなかった夜間の電気でモーターを回して水を上に上げて、翌日に水を流して発電することで余剰エネルギーを賢く有効に使えるってことなんだ」
 食べ終えた食器類を持ってキッチンへと向かった。
「優作の自慢話、なんか、大学の講義よりも面白いね」
 真由美も朝比奈の後を追った。
「まぁ、役には立たない、自慢話だけどね」
 スポンジに洗剤を付けて皿を洗い始めた。
「ねえ、お風呂先に入ってもいい」
 食器なども拭き終わった時、色々なことを想像しながら真由美が尋ねた。
「あっ、そうだ、戻ってくる時に、大きなお風呂屋さんがあったよね。今夜は二人で大きなお風呂へ入ろうよ」
 食器を片付ける手を止めて朝比奈が言った。
「えっ、私もうパジャマ姿なのよ。また着替えて、化粧するの・・・・・・」
 布巾を手にしパジャマ姿を見せて答えた。
「真由美はスッピンでも、恥ずかしくないくらい綺麗だよ」
 真由美の顔を見てドラマの主人公になった気分で告げた。
「あの、恥ずかしくないくらいは余分だと思いますけど」
 両手を腰に当てて、口を膨らませた。
「あっ、訂正します。十分に綺麗です」
 朝比奈は直ぐに頭を下げた。
「よろしい、二人仲良く肩を並べて行くのが条件よ。それでは準備をして来ますので、後の片付けはよろしく」
 捲っていた袖を戻して寝室へと向かった。そして、後片付けも終わり、二人はそれぞれ袋を手にし腕を組んでお風呂屋さんへと向かった。
「恋人になったんだから、今夜は一緒に寝るんだろうな・・・・・・」
 色々想像しながら、丁寧に身体や髪を洗いいつもよりも長風呂になってしまった。
「待ったよね」
 お風呂屋の入口にずっと立っていた朝比奈に申し訳なさそうに声を掛けた。
「待たせて頂きました」
 朝比奈はゆっくりとはっきりとした言葉で答えた。
「御免、私・・・・・」
「さぁ、帰ろうか」
 真由美の言葉を遮って歩き出した。
「随分前の曲だけど、かぐや姫の『神田川』って知ってる」
 突然朝比奈が尋ね、真由美は顔を左右に振った。
『二人で行った横ちょの風呂屋、一緒に出ようねって言ったのにいつも私が待たされた、洗い髪が芯まで冷えて小さな石鹸カタカタ鳴った、貴方は私の身体を抱いて冷たいねって言ったのよ』歌詞の一部を朝比奈が節を付けて歌った。
「今日は反対だったね。それに、今は石鹸なんて使わないからね」
 それでも先程のお風呂屋で買ったカップ入りのコーヒーを真由美に手渡し肩を抱いた。
「ありがとう」
『ただ、あなたの優したが怖かった』朝比奈が歌って改めて思い出し、心に響いていた。
「さっきの講義の続きだけど、もし仮に十メートルのストローを作ったとして、コーヒーを飲むことが出来るでしょうか」
 アイスコーヒーを半分程飲んでから尋ねた。
「十メートルでしょう・・・・・・そんなに吸えないよ、無理、無理」
 顔を上に向けながら想像して答えた。
「正確に言うと、人間はコーヒーを吸っているのではなく、ストローの中の空気を吸っているんだよ。後は、ストローの中が真空状態になることでコーヒーが上がって行くんだ。コップの中では、コーヒーの表面が常に空気に押されていて、コーヒーだけでなく地球上の全てのものは、空気の重さ、つまり気圧を受けている。この空気の気圧一ヘクトパスカルで一グラムのものを一センチ動かすことが出来るから、ストローの中にも空気があれば、コツプの中でコーヒーが空気に押されても両方の気圧が均等を保って、コーヒーが動くことはない。しかし、ストロー内の空気がなくなると真空状態になり、この均衡が破られてコップ内のコーヒーがストローの中を上がって来るんだ。地表近くの気圧は平均すると、千十三ヘクトパスカルなので、理論上は十メートルのストローで飲むことは可能ってこと、ただしストロー内の空気をすべて吸い込むことが出来ればね」
 朝比奈は一気にコーヒーを吸い込んだ。
「それに、優作のような、そんな長いストローを作る『変人』もいないよね」
 そう言いながら真由美が笑ったその時、前から覆面をした黒尽くめ男が二人に向かって駆け込んで来た。
「真由美離れて」
 朝比奈は左手で真由美を突き放すと、覆面の男は朝比奈の左の腹に向けてナイフを突き刺し、真由美はそのナイフが食い込む姿を見ることになり両手を口元に付けて『キャー』と大きな声を発した。
「逃げるんだ、早く・・・・・」
 動けなくなっている真由美に声を掛け、それに従って真由美は朝比奈に背を向けて一心不乱に駆け出した。
「どうしよう、どうしよう・・・・・・け、警察に連絡しなきゃ」
 アパートの階段を駆け上がって自分の部屋に付くと、鍵穴に鍵を差し込もうとしても右手が震えて旨く入らない。左手で抑えてやっと差し込んで慌てて時計と逆方向に廻して、部屋に入ると内側から鍵を掛けて寝室に向かった。
「優作が、優作が刺された。無事なの、そう無事なら連絡くれるわ」
 ベットの横に腰を降ろし、頭の中がパニックになりながらも膝を抱いて、微かな期待を持ってスマホを握っていた。
「やっぱり警察に連絡しなきゃ・・・・・・」
 少し落ち着いて、スマホを左手に持ち替えた時、遠くでパトカーと救急車のサイレンの音が聞こえ、右の手が止まった。
「そっ、そんな・・・・・」
 最悪な想像が頭を駆け巡ると、玄関のチャイムが鳴った。
「まさか、私のところまで来るなんて」
 動けない真由美に向かってチャイムが何度もなり、ゆっくり立ち上がり玄関の扉の覗き穴に目を近付けると、見慣れた顔が大きく見え慌てて扉を開けた。
「大丈夫だったか」
 声を掛けた朝比奈に真由美は抱き着いた。
「心配したんだから、本当に心配したんだから。大丈夫だったなら電話掛けてきてよ」
 朝比奈の耳元で大きな声を出し、その後で刑事ドラマのように胸を両手で何度も叩いた。
「だって僕は、真由美の電話番号知らないから、駆け付けて来た警察官に旨く事情を話して、これでも早く帰って来たんだぞ」
 真由美の肩を両手で掴んで抗議した。
「携帯の番号は、今朝登録したよ」
 朝比奈の胸のポケットを指して言い返した。
「あっ、そうだった。自分で入力してなかったから忘れてた。御免」
 両手を合わせて謝った。
「もー、相手のことは考えないんだから。でも、本当に大丈夫なの」
 朝比奈の体を見渡して尋ねた。
「大丈夫な訳ないよ。ほら、大事なジャケットに穴が空いちゃったよ」
 ジャケットの裾の部分を見せて答えた。
「もー、それで命が助かったと思えば安い物よ。でも、相手の男はどうなったの」
 ジャケットから朝比奈の顔に視線を移して真由美が尋ねた。
「素人ではないと思って、ここぞとばかりボコボコにしてやりました。顔の覆面を剥がしたら、やはり見覚えのある『清流会』の組員だった。一応救急車が来てたみたいだけど、手加減はしましたから大丈夫でしょう」
 ファイティングポーズを取って見せた。
「相手がヤクザ者、警察も来たんだよね。どうして帰って来れたの」
 事件となれば朝比奈も事情聴取され、警察に連れて行かれるのではないか、朝比奈が今ここにいる状態が真由美には理解出来なかった。
「あっ、誰かさんの大きな叫び声で見物人も沢山寄って来て、それに現状を見ていた証人も複数いたから、警察が話を聞いている間に抜けて来たよ。真由美のことが心配だったからね」
 当たり前のように答えた。
「抜け出して来たって・・・・・・・」
 本当にそんなことが出来るのか不思議であった。
「それに、今警察に連れて行かれると非常に不味いからね」
朝比奈の『不味い』の言葉が真由美の頭の中に広がった。
「あっ、いや、真由美は一緒にいたいって言ってただろ。警察に連れて行かれると結構時間取られるからね」
 朝比奈は嘘をついている。真由美にもそれは感じ取れた。
「あっ、着替えてくるね」
 真由美が寝室に向かおうとした時、朝比奈のスマホが着信音を告げた。
「もう耳に入ったのですか・・・・ちょっと気が付かれるのが早いですね・・・・・裏のルートがあるかも知れませんね・・・・・ああっ、大丈夫ですよ旨くやりますから・・・・・・・そちらこそきちんと始末しておいて下さいよ・・・・・・・あっ、あの件は、こちらから組長にうまく話しておくから大丈夫ですよ・・・・・・・申し訳ないけど少しお金振り込んでくれないかな・・・・・・・それではよろしく」
 真由美が寝室に入ったのを確認してスマホを耳に当てた。
「えっ、今の話は・・・・・・・」
 気になって部屋に入っても静かに聞き耳を立てて、朝比奈の言葉を頭の中に記憶し、慌ててパジャマに着替えるとベットの中に潜り込んだ。
「驚かして御免。もう一度シャワー浴びた方がいいよ」
 扉を開けて朝比奈が声を掛けた。
「もういいよ。このまま寝るから」
 朝比奈に背を向けて答えた。
「分かった・・・・・」
 朝比奈は扉を閉じ、アパートの部屋を出て車に向かうと、歯ブラシなどの洗面道具と毛布を持って戻って来た。
「仕方ないよな」
 朝比奈は歯を磨くと来ていた服のまま居間のソファーに体を預けたが、睡眠不足と先程の格闘の疲労が体を襲い直ぐに眠りに就いた。
「どういう事、警察に連れて行かれては『不味い』、襲って来たのはヤクザ、それを相手にしてボコボコにした。『裏のルート』『きちんと始末する』『組長』『金を振り込め』そしてこちらは旨くやる。何を旨くやるんだろう・・・・・・・」
 先程の朝比奈の言葉が真由美の頭の中で何度も繰り返され、寝室の扉を開けゆっくりと音を立てないようにして覗き込むと、朝比奈は寝息を立ててソファに横たわっていた。
「でも、あの時優作が助けてくれなかったら、今私はここにいない・・・・・・そう、優作の裏の顔があってもいい、どうなってもいいんだ。でも、明日聞いてみよう」
 そう自分に言い聞かせて眠りに就いた。
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