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三日
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「おはよう」
パジャマ姿でキッチンに顔を出した真由美に朝比奈が声を掛けた。
「おはようございます」
寝ぼけ眼でテーブルの席に着いた。
「今朝は、五枚切りの山切り食パンに、大き目のとろけるチーズを載せて焼いた後に薄くスライスしたトマトを載せ、最後に香り付けの為に細かく刻んだ青じそを振り掛けてみました。それと、ロールパンは縦に切り目を入れて、茹で玉子を潰して塩コショウとマヨネーズを和えたものをサンドイッチ風にして、スープはコーンポタージュで少し濃厚に仕上げてあります。どうぞお召し上がり下さいませ」
席に着いた真由美に右手のひらを示して行った。
「えっ、こんなに沢山作って、優作、ちゃんと寝たの」
真由美は、驚いた表情を返した。
「流石に、昨日の朝は辛かったですが、昨夜は十分に睡眠を取れたから大丈夫ですよ。飲み物は、ミルク、それともコーヒーにする」
自分の分のミルクをコップに注ぎ、真由美の返答を待った。
「優作と一緒でいいよ」
トーストを手にして答えた。
「はい、アイスカフェオーレにしました」
真由美の前にグラスを置くと、自分も席に着いて両手を合わせた。
「あれ、優作はミルクなの、私と違うじゃない。一緒の飲み物を頼んだのに」
頬を膨らませて言った。
「持ってきてもらって、文句を言わないの。今日は初めてのデートなんだから、気分よく行こうよ」
ミルクの入ったグラスを手に言い返した。
「あのさ、優作は今までどんな仕事をして来たの」
朝食を取り始め、暫くしてカフェオーレを喉に通した後、真由美が尋ねた。
「あれ、この前も話したよね。恋人の契約書の四項には互の過去には触れない聞かないって書いてあったよね。それは、契約違反ですよ」
突然の問いに、パンを喉に詰まらせて慌ててミルクで流し込んだ。
「過去がダメなら、今現在何をしているの『ゼア・イズ』は土・日曜日だけだし白犬ヤマタの宅急便でも正社員じゃないですよね。現在のことを聞くのは契約違反ではないでしょ」
真剣な眼差しで朝比奈の目を見た。
「仕方ないですね。これは特別事項としてお話しますが、友人などに恋人の過去を聞かれても、絶対に話してはいけませんよ」
睨み返す目の鋭さに真由美は生唾を飲んで頷いた。
「先程真由美が言ってた以外は、週刊誌などに特集記事を提供したり、スーパーマーケットの臨時アルバイトに工事現場の作業員、病院や大学に美術館などのギャラリーの夜間監視員や、たまにある選挙の事務員もやってるね」
指を追って数える朝比奈の目に、真由美が顔を左右に振る姿が写った。
「あっ、そうでした。それでは真由美は満足してくれませんよね。会社勤めの件ですが、大学を卒業して大手製薬会社に就職しました。しかし、残念ながら、こんな性格ですから会社の組織に馴染めなくて、一年程で辞めてしまいました。それ以降は正社員として働いたことは一度もありません。今は、国民健康保険を払っている無職と言うことになります。ですから、色々なアルバイトをして食べてゆくのに必死の生活です」
真面目な顔をして答えた。
「それで仕方なくヤクザに・・・・・」
パンを手にしながら下を向いた。
「ヤクザ・・・・何のこと」
真由美から意外な言葉が飛び出し問い返した。
「だって、ヤクザに襲われたり、駆け付けた警察に連れて行かれては『不味い』とか、それに、それに・・・・・・・・」
言葉を飲み込んだ。
「あっ、そうか、昨夜のスマホの会話、盗み聞きしてたんだ。それは不味いな・・・・・」
最期の言葉は本当にヤクザ者のように凄んで見せた。
「御免なさい、御免なさい」
真由美は何度も頭を下げた。
「恋人のこと知りたいという気持ちは分かります。それでは順番に話しておきましょう。昨夜襲って来た清流会の組員は、以前僕が警察に協力して逮捕したことを恨みに思って襲って来たのでしょう。それから、僕が警察に連れて行かれると困ると言ったのは、真由美と少しでも一緒にいたいという気持ちが一番だけど、実は姉が弁護士をやっていて迷惑を掛けたくない気持ちがあったからです。昨夜、真由美が盗み聞きしたスマホの相手もその姉で、『裏のルート』と言ったのは、しばらく何もなかったのに急に僕を襲って来るには何か特別な『裏のルート』があると感じたし、『始末する』と言うのは姉さんは毎日のゴミなんかもうまく処理出来なくて、今日の朝は特にゴミ出し日だったから、きちんと処理して欲しいと言っただけ、特に気になっただろう『組長』については僕は今年町内会の役員になっていて、今週末に会合があるけど、参加出来ないから組長さんにちゃんと説明しておくと伝え、『お金を振り込んで』と言うのは、真由美が予想外のステーキを食べたいって言うから、今日のデート予算が足りなくなる見込みで、今日中に口座に振り込んでもらうつもりだったのさ。それに、もし、僕がヤクザだったらこんな朝は迎えてませんよね」
テーブルの料理を指差して答え。
「でも、あのヤクザと対等に渡り合ってたし・・・・・」
まだ朝比奈の言葉が全部信じられない真由美だった。
「見掛けによらず弱いって言ったのは冗談で、中学校時代から、空手に柔道、それに少林寺拳法などもしてたし、高校からはボクシングと剣道にフェンシングも一応武道はたしなむ程度にして来ました。ですから、あれくらいの相手なら負けませんよ」
今度は空手の正拳突きのポーズを取って見せた。
「本当にヤクザじゃないんですよね」
昨夜あんなに悩んで、そしておそらく語られるであろう思っていたことと、朝比奈の言葉のギャップの大きさで、頭の中が混乱していた。
「まぁ、実際に定職に就けていないのだからそう思われても仕方がないけどね・・・・・・
ここだけの話、親父は最高検察庁次長検事、つまり検察庁のナンバーツーなんですよ」
真由美の顔に近づき、右手の人差し指を唇に当てた。
「父親が検事で、姉が弁護士なのに僕がヤクザなんて、流石に三流の推理作家でも描かないでしょう」
ミルクを一気に飲み干した。
「じぁ、私が一晩中優作のこと心配しちゃって損をしたってこと」
大きな溜息を吐いて朝比奈を睨んだ。
「それは仕方ないですよね。色々詳しく話そうとしたら、シャワーも浴びずに一人で寝るって言ったからさ」
首を傾げて答えた。
「それは、すみませんでした」
真由美は大きな声で言い返し、カフェオーレを飲み干した。
「真由美のお父さんの出身地はどこだっけ」
しばらく会話が途絶え、朝食の片付けを二人でしている時、朝比奈が真由美に尋ねた。
「瀬戸市だけど」
手を止めて答えた。
「あっ、将棋の藤井君で今は脚光浴びてる街だよね。そうだ、今日のデートは瀬戸にしよう。僕にもちょっと因縁がある街だし、いつか真由美を連れて行こうと思っていたからね」
片付ける朝比奈の手が早まった。
「ねえ、瀬戸に因縁ってなんのこと」
朝比奈に合わせてポロシャツにジャケットそして、ジーパンを履いた真由美が瀬戸市に向かう車の助手席で尋ねた。
「藤井君が小学生だったかな。将棋の早指し競技で対戦することがあって、僅か数分で負けた思い出があるよ」
その時の情景を思い出しながら言った。
「優作は将棋も出来るの」
真由美は『意外』という表情で尋ねた。
「同じ将棋教室に通っていたけど、一回りも下の少年にこてんぱんに負けて、自分には才能がないとそれ以来将棋は指していないけどね。でも、ルールは知ってるよ」
車は尾張旭市を抜けて瀬戸市に入っていた。
「同じ将棋教室ってことは、優作は瀬戸市に住んでいたの」
意外な返答に真由美は思わず横を向いて朝比奈の顔を見た。
「母親が瀬戸に住んでいて、深川小学校と本山中学校までは母親の家で育ったんだ。だから、結構詳しいかも」
ワクワクする気持ちを抑えられなくて、つい微笑んでしまった。
「えっ、私は道泉小学校と本山中学だったの。優作は中学校の先輩だったのね」
驚きの眼差しに変わった。
「先輩って言っていくつ違うんだよ、。えーとー・・・・・」
朝比奈が頭の中で数え始めた。
「恋に年の差なんてありませんよ」
真由美は隣で微笑んで見せた。
「あっ、じゃ、初めに深川神社に行こうか」
朝比奈は尾張瀬戸駅を横目で見ながら一方通行を東に走った。
「真由美、お父さんの写ってる画像あるよね」
朝比奈が話題を変えて尋ねた。
「あるけど、どうするの」
ポケットからスマホを取り出して答えた。
「僕のスマホにデータとして送ってくれないか」
懐かしい風景に心が安らぐ思いであった。
「分かった、母と二人で写っている画像でもいいよね」
画像を選んでスマホに送り、その画像を見た朝比奈は『やはりね』とゆっくり頷いた。
「ここ、ここ、ここだよ」
深川神社も通り抜けて直ぐ横にある駐車場に車を止めた。
「先ずは手を清めてからの参拝だ」
右手で柄杓を取り上げ水を汲んで左手に掛けて左手を清め、今度は柄杓を左手に持ち替えて同じように右手を清めてた。そして、再び柄杓を右手に持ち左の手のひらに水を受け口をすすぎ、もう一度水を左手に流して最後に水の残った柄杓を立てて、柄杓に水を流してから元の位置に戻した。真由美はその仕草に習って同じように清めた。
「先ずは、本殿に参拝するけと、真由美は正式な拝礼の仕方知ってる」
朝比奈が先を進みながら尋ねた。
「お賽銭を入れて、柏手を打って頭を下げるんでしょ」
自信なさそうに小さな声で言った。
「賽銭箱に賽銭を入れてから深いお辞儀を二回繰り返し、次に両手を胸の高さで合わせ右手を少し手前に引いて肩幅程度に両手を開いて拍手を二回打つ。そして、両手を合わせたまま心を込めて祈り、その後両手をおろして最後にもう一度深いお辞儀をするんだ。ちゃんとした礼儀があるんだからしっかり頼むよ」
本殿に向かうまでに朝比奈は真由美に拝礼の方法を動作を交えてレクチャーした。
「拝礼の作法はよく分かりましたが、根本的にこのような服装で良いものなのでしょうか」
朝比奈のジーパン姿を指した後、自分の服装を両手で掴んで現した。
「仕方ないだろ、これしかなかったんだから。兎に角、僕達は服装よりも心が清らかんだからそれでいいんだよ」
そう言うと本殿へと向かって先程の礼儀に従って拝礼を終えて車に戻ろうとした時、二人は左手方向に商売や合格の祈願が書かれた絵馬が吊るされているのを見付けた。
「折角だから、何か願い事を残しておこうよ」
真由美が声を掛けた。
「えーと、絵馬とは神殿や仏様に祈願、またはお礼参りの為に奉納する馬の絵が描かれた板のこと。絵馬の起源は神様に神馬として生きた馬を献上していたのが、時代が経つにつれて本物の馬から木や土で作った馬で代用されるようになり、平安時代には絵として描いた馬が奉納され、さらに室町時代には現世利益を求め、小型の絵馬を奉納するようになり、江戸時代には家内安全や商売繁盛と言った身近なお願い事をする風習が庶民に広がった。それに因って、今では馬以外の絵も描かれるようになり様々なデザインの絵馬が誕生したって訳だ」
左の顳かみを叩きながら説明した。
「講釈は結構です。兎に角、願い事を祈願しましょう」
真由美は朝比奈の手を取って社務所に向かい『馬』と大きく書かれた絵馬を購入したが、朝比奈は売り子さんや巫女さんにスマホを見せて何か尋ねていた。
「何をお願いしたの」
願いを油性ペンで書き終えた後、真由美のペン先に目を移しながら尋ねた。
「ひ・み・つ」
真由美は朝比奈が覗き込めないように背を向けて隠した。
「恋人なんだから隠すことないだろ」
肩ごしから覗き込もうとした。
「じゃ、優作の願い事から先に見せてよ」
絵馬を胸で隠しながら言った。
「はい、どうぞ」
朝比奈が素直に差し出した絵馬には『真由美がいつまでも幸せでありますように』と書かれてあった。
「ダサーイ、ちょー平凡」
そう言いながらも、真由美はとっても嬉しかった。
「他人に教えたら、望みが叶わないんだよ」
そう言いって朝比奈と自分の絵馬を持って走り出し、ご祈祷場に重ねて吊るすと階段を駆け下りた。
「そんな話聞いたことないよ」
朝比奈は慌てて真由美の後を追い、階段で転びそうになった肩を抱きしめた。
「急に走り出して危ないだろう」
ゆっくりと手を離して言った。
「御免なさい」
それでも、あの時と同じ腕の温もりが何だか嬉しかった。
「いい匂いがするね」
階段を降りて直ぐにうなぎを焼くタレの香りがした。
「まだちょっと昼食には早いよね」
うなぎ一尾二千七百円の看板が目に入り唾を飲み込んで朝比奈が答えた。
「じゃ、もう少しぶらついてからにしようか」
真由美は右腕を絡ませて銀座通り商店街へと向かった。
「優作、売り子の女性とか、巫女さんに声なんか掛けて、恋人がいるのに何ナンパなんかしてるの」
腕に力を込めて尋ねた。
「それはナンパじゃなくて・・・・・あっ、この店『安藤金魚店』だよ。懐かしいなぁ」
話を外らして、暫く歩いて駐車場の階段を下りたところにある店を指差して言った。
「ちょっとすみません。まだ金魚すくいって出来ますか」
店内にいた女性に声を掛けた。
「金魚すくいですか、昔は店内でもやっていましたが、今はお祭りなどのイベントに出店するくらいになりました」
小さな池に泳ぐ金魚を見せて答えた。
「僕が子供の頃よくやっていました。紙が破れるまで必死にすくい、友達との競争だから紙が破れても柄のところで金魚を掴んだりしてね」
その時の真似をしながら言った。
「それは、おじいちゃんが店をやっていた頃ですから、随分前のことですね」
女性も微笑みながら答えた。
「そっ、そうですね。ありがとうございました」
頭を下げて真由美と一緒に店を出た。
「私も来たことあるけど、金魚すくいはなかったわ」
首を傾げて真由美が答え、朝比奈は聞こえない振りをして銀座通り商店街に向かった。
「安藤金魚店など子供のころから続いている店も多いけど、変わってしまったりシャッターを下ろしてる店も多いね。藤井君の中継などは撮影の技術だろうけど、とても繁盛しているようにテレビでは映っていたけど、平日ではあるけれど何だか殺風景だよね」
二人とすれ違う人もなく、確かにシャッターが下りている店も多かった。
「ちょっと、記念橋を歩いて末広通りに行ってみようか」
銀座通りを少し歩いた後で、真由美の腕を引いて向きを変えた。
「こちらの通りもよく歩いたよ。映画館もあったし『春広堂』っていう本屋ではよく立ち読みをしたけど、おばさんは優しい目で見守っていてくれた。だから、その頃から色々な知識が身に付いたかも」
子供の頃に比べると本を展示するスペースが小さくなっているような感じがしていた。
「私もこの店は覚えてる。この辺では本屋さんは『春広堂』しか無かったからね。あっ、あそこのツチヤスポーツ、学校の制服も扱っていたんだよね」
店先に展示された看板に書かれた学校名に目を移しながら真由美が言った。
「本山・本山・・・・・無いよ。扱ってないのかな。すみません、本山中学の制服は扱っていないのですか」
朝比奈は店の奥にいた年配の女性に声を掛けた。
「ああっ、それなら生徒数が減った為に、昨年から当併合されて、本山中学はにじの丘学園になったよ。制服も今までの学生服やセーラー服から最新のブレザーに代わってカッコ良くなったよ」
制服を見せて答えた。
「二人共母校が無くなってしまったんだね。次々と無くなって・・・・何だか淋しいな」
真由美は肩を落とした。
「お腹空いたね。お昼にしようか」
朝比奈は真由美の腕を引いて来た道を引き返した。そして、末広通りを抜けたところにあるギャラリーにふと目を止めて真由美を連れて中に入った。
「色々な作品があるのですね」
湯呑や茶碗、イヤリングやペンダントに次々と目を移しながら、係りの若い女性に声を掛け、真由美は『又、ナンパなの』という表情で見ていた。
「はい、若い陶芸作家の作品を展示してあります。隣にある瀬戸蔵や駅にも沢山展示してありますので観ていって下さい」
作品を乗せたパンフレットを差し出して女性が対応してくれた。
「ああっ、僕は子供の頃瀬戸に住んでいたのです。確か、この場所、この建物は警察の派出所でしたよね」
辺を見渡して尋ねた。
「貴重な建物ということで、そのまま残しギャラリーとして替わって、派出所はこの建物の隣に新しく建て替えられました」
右手で示して答えた。
「そうだったんですね・・・・・・あっ、この緑色ってとても素敵ですね。ペンダントもあるし・・・・・値段はついていないですがこちらでは買えないのでしょうか」
朝比奈は緑色のペンダントを指差して尋ねた。
「こちらは展示だけで販売はしていませんが、あちらの瀬戸蔵では買えますので、そちらでお願いします」
右手で示して答えた。
「ちなみに、値段はどれくらいするのでしょう」
朝比奈は真由美に見えないように女性に顔を近づけて小声で尋ねた。
「ペンダントですと、千五百円から三千円くらいだと思います」
女性も小声で返した。
「ありがとうございました」
朝比奈は今度は大きな声を出し頭を下げて、瀬戸蔵へと向かい真由美も小走りで後を追った。
「喜んで話してたよね。デートの約束でもしてたの」
先程の女性との会話のシーンをしっかりチェックしていた真由美は、朝比奈の脇腹を突っついて尋ねた。
「ちょっと、トイレへ行ってくるから、展示室の方を見ててくれるかな」
朝比奈はそう言って真由美から離れた。
「何か変、本当にナンパなのかな」
朝比奈の理解出来ない行動に異変を感じていた。
「もう少し歩いてから、昼食にしようか」
少し待たせた真由美の手を取って西に向かうと、パピタという小規模なデパートの南にある宝くじ売り場へ連れて行った。
「いらっしゃいませ。あっ、朝比奈君。えー、もしかしたら彼女」
売り場の女性が二人を目にして声を掛けた。
「いえ、彼女ではないです。恋人です」
右手の平で示し、真由美は頭を下げた。
「まさか・・・・本当に」
真由美の姿を足元から上へとゆっくりと見上げながら尋ねた。
「まさかは余分でしょ。確か、今日は火曜日だから、谷口さんはこちらの場所の担当だと思って彼女を紹介しに来ました」
左の顳かみを叩きながら言った。
「よく覚えているわね」
朝比奈の仕草を真似て答えた。
「谷口さんは幸運の女神さまだから、ロトでも買ってみようかな。真由美の誕生日いつだっけ」
申込カードを手にして尋ねた。
「平成二年十一月八日だけど」
鉛筆が二と八と十一を塗り潰した。
「僕の誕生日が三月二十八日だから、後は三と二十八を塗り潰して」
鉛筆で五つの数字を塗り潰した申込用紙と料金を渡した。
「そんな簡単に当たるの。でも、一等は一千万円、二等は約二十万だね」
当選金を確かめて言った。
「一等が当たったら、二人で世界一周でもしようか。二等だったら・・・・・・」
夢を広げて言った。
「二等だったら、ちっちゃくてもいいからダイアモンドの婚約指輪を買ってくれるなんちゃって。優作の生活費、そうだ美味しい肉専門店でサーロインステーキを食べたいな二人で。今度は焼き過ぎてない上等の肉のね」
脇腹を突っついて真由美が微笑んだ。
「捕らぬ狸の皮算用。はい、もし、当たったら笑顔で一緒に食べよう」
朝比奈が右の小指を差し出すと、真由美も同じように差し出して絡めた。
「あっ、ごめん、遅くなったね、昼食にしようか」
朝比奈は頭を下げ谷口から手にしたロトくじを財布に入れて、真由美と腕を組んで東へと戻り、瀬戸川を渡って又銀座通り商店街へと向かった。
「お昼は、ここと決めていたんだ。真由美も来たことあるかな」
みそかつレスト・サカエと書かれた看板の前で立ち止まって朝比奈が言った。
「僕がよく通っていた頃は、サカエ食堂だったと思うけど、覚えていてくれるかな」
朝比奈はドアを開けて店に入った。
「あっ、朝比奈君じゃないの」
『いらっしゃいませ』の言葉に続いて、驚いた声が聞こえた。
「お久しぶりです。おばさんも、おじさんも現役で元気そうですね」
二人の顔を見て言葉を掛けた。
「まだまだ頑張らなくっちゃね。えっ、奥さんなの」
朝比奈の後から入って来た真由美を見て尋ねた。
「いえ、まだ結婚はしていません、恋人の碧真由美です」
頭を下げる真由美を朝比奈が紹介した。
「つまり、デートということね。でも、朝比奈君が女性を連れてくるなんて初めてね。どうぞ、どうぞ」
年配の女性が微笑みながら一番奥の席に案内した。
「僕は久しぶりにこの店定番のみそかつ定食だけど、真由美は何にする」
メニューを見せながら尋ねた。
「一緒でお願いします」
そう言うとメニューを見ないで返した。
「はい、分かりました」
奥の料理をするご主人に声を掛けた。
「あの、すみません。この人、二週間程前この店に寄っていませんか」
その後ろ姿に朝比奈が声を掛け、近づいてスマホの画像を見せた。
「あっ、この人、何か深刻な顔をして、朝比奈君と一緒のみそかつ定食を食べてたわね。この辺では珍しくスーツ姿だった、確か二週間前の水曜日、そう定休日前だったからよく覚えているわ」
頷きながら答えた。
「何か持っていなかったかな」
覚えていてくれて感謝しながらも、続けて質問した。
「確か、黒い大きな鞄を持っていて、隣の席に置いていたと思うわ」
二人分のお茶を持って朝比奈と一緒に席に戻って来た。
「何話していたの」
女性が戻って行って真由美が尋ねた。
「気になる」
首を傾げて聞いた。
「もー、いい」
拗ねて横を向いた時、おばさんが二人分のみそかつ定食を持って来た。
「ありがとうございます。さぁ、頂きましょう。本当に美味しいんだから」
横を向く真由美に声を掛けたが、反応はなかった。
「せっかくだから、美味しくいただこうよ。あっ、そうだ、こんな小さな店でも自動ドアが使われているんだよね。なんと、世界の自動ドアの四分の一が日本に集中しているんだ。それも日進月歩、昔の自動ドアは、ドアの手前のゴムマットの下にスイッチが設置されていて、人間がゴムマットの上に乗るとその体重を感知してドアが開く仕組みだった為に、体重の軽い幼児が乗っても感知されず、ドアが開かないこともあったんだ。反対に、大型犬なとが乗るとドアが開いたりするトラブルも多かった。今はほとんど近紫外線センサーが導入されているけれど、初めの頃はドアに接近しないと開かなかったり、床のマットと色の似ている服を着ている人には反応が鈍いという欠点もあった。今のセンサーは五十本以上あり、防御システムの性能も良くなって、雪や雨、犬、鳥など、様々なパターンを記憶して、人間が接近した時以外は反応しないようにプログラミングされているんだ。本当にすごいよね」
真由美の顔をしっかりと見ながら話した。
「・・・・・・・・・」
真由美は答えなかったが『こんな変な男性なんかと付き合わないよね』と納得していた。
「懐かしい味で、とても美味しかったです」
清算を済ませて店を出た。
「あのさ、皆にスマホの画像を見せて何を聞いてたの」
今度は腕を組まないで、朝比奈の左横を歩きながら尋ねた。
「それは秘密。だって、真由美だって絵馬の願い事教えてくれなかっただろ」
当然という顔で答えた。
「それは・・・・・」
下を向いて答えた。
「ヤキモチを焼いてくれたんだ」
朝比奈は、胸のポケットから縦長の小さな袋を取り出し、その中からペンダントを手に取って真由美の首に飾った。
「えっ、これは・・・・・」
そのペンダントに触れて驚いた。
「僕が気に入ったあの緑色のペンダント。真由美に似合うと思ってさ。もう少し後で渡そうと思っていたけど、真由美が拗ねちゃってるからね。それに、巫女さんたちに聞いていたのは、お父さんが亡くなる前に瀬戸に寄っていないか確認する為だよ。瀬戸に来たらやはりサカエのみそかつ定食を食べるよね。特に、この近くで暮らしていたなら間違いなくね」
ペンダントを付けている真由美の姿を見て納得した。
「そんな・・・・・・」
今度はペンダントを右手でギュと握った。
「それに、こんな変なおじさんに興味を示すのは真由美くらい、余程のことがなければ、相手になんかしてくれないよ」
朝比奈は、真由美の鼻の先を右の人差し指で何度も突っついた。
「確かに、あんな状態を目の前にしても何もしない『変人』だからね。それに理屈っぽくて、必要もない変なことばっかり詳しくて、それなのに頓珍漢なことばかり、人の忠告も聞かないし・・・・・・」
指で数え始めた。
「ちょっと、ちょっと、悪いことばかりよくそんなに出てくるな。少しはいいところもあるだろう、ねえ、ねえ」
真由美の顔を見て言った。
「うーん、それは・・・・・よく考えておきます。本人の前では流石に言えないし、それに、いいところがなければ付き合っていませんよ」
笑いながら答えた。
「あっ、そうだ、ここに来たんだから、瀬戸焼きそばを買っていこう。今夜は瀬戸焼きそばだ。そうそう、瀬戸に住んでいたことがあるから、真由美は当然説明出来るよな」
形勢不利と思って話題を変えて尋ねた。
「もっ、勿論知ってるよ。太麺で少し甘いソースを使って味付けしてあるんでしょ」
自信を持って答えた。
「一つ、麺は蒸し麺を使用する。二つ、味付けは豚の煮汁と醤油ベースのタレを使用。三つ、具材は豚肉、正式には瀬戸豚の肉にキャベツを使う。四つ、器は瀬戸焼の器を使うことなんだよ。真由美の答えは残念ながら、甘めに見て三十点くらいかな」
顔を左右に振って『まだまだだね』って言う表情を見せた。
「そんなうんちくばかり言ってるから、ドン引きされ女の子に相手にされないのよ」
溜息を吐いても直ぐに腕を組んだ。
「くわしく説明しただけなのに、それっていけないことなの。まあ、何でもいいや。美味しい店知ってるから急ごう」
頭を捻って真由美と歩き出した。
「えー、六人分も頼んで、私そんなに食べれないよ」
朝比奈が注文した数量に驚いた。
「ちょっと今から寄るところがあるからその分も頼んだんだよ」
両手に瀬戸焼きそばを抱えて急いで車へと向かった。
「ねえ、どこに行くの」
心配顔で尋ねた。
「白犬ヤマタの宅急便なんてね」
節をつけて歌った。
「そんなの全く関係ないでしょ、真面目に答えて下さい」
さっき注意したばかりなのにと呆れ顔で答えた。
「あっ、あそこに愛知池が見えてきたよね。真由美、湖と沼そして池の違いは知ってる」
右手に見えて来た大きな池を指差して尋ねた。
「なんなの急に、琵琶湖や浜名湖、洞爺湖などのように大きさ、そう面積によって区別されているんでしょ、決まっているんじゃないの」
当たり前の質問よりどこに行くのかを知りたかった。
「残念でした。その回答は正確ではありません。湖、沼、池は海に接していないのが条件で、中央部がクロモやフサモなどの沈水植物が侵入出来ないくらい深いものを湖とし、その深さは一般に五メートル以上とされ、沼は湖よりも浅いものをいい、その中で中央部まで底に沈水植物が生えているものは沼、池は何らかの形で人工的な力が加えられた物を言うんだ」
得意気に話す横で『それがどうしたの』という表情で見た後、それが優作なんだと思い笑えて来た。
「もう少し早く優作に出会っていたら、私の人生も変わっていたのかなぁ」
何か寂しそうに真由美が呟いた。
『あの日あの時あの場所で君に会えなかったら、僕らはいつまでも見知らぬ二人のまま』
朝比奈が突然歌いだした。
「えっ、それ、『ラブストーリーは突然に』だよね」
反応して真由美が言った。
「あの日、あの時、あの場所で、真由美に会えなかったら、僕のことを好きになってくれる貴重な女性と、こんな素敵な時間を過ごせなかった。早くても遅くてもね」
左手で真由美の肩を軽く叩きそれに反応して頷いた。
「えっ、警察、まさか事件の件で出頭するつもりなの」
暫くして、名古屋市中区にある愛知県警本部の駐車場に車を止めた朝比奈に向かって言った。
「まぁ、それもあるかな。恨みがあってなんて誤魔化して襲った理由ははっきりしていないだろうけど、色々な背後関係について警察がどう判断しているのか知りたくてね」
半分の瀬戸焼きそばをもって車を出て、真由美も後を追った。
丁度その頃、愛知県警本部にある広域特別捜査班の部屋には、松原刑事が明日から就任するにあたり、上司となる班長や同僚に挨拶をしに来ていた。
「明日よりお世話になります、松原和子です。今日はご挨拶に参りました、よろしくお願いします」
奥に座る班長の前に立ち頭を下げた。
「わざわざ丁寧にどうも。私が大神で、そっちに座っているのが川瀬です。私よりずっと先輩ですので、こちらこそ色々教えて下さい」
席を立って右手で握手を求め、松原刑事は両手で握った。
「松原刑事は最近どのような事件を担当されたのですか」
テーブルの席へと松原を勧め、自分もその前に腰を降ろした。
「担当した訳ではありませんが、昨日署を出る時に自殺事件のことを聞きたいという人物がいまして、私が応対することになったのです。ところが、話し始めると、私の出身地とかどこで育ったなんて事件に全く関係ないことを聞いたり、出身地が尾張旭市だと言ったらドラフト会議の一位指名の話も持ち出して過去のどうでもいい高卒のピッチャーの話を持ち出して訳が分かりません。事件に関しては、自殺だと言っているのに体内からは薬物は検出されなかったかの確認をしてきたり、挙げ句の果ては『暗数』を持ち出し、テレビの刑事ドラマのように証拠を根刮ぎ拾えたのかなんて、世の中には本当に理由の分からない『変人』がいますよね」
松原はその人物の顔と、その時の状況を思い出しながら話し終えた時、その話を聞いて大神と川瀬の頭の中にある人物が浮かび上がった。
「こんにちは、大神いますよね。今日は、僕の彼女を紹介しに来ました」
扉を開け川瀬刑事に声を掛けたその時、松原刑事が振り向いた。
『あっ、』『あっ、』『えっ』『えっ』『えー』『えー』顔を合わせた朝比奈と松原が声を掛け合うこととなり、まずいと思って朝比奈が扉を締めようとした。
「なに、恋人だって・・・・・・」
大神は慌てて立ち上がって腕を取り部屋の中に強引に引き入れ、その後から入って来た真由美を見て、松原が二度驚くことになった。
「真由美、どうしてあなたが・・・・・」
松原の言葉が続かなかった。
「あっ、朝比奈優作、真由美さんの恋人です。よろしくお願いします」
二人ならんで頭を下げた。
「どうしてあなたがこんな『変人』と付き合ってるの、どうやって騙されたの」
松原は真由美の腕を掴んで、朝比奈から引き離した。
「あの、『変人』とはよく言われますが、騙しているつもりはありません」
真由美の顔を見て言った。
「お母さん、騙されたんじゃないの、私から恋人になってほしいとお願いしたの」
松原の手を両手で払い除けて答えた。
「松原刑事、先程話して頂いた自殺事件を調べている『変人』は朝比奈のことだったのですね。確かに、そんな『変人』滅多にいませんからね」
大神は納得して答えたが、ここにも『もう一人いるよ』とばかりに川瀬が大神を見た。
「あっー、お前に、素敵な彼女がいるって聞いたから、先に自慢してやろうと思って連れてきたんだけど、松原さんがここに配属されたなんて俺って本当についてないなぁ」
瀬戸焼きそばの入った袋を差し出して朝比奈は肩を落とした。
「お前、恋人って言ったけど、美紀さんとはどうなったんだよ」
袋を受け取りながら慌てて朝比奈の耳元に近づき小声で尋ねた。
「まぁ、色々あって・・・・・でも、姉さんには頼むよ」
大神の体を離して、唇に右の人差し指を当てた。
「ここに来た目的はそれだけじゃないだろ。昨夜、清流会の組員が傷害の現行犯で逮捕されたんだが、なぜか被害者が現場からいなくなったって聞いて、もしかしたらと思って警察官の証言を確認してたところだったよ。逃走した被害者っていうのは、お前のことだろ」
朝比奈と真由美を並んで座らせると、その前に腰を下ろして大神が尋ねた。
「ちょっと事情があって、警察には同行できなくて隙を見て逃げてしまいました。それで、こうしてお土産を持って、現場にた彼女と同伴で伺わせて頂きました」
右手で真由美を示して答えた。
「あなたも、現場にいたのですか」
驚いて大神が尋ねた。
「銭湯に行った帰りに襲われたのです」
頷いて答えた。
「えっ、銭湯の帰りって・・・・・まさか・・・・・・」
色々想像して大神が尋ねた。
「はい、彼女のアパートに一緒に住まわせて頂いています。勿論、恋人ですから」
真由美に同意を求め、小さく頷いた。
「犯人は突然襲ってきたんだな」
咳を一つしてから事件の話に戻した。
「多分監視され後をつけられていたんじゃないかな。そして、路地を離れた人影の少ないところで襲って来たのだと思う。ジャックナイフだったから、間違いなく俺を狙った犯行だな」
左の顳かみを叩いて答えた。
「そんな軽々しく言って、相手はヤクザで刃物を持っていたんだぞ。殺されていてもおかしくないんだぞ、それに彼女だって・・・・・」
朝比奈の言葉に驚いて大きな声で言った。
「いや、反対に俺が虎の尾を踏んだってことかも知れないな。碧さんの自殺にはやはりスコトーマ、知られてはいけない裏がありそうだな。お前の方でも上には分からないように調べておいてくれないか」
大神の顔の前で両手を合わせた。
「お前の踏んだ虎の尾次第だな。それを突き止めなければ、これだけでは済まないと思うぞ。暫くは様子を見る為にも、どこか安全なところで大人しくしている方がいいんじゃないのか」
朝比奈のことを心配して尋ねた。
「まぁ、以前からの因縁もあるから仕方ないな。でも、今回の事件は真由美さんの為にも、僕が真実をはっきりさせなければならないと思う。それに、お父さんの死については、不可解の点があまりにも多すぎる。自殺とされた現場には、何も残されていなかった。しかし、今日お父さんの出身地である瀬戸市に二人で訪れて、もし亡くなる前に立ち寄っていたらと思う場所を探ってみたら、レスト・サカエでみそかつ定食を食べていらしたのです。店の人に尋ねたところ、お父さんは大きな鞄を持っていたそうなんだ。だけど、最後に宿泊していたホテルにも、勿論現場にも何も残していない。コインロッカーに預けている可能性が無いとは言えないが、その鍵なども発見はされていない。まぁ、そんなことまでして自殺することはないと思うけどね。それと、家族に残された書類、離婚届と奥さんには旧姓に戻り、県警本部の広域特別捜査班への移動を願ったこと。これは、俺の想像だが、自分の身に何かあったら奥さんに捜査して欲しいと、微かな望みを託したのではないでしょうか。流石に同じ苗字それも『碧』で夫婦と分かってしまったら、捜査には参加できないでしょうからね」
真剣な眼差しで語る朝比奈に、大神には事件解決に対する決意が伝わった。
「もし、お前の推理が正しくて、今回の事件が自殺ではなく殺害によるものだとすると、その犯人にとっては碧官房事務次官が持っていたもの、そしてその存在そのものを消す必要があった。ちょっと待てよ、確か官房事務次官と言えば民自党の中心部にいる存在。当然、美濃部幹事長を筆頭に各大臣とも接触し、民自党内では各省との調整などを担当するポジションだったと聞いている。もし仮に、政府に批判が高まっている『日本学術会議の任命』や『夜桜を見る会』に関与していた。お前が狙われたってことは、美濃部幹事長が絡んでのこと、大和田製薬の国有地売却疑惑に因る可能性もあるぞ」
顎に右手の平を当てて言った。
「清流会が絡んでいるとすれば、その可能性は高いだろうな。多分、もっと確実な手を打って来るだろうな。まぁ、想像以上の虎の尾を踏んだんだ仕方がないな」
涼しい顔をして答えた。
「おまえなぁ、そんな悠長なことを言っている立場じゃないんだぞ」
眉間に皺を寄せ怖い顔で、テーブルを叩いてた。
「本当はお前も分かっているんだろ。俺・・・・いえ、僕が途中で手を引くなんて出来ないことを。もし、殺害されたとすれば、亡くなった人の無念を晴らせずにいることは、そのチャンスが自分にあるのに出来なかったことが、辛く最も後悔するってことをね。確かに、襲われ怪我をし、死に至るということは本当に怖い。実際、高橋刑事や川瀬刑事がいなければ、僕は死んでいたでしょう。本当に感謝しています。でも、だからこそ、今二人に『生』を頂いた僕が、亡くなって何も出来ない被害者に代わって、世間は勿論遺族の方にも真実を明確にしてあげたいと思います。多分、碧官房事務次官は奥さんや娘さんに会わないのではなく、会えなかったのだと思います。自分に関われば、二人共襲われるのではないかと考えて、遠くから見守っていた、そういう姿を想像すれば、黙って何もしないなんて出来ません。それに、僕には時間がないのです」
松本刑事と真由美にと顔を向けて告げた。
「事件を解決出来ないのは死ぬより辛いか・・・・・でも、お前の命はお前だけのものではない。もしものことがあれば、多くの人が悲しむんだ、そのことだけは忘れないでくれ」
大神の真剣な眼差しから祈る気持ちも伝わって来た。
「嬉しい言葉だけど、多いか少ないかは別にして、僕に限らずどんな人にも悲しむ人間はいると思う。それに生きる権利はあり、それを奪うことは決して許されない。それが、自分の身や金銭を守る為だとすれば、そんなことが通る世の中を作っては絶対にいけない。昔から親父に何度も言われた『因果応報』悪いことをすればその報いを受けなければならない。絶対にね。」
両手で握り拳を作り、決心を表した。
「あの、優作さんが前にも襲われたというのは本当なのでしょうか」
真由美が間に入って大神に尋ねた。
「命を狙われたのは事実です。ある政治家絡みの事件にコイツが首を突っ込んで、清流会の組員に拳銃で撃たれたのですが、その瞬間に高橋刑事が盾となって左胸を撃たれたのです」
拳銃を撃つ仕草で答えた。
「左胸と言うと・・・・・防弾チョッキを着ていたのですよね」
真由美は左の胸に手を当てて尋ねた。
「いえ、まさか、そこまでするとは考えていなかったので、拳銃も持たず勿論防弾チョッキもしていませんでした。ただ、本当に奇跡的なのですが、被弾したのが警察手帳でその中のコインが彼らの命を救ってくれたのです。それでも、衝撃が大きくて、高橋刑事はまだ病院で療養中です」
大神は高橋刑事のデスクを見ながら答えた。
「まぁ、過去の話は置いといて、碧官房事務次官は本当に何も残していないのか。確かに、重要な情報は肌身離さず持っていただろう、それも犯人によって処分されただろうけど、でも絶対にバックアップデータをどこかに残していると思う」
左の顳かみを叩きながら尋ねた。
「俺も、お前の親父さんに言われて調べてみたのだけど、残念ながらコンピュータのデータは全て消去されていたし、残されていた私物にもそれらしいものはなかった。まぁ、そんなところにデータを残すとは思えないけどな」
同じように顳かみを叩いた。
「反対に言えば、そのバックアップデータを犯人が入手していれば、僕が襲われたりはしないでしょう。しかし、そんなデータが残されているとすれば、相手も必死になって行動を起こしてくる。自分の身は自分で守るつもりですが、関わる人たちが傷つくのは許せません。その点はよろしくお願いしますね大神君。それでは、僕は僕なりに調べてみますのでよろしく」
朝比奈は立ち上がって大神に頭を下げると出口へと向かった。
「優作さん、私も・・・・」
真由美も立ち上がったが、その腕を松原刑事が掴み朝比奈は静かに扉を閉めたが、その後を大神が追った。
「本当にいいのか」
朝比奈に声を掛けた。
「さっきも言ったように、俺に関わると危険なんだ。万が一とは思うが、彼女の警護も頼むよ。あっ、ちょっと待っててくれ」
そう言うと、車に戻り残りの瀬戸焼きそばを持って来た。
「彼女に夕食は瀬戸焼きそばと約束していたから渡しといてくれ。じゃあな」
朝比奈は袋を手渡すと大神に背を向けて歩き出した。時を同じくして、名古屋市東区にある朝比奈法律事務所では、朝比奈麗子弁護士がアルバイトで雇っている、パラリーガルの糸川美紀を部屋に呼んで話を始めようとしていた。
「ねえ、美紀ちゃん、最近優作が家に帰って来ないのよ。何か変なのよね、今までは旅行以外に外泊なんてしたことないのに。何か聞いてない。あれから何度も連絡してるんだけど、留守電になってるしメッセージを残しても返答がないのよね。美紀ちゃんなら連絡取れるんじゃないかな」
美紀の煎れたコーヒーを手に持って尋ねた。
「いえ、暫く連絡を取っていません」
スマホを両手で持ちながら答えた。
「えっ、連絡してないって、二人付き合っているんじゃないの。まだ、知り合ってからそんなに経っていないから、あいつのこと分からないと思うけど、長年付き合ってる私が言うのだから間違いない。私だったら、あんな『変人』を絶対好きになったりしない。美紀ちゃん、命を救ってもらったからなんて思わないで、冷静になって真剣に考えてね。今ならまだ後戻り出来るのよ」
真剣な表情で訴えた。
「そんな、確かに感謝はしています。今はまだ、そんな感情で接している訳ではありません。優作さんの友人の一人であり、優作さんもそれ以上の感情はないと思います」
スマホを持つ両手に力が入って。
「友人か・・・・・・でもね、悪いとこばかりじゃないよ。優作がいないと、夕食はコンビニの弁当になっちゃうし、朝食はトーストにバターじゃ淋しいからと、どうしても小倉パンとかジャムパンの菓子パンになっちゃうし、牛乳を温めて飲もうと思ったら牛乳も消費期限切れ、インスタントコーヒーも空っぽで仕方なくティーパックで紅茶よ。着替えの洗濯物は溜まる一方だし、今日なんか朝八時までにゴミを出さなきゃならない本当に大変だったわ。いつも当然と思っていたけど、優作がいなくなって、そのありがた味がよくわかった。少しは、感謝しなくちゃね」
コーヒーを時計回りに動かしながら朝比奈の顔を頭に浮かべていた。
「当たり前、当然のこと・・・・・失った時の悲しみですか・・・・・」
下を向いてスマホの画面をジッと見詰めていた。
「でもね今回はちょっとおかしいのよ。昨夜、警察の知り合いから聞いた話なんだけど、清流会にまた襲われたそうなの、それにその現場から警察の目を盗んで姿を消したり、連絡を受けて慌てて優作に連絡したら、心配無いからと誤魔化すしその上お金が足りないから振り込んでくれとか、また何かの事件に首を突っ込んでる。間違いないわ」
ゆっくり顔を上下に動かした。
「えっ、優作さんが襲われたのですか・・・・・・」
緊張して体が固まった。
「この前のように拳銃ではなく、ジャックナイフのような刃物で刺されそうになったみたい。その警察官の話では誰かを庇っていたみたいだけれど、それにしても毎回毎回本当に勘弁して欲しいわね」
コーヒーを一気に飲み干した。
「誰かを庇ってですか・・・・あの、突然ですが、麗子先生は浮気をされたことはありますか」
朝比奈と真由美の姿を思い浮かべて尋ねた。
「えっ、何よ突然。浮気というのは正式には結婚している夫婦のどちらかか、違う相手と付き合うことよね。私に当てはめれば、夫が愛人を作ることだけど、残念ながら結婚の経験がないので一度もありません」
ソファーに背中を預けて足を組み両手を添えた。
「あっ、そうですね。では、二股をかけられたことはありますか」
『まずいことを聞いた』と感じながらも後には引けなかった。
「二股かー。そう言えば丁度美紀ちゃんの頃、大学の時に付き合っていた男性がいて、私の誕生日に、予約を取るのが難しいフランス料理の高級店で夕食の約束していたのに、その日の夕方たまたま彼が楽しそうに、他の女性と話しているところを見ちゃったのね。美紀ちゃんならどうする」
テーブルに両手をついて顎を載せた顔で美紀を上目遣いに見た。
「私は・・・・・私なら多分黙って、何も見なかったことにします」
またあの日の情景が頭に浮かんだ。
「そっか・・・・・その選択もあるし、それが正解かも知れないね。でも、私は、思わず駆け寄って『最低』と叫んで、彼の顔をビンタしちゃったんだよね」
ビンタの格好を見せて答えた。
「それで二人の関係はどうなりました」
生唾を飲み込んで尋ねた。
「それがね。彼が親しく話していた女性は、実はお姉さんだったの。その日、彼のサプライズで私を恋人だと紹介するつもりだったみたい。あーあ、もー最悪よね」
その時の状況を省みて、頭を抱えながら答えた。
「でも、それは誤解であって二股じゃなかったのだから、やり直せますよね」
胸を撫で下ろして答えた。
「後で分かっても、それは後の祭りよ。お姉さんの前で『最低』と叫んでビンタは不味い
よね。流石に気まずくなっちゃって、別れちゃったわ」
両手を頭の後ろに当てて天井を仰ぎ見た。
「そうですか・・・・でも、もし付き合っている彼氏が別の女性の部屋で抱き合っていて、それもその女性が肌に何も付けていなかったら、その現場を目にしたら麗子先生はどうしますか」
俯きながら小さい声で尋ねた。
「そんなの決まってるわよ。ビンタじゃ済まない、相手の男をボコボコにするわ」
空手の突きのポーズを見せた。
「私にはそんなことは出来ません。麗子先生のように強くはないですから・・・・・・」
どんどん落ち込んでいった。
「そんなこと・・・・・まさか、美紀ちゃんにそんな経験が・・・・・えっ、その彼氏って優作ってこと・・・・・そんなこと絶対に無い・・・・・と言うことは、美紀ちゃんには他に彼氏がいるってことなの」
美紀の意外な言葉に興味を示して尋ねた。
「いえ、そんな人はいません」
手に持っていたスマホの登録名簿から朝比奈優作の電話番号とメールアドレスを削除した。
美紀がその言葉を発した頃、朝比奈は碧官房事務次官が最後に泊まったホテルにいた。
「あの、すみません。二週間程前に碧正義という人が宿泊されていると思いますが、ご存知の方はいらっしゃいませんか」
朝比奈は受付の女性に尋ねた。
「事件が発生した後、刑事さんには支配人の方からお話しさせて頂いたと思いますが」
少し緊張しながら答えた。
「詳しいことではなくて、本人は黒い鞄を持っていたと思うのですが、覚えていらっしゃいませんか」
一応ノートとボールペンを取り出して尋ねた。
「えっ、その方は確か自殺だとテレビなどで報道されたのですが、違うのですか」
なぜ二週間以上も経って、それも刑事でもない人間が訪ねて来る理由が分からなかった。
「部屋には残されていなかったということですね。ちなみに、碧さんが泊まられていらした部屋は今日空いていますか」
書き込んだ後のノートとボールペンをポケットに戻して尋ねた。
「しばらくお待ち下さい。はい、空いていますが」
入室記録を見て答えた。
「じゃ、今日利用しますので手続きをお願いします」
女性が差し出した書類に住所と名前、そして携帯の電話番号を記入して教えられた部屋へと向かった。シングルベットと机だけの八畳程の部屋は、殺風景でもあり一人でということなのか何か心にぽっかりと穴が空いた様で、外の気温よりもずっと寒さを感じていた。朝比奈は机の前に腰を下ろすと、ショルダーバックの中から便箋を取り出して、大きく息を吐くとボールペンの黒のボタンを押して書き始めた。
『真由美へ、恋人の契約期間の三日が過ぎました。申し訳ありませんが、三日目は一緒にいられることが出来ませんでしたが、二日間は何とか恋人として演じることが出来たと思います。
しかし、申し訳ありませんが、やはり真由美は僕の恋人としては似合わないと思い、一晩よく考えてた結論が昨日を持ちまして契約を解除させて頂くことです。今後は、お互い会うことも近づくことも、勿論連絡することも禁止とさせて頂きます。これは、クーリングオフの規定により、こちらの都合により解約するものであり、一つ言えるとすれば今の僕には、真由美を幸せにし守る自信がないからです。それでは、この文面を持って恋人契約書の解約とさせて頂きます』そして、もう一通書き始めた。
『愛する真由美へ、二日間の恋人期間はどうだったでしょう。僕は今までで一番幸せな時間でした。真由美の可愛くて素敵な寝顔、それに寝息も寝相の悪さも今はいい思い出です。二人で行った銭湯に、二日目の深川神社に一緒に食べたみそかつ定食、懐かしさもあったけど真由美と一緒だったから、とっても、とっても美味しかった。腕を組んで歩いた商店街、これがデートなんだと本当に感激しました。僕もこんな幸せを感じられる時間がいつまでも続けばと思いました。でも、それはどうも無理なようです。真由美には責任はありません。先日も話したように、僕が危険な事件に関わった為に危険な目に会うことになりました。これだけで済むとは思えません。しかし、この事件は真由美やお母さんの為、そして、お父さんのしようとしていた事実と名誉の為にも途中で止めることは出来ません。変な意地を張ることで、僕だけが被害に遭うのは、自分が蒔いた種でもあり仕方がないでしょうが、一緒にいる真由美が傷つくのは自分が傷つくより辛いです。だから、事件が解決するまでは、会わない方がいいと思います。どうか僕のわがままを聞いて下さい。そして、真由美の素敵な笑顔を見せられる男性が現れることを、心より祈っています。さようなら』
朝比奈は二つの文面を交互に何度も見詰めながらもう一度大きく息を吐いた。
その日の夕刻、名古屋市西区にある高級亭『翠祥』では、美濃部幹事長と秘書の中村一茂、『青龍会』の組長の川井正義それと、末席に愛知県警本部の西村悟部長が席を共にし、間合いよく運ばれた料理の数々を食して、最後の料理が下げられていた。
「例の件は最終的にはどうなったんだね」
政治などの上っ面の話題を述べ合った後、美濃部幹事長が話題を変えて尋ねた。
「はい、碧官房事務次官については、既に自殺として処理致しました。家族も納得させましたので問題ないと思います」
日本酒を飲み終えて西村刑事部長が答えた。
「彼のパソコン自体は処分し、そこに残されていたデータも消去してあります」
秘書の中村が付け足した。
「彼が残した鞄の中にUSBメモリーと関係書類が残されていましたが、それも全て処分しましたのでご安心下さい。ただ、碧官房事務次官の自殺について調べている奴がいるとの情報が入り、川井さんに処理をお願いしたのですがうまくいかなくて・・・・・・」
川井の顔を見て西村刑事部長が話した。
「捕まったとしても、西村さんには傷害未遂として処理して頂ければ何の問題もありません。誰の指図かなんてことは絶対に言いませんから」
自信を持って川井組長が答えた。
「今回のことでその人物も警戒するでしょうし、小さな綻びでも見せれば警察に訴えることもあります。ですから、今の内に手を打っておいた方が良いと思うのですがどういたしましょう」
酒を注ぎながら、西村刑事部長が美濃部に同意を求るように言った。
「うーん、そうだね。碧君のように自殺として処分できればいいのだけれど、警戒されていれば仕方がないですね。君たちでなんとかうまくやってくれたまえ。今回の仕事次第では、西村君を今空いている県警本部長のポストにも推薦出来るからな、頑張ってくれたまえ」
注がれた日本酒を一気に飲み干して美濃部が言った。
「ただ一つ、気になることがあるのです。彼の鞄に残っていたUSBメモリーの内容も一応確認して、間違いなく美濃部幹事長に関するものと判断し処理をしましたが、その情報に対するバックアップデータがどこからも見つからないのです。我々が探して見つからないのですから、他の人間には見付け出す術はないとは思いますが、万が一ということもありますのでよろしくお願いします」
秘書の中村が西村刑事部長と川井組長に頭を下げた。
「分かりました、仕留めそこなった奴に関しては責任もって処理させて頂きます。その後の処分等につきましては、西村さんよろしくお願いします」
今度は川井組長が西村刑事部長に頭を下げた。
「真由美、暫くは、警護を兼ねてお母さんの家で生活するように大神班長から言われたので、アパートによって勉強に必要なものや着替えなどの準備をしてくれる」
真由美を助手席に座らせアパートに向けて松原刑事が言った。
「分かった。でも、あの時も私が狙われたのではなく、優作さんが目的だったと思うの。私なんかよりも、優作さんを先に警護するべきよ。前にも一度拳銃で撃たれたんだし、今度だって絶対に襲われるわ」
あの夜道での光景を思い出しながら興奮気味に言い放った。
「そんなに心配しなくても、大神班長もきっと考えてくれているわよ」
朝比奈のことに興奮する真由美の方が心配だった。そして、暫く無言の時が経ち。
『あの』『あの』ほぼ同時に言葉を発し顔を見合わせた。
「先程大神班長と呼んでいた人は、優作さんとどのような関係なの、お母さん知ってるの」
真由美の方が言葉を続けた。
「私も移動に際して色々調べてみたけど、東大在学中に司法試験に受かったエリートみたいね。噂では、一度検察庁に入庁して今の朝比奈最高検察庁次長検事の要望で警視庁に鞍替えして、今年から愛知県警本部の地域特別捜査班の班長になったみたいね。今聞いた話では、朝比奈とは高校時代の友人らしいけど、朝比奈は地元の三流大学を出て、今も定職に就いていないみたい。無職の人間が、なんか偉そうなことを言ってたけど、素性が分かれば説得力もないわ。ヤクザに絡まれその場を逃げ出すなんて、きっと警察にも厄介になってるんじゃないかな。明日前科者リストで調べてみなくちゃね。真由美、恋人なんてとんでもないわ。みんな初めは、騙されたりしないなんて言っているけど、なんかやたら良く喋る奴だったから、あの歳だし話すことがうまいのよ。ただ、まだあなたは若くて経験もないから、うまく口車に乗せられただけ、絶対に私は許しませんよ」
硬い表情で答えた。
「お母さんこそ何も分かっていないよ。お父さんのこともあったから、お母さんが落ち込み苦しんでいたのはよく分かったし、いろんな事件を担当して忙しい日々だった。でも、私だって事件のことや、苦しんでいるお母さんの言葉や姿を見ることは辛かったんだよ。今考えれば、そんなことの積み重ねで、衝動的にお父さんが亡くなった橋から飛び降りるところだったの。その私を助けてくれたのが優作さんだった」
両手を握って合わせた。
「えっ、まさか、そんな・・・・・・」
止まってい信号が赤から青に変わっても動揺してアクセルを踏むことが出来ず、真由美の指差す信号を見て急発進して二人の体は前後に揺れた。
「優作さんは、私を助けておいて、その自殺の原因を聞こうともしない。それどころか、自分の目の前で死なれては困る。死ぬのは勝手だが自分を自殺に巻き込むのはよしてくれなんて。でも、その時の腕の温もりがとっても、とっても暖かかった」
自分で肩を抱いてその温もりを呼び戻そうとしていた。
「そんな気の弱みに男はつけ込んで来るのよ。真由美もその時は気も心も弱っていて、平常心ではなかったんでしょ。ちょっと変わった優しさに心が動いてしまっただけなの。変な方向に傾いた心は元には戻り難い。もう一度冷静になって考えてみて。あいつのいい所しか見ていないのよ、魅せられていないかも知れないんだから」
大切な娘である真由美を騙し微笑む、朝比奈の表情が頭に覆い被さって来た。
「それって確証バイアスって言うんだよね。自分に都合の良い言ばかり集めること。それも優作さんが教えてくれたし、お母さんと同じ言葉を言ってた。冷静になって考えろってね」
全裸になって抱きついた時のことを思い出して、身体が熱くなって来た。
「まさか・・・・・」
『あの朝比奈が』と思うと娘の言葉であってもとても信じられなかった。
「刑事であるお母さんは人を肩書きなどの先入観や、言葉遣い外観などで判断するのは仕方のないことかも知れない。でも人間の価値ってそんなことでは測れない。それも優作さんから学んだことなの。大学を出たエリートが出世をして、優れた肩書きを持つことになっても、法を破り悪事に手を染めることもある。優作は定職にも就かずにアルバイトをしているけれど、死ぬつもりだった私を救い生きる喜びを教えてくれた。それに、全くの他人であるお父さんの死に疑問を持ち、自分の命を厭わず本当の理由を探そうとしている。そんな素晴らしい人を嫌いになれる訳ないじゃない。私を残していったのは優作さんの優しさだと思う。今夜は優作さんのその優しい気持ちを受け止めて、お母さんの家に泊まるけど、明日は優作さんに連絡して会いに行く。少しでも、一瞬でも優作さんの隣にいたいの」
朝比奈の微笑む顔を思い浮かべて涙が溢れていた。
「でもあいつはヤクザに狙われているのよ。そんな危険な男のそばに真由美を近づける訳には行かないわ。それは母親としてでもあるし、一人の警察官としてもよ」
力を込めて低い声で言った。
「お母さんの気持ちは嬉しい。本当に嬉しいよ。でも、今の私は、優作さんの隣にいられないことの方がずっとずっと辛い。それに、優作さんが襲われた時は、私本当に怖かった。でも、あの時感じたの、離れて優作さんが死ぬ方がもっと怖いってこと。一緒に死ねたら本望、一度は消えかかった命だもの」
死に体して緊張感もなく、清々しく話す真由美が何か不思議な感じを覚えた。
「あなたのこと気づいてあげられなくてごめんね。真由美も大人になったんだよね。でも、彼の隣ではなく、一人になってゆっくり考えてみてくれないかな。そして、考えた答えなら、お母さんは反対はしない。冷静になってそれでも出した答えなら・・・・・」
大きく息を吸い込みゆっくり吐いてから松原刑事が宥めるように言った。
「そうだね、分かった。お母さんアパートに寄らないで家に行ってくれないかな。お願い」
真由美は朝比奈の居ないアパートには戻りたくなかった。その方が、母の言うように冷静な気持ちになれるのではないかと思えた。そして、家に着き、温めた瀬戸焼きそばと母の手料理の夕飯を無言のまま食べ終えた後、シャワーを浴びて以前この家で使っていたパジャマに着替えると、寝室へと向かいベットに腰を降ろした。
「そして『二人で行った横町の風呂屋、一緒に出ようねって言ったのに、いつも私が待たされた』真由美は神田川の詩を確かめるように口ずさんだ。優作は待っててくれたんだよね。それに、ステーキ、私が焼きすぎて文句をい言ったり、でも美味しかったなぁ。また食べたいなぁ、優作の料理。手作りの料理も美味しかったけど、優作と一緒だったから美味しかったのかも。お母さんの手料理、何故か味気なかった。淋しいよ」
たった二日間の出来事ではあったが、真由美の頭の中に次々と浮かび上がって来た。
「もう寝なさい」
心配して見に来てくれた母に頷いて、ベットで横になった。でも、頭の中の朝比奈は消えることはなく、なかなか眠りには就けなかった。そして、突然起き上がってスマホを手にすると、一瞬間を置いて朝比奈の携帯へ連絡を入れた。
『只今電話に出ることは出来ません。お掛け直し頂くか、ピーと言う発信音の後にお名前とご用件をお願いします。ピー』
女性の言葉が耳に届いた。
『真由美です。連絡を待っています』
伝言を残して電話を切った。スマホの画面に映し出された一時二十三分の表示に、『こんなに遅いんだもの、留守電にしてるよね』と自分に言い聞かせて見たが、朝比奈からの連絡がないことは何となく分かっていた。
「探さなきゃ、絶対に探さなきゃ・・・・・・・優作に会いたい」
真由美の頭の中はその手段を色々模索していた。
パジャマ姿でキッチンに顔を出した真由美に朝比奈が声を掛けた。
「おはようございます」
寝ぼけ眼でテーブルの席に着いた。
「今朝は、五枚切りの山切り食パンに、大き目のとろけるチーズを載せて焼いた後に薄くスライスしたトマトを載せ、最後に香り付けの為に細かく刻んだ青じそを振り掛けてみました。それと、ロールパンは縦に切り目を入れて、茹で玉子を潰して塩コショウとマヨネーズを和えたものをサンドイッチ風にして、スープはコーンポタージュで少し濃厚に仕上げてあります。どうぞお召し上がり下さいませ」
席に着いた真由美に右手のひらを示して行った。
「えっ、こんなに沢山作って、優作、ちゃんと寝たの」
真由美は、驚いた表情を返した。
「流石に、昨日の朝は辛かったですが、昨夜は十分に睡眠を取れたから大丈夫ですよ。飲み物は、ミルク、それともコーヒーにする」
自分の分のミルクをコップに注ぎ、真由美の返答を待った。
「優作と一緒でいいよ」
トーストを手にして答えた。
「はい、アイスカフェオーレにしました」
真由美の前にグラスを置くと、自分も席に着いて両手を合わせた。
「あれ、優作はミルクなの、私と違うじゃない。一緒の飲み物を頼んだのに」
頬を膨らませて言った。
「持ってきてもらって、文句を言わないの。今日は初めてのデートなんだから、気分よく行こうよ」
ミルクの入ったグラスを手に言い返した。
「あのさ、優作は今までどんな仕事をして来たの」
朝食を取り始め、暫くしてカフェオーレを喉に通した後、真由美が尋ねた。
「あれ、この前も話したよね。恋人の契約書の四項には互の過去には触れない聞かないって書いてあったよね。それは、契約違反ですよ」
突然の問いに、パンを喉に詰まらせて慌ててミルクで流し込んだ。
「過去がダメなら、今現在何をしているの『ゼア・イズ』は土・日曜日だけだし白犬ヤマタの宅急便でも正社員じゃないですよね。現在のことを聞くのは契約違反ではないでしょ」
真剣な眼差しで朝比奈の目を見た。
「仕方ないですね。これは特別事項としてお話しますが、友人などに恋人の過去を聞かれても、絶対に話してはいけませんよ」
睨み返す目の鋭さに真由美は生唾を飲んで頷いた。
「先程真由美が言ってた以外は、週刊誌などに特集記事を提供したり、スーパーマーケットの臨時アルバイトに工事現場の作業員、病院や大学に美術館などのギャラリーの夜間監視員や、たまにある選挙の事務員もやってるね」
指を追って数える朝比奈の目に、真由美が顔を左右に振る姿が写った。
「あっ、そうでした。それでは真由美は満足してくれませんよね。会社勤めの件ですが、大学を卒業して大手製薬会社に就職しました。しかし、残念ながら、こんな性格ですから会社の組織に馴染めなくて、一年程で辞めてしまいました。それ以降は正社員として働いたことは一度もありません。今は、国民健康保険を払っている無職と言うことになります。ですから、色々なアルバイトをして食べてゆくのに必死の生活です」
真面目な顔をして答えた。
「それで仕方なくヤクザに・・・・・」
パンを手にしながら下を向いた。
「ヤクザ・・・・何のこと」
真由美から意外な言葉が飛び出し問い返した。
「だって、ヤクザに襲われたり、駆け付けた警察に連れて行かれては『不味い』とか、それに、それに・・・・・・・・」
言葉を飲み込んだ。
「あっ、そうか、昨夜のスマホの会話、盗み聞きしてたんだ。それは不味いな・・・・・」
最期の言葉は本当にヤクザ者のように凄んで見せた。
「御免なさい、御免なさい」
真由美は何度も頭を下げた。
「恋人のこと知りたいという気持ちは分かります。それでは順番に話しておきましょう。昨夜襲って来た清流会の組員は、以前僕が警察に協力して逮捕したことを恨みに思って襲って来たのでしょう。それから、僕が警察に連れて行かれると困ると言ったのは、真由美と少しでも一緒にいたいという気持ちが一番だけど、実は姉が弁護士をやっていて迷惑を掛けたくない気持ちがあったからです。昨夜、真由美が盗み聞きしたスマホの相手もその姉で、『裏のルート』と言ったのは、しばらく何もなかったのに急に僕を襲って来るには何か特別な『裏のルート』があると感じたし、『始末する』と言うのは姉さんは毎日のゴミなんかもうまく処理出来なくて、今日の朝は特にゴミ出し日だったから、きちんと処理して欲しいと言っただけ、特に気になっただろう『組長』については僕は今年町内会の役員になっていて、今週末に会合があるけど、参加出来ないから組長さんにちゃんと説明しておくと伝え、『お金を振り込んで』と言うのは、真由美が予想外のステーキを食べたいって言うから、今日のデート予算が足りなくなる見込みで、今日中に口座に振り込んでもらうつもりだったのさ。それに、もし、僕がヤクザだったらこんな朝は迎えてませんよね」
テーブルの料理を指差して答え。
「でも、あのヤクザと対等に渡り合ってたし・・・・・」
まだ朝比奈の言葉が全部信じられない真由美だった。
「見掛けによらず弱いって言ったのは冗談で、中学校時代から、空手に柔道、それに少林寺拳法などもしてたし、高校からはボクシングと剣道にフェンシングも一応武道はたしなむ程度にして来ました。ですから、あれくらいの相手なら負けませんよ」
今度は空手の正拳突きのポーズを取って見せた。
「本当にヤクザじゃないんですよね」
昨夜あんなに悩んで、そしておそらく語られるであろう思っていたことと、朝比奈の言葉のギャップの大きさで、頭の中が混乱していた。
「まぁ、実際に定職に就けていないのだからそう思われても仕方がないけどね・・・・・・
ここだけの話、親父は最高検察庁次長検事、つまり検察庁のナンバーツーなんですよ」
真由美の顔に近づき、右手の人差し指を唇に当てた。
「父親が検事で、姉が弁護士なのに僕がヤクザなんて、流石に三流の推理作家でも描かないでしょう」
ミルクを一気に飲み干した。
「じぁ、私が一晩中優作のこと心配しちゃって損をしたってこと」
大きな溜息を吐いて朝比奈を睨んだ。
「それは仕方ないですよね。色々詳しく話そうとしたら、シャワーも浴びずに一人で寝るって言ったからさ」
首を傾げて答えた。
「それは、すみませんでした」
真由美は大きな声で言い返し、カフェオーレを飲み干した。
「真由美のお父さんの出身地はどこだっけ」
しばらく会話が途絶え、朝食の片付けを二人でしている時、朝比奈が真由美に尋ねた。
「瀬戸市だけど」
手を止めて答えた。
「あっ、将棋の藤井君で今は脚光浴びてる街だよね。そうだ、今日のデートは瀬戸にしよう。僕にもちょっと因縁がある街だし、いつか真由美を連れて行こうと思っていたからね」
片付ける朝比奈の手が早まった。
「ねえ、瀬戸に因縁ってなんのこと」
朝比奈に合わせてポロシャツにジャケットそして、ジーパンを履いた真由美が瀬戸市に向かう車の助手席で尋ねた。
「藤井君が小学生だったかな。将棋の早指し競技で対戦することがあって、僅か数分で負けた思い出があるよ」
その時の情景を思い出しながら言った。
「優作は将棋も出来るの」
真由美は『意外』という表情で尋ねた。
「同じ将棋教室に通っていたけど、一回りも下の少年にこてんぱんに負けて、自分には才能がないとそれ以来将棋は指していないけどね。でも、ルールは知ってるよ」
車は尾張旭市を抜けて瀬戸市に入っていた。
「同じ将棋教室ってことは、優作は瀬戸市に住んでいたの」
意外な返答に真由美は思わず横を向いて朝比奈の顔を見た。
「母親が瀬戸に住んでいて、深川小学校と本山中学校までは母親の家で育ったんだ。だから、結構詳しいかも」
ワクワクする気持ちを抑えられなくて、つい微笑んでしまった。
「えっ、私は道泉小学校と本山中学だったの。優作は中学校の先輩だったのね」
驚きの眼差しに変わった。
「先輩って言っていくつ違うんだよ、。えーとー・・・・・」
朝比奈が頭の中で数え始めた。
「恋に年の差なんてありませんよ」
真由美は隣で微笑んで見せた。
「あっ、じゃ、初めに深川神社に行こうか」
朝比奈は尾張瀬戸駅を横目で見ながら一方通行を東に走った。
「真由美、お父さんの写ってる画像あるよね」
朝比奈が話題を変えて尋ねた。
「あるけど、どうするの」
ポケットからスマホを取り出して答えた。
「僕のスマホにデータとして送ってくれないか」
懐かしい風景に心が安らぐ思いであった。
「分かった、母と二人で写っている画像でもいいよね」
画像を選んでスマホに送り、その画像を見た朝比奈は『やはりね』とゆっくり頷いた。
「ここ、ここ、ここだよ」
深川神社も通り抜けて直ぐ横にある駐車場に車を止めた。
「先ずは手を清めてからの参拝だ」
右手で柄杓を取り上げ水を汲んで左手に掛けて左手を清め、今度は柄杓を左手に持ち替えて同じように右手を清めてた。そして、再び柄杓を右手に持ち左の手のひらに水を受け口をすすぎ、もう一度水を左手に流して最後に水の残った柄杓を立てて、柄杓に水を流してから元の位置に戻した。真由美はその仕草に習って同じように清めた。
「先ずは、本殿に参拝するけと、真由美は正式な拝礼の仕方知ってる」
朝比奈が先を進みながら尋ねた。
「お賽銭を入れて、柏手を打って頭を下げるんでしょ」
自信なさそうに小さな声で言った。
「賽銭箱に賽銭を入れてから深いお辞儀を二回繰り返し、次に両手を胸の高さで合わせ右手を少し手前に引いて肩幅程度に両手を開いて拍手を二回打つ。そして、両手を合わせたまま心を込めて祈り、その後両手をおろして最後にもう一度深いお辞儀をするんだ。ちゃんとした礼儀があるんだからしっかり頼むよ」
本殿に向かうまでに朝比奈は真由美に拝礼の方法を動作を交えてレクチャーした。
「拝礼の作法はよく分かりましたが、根本的にこのような服装で良いものなのでしょうか」
朝比奈のジーパン姿を指した後、自分の服装を両手で掴んで現した。
「仕方ないだろ、これしかなかったんだから。兎に角、僕達は服装よりも心が清らかんだからそれでいいんだよ」
そう言うと本殿へと向かって先程の礼儀に従って拝礼を終えて車に戻ろうとした時、二人は左手方向に商売や合格の祈願が書かれた絵馬が吊るされているのを見付けた。
「折角だから、何か願い事を残しておこうよ」
真由美が声を掛けた。
「えーと、絵馬とは神殿や仏様に祈願、またはお礼参りの為に奉納する馬の絵が描かれた板のこと。絵馬の起源は神様に神馬として生きた馬を献上していたのが、時代が経つにつれて本物の馬から木や土で作った馬で代用されるようになり、平安時代には絵として描いた馬が奉納され、さらに室町時代には現世利益を求め、小型の絵馬を奉納するようになり、江戸時代には家内安全や商売繁盛と言った身近なお願い事をする風習が庶民に広がった。それに因って、今では馬以外の絵も描かれるようになり様々なデザインの絵馬が誕生したって訳だ」
左の顳かみを叩きながら説明した。
「講釈は結構です。兎に角、願い事を祈願しましょう」
真由美は朝比奈の手を取って社務所に向かい『馬』と大きく書かれた絵馬を購入したが、朝比奈は売り子さんや巫女さんにスマホを見せて何か尋ねていた。
「何をお願いしたの」
願いを油性ペンで書き終えた後、真由美のペン先に目を移しながら尋ねた。
「ひ・み・つ」
真由美は朝比奈が覗き込めないように背を向けて隠した。
「恋人なんだから隠すことないだろ」
肩ごしから覗き込もうとした。
「じゃ、優作の願い事から先に見せてよ」
絵馬を胸で隠しながら言った。
「はい、どうぞ」
朝比奈が素直に差し出した絵馬には『真由美がいつまでも幸せでありますように』と書かれてあった。
「ダサーイ、ちょー平凡」
そう言いながらも、真由美はとっても嬉しかった。
「他人に教えたら、望みが叶わないんだよ」
そう言いって朝比奈と自分の絵馬を持って走り出し、ご祈祷場に重ねて吊るすと階段を駆け下りた。
「そんな話聞いたことないよ」
朝比奈は慌てて真由美の後を追い、階段で転びそうになった肩を抱きしめた。
「急に走り出して危ないだろう」
ゆっくりと手を離して言った。
「御免なさい」
それでも、あの時と同じ腕の温もりが何だか嬉しかった。
「いい匂いがするね」
階段を降りて直ぐにうなぎを焼くタレの香りがした。
「まだちょっと昼食には早いよね」
うなぎ一尾二千七百円の看板が目に入り唾を飲み込んで朝比奈が答えた。
「じゃ、もう少しぶらついてからにしようか」
真由美は右腕を絡ませて銀座通り商店街へと向かった。
「優作、売り子の女性とか、巫女さんに声なんか掛けて、恋人がいるのに何ナンパなんかしてるの」
腕に力を込めて尋ねた。
「それはナンパじゃなくて・・・・・あっ、この店『安藤金魚店』だよ。懐かしいなぁ」
話を外らして、暫く歩いて駐車場の階段を下りたところにある店を指差して言った。
「ちょっとすみません。まだ金魚すくいって出来ますか」
店内にいた女性に声を掛けた。
「金魚すくいですか、昔は店内でもやっていましたが、今はお祭りなどのイベントに出店するくらいになりました」
小さな池に泳ぐ金魚を見せて答えた。
「僕が子供の頃よくやっていました。紙が破れるまで必死にすくい、友達との競争だから紙が破れても柄のところで金魚を掴んだりしてね」
その時の真似をしながら言った。
「それは、おじいちゃんが店をやっていた頃ですから、随分前のことですね」
女性も微笑みながら答えた。
「そっ、そうですね。ありがとうございました」
頭を下げて真由美と一緒に店を出た。
「私も来たことあるけど、金魚すくいはなかったわ」
首を傾げて真由美が答え、朝比奈は聞こえない振りをして銀座通り商店街に向かった。
「安藤金魚店など子供のころから続いている店も多いけど、変わってしまったりシャッターを下ろしてる店も多いね。藤井君の中継などは撮影の技術だろうけど、とても繁盛しているようにテレビでは映っていたけど、平日ではあるけれど何だか殺風景だよね」
二人とすれ違う人もなく、確かにシャッターが下りている店も多かった。
「ちょっと、記念橋を歩いて末広通りに行ってみようか」
銀座通りを少し歩いた後で、真由美の腕を引いて向きを変えた。
「こちらの通りもよく歩いたよ。映画館もあったし『春広堂』っていう本屋ではよく立ち読みをしたけど、おばさんは優しい目で見守っていてくれた。だから、その頃から色々な知識が身に付いたかも」
子供の頃に比べると本を展示するスペースが小さくなっているような感じがしていた。
「私もこの店は覚えてる。この辺では本屋さんは『春広堂』しか無かったからね。あっ、あそこのツチヤスポーツ、学校の制服も扱っていたんだよね」
店先に展示された看板に書かれた学校名に目を移しながら真由美が言った。
「本山・本山・・・・・無いよ。扱ってないのかな。すみません、本山中学の制服は扱っていないのですか」
朝比奈は店の奥にいた年配の女性に声を掛けた。
「ああっ、それなら生徒数が減った為に、昨年から当併合されて、本山中学はにじの丘学園になったよ。制服も今までの学生服やセーラー服から最新のブレザーに代わってカッコ良くなったよ」
制服を見せて答えた。
「二人共母校が無くなってしまったんだね。次々と無くなって・・・・何だか淋しいな」
真由美は肩を落とした。
「お腹空いたね。お昼にしようか」
朝比奈は真由美の腕を引いて来た道を引き返した。そして、末広通りを抜けたところにあるギャラリーにふと目を止めて真由美を連れて中に入った。
「色々な作品があるのですね」
湯呑や茶碗、イヤリングやペンダントに次々と目を移しながら、係りの若い女性に声を掛け、真由美は『又、ナンパなの』という表情で見ていた。
「はい、若い陶芸作家の作品を展示してあります。隣にある瀬戸蔵や駅にも沢山展示してありますので観ていって下さい」
作品を乗せたパンフレットを差し出して女性が対応してくれた。
「ああっ、僕は子供の頃瀬戸に住んでいたのです。確か、この場所、この建物は警察の派出所でしたよね」
辺を見渡して尋ねた。
「貴重な建物ということで、そのまま残しギャラリーとして替わって、派出所はこの建物の隣に新しく建て替えられました」
右手で示して答えた。
「そうだったんですね・・・・・・あっ、この緑色ってとても素敵ですね。ペンダントもあるし・・・・・値段はついていないですがこちらでは買えないのでしょうか」
朝比奈は緑色のペンダントを指差して尋ねた。
「こちらは展示だけで販売はしていませんが、あちらの瀬戸蔵では買えますので、そちらでお願いします」
右手で示して答えた。
「ちなみに、値段はどれくらいするのでしょう」
朝比奈は真由美に見えないように女性に顔を近づけて小声で尋ねた。
「ペンダントですと、千五百円から三千円くらいだと思います」
女性も小声で返した。
「ありがとうございました」
朝比奈は今度は大きな声を出し頭を下げて、瀬戸蔵へと向かい真由美も小走りで後を追った。
「喜んで話してたよね。デートの約束でもしてたの」
先程の女性との会話のシーンをしっかりチェックしていた真由美は、朝比奈の脇腹を突っついて尋ねた。
「ちょっと、トイレへ行ってくるから、展示室の方を見ててくれるかな」
朝比奈はそう言って真由美から離れた。
「何か変、本当にナンパなのかな」
朝比奈の理解出来ない行動に異変を感じていた。
「もう少し歩いてから、昼食にしようか」
少し待たせた真由美の手を取って西に向かうと、パピタという小規模なデパートの南にある宝くじ売り場へ連れて行った。
「いらっしゃいませ。あっ、朝比奈君。えー、もしかしたら彼女」
売り場の女性が二人を目にして声を掛けた。
「いえ、彼女ではないです。恋人です」
右手の平で示し、真由美は頭を下げた。
「まさか・・・・本当に」
真由美の姿を足元から上へとゆっくりと見上げながら尋ねた。
「まさかは余分でしょ。確か、今日は火曜日だから、谷口さんはこちらの場所の担当だと思って彼女を紹介しに来ました」
左の顳かみを叩きながら言った。
「よく覚えているわね」
朝比奈の仕草を真似て答えた。
「谷口さんは幸運の女神さまだから、ロトでも買ってみようかな。真由美の誕生日いつだっけ」
申込カードを手にして尋ねた。
「平成二年十一月八日だけど」
鉛筆が二と八と十一を塗り潰した。
「僕の誕生日が三月二十八日だから、後は三と二十八を塗り潰して」
鉛筆で五つの数字を塗り潰した申込用紙と料金を渡した。
「そんな簡単に当たるの。でも、一等は一千万円、二等は約二十万だね」
当選金を確かめて言った。
「一等が当たったら、二人で世界一周でもしようか。二等だったら・・・・・・」
夢を広げて言った。
「二等だったら、ちっちゃくてもいいからダイアモンドの婚約指輪を買ってくれるなんちゃって。優作の生活費、そうだ美味しい肉専門店でサーロインステーキを食べたいな二人で。今度は焼き過ぎてない上等の肉のね」
脇腹を突っついて真由美が微笑んだ。
「捕らぬ狸の皮算用。はい、もし、当たったら笑顔で一緒に食べよう」
朝比奈が右の小指を差し出すと、真由美も同じように差し出して絡めた。
「あっ、ごめん、遅くなったね、昼食にしようか」
朝比奈は頭を下げ谷口から手にしたロトくじを財布に入れて、真由美と腕を組んで東へと戻り、瀬戸川を渡って又銀座通り商店街へと向かった。
「お昼は、ここと決めていたんだ。真由美も来たことあるかな」
みそかつレスト・サカエと書かれた看板の前で立ち止まって朝比奈が言った。
「僕がよく通っていた頃は、サカエ食堂だったと思うけど、覚えていてくれるかな」
朝比奈はドアを開けて店に入った。
「あっ、朝比奈君じゃないの」
『いらっしゃいませ』の言葉に続いて、驚いた声が聞こえた。
「お久しぶりです。おばさんも、おじさんも現役で元気そうですね」
二人の顔を見て言葉を掛けた。
「まだまだ頑張らなくっちゃね。えっ、奥さんなの」
朝比奈の後から入って来た真由美を見て尋ねた。
「いえ、まだ結婚はしていません、恋人の碧真由美です」
頭を下げる真由美を朝比奈が紹介した。
「つまり、デートということね。でも、朝比奈君が女性を連れてくるなんて初めてね。どうぞ、どうぞ」
年配の女性が微笑みながら一番奥の席に案内した。
「僕は久しぶりにこの店定番のみそかつ定食だけど、真由美は何にする」
メニューを見せながら尋ねた。
「一緒でお願いします」
そう言うとメニューを見ないで返した。
「はい、分かりました」
奥の料理をするご主人に声を掛けた。
「あの、すみません。この人、二週間程前この店に寄っていませんか」
その後ろ姿に朝比奈が声を掛け、近づいてスマホの画像を見せた。
「あっ、この人、何か深刻な顔をして、朝比奈君と一緒のみそかつ定食を食べてたわね。この辺では珍しくスーツ姿だった、確か二週間前の水曜日、そう定休日前だったからよく覚えているわ」
頷きながら答えた。
「何か持っていなかったかな」
覚えていてくれて感謝しながらも、続けて質問した。
「確か、黒い大きな鞄を持っていて、隣の席に置いていたと思うわ」
二人分のお茶を持って朝比奈と一緒に席に戻って来た。
「何話していたの」
女性が戻って行って真由美が尋ねた。
「気になる」
首を傾げて聞いた。
「もー、いい」
拗ねて横を向いた時、おばさんが二人分のみそかつ定食を持って来た。
「ありがとうございます。さぁ、頂きましょう。本当に美味しいんだから」
横を向く真由美に声を掛けたが、反応はなかった。
「せっかくだから、美味しくいただこうよ。あっ、そうだ、こんな小さな店でも自動ドアが使われているんだよね。なんと、世界の自動ドアの四分の一が日本に集中しているんだ。それも日進月歩、昔の自動ドアは、ドアの手前のゴムマットの下にスイッチが設置されていて、人間がゴムマットの上に乗るとその体重を感知してドアが開く仕組みだった為に、体重の軽い幼児が乗っても感知されず、ドアが開かないこともあったんだ。反対に、大型犬なとが乗るとドアが開いたりするトラブルも多かった。今はほとんど近紫外線センサーが導入されているけれど、初めの頃はドアに接近しないと開かなかったり、床のマットと色の似ている服を着ている人には反応が鈍いという欠点もあった。今のセンサーは五十本以上あり、防御システムの性能も良くなって、雪や雨、犬、鳥など、様々なパターンを記憶して、人間が接近した時以外は反応しないようにプログラミングされているんだ。本当にすごいよね」
真由美の顔をしっかりと見ながら話した。
「・・・・・・・・・」
真由美は答えなかったが『こんな変な男性なんかと付き合わないよね』と納得していた。
「懐かしい味で、とても美味しかったです」
清算を済ませて店を出た。
「あのさ、皆にスマホの画像を見せて何を聞いてたの」
今度は腕を組まないで、朝比奈の左横を歩きながら尋ねた。
「それは秘密。だって、真由美だって絵馬の願い事教えてくれなかっただろ」
当然という顔で答えた。
「それは・・・・・」
下を向いて答えた。
「ヤキモチを焼いてくれたんだ」
朝比奈は、胸のポケットから縦長の小さな袋を取り出し、その中からペンダントを手に取って真由美の首に飾った。
「えっ、これは・・・・・」
そのペンダントに触れて驚いた。
「僕が気に入ったあの緑色のペンダント。真由美に似合うと思ってさ。もう少し後で渡そうと思っていたけど、真由美が拗ねちゃってるからね。それに、巫女さんたちに聞いていたのは、お父さんが亡くなる前に瀬戸に寄っていないか確認する為だよ。瀬戸に来たらやはりサカエのみそかつ定食を食べるよね。特に、この近くで暮らしていたなら間違いなくね」
ペンダントを付けている真由美の姿を見て納得した。
「そんな・・・・・・」
今度はペンダントを右手でギュと握った。
「それに、こんな変なおじさんに興味を示すのは真由美くらい、余程のことがなければ、相手になんかしてくれないよ」
朝比奈は、真由美の鼻の先を右の人差し指で何度も突っついた。
「確かに、あんな状態を目の前にしても何もしない『変人』だからね。それに理屈っぽくて、必要もない変なことばっかり詳しくて、それなのに頓珍漢なことばかり、人の忠告も聞かないし・・・・・・」
指で数え始めた。
「ちょっと、ちょっと、悪いことばかりよくそんなに出てくるな。少しはいいところもあるだろう、ねえ、ねえ」
真由美の顔を見て言った。
「うーん、それは・・・・・よく考えておきます。本人の前では流石に言えないし、それに、いいところがなければ付き合っていませんよ」
笑いながら答えた。
「あっ、そうだ、ここに来たんだから、瀬戸焼きそばを買っていこう。今夜は瀬戸焼きそばだ。そうそう、瀬戸に住んでいたことがあるから、真由美は当然説明出来るよな」
形勢不利と思って話題を変えて尋ねた。
「もっ、勿論知ってるよ。太麺で少し甘いソースを使って味付けしてあるんでしょ」
自信を持って答えた。
「一つ、麺は蒸し麺を使用する。二つ、味付けは豚の煮汁と醤油ベースのタレを使用。三つ、具材は豚肉、正式には瀬戸豚の肉にキャベツを使う。四つ、器は瀬戸焼の器を使うことなんだよ。真由美の答えは残念ながら、甘めに見て三十点くらいかな」
顔を左右に振って『まだまだだね』って言う表情を見せた。
「そんなうんちくばかり言ってるから、ドン引きされ女の子に相手にされないのよ」
溜息を吐いても直ぐに腕を組んだ。
「くわしく説明しただけなのに、それっていけないことなの。まあ、何でもいいや。美味しい店知ってるから急ごう」
頭を捻って真由美と歩き出した。
「えー、六人分も頼んで、私そんなに食べれないよ」
朝比奈が注文した数量に驚いた。
「ちょっと今から寄るところがあるからその分も頼んだんだよ」
両手に瀬戸焼きそばを抱えて急いで車へと向かった。
「ねえ、どこに行くの」
心配顔で尋ねた。
「白犬ヤマタの宅急便なんてね」
節をつけて歌った。
「そんなの全く関係ないでしょ、真面目に答えて下さい」
さっき注意したばかりなのにと呆れ顔で答えた。
「あっ、あそこに愛知池が見えてきたよね。真由美、湖と沼そして池の違いは知ってる」
右手に見えて来た大きな池を指差して尋ねた。
「なんなの急に、琵琶湖や浜名湖、洞爺湖などのように大きさ、そう面積によって区別されているんでしょ、決まっているんじゃないの」
当たり前の質問よりどこに行くのかを知りたかった。
「残念でした。その回答は正確ではありません。湖、沼、池は海に接していないのが条件で、中央部がクロモやフサモなどの沈水植物が侵入出来ないくらい深いものを湖とし、その深さは一般に五メートル以上とされ、沼は湖よりも浅いものをいい、その中で中央部まで底に沈水植物が生えているものは沼、池は何らかの形で人工的な力が加えられた物を言うんだ」
得意気に話す横で『それがどうしたの』という表情で見た後、それが優作なんだと思い笑えて来た。
「もう少し早く優作に出会っていたら、私の人生も変わっていたのかなぁ」
何か寂しそうに真由美が呟いた。
『あの日あの時あの場所で君に会えなかったら、僕らはいつまでも見知らぬ二人のまま』
朝比奈が突然歌いだした。
「えっ、それ、『ラブストーリーは突然に』だよね」
反応して真由美が言った。
「あの日、あの時、あの場所で、真由美に会えなかったら、僕のことを好きになってくれる貴重な女性と、こんな素敵な時間を過ごせなかった。早くても遅くてもね」
左手で真由美の肩を軽く叩きそれに反応して頷いた。
「えっ、警察、まさか事件の件で出頭するつもりなの」
暫くして、名古屋市中区にある愛知県警本部の駐車場に車を止めた朝比奈に向かって言った。
「まぁ、それもあるかな。恨みがあってなんて誤魔化して襲った理由ははっきりしていないだろうけど、色々な背後関係について警察がどう判断しているのか知りたくてね」
半分の瀬戸焼きそばをもって車を出て、真由美も後を追った。
丁度その頃、愛知県警本部にある広域特別捜査班の部屋には、松原刑事が明日から就任するにあたり、上司となる班長や同僚に挨拶をしに来ていた。
「明日よりお世話になります、松原和子です。今日はご挨拶に参りました、よろしくお願いします」
奥に座る班長の前に立ち頭を下げた。
「わざわざ丁寧にどうも。私が大神で、そっちに座っているのが川瀬です。私よりずっと先輩ですので、こちらこそ色々教えて下さい」
席を立って右手で握手を求め、松原刑事は両手で握った。
「松原刑事は最近どのような事件を担当されたのですか」
テーブルの席へと松原を勧め、自分もその前に腰を降ろした。
「担当した訳ではありませんが、昨日署を出る時に自殺事件のことを聞きたいという人物がいまして、私が応対することになったのです。ところが、話し始めると、私の出身地とかどこで育ったなんて事件に全く関係ないことを聞いたり、出身地が尾張旭市だと言ったらドラフト会議の一位指名の話も持ち出して過去のどうでもいい高卒のピッチャーの話を持ち出して訳が分かりません。事件に関しては、自殺だと言っているのに体内からは薬物は検出されなかったかの確認をしてきたり、挙げ句の果ては『暗数』を持ち出し、テレビの刑事ドラマのように証拠を根刮ぎ拾えたのかなんて、世の中には本当に理由の分からない『変人』がいますよね」
松原はその人物の顔と、その時の状況を思い出しながら話し終えた時、その話を聞いて大神と川瀬の頭の中にある人物が浮かび上がった。
「こんにちは、大神いますよね。今日は、僕の彼女を紹介しに来ました」
扉を開け川瀬刑事に声を掛けたその時、松原刑事が振り向いた。
『あっ、』『あっ、』『えっ』『えっ』『えー』『えー』顔を合わせた朝比奈と松原が声を掛け合うこととなり、まずいと思って朝比奈が扉を締めようとした。
「なに、恋人だって・・・・・・」
大神は慌てて立ち上がって腕を取り部屋の中に強引に引き入れ、その後から入って来た真由美を見て、松原が二度驚くことになった。
「真由美、どうしてあなたが・・・・・」
松原の言葉が続かなかった。
「あっ、朝比奈優作、真由美さんの恋人です。よろしくお願いします」
二人ならんで頭を下げた。
「どうしてあなたがこんな『変人』と付き合ってるの、どうやって騙されたの」
松原は真由美の腕を掴んで、朝比奈から引き離した。
「あの、『変人』とはよく言われますが、騙しているつもりはありません」
真由美の顔を見て言った。
「お母さん、騙されたんじゃないの、私から恋人になってほしいとお願いしたの」
松原の手を両手で払い除けて答えた。
「松原刑事、先程話して頂いた自殺事件を調べている『変人』は朝比奈のことだったのですね。確かに、そんな『変人』滅多にいませんからね」
大神は納得して答えたが、ここにも『もう一人いるよ』とばかりに川瀬が大神を見た。
「あっー、お前に、素敵な彼女がいるって聞いたから、先に自慢してやろうと思って連れてきたんだけど、松原さんがここに配属されたなんて俺って本当についてないなぁ」
瀬戸焼きそばの入った袋を差し出して朝比奈は肩を落とした。
「お前、恋人って言ったけど、美紀さんとはどうなったんだよ」
袋を受け取りながら慌てて朝比奈の耳元に近づき小声で尋ねた。
「まぁ、色々あって・・・・・でも、姉さんには頼むよ」
大神の体を離して、唇に右の人差し指を当てた。
「ここに来た目的はそれだけじゃないだろ。昨夜、清流会の組員が傷害の現行犯で逮捕されたんだが、なぜか被害者が現場からいなくなったって聞いて、もしかしたらと思って警察官の証言を確認してたところだったよ。逃走した被害者っていうのは、お前のことだろ」
朝比奈と真由美を並んで座らせると、その前に腰を下ろして大神が尋ねた。
「ちょっと事情があって、警察には同行できなくて隙を見て逃げてしまいました。それで、こうしてお土産を持って、現場にた彼女と同伴で伺わせて頂きました」
右手で真由美を示して答えた。
「あなたも、現場にいたのですか」
驚いて大神が尋ねた。
「銭湯に行った帰りに襲われたのです」
頷いて答えた。
「えっ、銭湯の帰りって・・・・・まさか・・・・・・」
色々想像して大神が尋ねた。
「はい、彼女のアパートに一緒に住まわせて頂いています。勿論、恋人ですから」
真由美に同意を求め、小さく頷いた。
「犯人は突然襲ってきたんだな」
咳を一つしてから事件の話に戻した。
「多分監視され後をつけられていたんじゃないかな。そして、路地を離れた人影の少ないところで襲って来たのだと思う。ジャックナイフだったから、間違いなく俺を狙った犯行だな」
左の顳かみを叩いて答えた。
「そんな軽々しく言って、相手はヤクザで刃物を持っていたんだぞ。殺されていてもおかしくないんだぞ、それに彼女だって・・・・・」
朝比奈の言葉に驚いて大きな声で言った。
「いや、反対に俺が虎の尾を踏んだってことかも知れないな。碧さんの自殺にはやはりスコトーマ、知られてはいけない裏がありそうだな。お前の方でも上には分からないように調べておいてくれないか」
大神の顔の前で両手を合わせた。
「お前の踏んだ虎の尾次第だな。それを突き止めなければ、これだけでは済まないと思うぞ。暫くは様子を見る為にも、どこか安全なところで大人しくしている方がいいんじゃないのか」
朝比奈のことを心配して尋ねた。
「まぁ、以前からの因縁もあるから仕方ないな。でも、今回の事件は真由美さんの為にも、僕が真実をはっきりさせなければならないと思う。それに、お父さんの死については、不可解の点があまりにも多すぎる。自殺とされた現場には、何も残されていなかった。しかし、今日お父さんの出身地である瀬戸市に二人で訪れて、もし亡くなる前に立ち寄っていたらと思う場所を探ってみたら、レスト・サカエでみそかつ定食を食べていらしたのです。店の人に尋ねたところ、お父さんは大きな鞄を持っていたそうなんだ。だけど、最後に宿泊していたホテルにも、勿論現場にも何も残していない。コインロッカーに預けている可能性が無いとは言えないが、その鍵なども発見はされていない。まぁ、そんなことまでして自殺することはないと思うけどね。それと、家族に残された書類、離婚届と奥さんには旧姓に戻り、県警本部の広域特別捜査班への移動を願ったこと。これは、俺の想像だが、自分の身に何かあったら奥さんに捜査して欲しいと、微かな望みを託したのではないでしょうか。流石に同じ苗字それも『碧』で夫婦と分かってしまったら、捜査には参加できないでしょうからね」
真剣な眼差しで語る朝比奈に、大神には事件解決に対する決意が伝わった。
「もし、お前の推理が正しくて、今回の事件が自殺ではなく殺害によるものだとすると、その犯人にとっては碧官房事務次官が持っていたもの、そしてその存在そのものを消す必要があった。ちょっと待てよ、確か官房事務次官と言えば民自党の中心部にいる存在。当然、美濃部幹事長を筆頭に各大臣とも接触し、民自党内では各省との調整などを担当するポジションだったと聞いている。もし仮に、政府に批判が高まっている『日本学術会議の任命』や『夜桜を見る会』に関与していた。お前が狙われたってことは、美濃部幹事長が絡んでのこと、大和田製薬の国有地売却疑惑に因る可能性もあるぞ」
顎に右手の平を当てて言った。
「清流会が絡んでいるとすれば、その可能性は高いだろうな。多分、もっと確実な手を打って来るだろうな。まぁ、想像以上の虎の尾を踏んだんだ仕方がないな」
涼しい顔をして答えた。
「おまえなぁ、そんな悠長なことを言っている立場じゃないんだぞ」
眉間に皺を寄せ怖い顔で、テーブルを叩いてた。
「本当はお前も分かっているんだろ。俺・・・・いえ、僕が途中で手を引くなんて出来ないことを。もし、殺害されたとすれば、亡くなった人の無念を晴らせずにいることは、そのチャンスが自分にあるのに出来なかったことが、辛く最も後悔するってことをね。確かに、襲われ怪我をし、死に至るということは本当に怖い。実際、高橋刑事や川瀬刑事がいなければ、僕は死んでいたでしょう。本当に感謝しています。でも、だからこそ、今二人に『生』を頂いた僕が、亡くなって何も出来ない被害者に代わって、世間は勿論遺族の方にも真実を明確にしてあげたいと思います。多分、碧官房事務次官は奥さんや娘さんに会わないのではなく、会えなかったのだと思います。自分に関われば、二人共襲われるのではないかと考えて、遠くから見守っていた、そういう姿を想像すれば、黙って何もしないなんて出来ません。それに、僕には時間がないのです」
松本刑事と真由美にと顔を向けて告げた。
「事件を解決出来ないのは死ぬより辛いか・・・・・でも、お前の命はお前だけのものではない。もしものことがあれば、多くの人が悲しむんだ、そのことだけは忘れないでくれ」
大神の真剣な眼差しから祈る気持ちも伝わって来た。
「嬉しい言葉だけど、多いか少ないかは別にして、僕に限らずどんな人にも悲しむ人間はいると思う。それに生きる権利はあり、それを奪うことは決して許されない。それが、自分の身や金銭を守る為だとすれば、そんなことが通る世の中を作っては絶対にいけない。昔から親父に何度も言われた『因果応報』悪いことをすればその報いを受けなければならない。絶対にね。」
両手で握り拳を作り、決心を表した。
「あの、優作さんが前にも襲われたというのは本当なのでしょうか」
真由美が間に入って大神に尋ねた。
「命を狙われたのは事実です。ある政治家絡みの事件にコイツが首を突っ込んで、清流会の組員に拳銃で撃たれたのですが、その瞬間に高橋刑事が盾となって左胸を撃たれたのです」
拳銃を撃つ仕草で答えた。
「左胸と言うと・・・・・防弾チョッキを着ていたのですよね」
真由美は左の胸に手を当てて尋ねた。
「いえ、まさか、そこまでするとは考えていなかったので、拳銃も持たず勿論防弾チョッキもしていませんでした。ただ、本当に奇跡的なのですが、被弾したのが警察手帳でその中のコインが彼らの命を救ってくれたのです。それでも、衝撃が大きくて、高橋刑事はまだ病院で療養中です」
大神は高橋刑事のデスクを見ながら答えた。
「まぁ、過去の話は置いといて、碧官房事務次官は本当に何も残していないのか。確かに、重要な情報は肌身離さず持っていただろう、それも犯人によって処分されただろうけど、でも絶対にバックアップデータをどこかに残していると思う」
左の顳かみを叩きながら尋ねた。
「俺も、お前の親父さんに言われて調べてみたのだけど、残念ながらコンピュータのデータは全て消去されていたし、残されていた私物にもそれらしいものはなかった。まぁ、そんなところにデータを残すとは思えないけどな」
同じように顳かみを叩いた。
「反対に言えば、そのバックアップデータを犯人が入手していれば、僕が襲われたりはしないでしょう。しかし、そんなデータが残されているとすれば、相手も必死になって行動を起こしてくる。自分の身は自分で守るつもりですが、関わる人たちが傷つくのは許せません。その点はよろしくお願いしますね大神君。それでは、僕は僕なりに調べてみますのでよろしく」
朝比奈は立ち上がって大神に頭を下げると出口へと向かった。
「優作さん、私も・・・・」
真由美も立ち上がったが、その腕を松原刑事が掴み朝比奈は静かに扉を閉めたが、その後を大神が追った。
「本当にいいのか」
朝比奈に声を掛けた。
「さっきも言ったように、俺に関わると危険なんだ。万が一とは思うが、彼女の警護も頼むよ。あっ、ちょっと待っててくれ」
そう言うと、車に戻り残りの瀬戸焼きそばを持って来た。
「彼女に夕食は瀬戸焼きそばと約束していたから渡しといてくれ。じゃあな」
朝比奈は袋を手渡すと大神に背を向けて歩き出した。時を同じくして、名古屋市東区にある朝比奈法律事務所では、朝比奈麗子弁護士がアルバイトで雇っている、パラリーガルの糸川美紀を部屋に呼んで話を始めようとしていた。
「ねえ、美紀ちゃん、最近優作が家に帰って来ないのよ。何か変なのよね、今までは旅行以外に外泊なんてしたことないのに。何か聞いてない。あれから何度も連絡してるんだけど、留守電になってるしメッセージを残しても返答がないのよね。美紀ちゃんなら連絡取れるんじゃないかな」
美紀の煎れたコーヒーを手に持って尋ねた。
「いえ、暫く連絡を取っていません」
スマホを両手で持ちながら答えた。
「えっ、連絡してないって、二人付き合っているんじゃないの。まだ、知り合ってからそんなに経っていないから、あいつのこと分からないと思うけど、長年付き合ってる私が言うのだから間違いない。私だったら、あんな『変人』を絶対好きになったりしない。美紀ちゃん、命を救ってもらったからなんて思わないで、冷静になって真剣に考えてね。今ならまだ後戻り出来るのよ」
真剣な表情で訴えた。
「そんな、確かに感謝はしています。今はまだ、そんな感情で接している訳ではありません。優作さんの友人の一人であり、優作さんもそれ以上の感情はないと思います」
スマホを持つ両手に力が入って。
「友人か・・・・・・でもね、悪いとこばかりじゃないよ。優作がいないと、夕食はコンビニの弁当になっちゃうし、朝食はトーストにバターじゃ淋しいからと、どうしても小倉パンとかジャムパンの菓子パンになっちゃうし、牛乳を温めて飲もうと思ったら牛乳も消費期限切れ、インスタントコーヒーも空っぽで仕方なくティーパックで紅茶よ。着替えの洗濯物は溜まる一方だし、今日なんか朝八時までにゴミを出さなきゃならない本当に大変だったわ。いつも当然と思っていたけど、優作がいなくなって、そのありがた味がよくわかった。少しは、感謝しなくちゃね」
コーヒーを時計回りに動かしながら朝比奈の顔を頭に浮かべていた。
「当たり前、当然のこと・・・・・失った時の悲しみですか・・・・・」
下を向いてスマホの画面をジッと見詰めていた。
「でもね今回はちょっとおかしいのよ。昨夜、警察の知り合いから聞いた話なんだけど、清流会にまた襲われたそうなの、それにその現場から警察の目を盗んで姿を消したり、連絡を受けて慌てて優作に連絡したら、心配無いからと誤魔化すしその上お金が足りないから振り込んでくれとか、また何かの事件に首を突っ込んでる。間違いないわ」
ゆっくり顔を上下に動かした。
「えっ、優作さんが襲われたのですか・・・・・・」
緊張して体が固まった。
「この前のように拳銃ではなく、ジャックナイフのような刃物で刺されそうになったみたい。その警察官の話では誰かを庇っていたみたいだけれど、それにしても毎回毎回本当に勘弁して欲しいわね」
コーヒーを一気に飲み干した。
「誰かを庇ってですか・・・・あの、突然ですが、麗子先生は浮気をされたことはありますか」
朝比奈と真由美の姿を思い浮かべて尋ねた。
「えっ、何よ突然。浮気というのは正式には結婚している夫婦のどちらかか、違う相手と付き合うことよね。私に当てはめれば、夫が愛人を作ることだけど、残念ながら結婚の経験がないので一度もありません」
ソファーに背中を預けて足を組み両手を添えた。
「あっ、そうですね。では、二股をかけられたことはありますか」
『まずいことを聞いた』と感じながらも後には引けなかった。
「二股かー。そう言えば丁度美紀ちゃんの頃、大学の時に付き合っていた男性がいて、私の誕生日に、予約を取るのが難しいフランス料理の高級店で夕食の約束していたのに、その日の夕方たまたま彼が楽しそうに、他の女性と話しているところを見ちゃったのね。美紀ちゃんならどうする」
テーブルに両手をついて顎を載せた顔で美紀を上目遣いに見た。
「私は・・・・・私なら多分黙って、何も見なかったことにします」
またあの日の情景が頭に浮かんだ。
「そっか・・・・・その選択もあるし、それが正解かも知れないね。でも、私は、思わず駆け寄って『最低』と叫んで、彼の顔をビンタしちゃったんだよね」
ビンタの格好を見せて答えた。
「それで二人の関係はどうなりました」
生唾を飲み込んで尋ねた。
「それがね。彼が親しく話していた女性は、実はお姉さんだったの。その日、彼のサプライズで私を恋人だと紹介するつもりだったみたい。あーあ、もー最悪よね」
その時の状況を省みて、頭を抱えながら答えた。
「でも、それは誤解であって二股じゃなかったのだから、やり直せますよね」
胸を撫で下ろして答えた。
「後で分かっても、それは後の祭りよ。お姉さんの前で『最低』と叫んでビンタは不味い
よね。流石に気まずくなっちゃって、別れちゃったわ」
両手を頭の後ろに当てて天井を仰ぎ見た。
「そうですか・・・・でも、もし付き合っている彼氏が別の女性の部屋で抱き合っていて、それもその女性が肌に何も付けていなかったら、その現場を目にしたら麗子先生はどうしますか」
俯きながら小さい声で尋ねた。
「そんなの決まってるわよ。ビンタじゃ済まない、相手の男をボコボコにするわ」
空手の突きのポーズを見せた。
「私にはそんなことは出来ません。麗子先生のように強くはないですから・・・・・・」
どんどん落ち込んでいった。
「そんなこと・・・・・まさか、美紀ちゃんにそんな経験が・・・・・えっ、その彼氏って優作ってこと・・・・・そんなこと絶対に無い・・・・・と言うことは、美紀ちゃんには他に彼氏がいるってことなの」
美紀の意外な言葉に興味を示して尋ねた。
「いえ、そんな人はいません」
手に持っていたスマホの登録名簿から朝比奈優作の電話番号とメールアドレスを削除した。
美紀がその言葉を発した頃、朝比奈は碧官房事務次官が最後に泊まったホテルにいた。
「あの、すみません。二週間程前に碧正義という人が宿泊されていると思いますが、ご存知の方はいらっしゃいませんか」
朝比奈は受付の女性に尋ねた。
「事件が発生した後、刑事さんには支配人の方からお話しさせて頂いたと思いますが」
少し緊張しながら答えた。
「詳しいことではなくて、本人は黒い鞄を持っていたと思うのですが、覚えていらっしゃいませんか」
一応ノートとボールペンを取り出して尋ねた。
「えっ、その方は確か自殺だとテレビなどで報道されたのですが、違うのですか」
なぜ二週間以上も経って、それも刑事でもない人間が訪ねて来る理由が分からなかった。
「部屋には残されていなかったということですね。ちなみに、碧さんが泊まられていらした部屋は今日空いていますか」
書き込んだ後のノートとボールペンをポケットに戻して尋ねた。
「しばらくお待ち下さい。はい、空いていますが」
入室記録を見て答えた。
「じゃ、今日利用しますので手続きをお願いします」
女性が差し出した書類に住所と名前、そして携帯の電話番号を記入して教えられた部屋へと向かった。シングルベットと机だけの八畳程の部屋は、殺風景でもあり一人でということなのか何か心にぽっかりと穴が空いた様で、外の気温よりもずっと寒さを感じていた。朝比奈は机の前に腰を下ろすと、ショルダーバックの中から便箋を取り出して、大きく息を吐くとボールペンの黒のボタンを押して書き始めた。
『真由美へ、恋人の契約期間の三日が過ぎました。申し訳ありませんが、三日目は一緒にいられることが出来ませんでしたが、二日間は何とか恋人として演じることが出来たと思います。
しかし、申し訳ありませんが、やはり真由美は僕の恋人としては似合わないと思い、一晩よく考えてた結論が昨日を持ちまして契約を解除させて頂くことです。今後は、お互い会うことも近づくことも、勿論連絡することも禁止とさせて頂きます。これは、クーリングオフの規定により、こちらの都合により解約するものであり、一つ言えるとすれば今の僕には、真由美を幸せにし守る自信がないからです。それでは、この文面を持って恋人契約書の解約とさせて頂きます』そして、もう一通書き始めた。
『愛する真由美へ、二日間の恋人期間はどうだったでしょう。僕は今までで一番幸せな時間でした。真由美の可愛くて素敵な寝顔、それに寝息も寝相の悪さも今はいい思い出です。二人で行った銭湯に、二日目の深川神社に一緒に食べたみそかつ定食、懐かしさもあったけど真由美と一緒だったから、とっても、とっても美味しかった。腕を組んで歩いた商店街、これがデートなんだと本当に感激しました。僕もこんな幸せを感じられる時間がいつまでも続けばと思いました。でも、それはどうも無理なようです。真由美には責任はありません。先日も話したように、僕が危険な事件に関わった為に危険な目に会うことになりました。これだけで済むとは思えません。しかし、この事件は真由美やお母さんの為、そして、お父さんのしようとしていた事実と名誉の為にも途中で止めることは出来ません。変な意地を張ることで、僕だけが被害に遭うのは、自分が蒔いた種でもあり仕方がないでしょうが、一緒にいる真由美が傷つくのは自分が傷つくより辛いです。だから、事件が解決するまでは、会わない方がいいと思います。どうか僕のわがままを聞いて下さい。そして、真由美の素敵な笑顔を見せられる男性が現れることを、心より祈っています。さようなら』
朝比奈は二つの文面を交互に何度も見詰めながらもう一度大きく息を吐いた。
その日の夕刻、名古屋市西区にある高級亭『翠祥』では、美濃部幹事長と秘書の中村一茂、『青龍会』の組長の川井正義それと、末席に愛知県警本部の西村悟部長が席を共にし、間合いよく運ばれた料理の数々を食して、最後の料理が下げられていた。
「例の件は最終的にはどうなったんだね」
政治などの上っ面の話題を述べ合った後、美濃部幹事長が話題を変えて尋ねた。
「はい、碧官房事務次官については、既に自殺として処理致しました。家族も納得させましたので問題ないと思います」
日本酒を飲み終えて西村刑事部長が答えた。
「彼のパソコン自体は処分し、そこに残されていたデータも消去してあります」
秘書の中村が付け足した。
「彼が残した鞄の中にUSBメモリーと関係書類が残されていましたが、それも全て処分しましたのでご安心下さい。ただ、碧官房事務次官の自殺について調べている奴がいるとの情報が入り、川井さんに処理をお願いしたのですがうまくいかなくて・・・・・・」
川井の顔を見て西村刑事部長が話した。
「捕まったとしても、西村さんには傷害未遂として処理して頂ければ何の問題もありません。誰の指図かなんてことは絶対に言いませんから」
自信を持って川井組長が答えた。
「今回のことでその人物も警戒するでしょうし、小さな綻びでも見せれば警察に訴えることもあります。ですから、今の内に手を打っておいた方が良いと思うのですがどういたしましょう」
酒を注ぎながら、西村刑事部長が美濃部に同意を求るように言った。
「うーん、そうだね。碧君のように自殺として処分できればいいのだけれど、警戒されていれば仕方がないですね。君たちでなんとかうまくやってくれたまえ。今回の仕事次第では、西村君を今空いている県警本部長のポストにも推薦出来るからな、頑張ってくれたまえ」
注がれた日本酒を一気に飲み干して美濃部が言った。
「ただ一つ、気になることがあるのです。彼の鞄に残っていたUSBメモリーの内容も一応確認して、間違いなく美濃部幹事長に関するものと判断し処理をしましたが、その情報に対するバックアップデータがどこからも見つからないのです。我々が探して見つからないのですから、他の人間には見付け出す術はないとは思いますが、万が一ということもありますのでよろしくお願いします」
秘書の中村が西村刑事部長と川井組長に頭を下げた。
「分かりました、仕留めそこなった奴に関しては責任もって処理させて頂きます。その後の処分等につきましては、西村さんよろしくお願いします」
今度は川井組長が西村刑事部長に頭を下げた。
「真由美、暫くは、警護を兼ねてお母さんの家で生活するように大神班長から言われたので、アパートによって勉強に必要なものや着替えなどの準備をしてくれる」
真由美を助手席に座らせアパートに向けて松原刑事が言った。
「分かった。でも、あの時も私が狙われたのではなく、優作さんが目的だったと思うの。私なんかよりも、優作さんを先に警護するべきよ。前にも一度拳銃で撃たれたんだし、今度だって絶対に襲われるわ」
あの夜道での光景を思い出しながら興奮気味に言い放った。
「そんなに心配しなくても、大神班長もきっと考えてくれているわよ」
朝比奈のことに興奮する真由美の方が心配だった。そして、暫く無言の時が経ち。
『あの』『あの』ほぼ同時に言葉を発し顔を見合わせた。
「先程大神班長と呼んでいた人は、優作さんとどのような関係なの、お母さん知ってるの」
真由美の方が言葉を続けた。
「私も移動に際して色々調べてみたけど、東大在学中に司法試験に受かったエリートみたいね。噂では、一度検察庁に入庁して今の朝比奈最高検察庁次長検事の要望で警視庁に鞍替えして、今年から愛知県警本部の地域特別捜査班の班長になったみたいね。今聞いた話では、朝比奈とは高校時代の友人らしいけど、朝比奈は地元の三流大学を出て、今も定職に就いていないみたい。無職の人間が、なんか偉そうなことを言ってたけど、素性が分かれば説得力もないわ。ヤクザに絡まれその場を逃げ出すなんて、きっと警察にも厄介になってるんじゃないかな。明日前科者リストで調べてみなくちゃね。真由美、恋人なんてとんでもないわ。みんな初めは、騙されたりしないなんて言っているけど、なんかやたら良く喋る奴だったから、あの歳だし話すことがうまいのよ。ただ、まだあなたは若くて経験もないから、うまく口車に乗せられただけ、絶対に私は許しませんよ」
硬い表情で答えた。
「お母さんこそ何も分かっていないよ。お父さんのこともあったから、お母さんが落ち込み苦しんでいたのはよく分かったし、いろんな事件を担当して忙しい日々だった。でも、私だって事件のことや、苦しんでいるお母さんの言葉や姿を見ることは辛かったんだよ。今考えれば、そんなことの積み重ねで、衝動的にお父さんが亡くなった橋から飛び降りるところだったの。その私を助けてくれたのが優作さんだった」
両手を握って合わせた。
「えっ、まさか、そんな・・・・・・」
止まってい信号が赤から青に変わっても動揺してアクセルを踏むことが出来ず、真由美の指差す信号を見て急発進して二人の体は前後に揺れた。
「優作さんは、私を助けておいて、その自殺の原因を聞こうともしない。それどころか、自分の目の前で死なれては困る。死ぬのは勝手だが自分を自殺に巻き込むのはよしてくれなんて。でも、その時の腕の温もりがとっても、とっても暖かかった」
自分で肩を抱いてその温もりを呼び戻そうとしていた。
「そんな気の弱みに男はつけ込んで来るのよ。真由美もその時は気も心も弱っていて、平常心ではなかったんでしょ。ちょっと変わった優しさに心が動いてしまっただけなの。変な方向に傾いた心は元には戻り難い。もう一度冷静になって考えてみて。あいつのいい所しか見ていないのよ、魅せられていないかも知れないんだから」
大切な娘である真由美を騙し微笑む、朝比奈の表情が頭に覆い被さって来た。
「それって確証バイアスって言うんだよね。自分に都合の良い言ばかり集めること。それも優作さんが教えてくれたし、お母さんと同じ言葉を言ってた。冷静になって考えろってね」
全裸になって抱きついた時のことを思い出して、身体が熱くなって来た。
「まさか・・・・・」
『あの朝比奈が』と思うと娘の言葉であってもとても信じられなかった。
「刑事であるお母さんは人を肩書きなどの先入観や、言葉遣い外観などで判断するのは仕方のないことかも知れない。でも人間の価値ってそんなことでは測れない。それも優作さんから学んだことなの。大学を出たエリートが出世をして、優れた肩書きを持つことになっても、法を破り悪事に手を染めることもある。優作は定職にも就かずにアルバイトをしているけれど、死ぬつもりだった私を救い生きる喜びを教えてくれた。それに、全くの他人であるお父さんの死に疑問を持ち、自分の命を厭わず本当の理由を探そうとしている。そんな素晴らしい人を嫌いになれる訳ないじゃない。私を残していったのは優作さんの優しさだと思う。今夜は優作さんのその優しい気持ちを受け止めて、お母さんの家に泊まるけど、明日は優作さんに連絡して会いに行く。少しでも、一瞬でも優作さんの隣にいたいの」
朝比奈の微笑む顔を思い浮かべて涙が溢れていた。
「でもあいつはヤクザに狙われているのよ。そんな危険な男のそばに真由美を近づける訳には行かないわ。それは母親としてでもあるし、一人の警察官としてもよ」
力を込めて低い声で言った。
「お母さんの気持ちは嬉しい。本当に嬉しいよ。でも、今の私は、優作さんの隣にいられないことの方がずっとずっと辛い。それに、優作さんが襲われた時は、私本当に怖かった。でも、あの時感じたの、離れて優作さんが死ぬ方がもっと怖いってこと。一緒に死ねたら本望、一度は消えかかった命だもの」
死に体して緊張感もなく、清々しく話す真由美が何か不思議な感じを覚えた。
「あなたのこと気づいてあげられなくてごめんね。真由美も大人になったんだよね。でも、彼の隣ではなく、一人になってゆっくり考えてみてくれないかな。そして、考えた答えなら、お母さんは反対はしない。冷静になってそれでも出した答えなら・・・・・」
大きく息を吸い込みゆっくり吐いてから松原刑事が宥めるように言った。
「そうだね、分かった。お母さんアパートに寄らないで家に行ってくれないかな。お願い」
真由美は朝比奈の居ないアパートには戻りたくなかった。その方が、母の言うように冷静な気持ちになれるのではないかと思えた。そして、家に着き、温めた瀬戸焼きそばと母の手料理の夕飯を無言のまま食べ終えた後、シャワーを浴びて以前この家で使っていたパジャマに着替えると、寝室へと向かいベットに腰を降ろした。
「そして『二人で行った横町の風呂屋、一緒に出ようねって言ったのに、いつも私が待たされた』真由美は神田川の詩を確かめるように口ずさんだ。優作は待っててくれたんだよね。それに、ステーキ、私が焼きすぎて文句をい言ったり、でも美味しかったなぁ。また食べたいなぁ、優作の料理。手作りの料理も美味しかったけど、優作と一緒だったから美味しかったのかも。お母さんの手料理、何故か味気なかった。淋しいよ」
たった二日間の出来事ではあったが、真由美の頭の中に次々と浮かび上がって来た。
「もう寝なさい」
心配して見に来てくれた母に頷いて、ベットで横になった。でも、頭の中の朝比奈は消えることはなく、なかなか眠りには就けなかった。そして、突然起き上がってスマホを手にすると、一瞬間を置いて朝比奈の携帯へ連絡を入れた。
『只今電話に出ることは出来ません。お掛け直し頂くか、ピーと言う発信音の後にお名前とご用件をお願いします。ピー』
女性の言葉が耳に届いた。
『真由美です。連絡を待っています』
伝言を残して電話を切った。スマホの画面に映し出された一時二十三分の表示に、『こんなに遅いんだもの、留守電にしてるよね』と自分に言い聞かせて見たが、朝比奈からの連絡がないことは何となく分かっていた。
「探さなきゃ、絶対に探さなきゃ・・・・・・・優作に会いたい」
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